P-2.『物語の始まり』
外の光も頼りにならない薄暗い洞窟の中を、ひとりの男が激情に身を任せて疾走していた。
ブリンク・トゥルーエイム。狩人だ。
彼の行く手を阻もうと、数多の魔障の者達が立ちふさがるが、なす術もなくたちどころにうち滅ぼされてしまう。散った死骸の山は、まるで刈り取られた雑草のようだ。
数という数が力任せに襲い掛かるが、そのたびに全て薙ぎ払われ、撃ち落とされる。ブリンクは一欠片の情けさえも持ち合わせていなかった。もはやどちらが悪魔なのか分からない。そう思われても仕方ないほど、その猛撃は苛烈さをきわめていたのだ。
「忌々しい……!」
彼が口でそう言うほど、実際のところその進撃を少しでも阻止できた者はいない。生温かい血飛沫が霧散する中でも汗ひとつかいていないのは、体内を流れる血が凍るように冷たいからだろう。
一匹残らず始末してやる。
純粋な怒りしかなかった。むしろそれ以外の感情はもう必要ない。怒りこそが、生きていることを証明できる唯一のものだったから。
目にうつる世界の全てが憎くて仕方なかった。思い出すのは恨めしい奴らの面ばかり。沸きあがる感情を悪魔の群れにすべて叩きつけ、奥へ奥へとただひたすらに突き進む。
洞窟内に点在する不思議な青い鉱石が足元を照らす中、深淵に近づく度にいままでに感じたことのない違和感を覚えるようになっていった。
軽い地震のような地鳴りが断続的に起こっているのである。それは奥へ行けば行くほどより大きく鮮明になり、やがては足を取られるほどのものにまでなった。
いったい、何が起きているのか。
いつの間にか悪魔達も背を向け、同じ方向へと進んでいる。その様子を見る限り、狩人から逃げているというよりも、この先にある”何か”のもとへと急いでいるかのようであった。
この間にも、力強い地響きは鳴り続けている。一体この先には何があるというのだろうか。
長い洞窟を駆け抜け、ようやく最奥へとたどり着いた。音が耳をつんざき、大地が体を大きく揺らす。発信源は間違いなく、ここだ。
敵の数も残すは三十匹程度といったところで、ブリンクの憤怒の赤みがさっと引いていく。それもそのはず。休まず響き続けていた音の正体がようやく明らかになった時、ブリンクは唖然とするほどの驚きを味わい、狩りどころではなくなってしまっていたのだ。
悪魔が群がる中心に、音の正体は居た。
それはなんと、まだ幼い人間の男の子だった。
無論、ただひとりこんな悪魔の巣窟の中で正常でいられるはずもなく、既に精神に錯乱をきたしているようで、雄叫びとも悲鳴ともとれる痛々しい叫びを発しながら泣きじゃくっていた。
ブリンクを驚かせたのはそれだけではない。
男の子が無我夢中で振り回していた物……。それはなんと、大人の背丈ほどはある巨大な岩の塊だったのだ。ありえるはずがない、と目を疑ってしまうほどの光景である。
「なんだ、あれは……」
群がる悪魔達の直中に居てこれまで無事でいれたのは、でたらめに振り回される大岩があったからだろう。凄まじい勢いで縦横無尽に駆け巡る岩は、周りの地面や壁を抉り、大地を叩くと世界が揺れるような衝撃を走らせた。
これ以上住処を破壊されるまいと悪魔の群れが近付くが、予測のつかない大岩の動きに翻弄され、そのほどんどがあっけなく命を散らす結果となった。
振り回している当の本人に残されている自我は限りなく少なく、その叫びは悲痛に満ちている。
茫然としてしまっていたブリンクだが、このまま見過ごすわけにもいかず、体は自然と前に出た。まずは群がる敵を一掃するべく踏み込む。いかに悪魔といえども、この時ばかりは本物の地獄を味わったに違いない。数分の間、ほの暗い洞窟内には聞くに堪えない断末魔が絶えず流れ続けた。
厄介だったのはその後だ。
敵を殲滅した後も、少年の狂乱ぶりはおさまるところを知らず、依然として大岩が猛威を振るう状況が続いた。保護しようにも、これでは近づくことすらままならない。
「おい、お前。もうやめろ!」
いくら声を張り上げても、男の子の耳には届かなかった。
かすかに聞き取れる言葉の中に「お母さん、お父さん」と両親を呼ぶ声が混じる。
ブリンクは大きく舌打ちしたものだったが、決して見捨てようとはしなかった。おそらくこの子は両親を奪われてしまったのではなかろうか。幼く無垢な心を壊すには、それだけで十分だろう。
ブリンクは被っていた帽子を取り、自分の髪を無茶苦茶に搔きまわすと、最終的には意を決した。
少年の元へと、飛び込むのだ。
帽子をかぶり直すと、疾風のような速さで一歩を踏み出す。一歩、二歩……、そして三歩目で距離を縮めれば少年には近づける。
凄まじい勢いで往復する岩の軌道を読み、二歩飛んだところで体を低くして素早く滑り込んだ。
しかし、ブリンクの意図に反して岩は道筋を変え、顔面めがけて飛んでくる。
ひやりとして、すかさず頭を引っ込めた。この一瞬だけは時はゆっくりと流れ、頭上すれすれを岩が通り過ぎて行く。間一髪で死を免れると、自慢の帽子が吹き飛ばされただけで済んだ。
すかさず後ろに回り込み、男の子を羽交い締めにする。
「落ち着け。俺は敵じゃない。お前を助けたいんだ」
耳元で優しく語りかけてもすぐに効果はなかった。
見た目五歳ほどの幼児とはいえ、無意識に出る力は相当なものである。まして、この岩だ。とにかく振り払われぬようにするので精一杯である。
数分ほど粘りに粘ったところで、子供の心も少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだった。
暴れていた大岩がようやく手放され、地面に重々しく突き立つ。
それでも泣き止むことはなかったが、狂気を帯びていた涙は次第に安堵の涙へと変わっていくのが分かった。
「大丈夫だ、安心しろ」
ブリンクも合わせて力を抜くと、今度は男の子を正面に見据えた。
握りしめれば潰してしまいそうなほどか細い体は痛々しいほどに震え、閉じることのない口からは嗚咽が絶えず漏れ出ている。
見ているこちらが心苦しくなるほどであった。世界戦争は終結したというのに、それでも孤児は増える一方であるという皮肉に、胸が痛くなる。
これほどまでに世界とは残酷なものなのか。
たまらず、男の子を抱きしめた。
怒りが立って歩いているかのようであったブリンクが、急に感情の変化を覚えたのである。
愛おしいと思った。この子を守ってあげたいと思った。何より自分も温もりが欲しいと思ってしまった。
落ち着かせようと思って抱きしめたはずが、逆に心を癒される。不浄の念に燃えたぎっていた魂が、浄化されるようであった。
触れ合うと、早鐘を打っている子供の心臓の鼓動が痛いほどに伝わってくる。か弱い体がこんな過酷な環境の中で、必死に生きようとしているのだ。
さらにきつく抱きしめると、子供の感情はいっきに高ぶり、小さな体からとめどなくあふれ出した。もてる力を振り絞ってブリンクを強く抱きしめ返してくる。
「そうか。お前も独りぼっちなんだな」
ブリンクは男の子と一緒に涙を流した。この感触と暖かさは一体いつぶりであろうか。懐かしき良き思い出の数々が、ブリンクの心をきつく締め付けた。
それからしばらく、洞窟の中には二人の泣き声が誰にも知られることなく木霊した。
後に<レニ>と名付けられるこの子供とブリンクとの出会いは、世界が動く小さな歯車のひとつとなる。ぽっかりと穴の空いていた空間に歯車がはめ込まれると、止まっていたまわりの大小の歯車が一斉に動き始めたのであった。
これから世界は夜という闇に覆われ、そしていつ訪れるのかも分からぬ朝を待ち続けることとなる。