1-7.『国盗り鳶』
封建制であるプロト王国は、一枚岩ではなかった。
王都バグラガムでは現国王の統治を国民が尊び、歓喜し、安寧に身を委ねていたものだったが、裏ではそれを良しとせぬ野心家が眼を光らせているのもまた事実であった。
突如として現れた新女王が頂点の傍らに君臨してからというもの、その美貌による魅力や有無を言わさぬ決断力に、それが良い結果をもたらすか、悪い結果をもたらすかに関わらず、惚れる者も少なくはなかったが、それよりも以前に増して王家に対する風当たりが強くなったことは言うまでもない。そうして、野心家たちの影も比例するように大きくなっていった。
その筆頭たる者が、王の座を狙っているとの噂がある男、ユーロドス卿なのである。
「イシュベル女王陛下。このたびはこのような状況のなか御目通り頂き、感謝の極みでございます」紅い道を優雅に歩んできたユーロドスは、満面の笑みを浮かべて挨拶する。「先の文にてお伝え申しましたとおり、物資をお届けに参りました」
齢四十を迎える者らしからぬ若々しい顔立ちに、熟練みのある落ち着いた態度が相まり、その本心は極めて読み取り辛い。
その笑みの下に隠された真実が、この白の王国にあって、黒く澱みきっていることだけは確かなのであろうが……。
姿を現したこの時期が問題であれば、動機も不明だ。考え無しに、ましてや利なしで動く人物ではないことを知るミューネと三将軍は、ユーロドスの言動ひとつひとつに注意し、そこから彼の目的を探ろうとしたが、それはまるで水を掴むかのように手の中をすり抜けていくだけだった。
「卿自ら御足労いただくとは、何か裏があるのではなかろうな?」
挨拶もそこそこに、紅の女王らしい率直な言葉が飛び出す。凍るような冷たい眼差しの奥には、彼女の警戒心が暗く光って見えた。
「とんでもございません。国王および女王、両陛下に対する誠の忠誠心の表れとご理解くださいませ」
そしてもうひとり、ミューネには気になる者がいる。
芝居がかったユーロドスの手振り身振りの傍らに佇む、細身の女。彼女もまた不思議な雰囲気を放っていた。武器の類は一切持ち合わせておらず、護衛らしからぬ童顔だが、羽織っている大振りのコートが身体の大きさに合っていないためか、いかにも不自然に感じられる。何より、彼女も主人によく似た微笑の持ち主だった。
「ふふっ」イシュベルが口に手を当てて笑う。「いや、悪い。卿が申すとどうも薄っぺらく聞こえてしまうのでな」
そんな女王の皮肉にも、ユーロドスは動揺する影も見せない。
「滅相もございません。このユーロドス、嘘偽りなくお話しておりますとも。そのしるしとして、食糧と水を可能な限りでお持ちしております故、王都民へ有効的にお配りいただければと存じます。また、私を含めた三百名の兵士。これよりクロウス大将軍の下で存分に働かせていただく所存。王都防衛の柱としてご自由にお使いくださいませ」
そつもなくそう言ってのけたユーロドスに、クロウスが驚きの顔を上げた。
「ほう。十万の兵を有する卿が、三百とな? これもそなたの忠誠心として受け取って良いものか」
十万という数は、およそプロト王国の兵力の半分に迫る数。戦時中も彼らの活躍による勝利をいくつかあげるとともに、卿の豊富な財源は言わば国の要。国の存在を左右するものとも言われている。
各人で膨れ上がる疑問に、たまらず割って入ったのはラルゴだった。
「そもそも、そのような数でどうやって王都に入ることが出来たのだ。外は蟲どもで溢れかえっていたはずだろう」
「その通り。だが、ひとつ付け加えるとすれば」人差し指を立てるユーロドス。「包囲されているのは何も王都だけにあらず。その他の領地においても、例外なく黒蟲の脅威にさらされておるのが現状です」
「何……」
知られざる極めて重大な事実に、口を開くことが出来たのはやはりラルゴひとりだけだった。
「何故この一年で他の諸侯らの援助がなかったのか、これで理由がお分かりいただけましたな」
それが真実ならば、確かに頷けることは多い。
「ならば卿は如何にしてこちらへ? 話からすると卿の領土も、危険だということになるのではないか」
女王イシュベルが言った。
「左様でございます。だからここ数日は決断の日でもありました。三百五十という少数精鋭のみを編成し、残りを故郷の防衛に当たらせる。無論、その間に命を燃やした者もおりますが、国のためならばそれも本望でございましょう」
「ほう」女王の冷ややかな眼差しがクロウス達に動く。「その心意気、見習わねばな」
気持ち、頭を下げるクロウスとキューズに対して、腕を組んだままのラルゴはささやかな抵抗を見せた。
この会話のどこまでが本当で、どこまでが戯れなのか、まだ幼いミューネの頭では整理がつかなかった。しかしながら、どちらの思惑も国のためではないであろうことくらいは分かる。狐と狸の化かし合いだ。だから、この無用なやり取りも結局のところ時間の無駄であって、ことの根本は一切解決していない。
「まぁ良い。卿を疑い始めればキリがない。何はともあれ、バグラガムはそなたらの来訪を歓迎するぞ。今宵、宴も用意しよう」
女王自身、懐の読めぬユーロドスを持て余しているようだった。これ以上は無粋であると判断するや、一方的な解散で幕を下ろすことにしたらしい。
「ありがたきお言葉」
真っ白で整った歯を見せ、ユーロドスは深くお辞儀をして見せた。
何が宴か、とミューネは眉をひそめる。その危機感の無さには怒りを通り越して、呆れてしまう。そんな余裕があるのならば、兵士や国民に分け与えるべきなのだ。かつての父ならば、必ずそうしただろう。
「……民あってこその王国」
ミューネは噛み締めた歯の間から、隙間風のようにして言葉を漏らした。
そう、かつてのアルツ国王がいれば、こんな状況にはなっていないはずなのだ。
解散となった途端、見えない鎖の呪縛から解き放たれたようにミューネは玉座の間を飛び出した。これ以上あの空間にいれば、精神が毒されてしまう。
クロウス、ラルゴ、キューズの三将軍も、その後を追うようにして付いてきてくれた。ミューネをひとりにはすまいとする、三人の気持ちが単純に嬉しい。
一旦場所を変えて気持ちも切り替えようと、色取り取りの綺麗な花々が咲く中庭に集まる。
「宴だと? 馬鹿馬鹿しい! そのような余裕がまだあると?」
膨らみきった風船がいよいよ破裂したかのように、不満が噴出した。いまだ怒り冷めやらぬラルゴの顔面は、体が沸騰しそうなくらいに熱を帯びている。
「あれば、これほど苦労していない」
そう淡々と答えたラルゴの兄、クロウスは言い終えて、来客の気配に警戒心を新たにした。
「これはこれは、ミューネ殿下。しばらく見ぬうちに、お美しうなられましたな」軽快な笑いを携えた男が、ミューネに近寄ってお辞儀してみせる。「母君に似てこられた」
護衛の女戦士も一緒だ。彼女の薄笑いは、さきほどから全く変わっていない。
「ユーロドス卿……。此度は、一体何の目的があってこちらへ? これ以上の問題は御免被ります」
いましがた感じたばかりの不快感が再び蘇ると、ミューネは胸が燃えるような怒りに顔を歪めた。
「なに、国を想う愛国心からでございますよ」
「ふざけないで!」
あくまで腹の内は見せぬという態度に、ミューネの我慢も限界だった。ただでさえ黒蟲の脅威に王都が傾きかけているという時に、ユーロドスのような新たな危険因子が加われば、事態はさらに悪化してしまうだろう。
「姫」クロウスが首を横に振る。「あまり関わりなさるな。底の知れぬ相手ゆえ、こちらからわざわざ深みにはまる必要はございませぬ」
代わりに、ラルゴが間に立って丸太のような太い腕を組んだ。
「そもそもあの女、黒蟲の話など、どこ吹く風だ。食糧や兵力のためだけに貴様に興味を抱くはずもない。歓迎されたのは、他に理由があるからなのではないか」
「面白いことを言うね。それに貴様とは、ユーロドス卿に対して随分な言い方じゃあないか、ラルゴ将軍」
ラルゴの悪態に反応したのは、女戦士だった。物事を楽しんでいるかのようにも見える穏やかな表情とは裏腹に、彼女の言葉には鋭い棘が隠れているようで、それが少し不気味にも思えて仕方がない。
「良い、ジェス。日頃の行いというものだよ。私も反省せねばね」
ユーロドスは大袈裟に肩を竦め、女戦士ジェスをなだめると、再び不適な笑みを浮かべた。
「ふん。一年前、あの女を国王に紹介したのも貴様だった。それからだ、国が狂い始めたのは。大方、こんな状況で救世主よろしく国民に救いの手でも伸ばすふりをして、裏ではあの女と共謀し、国王の座を狙っているのではないか」
ラルゴの発言はいつも歯に衣着せぬ言い方で、直線的だった。短絡的には聞こえるかもしれないが、他の誰にもできることではなく、時としてそれはミューネ達にとって大切な存在ともなる。
「ラルゴ」
そしてそんな熱い男を冷静に鎮めるのは、いつもクロウスの役だった。この時も、たったの一言でラルゴの二の句を止めてみせる。しかし彼の貫くような視点はユーロドスを捉えたまま、離さずにいた。
「ふむ。そうまで言われると少し心外ではありますな。私の愛国心に偽りはないはずなのだが」
ラルゴとクロウスの怒りに当てられながらも、それらに一切動じないユーロドスは、ミューネをじっと見つめた。
「正直、いまお話できることは少ない」値踏みするような歪んだ眼差しで、ユーロドスは王女を見つめる。「だが私があなた方の敵ではない、ということだけ、どうか信じていただきたい」
「信用できるとでも?」
ミューネは言った。
「していただかねば、困ります。そもそも、食糧や兵力の提供においてどちらかと言えば、感謝されて然りと思うておりましたが……」
「今し方、あなたも仰っていたではありませんか。日頃の行い、と」
「おっと。これは手痛い」さしてそう言うほどではない余裕の笑みで、ユーロドスは返した。「では、ミューネ殿下」
時間切れだとでも言わんばかりにユーロドスは話を一方的に切り上げ、また役者がかった深いお辞儀をしてみせた。
そうして主人が踵を返すと、お付きのジェスのその釣り上がった糸目が、四人のうちクロウスを捉えたように見えた。
「……」
どんな想いの乗った視線かは分からないが、クロウスは鉄のような無関心を持ってそれを迎え入れている。
「ふっ」
何かを諦めるかのようにしてジェスは短く嘆息すると、すぐに主人の後を追った。
「相変わらず気にくわん、キザ野郎だ。とにかくこれ以上、奴には関わらないほうが良い」
吐き捨てるように言ったラルゴの大きな追い討ちは、おそらくふたりの耳にも届いたに違いない。
「”国盗り鳶”」事態を見守っていたキューズが、ようやくぽつりと呟いた。「昔から掴めぬ御仁でしたからな」
流れる遠い思い出を見るようなキューズの空虚な瞳が、この時ミューネの記憶には印象深く残った。
その夜、ミューネは宴には参加せず、部屋でひとり過ごしていた。
夜中になると自室を抜け出し、中庭を目指す。青や赤、黄色に白といった豊富なグラデーションが無数に咲き乱れる中、彼らに並んで腰掛けていると、幾分か気が楽になる。心の中に鬱積した不安や怒り、悲しみを瞬時に感じ取ると、彼らは優しい言葉でミューネを撫で、勇気付けてくれるのだ。
人工的な音が消えた静かな夜、花と一緒にこうして夜空を見上げるのがミューネの日課になっていた。
一年を通して晴天続きのプロト王国において、どこまでも透き通るような星空の輝きは、宝石にも例えようのないほどの美しさを誇る。
花も月も、母が生前に愛してやまなかった友人達だった。ミューネが落ち着かずに眠れなかった日には、いつもこうして母と一緒に彼らを眺めていたものだ。
満月の暖かな光は疲れきった心に染み込み、止まらぬ涙を花が葉を開いて受け止めてくれた。
この日は珍しく長居してしまい、夜も深くなるところで自室に戻ろうとした時、複数人の声が回廊を流れてくるのに気がついた。潜むような声量で、何を話しているのかはさっぱり分からない。
こんな夜遅くに、一体誰だろうか。
いずれにしろ、誰かと話すような気分ではないミューネは、花達の背中に身を隠して様子を伺うことにした。
明かりも乏しい中、周囲を照らすかのように妖しく真っ赤に燃えるドレスが回廊を横切っていく。
「イシュベル……」
声になるかならないかほどの細さで、ミューネは呻いた。
見れば三人の紅い貴族達を従えていて、彼らに挟まれるかのようにして、若い男がひとり。やや筋肉質だが、猫背気味の身体付き。
あれは確か、鍛冶屋の息子ではなかったか。ミューネも武器の調整で個人的に利用する鍛冶屋だったから、何度か顔を合わせたことがある。
イシュベルは夜な夜な若い男を連れ込んでは夜を楽しんでいると聞く。国王を愛すべき立場にあろうにも関わらず、そんな暴挙が暗黙のうちに許されてしまっているのだ。
そして鍛冶屋の息子もイシュベルの熱狂的な信者だった。その美貌に毒され、いつかお会いしたいと日頃呟いていたのを覚えている。ようやくその願望が日の目を見たのだから、当然その表情は浮つく心を映し出しているのではないだろうか。
ここ一年間で女王が食してきた男の数は今宵で一体何人目だろう。噂では男に飽き足らず、女を連れ込んでいるとも聞く。
そんな汚らわしい行為に目を背け、避けてきたミューネだったが、今夜偶然にもそれを目撃し、隠れている花畑からも出るに出られない状態では、一部を見届けるに他なかった。
女王の一行が彼女の自室に消えていくのを見届けると、ほっとしたミューネは花達に別れを告げて回廊へと歩を進めた。その時……。
ガチャリと扉が開く。
と同時に「あら、こんな遅くに何をしているのかしら?」と、女王が顔を出した。背後には紅の貴族達がフードを被って俯いている。
ミューネの心臓は跳ね上がった。
まだ彼らが部屋に入って一分と経たないではないか。
「眠れなくなり、気分転換に宮殿内を歩いていただけですが」
実際に嘘はついていないが、咎められているかのような痛い視線に、声が自然と震えてしまっていた。
「ほう……」
そんな返答に女王は目を細め、艶かしい唇を薄らと吊り上げた。
こうして面と向かって話をしていると、やはり彼女の瞳には魔性の魅力があることに、嫌でも気付かされる。じっと覗き込めば、自我を抜き取られてしまうようなこの感覚は一体何なのだろう。
僅かながらの抵抗も虚しく、ミューネは視線を逸らし、下に向けることしか出来なかった。
「疲れているのではなくて? あなたも人肌が恋しくなることがあるでしょう。たまには羽目を外して、その美貌を他者に振る舞ってはいかがかしら?」そう言った女王の声色からは、明らかにミューネを小馬鹿にしているようなニュアンスが聞き取れた。「そう、ユーロドス卿はどうかしら? あの方の心を掴めれば、お前のその身体も少しは役に立とうぞ」
後ろの男達からも、媚び諂うような嘲笑が漏れ出てくる。
「くっ……」
ミューネは侮辱に震える胸の内を、必死に噛み殺した。
「ふふっ。ではでは、お姫様」
反論のないことを良いことにイシュベルはご満悦の様子で、今し方歩いてきた回廊を戻って行った。ふたりの貴族を従えて。後には鍛冶屋の息子がついて行く。
ふと、すれ違った彼の表情に、違和感を覚えた。ミューネの予想とは裏腹に、彼は浮かれた顔ひとつしておらず、口は一文字に閉じていて、眼の焦点は定まっていない。まるで感情を失った人形のような顔だったのだ。
女王の部屋の中、この短時間で彼らは何をしていたのだろう。
そして気付いた。入る時は三人だった紅の貴族が、出て行く時には二人になっていた。女王の部屋にまだひとりで残っているような気配は感じられない。一体どこへ行ったのだろうか?
どこか気味の悪さを感じたミューネは身震いひとつして、急いで自室へと戻るのだった。