1-2.『喰人蟲』
ジオの大地に根付く災厄。人喰い虫。そう呼ばれる悪鬼の存在こそ、キャラバンに護送が必要となる最大の理由だ。文字通り、人を襲い、それを糧としている危険極まりない人類の天敵である。
長い従軍生活の中でほとんどそれらとの戦闘経験に恵まれなかったジャックもまた身構えることが関の山で、いまはその身をあるがままに委ねることしかできずにいた。
逃げろ。
脳は本能的にそう警鐘を鳴らし続けている。命惜しくば責務も誇りも夢も、何もかもを投げ捨てて逃げるしかない。頭では分かっているのに、どうしても体が言うことを聞かなかった。
キャラバン全体が怯える中、喰人蟲と呼ばれる巨大な虫が動いたのはほんの瞬きひとつの間にしか過ぎなかった。
突風が吹いたかと思うや、間髪入れずに降り注ぐ粘ついた雨。
何が起こったのか。先ほどまで目の前にいたはずの太った男が、脂ぎった太い下半身だけを残してどこかへと消えた。
「く、喰われたぞ……」
商人のひとりが、荷馬車の影から震えた声で言った。
滴り落ちる紅い鮮血の道を目で追ったジャックが辿り着いたのは、旨そうに肉を咀嚼する喰人蟲の口元だった。
獲物を効率よく噛み砕き、すり潰して嚥下するための口器は、さきほどまで下品な話で盛り上がっていた男を咥え込んでいる。
男は腰から上を、一口で食いちぎられてしまったのだ。
喰人蟲が口を動かす度にボリボリと骨や鎧が砕ける音が響き、肉を挽く不快音が周りの者たちに更なる恐怖を植え付けていく。
「じゅ、銃を」
喰われた男の相方が、酒が回っておぼつかない動きで背中にからっていた長銃を引き抜こうとしていた。
喰人蟲は小刻みに震える男を横目に、ゆっくりと食事を楽しんでいる。
「あ、あぁ……!」
男が気弱な雄叫びをあげた。ようやく酔いが覚めたのか、銃を構えることまでできた男は、狙いも曖昧なままにその引き金を引く。
広い荒野に乾いた銃声が轟いた。
力強い音とともに飛んだ銃弾は、間違いなく敵の黒いボディに着弾する。
だが……。
目にも留まらぬ速さで跳んだ弾丸は、しかし目標を貫くこと叶わず、音を立てて弾き返され、からりと固い地面の上に転がってしまう。落ちた弾頭は、大きくひしゃげていた。
撃った男は「はっ」と我に返った顔で跳びあがる。
帝国兵として……いやこの地に住まう者として知っていて当然のことがある。喰人蟲の黒い装甲はいかな銃弾であろうと跳ね返してしまうほどの硬度があるということだ。狙うのならば、奴らの”弱点”、ただそれだけを捉えなければならない。
男は痛恨のミスを犯した。
慌てて次弾を装填しようとする男に、もはや残された時間は皆無だった。地鳴りとともに、男の体に一本の黒い杭が打ち下ろされる。
それは丸太のように太い脚。
空になった酒瓶や手足だけを残し、男はぐちゃりと踏み潰されてしまった。
捨てた煙草の火をもみ消すように一通りなじった後、持ち上がった虫の足元から漏れ出てきたのは赤黒い肉の塊と血の海で、それが以前人間であった原型すら残されてはいなかった。
こんな化け物に、勝てるわけがない。
ジャックは目を背けたくなるほどの惨状の中でそう悟った。
もう、荷物を捨てて逃げるしか道はない。
荷馬車の向こう側で固まったままのティムに目配せすると、彼の強張った顔がこちらを向いていた。ふたりの意見は瞬時に一致する。
だが……。
「あ、あんた達、なんとかしてくれよ!」悲鳴めいた商人達の叫びが退路を塞いでしまう。「何のための護衛なんだ!」
いまにも泣き出しそうな商人達は、自らの身はもちろんのこと、積んでいる荷を失うことを恐れているようだった。
鶏がバタバタと檻の中を狂ったようにばたつき、牛は繋いでいる縄を引きちぎらんばかりの勢いで逃げ出そうとしている。
彼らの気持ちが分からないわけでもない。汗水流し、時間をかけて育ててきた作物や家畜をここでみすみす逃すわけにもいかないし、それらが彼らとその家族の今後に直結することにもなる。
しかし、命あっての物種だろう。
前方の悪魔に、後方には守るべき人達。ジャックの頬を、嫌な汗がたらりと滑っていった。
怒り混じりの非難が飛び交うなか、どうにかできればやっている、と反論したい気持ちを飲み込んだジャックの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
いままさに逃げる算段をともに考えていたはずのティムが、あろうことか奇声をあげて勇猛果敢に……いや、無謀にも突撃をしかけたのである。
「お、おい、あんた! 待てよ!」
あまりに突然のことで、声をかけることしか出来なかった。
何故そうなったのか瞬時には理解出来なかったが、ティムにはジャックが分かり得ない、家庭を持つ男としての重たい責務があったのではないだろうか。それが、いまや生き物として逃げるべきとする本能と混じり合い、迷い、遂には気が触れてしまったに違いない。
二台目の馬車を破壊しようと脚が持ち上がった隙に、ティムはその懐へと滑るように潜り込み、銃剣のついた長銃を両手に構えた。
急な接近に応じようとした喰人蟲だったが、巨体ゆえにその動きは鈍い。
それよりもティムのほうが速かった。すかさず銃剣を虫の弱点である胴体と脚とを繋ぐ関節部分に捻り込む。
左前脚のつなぎ目だ。いかに硬い鎧を着ていようとも、中の肉体が露出するこの部位までは防ぎようがない。
貫いたと同時に耳の痛くなるような甲高い悲鳴があがり、効果があったことを知らせる。
「や、やったぞ!」
自らの武勇を実感したティムの顔に、引きつった笑みが浮かんだ。
何度も何度も同じ箇所を突き刺し、そのたびに飛び散る黒い血を浴びながら笑うその様は、味方であるジャックにすらうすら寒い狂気を感じさせた。
だが次の瞬間。
ティムの体がくの字に折れ曲がり、目の前を凄まじい勢いで飛んで行った。
「えっ……」
思わず絶句する。
そして、ティムの体はまるでトマトを潰すような鈍い音をたてて、荒野に突き出る岩肌に激突した。即死だ。本人自身、死ぬ理由を理解できなかったのか、眼を見開いたまま絶命している。
彼を吹き飛ばしたのは、喰人蟲の強靭な右脚だった。左脚に広がる痛みによろけながらも、怒りを込めた右脚で敵を薙いだのだ。
怒り狂った雄叫びが上がった。ティムが負わせた傷は確実な効果こそ与えたものの、逆に激怒する理由をも与えてしまった。暴れだした喰人蟲は、既に一度バラバラにした荷馬車を更に粉々になるまで叩き、踏みつけ、破壊の限りを尽くした。その暴れようは、この場の人間を食い尽くすまで収まりそうにない。
もう、だめだ。
味方を全て失い、逃げる気力すら失ったジャックは、その場にへたりこむことしかできなかった。
キャラバンの商人達が罵声を浴びせようが、悲鳴をあげようが、意識の中に流れ込むのは鈍く光る紅い眼差し、ただそれだけだ。髄を握られるようなその眼光に震えが止まらず、もはや待つのは先の三人と同様の死だけ。
俺も同じように、死ぬのか。
そう思うと、これまで生きてきた数十年は何だったのか、自らの人生を悲観せずにはいられなかった。夢を追いかけたあげく、何の実りもなくこんな荒野のど真ん中で一生を終えるとは、笑えるほどどうしようもない。
そんな葛藤で溢れると、次第に恐怖よりも憤りを感じるようになった。そして体が恐怖の呪縛からようやく解き放たれると、自然と右腕が動き出す。与えられた銃を握りしめ、ジャックはその銃口を目の前の悪魔に向ける。最後の抵抗だ。
ティムがそうしたように、今度は右脚の関節を狙う。両前脚さえ潰せば、逃げるための時間稼ぎくらいにはなるだろう。
頼りない照準器を覗き込み、狭い視界の中に敵の弱点をおさめる。
そして、すかさず引き金を引いた。
響く銃声。
飛び出た弾頭は狙いを外れ、思い描いていた着弾点からわずかにずれる。
喰人蟲の注目が、完全にこちらを向いた。
それでも慌てず、確実に、それでいて一秒をも無駄にしない動作で、次弾を装填する。照準器の誤差を考慮しつつ、再び狙い撃った。
弾は思った通りの弾道を描き、虫の関節へと飛ぶ。
当たる。狙いは完璧だ。
鉄と鉄がぶつかる高い音が響き、転がる。
いや、だめだ。
危機を察知した虫が、残った脚を守るために、自らの頭を下げた。弱点に当たるはずの弾は、硬い兜に遮られてしまったのだ。その間にも、喰人蟲の敵意は一歩一歩こちらへと向かってくる。
さらに弾を装填するが、ここに来て銃のボルトハンドルを握る手が震えだしてしまった。
「くそっ、くそっ。こんな時に……!」
足の底から這い上がってくる恐怖を、もうこれ以上抑えきれそうもない。
揺れる銃を再び構え直したジャックだったが、既に遅かった。照準器いっぱいに黒が広がるほど、敵は間近に迫っていたのだ。獲物を追い詰めた獣のように、後は喰うだけとじりじり歩み寄ってくる。
終わりだ。
死を意識したジャックは、見上げた怪物に銃を向けると、もう叫ぶしかなくなった。
「うわあぁぁ!」
頭上に高く持ち上がった黒い脚が、いままさに振り下ろされようとした……。
その時だった。
落雷のような轟音とともに、ジャックと喰人蟲との間を赤い閃光がはしった。
砂礫を削る音。飛び散る小石。視界を覆うように舞い上がる砂塵。
何かが飛んできた。
砂の煙幕が次第に消えていくと、その”何か”が姿を現す。
どこから来たのか、飛来してきた閃光の正体は、ひとりの若い青年だった。赤いノースリーブのジャケットを羽織り、履いているデニムは長年の傷か、いたるところが破れ、すり減っている。
何よりもジャックの目を引いたのが、彼が手に持っていた”物”だ。
砂塵の幕に隠れていても、その巨大さがいかなものかが良く分かる。砂埃が完全に消え、明らかになったその正体は意外な物だった。
「い、岩……?」
そこらに転がっているような、人の丈、人の幅ほどはある岩の塊を、赤い青年は軽々と持ち上げ、肩に担いだ。良く見れば細い柄もあるし、剣の形をしているように見えなくもない。
いったいどれほどの重さなのか。明らかに人が持てるような代物ではないことだけは、容易に想像できる。この青年には、それだけの力があるということか。
刺刺と立てられた艶やかな黒髪を揺らし、まだあどけなさの残る青年の顔がこちらを向くと、その奥で黒い影がゆらりと動いた。
「あ、危ないぞ!」
咄嗟にジャックは叫んだ。
間に入って邪魔をした青年に、喰人蟲が迫る……かに思われたからだ。しかし、先ほどまで怒り狂って暴れていたはずが、いまは突然動きを止めて静かになっていた。
「……?」
思わず首を傾げたジャックの前で、喰人蟲はゆっくりとその巨体を横に倒し、そして眠るように地に伏せてしまう。
体を撫でるように通過していく、一陣の風。
見れば、鋭い眼光を放っていたはずの頭部は無くなり、首から下だけとなった肉の塊からはどす黒い血が噴き出し、大きな血溜まりを作り上げている。
怪物が死んだ。
黒い血の筋は青年の持つ岩の大剣にまで続いている。
この子がやった……のか?
「き、君は?」
解放された安堵からか、はたまた急速に変わる状況についていけなくなったのか、立ち上がる気力すら抜けきってしまったジャックに、青年は手を差し伸べる。
「レニ。レニ・ストーンハート」そう名乗り、そしてにこりと愛嬌のある顔で言った。「”ハンター”だ」