1-13.『宝』
ブラッドハーバーは、レニにとって想像すらつかぬ異国の地であった。名を耳にすることは多くとも、目にするのは初めて。帝都ほどではないが、高く、厚い壁に囲まれていること以外、見るもの全てが真新しい。
鉄門を潜り、街に入るやいなや、賑やかな喧騒が流れ始め、吹き抜ける風が強烈な潮の匂いを運んでくる。耳を澄ませば、飛び交う会話の向こう側に聴いたことの無い穏やかな水の揺らめき。眼前に広がるのは、活気に満ちた水上都市とその先に広がる壮大な大海原であった。
「わあ、すごいなあ」
この日、レニは青く輝く海を知った。干からびる寸前の荒野の池でもなければ、帝都に流れるヘドロまみれの川でもない。
どこまでも果てしなく無限に広がり、寄せては返す波の音は鴎の鳴き声も相まって、神秘的な歌のよう。まるで足元にも空が広がっているかのような錯覚さえ受ける、透き通った青さ。出てくる感想は「すごい」のただ一言。そう繰り返し表現する以外の引き出しを、持ち合わせてはいなかった。
“血の港”とは何とも恐ろしい名前のついた街だが、決して陰気くさい場所ではない。そう呼ばれるにたる歴史こそあるものの、実際には盛んな水産業により街は賑わいを見せ、屈強な海の男達やその伴侶達がその活性化に一役買っている。豊富な海の幸を味わえるとの話を聞きつけた者達も、街の発展に大きく貢献しているのだ。
百人の狩人達はナンバーツーであるブリンクの指示を受け、迫りくる喰人蟲の動向を偵察する班と、自陣キャンプの設営および見張りとに分かれた。残りは休憩をとりながら待機しつつ、決められた時間に他と入れ替われるようにする。ブリンクとレニはひとまず待機することになった。
「俺たちは外にいるほうが落ち着く。また後でな」
そう言ってトバイアスとアイシャは、偵察に出た。虎を連れて街中を歩くのは、確かに難しいところがある。
「少し、探検してみるか」ひとり呟くように言ったブリンクの細い目が、レニに向けられた。「時間はあまりないが、街の案内くらいはしてやれる」
「うん」
班のトップとして重い責任を預かる父が、合間に見せるこういうさりげない親心が、素直に嬉しかった。好奇心旺盛なレニが、初めて足を踏み入れた土地に強い興味を抱かないはずもなく。眼下に広がる巨大な市場を見て、興奮を抑えられないでいる息子を気遣ってのことなのだ。
「ついて来い」
ブリンクの後を追い、ブラッドハーバーの名所である、魚市場の入り口に立った。朝市も行われるこの市場では、強烈な日差しを避けるためのテントが各所に張られているが、そのせいか中はむせ返るような熱気が渦巻いている。
奥には左右に大きく広がる半月状の漁港があり、そこに大小多数の船舶が停泊している。黄色や赤などカラフルに塗装されているものが多いなか、真っ黒な軍艦も何隻か見えた。その中でも一際巨大な黒船が見えたが、レニの眼中には二秒とも止まらなかった。
市場に一歩立ち入ると、案の定、中は人の波でごった返していた。漁師達が、新鮮な魚が入った木箱を大量に運び込み、運び込まれた魚を今度は女たちや卸の商人が住人に売りさばく。そして魚を買った住人が、それを食す。その場で塩焼きされた魚を食した住人の形容しがたい表情の変化は、それがいかに美味であるかをこれでもかとばかりに表現していた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんたちもどう?」
初めて目にする物の多さに目移りばかりして、いよいよ目が回りそうになったレニに、ひとりの男の子が声をかけてきた。
差し出された物は、先程から腹の虫を探ってきていた香しい匂いの正体だった。名物のイカ焼きだ。
「ありがとう。頂くよ」
ブリンクがふたり分の対価を小銭で払い、程よい焼き目のついた御馳走を受け取る。
レニもそのひとつを貰い、初めて目にするそれを見つめてみたり、匂いを嗅いでみてから齧り付くと、空の胃袋へと流し込んだ。程よい弾力に、塩気とタレの旨味との絶妙なバランス。
「……うまっ!」
意図せず口から率直な感想が飛び出るほど、美味だった。
「ね? ここに来たなら、これは食ってかなきゃ、勿体ない! イカはすぐにダメになっちゃうから、クロスロードなんかじゃ滅多に食えないよ」
男の子のちょっとした蘊蓄に、そうなのかとレニは御馳走をいただきながら頷き、イカ一匹をすぐに平らげてしまった。
「商売上手だな」
会話の最中にさえ、行き交う人々相手にイカ焼き数匹分を売り捌いていくその働きぶりに、ブリンクは終始感心した様子だった。
「全部、父ちゃんの受け売りだけどね」えへへ、と照れ臭そうに男の子は鼻をこする。「少しでも母ちゃんの助けにならないとって思ってさ」
「君はまだ小さいのに、偉いなぁ」
レニは感嘆の思いを吐露する。
見た目、まだ十歳かそこそこだろう。学校で教育を受け、友達と遊び、親に甘えていても良い年頃だ。自発的に家庭に貢献しようなんてことを考えられる年齢ではない。
「兄ちゃんたちはさ、もしかしてハンターさん?」
男の子はどこかソワソワとし始めた。
「ああ、そうだ。商人らしい、良い観察眼だな」
ブリンクが答える。
そりゃあ、一目見れば分かる。ハンターでもなければ、本当にただの変人じゃないか。との意見をレニはぐっと堪えた。
「やっぱり! そんな気がしたんだ」聞くなり嬉々とした男の子は、屋台の裏に向かって叫ぶ。「おい、ミノリ! ハンターさんだぞ!」
呼ばれて屋台の裏から顔を出したのは、少年の妹だった。あどけない幼顔に、三つ編みが良く似合う可愛らしい女の子だった。年は五歳で、少し人見知りの気があり、普段はあまり人とも話さないのだと言う。
「こんにちは、ミノリちゃん」
レニの挨拶に、少女はおどおどと戸惑いの瞳を向けた。
「お兄ちゃんとふたりで、偉いね」
再び話しかけるが、初対面の人間に対する警戒心は薄れそうにない。
よく見ると、ミノリの腕の中には小さな熊のぬいぐるみがいた。
「可愛いクマちゃんだね」
指差すと、ミノリは照れで赤くなった顔を熊のぬいぐるみで隠し、「ロイです」と小さく喋った。どうやら、ぬいぐるみを通して会話する方法を思い付いたようだった。幼児らしい、愛嬌のある声だ。
「こんにちは、ロイ」
レニも彼女に合わせて、話をする。
「今度喰人蟲が襲ってくるって、街のみんなが騒いでるだろ?」ミノリの兄は、困った顔で話した。「だからこいつ、怖がっちゃって。悪いやつらはハンターさんが全部やっつけてくれるって何度言っても分かってくれないんだ」
だから、直接安心させてやって欲しいのだという。少年自身はこれまでのハンターの活躍を見聞きしているから、特に心配はしていないらしい。
それよりも、少年は妹の面倒を見ながら商売もやっていたわけだが、これほど健気で家族思いな子供もそうはいない。そして妹もその状況を理解し、良く我慢していると思う。
レニは未だ物陰に隠れたままのミノリに温かな笑みを向けて近寄ると、ロイと同じ目線まで屈んだ。
「怖いの?」
少女はこくりと頷き、「こわい」と声を出さずに唇を動かした。
「そうだよね。でも大丈夫。街は俺たちが必ず守るよ」レニは言い、ブリンクに目配せする。「あの変なおじさんなんか、ひとりでこーんなに倒しちゃうくらい、強いんだ」
大きく手を広げてみせたレニは、「変は余計だ」とすかさず頭をはたかれ、突っ込まれる。
まだ世界の十分の一をも経験したことがない幼い少女にとっては、ハンターすらも得体の知れない存在だったに違いない。驚き、警戒もするだろう。だから、レニとブリンクが同じ人間であることを認識してもらうことで、緊張に強張っていた彼女の顔もふと緩んだ気がする。
笑うともっと素敵なんだろうな、とレニは彼女の笑顔を想像すると、自分自身の表情もいつの間にか綻んでいた。
「悪い奴らは、俺たちに任せてればいい。だから君は安心して、いつもと同じようにお兄ちゃんのお手伝いをしてあげて」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」
「わるいむしは、こない?」
「何があっても、俺が君を守る。約束するよ」
「……うん。じゃあ、やくそく!」
小指を差し出すミノリ。
彼女に倣って小指を出し、合わせる。
とても小さく、温かな指だった。脆く儚く、そして尊い。
愛らしい声で指切りげんまんを歌ってみたミノリの笑顔は、晴天の空よりも無垢で澄み渡っていて、レニの心に明るい陽射しを降り注がせた。
「ヨシ、ミノリ」
女性の声に、ふたりが振り向いた。ふたりの顔が輝くように明るくなったところを見るに、どうやら彼らの母親であるらしい。
慎ましやかな雰囲気の女性で、レニとブリンクに軽く会釈をした。膨れたお腹の中には、どうやら三人目の新しい命が宿っているらしい。
気付けばそろそろ日の暮れる時間だ。
屋台の片付けもテキパキとこなしてみせた少年ヨシは、ミノリの手を引き、母親の下へと駆け出した。ヨシがこちらを何度か振り返り、何事かを母親に報告している。母親がにこりと笑みを浮かべ、再び頭を下げた。おそらく、先程の会話の内容を話したのだろう。
母親が迎えに来てから、彼らの笑顔は途切れなかった。仲睦まじい、温かな光景。レニは、少し羨ましく思う。
それから三人は手を繋ぎ、自宅へ向かう帰路につく。
彼らの背中を見つめるレニに、ミノリがロイと一緒に手を振ってくれた。
「どうした。子供でも欲しくなったか?」
手を振り返すレニに、ブリンクが言った。
「いや、そうじゃないんだけど……」ちょっと照れ臭くなって、鼻を掻く。「ただ、守ってあげたいなと思って。あの子たちの何気ないこの日常をさ。俺たちにはそのための力がある」
その言葉をゆっくりと飲み込むかのように、ブリンクはレニに視線を置いたまま、しばらくの時間を黙した。
「子供は良い」誰にともなく、ブリンクが呟く。「子供は世の宝だ」
「宝?」
「ああ、俺はそう思ってる。この時代を作ったのは俺たち老ぼれどもだが、これからの時代を作るのはお前たちの役目だからな。だから、更にその先の未来を変えていくあの子たちを、俺たちは全力で守っていかなければならない。そうやってこの星は続いているんだ。分かるな?」
「うん、分かるよ」
「そのためには、何があっても心だけは挫かせてはいけない。挫けてしまえば、自分が生きることすら諦めてしまう。そうなったら、もう何も守れない」
普段口数の少ないブリンクがいつになく熱く語るのを、レニは不思議に思った。その思いの裏には、ブリンクその人を動かす、秘められたる何かがあるのだろう。
「絶対に挫けるんじゃないぞ。これはお前と俺との約束だ。忘れそうになったら思い出せ。お前の名前を」
「俺の、名前……」
そう繰り返したものの、この時、レニにはその意味がまだ理解できてはいなかった。




