神殺しのバラッド
遠く――視界の端に映る後方拠点から、角笛の音が響く。
宮殿を固めていた聖騎士達の残党を薙ぎ払い、俺はふぅ、と大きく息を吐き出す。
「白鷺無事回収! 繰り返す、白鷺は無事回収ッ!」
「五番隊到着しました! 撤退援護します!」
死体と赤い血で埋め尽くされた戦場は、既に随分と活気を失っていた。敵も既に撤退を始めている。
あぁくそ、と思わず悪態が零れた。――被害が大きすぎる。
剥き身の愛剣を引きずりながら、俺は戦場を歩いた。小走りに撤退していく味方は皆満身創痍で、激戦だったことを痛感する。
「ジーク、無事か」
騒音で麻痺した耳に、少し掠れた声が届く。億劫ながらも振り返れば、重そうな血塗れの軍服を風になびかせ、戦友が立っていた。
「お互い息災で何よりだ、カミル」
俺が声をかけると、カミルは少しだけ口の端を釣り上げる。いつもであれば几帳面に整えられた髪が、今は風と埃で随分と乱れていた。
「あぁ。指揮官のどちらかが倒れていたら、この程度では済まなかっただろうな」
「本当にな。……そっちの被害は?」
「二割ほどだと思う。……ギリギリだったな」
あぁ、と吐き出した息が重い。前線はほぼ壊滅していた。それでもなんとか耐え切ったのは、ひとえに運が良かったとしか言えない。
最悪な気分だ。口を開けば文句しか飛び出しそうにないが、そもそも口を開く元気もない。
「泣き言も恨み言も帰ってからとしよう。目的は果たせた以上、この戦は俺達の勝ちだ」
「ははっ、そうだな……。軍部のジジィ達の嫌味さえなければ最高なんだが」
少しざらつく視界で振り仰いだ空は、皮肉なほど青く晴れ渡っていて。
新暦二五七年、初夏。後に白鷺宮の戦いと呼ばれる戦いは、互いに甚大な被害を出して終結した。
◇◆◇◆◇
昔々、まだ神様ってやつが至高の存在だった頃。
神様は、様々な生物をこの世界に生み出して、その中でも格別、自分達とよく似た「人間」って種族を寵愛した。器用な手を、意思を伝える為の言葉を、よく回る頭を、様々な文明を、神様たちは惜しむことなく人間に与えた。
しかし神様たちはお人好しだから気が付かなかった。人間ってやつの強欲さに。
あるとき、神様の一柱が姿を消した。それを機に、人間はあろうことか神様たちを襲い出した。
所詮、自分達の生み出した生物だ。神様たちは大して気にも留めていなかった。しかし、二柱、三柱と仲間が姿を消すにつれて、神々達は恐れおののいた。
人間は、神を殺せる。
人間は、神と対等の力を振るう術を持っている。
そしてあろうことか、人間は神に取って代わり、世界を支配しようとしている。
人間にしてみれば、常に神の気まぐれな気候に振り回される生活に疲れていたのだ。神を殺し、全てを支配する力を得られれば、もっと幸せで、もっと豊かな生活ができると信じていた。
そして始まった神と人間の戦争は、今に至るまで、百年以上続けられている。
少なくとも俺――ジークベルト・バルシュミーデが物心ついた頃には、人間と神が戦争をしているのが当たり前の世界だった。神の代わりに国の派遣した魔術師達が各地の実りを支え、神の力を抑え弾く魔術兵器を携えて戦士達が世界中で神と相敵した。
俺はそれらの戦争に巻き込まれた戦災孤児だったが、幸か不幸か、年端もいかない頃から兵士として従軍していた。そこで剣の才能を買われ、次々と死ぬ指揮官達の後釜を埋める形でぼちぼちと昇進を重ね、今ではいくつかの部隊を任せられる程度に出世した。
貴族や魔術師一族が幅を利かせる中、腕っぷしだけで出世した平民出身の軍人ということで、巷では『神殺しの英雄』なんて呼ばれもする。実はけっこう有名人なんだぜ、俺。
にもかかわらず、だ。
「……ちょっと、この辞令、マジ?」
「マジです。大将軍から直々のご命令です」
軍部の女性事務員は、口元だけにこりと笑って羊皮紙を差し出す。俺は若干顔を引き攣らせながら、二度三度、書類の中身に目を通した。
さらりと書き添えられたサインは、確かに間違いなく大将軍のものだ。書類の内容によると、俺の直属部隊丸ごと、数か月本部の防衛にあてるとのこと。防衛任務じゃ手柄の上げようがないので、実質しばらく昇進打ち止めだ。
「あのクソジジィ……」
もう少しプレッシャーをかけてハゲ散らかしたジジィ達の髪を更に薄くしてやりたかったんだが。あからさまに顔を歪めていると、事務員が苦笑する。
「そう嫌がらなくても、良い休暇代わりになるんじゃないですか?」
「俺ぁ人生の過半数を戦場で暮らしてんの。都暮らしなんて肩が凝って仕方ねぇ」
そういうものなんですか、と事務員は不思議そうな顔をしてから去っていく。それを見送って、俺は改めて中庭の草むらに転がった。
軍部の執務棟と訓練場の間にある中庭は、初夏の日差しを受けて草木が青々と生い茂っている。日差しを避けて木陰に入れば、土と緑の匂いがぷんと立ち込めていて、何とも幸せな気分になる。
先程の辞令は、文句もあるが妥当と言えなくもなかった。俺の指揮をしていた部隊はかなりの負傷者が出た以上、すぐさま前線に戻すわけにもいかない。部下のことを思えば、半年ほどの療養期間を取ってやりたい。
納得いかないとしたら、そこまでの被害が出る理由を作ったのも今回の辞令を出した上層部ということぐらいか。
――気に食わねぇなぁ、やっぱ。
きつく目を閉じると、木の葉のざわめき、回廊を行く人々の足音が耳に飛び込んでくる。
「ジーク、いるか?」
そして、聞き慣れた戦友の声も。
いるそぉ、と目を閉じたまま声を上げれば、やがて足音が一つ中庭に踏み込んでくる。
「昼寝をしている場合か。内勤とはいえ一応もう仕事はあるんだぞ」
「気乗りしねーの。おまえんとこの部隊も引っ込められたのか」
「お前の部隊ほどではなかったが、大分負傷者が出たからな」
「そこまでして確保したいもんだったのかねぇ、件の白鷺ってやつ」
先の戦、俺達の部隊は陽動部隊だった為詳細は知らない。だがどうも、白鷺と呼ばれるものを強奪するための時間稼ぎに俺達は駆り出され、そのせいで苦境でもなかなか撤退許可が出なかったのだということは把握している。
俺はあくまで兵士であって、戦術家達が何を考えてるかなんざ興味もない。それでも、上の都合で自分の部下が死んだら腹が立つ。
俺の怒りはカミルにも伝わっているのだろう。上体を起こして奴を見上げれば、カミルは生真面目な顔を少しだけしかめていた。しかしすぐに表情を戻すと、軽く笑ってみせる。
「……ちょうどいいかもしれないな。この後白鷺が見られるぞ」
「……は?いや、別に興味があるわけじゃ……」
「というか、俺達二人で白鷺の警備任務だ。これが別口の辞令」
「あ!?警備ィ!?」
何だその最高にかったるそうな仕事は。
追加で差し出された羊皮紙を見ると、確かに言われたとおりの内容が書いてある。俺は思わず、伸び放題の赤髪を掻きむしった。
「んだよその白鷺ってのは。警備ぐらいそこらの従卒にでもやらせてろよ。俺もガキの頃やったぞ、士官にやらせるような仕事じゃねぇ」
「一応賓客扱いということだろう」
ほら立て、と急かされて、俺は重い腰を上げながら問い返す。
「客? 白鷺ってのは人間なのかよ。それなら尚更貴族の坊ちゃんにでもやらせてろって。おまえならともかく、俺は向いてねぇ」
貴族の令嬢かご子息か、どちらにせよ面倒そうだ。そう思った俺の予想をはるかに飛び越えた答えが、カミルの口から零れ出る。
「女神だ。治癒と豊穣の女神フローラ創造神の系譜に連なる強い力をお持ちの御方だ。だからお前が呼ばれたんだよ、神の監視には神殺しとな」
◇◆◇◆◇
神殺しの英雄、なんて二つ名をもらうぐらいだ。俺は何度も神を見たことがあるし、愛剣ミストルティンで屠った神もいる。
けれどそれは全て戦場でのことで、剣を構えて殺し合いを始めちまえば、神も獣も大差ないと俺は思っている。
愛剣で喉か胸を抉れば敵は死ぬ。俺が神について知っているのは、たったそれだけの単純な構造だけだった。
その、部屋の奥にしおらしく座る女は、戦場で何度も敵対したそれらとは全く異なる存在に見えた。
緩くうねる金色の髪と、深く影を落とす蒼色の瞳。薄布を重ねて纏った四肢は細く、陶器のように透き通る肌をしている。
高貴な美しさってのはこういうものをいうのだろう、なんて頭の端でどうでもいいことを考えていた。美醜なんざ本当にどうでもいい。
一言で言えば、その女は恐ろしく弱そうだった。
「お初お目にかかります、フローラ様。私はカミル・ゲプハルト、こちらがジークベルト・バルシュミーデ。これからしばらく貴方様の御傍に仕えさせていただきます」
白々しい挨拶だった。術式を練り込んだ銀鎖で繋いで、力を封じておいて、御傍に仕えるも何もありゃしねぇ。女もそれが分かっていて、顔を上げることなく一言、「そう、よろしく」と言う。
カミルがいくつかの伝達事項を女に伝える間、俺は扉の脇に寄りかかり、腕を組んでその様子を眺めていた。
「万一何か御用がございましたら、私かそちらのジークに……、おいジーク、腕を組むのはやめろ。無礼だろう」
「捕虜を前に無礼もクソもあるかよ。俺は腫物扱いってやつが苦手なんだ。ただでさえ面倒な監視役に、ご令嬢の機嫌取りまでしてられるかよ」
「お前……そんな態度だから出世の速度が落ちるんだぞ……」
「ご心配どーも」
軽く肩をすくめてみせると、カミルは頭を抱える。カミルは貴族出身だが、何かと世話を焼いてくれるお人好しだ。ただし俺が従うとは言ってない。
そこでふと視線を感じ、俺は首だけを動かす。すると、まじまじとこちらを眺める蒼い瞳と目が合った。
「何か不満でも? 女神さん」
「貴方は私達に敬意を抱いていないのですね」
……その時俺は、随分と哀れな生物を見る目をしてしまっていたのだと思う。隣のカミルに脇を突かれ、なんとか崩れた表情を引き締める。
「逆に聞きたいですがね。神に敬意を持っていたら、そも戦争なんて起きちゃいませんよ。そこの生真面目はどう思ってるが知らないが、現状あんたはただの捕虜。ここで泣き暮らすしかできない存在に、何故敬意を示さなきゃいけねぇんだ?」
「ジーク」
「勘違いしないでほしいのが、俺はあんたに対して敬意も抱かねぇが別段悪意があるわけでもねぇ。大人しく泣き暮らしてくれてりゃ俺達も楽でいい。手間がかかんねぇことなら多少融通してやるよ。何か要望は?」
へらりと訊いて、それから訊かなきゃ良かったと心から後悔した。
女の瞳が、どろりと濁っちまったもんで。
「殺して」
「……それは、できません、フローラ様」
「争いたくなどないのです。私は、もうこれ以上戦場を見たくない。殺してください、今すぐ、私を、ねぇお願いです」
縋りつくような女の視線を、カミルが遮った。
「後程食事をお持ちします。それまでどうかお静かに……」
「ここには、神すら殺す英雄がいるのでしょう? 殺して、もう終わらせてください」
「できません。それでは私達はこれで。何か御用がありましたら呼び鈴がございますので」
カミルに追い出されるように、俺は扉をくぐった。
ねっとりと縋りつくような視線が、大層気持ち悪かった。
◇◆◇◆◇
それからの生活は、あまりにも退屈で記憶にも残らないような毎日が続いた。
死にたがりの女神は、数日経つと殺してもらうのを諦め、代わりに竪琴などを所望した。適当なものを渡してやると、一日中ポロンポロロンとかき鳴らしている。正直うるさいが埒のあかない会話をしているよりはマシだ。
もう一人の監視役のカミルは、実家の用事だのなんだので中々監視の時間が裂けないため、この女の相手をするのはもっぱら俺の仕事になった。適当に書庫から引っ張り出してきた本を片手に、女の竪琴を聞きながら、柔らかな日差しの部屋で日がな長椅子に寝転がって過ごす。
体がなまりそうな、平和ボケした最悪な生活だった。
「……あの、ジークベルト」
「あん?」
苦手な活字をじわじわ頭に流し込んでいたある日の昼下がり、久しぶりに女が、恐る恐る話しかけてくる。
「その、私の部屋で殺気を垂れ流すのをやめていただけませんか。とても居心地が悪いのです」
「んぁ、悪ぃな。最近体動かせてねぇから苛立ってんだ。気をつける」
「別のお部屋に行けばよいのに」
「ここの塔は控えの部屋がねぇんだよ。下にいると使用人共に邪魔者扱いされるしな」
「それは、まぁ」
気まずそうな女に、俺は本を閉じて多少姿勢を正した。少しぐらいはお喋りに付き合ってやろうという俺の思いやりである。
「あんたは女神の中でも随分と箱入りらしいな」
「えぇ、まぁ……箱入り、と言えばそうなのかもしれません。軍神であった姉上や都市の主神であった者達と異なり、私は野山の奥で豊穣を祈る者でしたから。戦争が始まってからも、争いに関わったことはありませんし」
「戦場に出たらあっという間に死にそうな顔してるしな」
俺の言葉に、女は少しだけ眉を寄せる。
「貴方はとても失礼な方ですね。軍人と言うのは、皆そういうものなのでしょうか」
開け放った窓から吹き込んでくる風が、柔らかな女の髪を揺らす。こんなにも明るい夏の日なのに、深く淀んだ色しか映さない女の瞳。
「軍人は嫌いか?」
「ええ。私は争いが嫌いです。大切な者達が、自分の目の前で殺し合うのを見るのが嫌いです。かつてはあんなにも信心深く、共に手を取り合って暮らしていたのに」
「へぇ、そうなのか」
素直に相槌を打つと、女は目を剥く。
「そうなのかって……ご存じないのですか?」
「百年も前のことなんざ知らねぇよ。田舎の語り部の婆さんか貴族の知識人どもならまぁ知ってるんだろうが。神は敵、それ以上の知識が必要か?」
「あ、頭が痛い……たった百年で人間はこうなるのですか……」
そう言って女は頭を抱える。神様ってのも大変だ。俺達にとっては百年はかなりの時間だが、神様にとってはほんの一瞬なのだろう。
「詳しくないついでに教えてくれよ。神様ってのは日頃どんな生活してんだ? というかあんた、どうしたらそんな世間知らずになれたんだ?」
「本当に失礼ですね……。本来神について語るのは神自身ではなく聖職者の役目なのですが、良いでしょう、お話いたします」
そうして、彼女がしてくれた話は、俺にとって非常に新鮮な話だった。
「創世神話では、神がこの世を生み出し、人間を生み出したとされています。けれど私たち自身も、それが本当なのか良く分からない。私達は、気が付くと人々の信仰を受けて加護を与える者としてこの世に存在していました。自然を操り、祈りに応えて恵みを与え、ときに力を貸し、ときに見離し。
私達は生きる為に食料を必要としません。けれど時に人の捧げた食料を受け取ると、美味しいと感じます。睡眠も必要ありませんが、天上や地下、山の頂、或いは森の奥深くに居を構え、微睡んでいることが多いです。
私は治癒と豊穣の女神ですから、かつて貴方達の祖先が建てた都にほど近い神殿で暮らしていました。雨の降らない村があると聞けば涙を届け、害虫に悩む村があると聞けば髪を一房切って焚き上げさせ、人々の感謝の声を糧に、私達は暮らしてきたのです」
「今だと、魔術師達が果たしている役割を、あんた達が昔は果たしていたっていうことか」
そうなりますね、と女は頷く。
「けれど不思議なのです。現在、人間の魔術師達は神に代わり天候を操り、恵みを生み出していると聞きます。けれど、私の知る人間は、決してそんな力を持つ存在ではなかった。いつから人間はそんな力を持つようになったのでしょう。……どうやって、その力を得たのでしょう」
「さてねぇ。一般的には魔道具のおかげってことになっているが」
俺は常に手元に置いている愛剣を引き寄せ、女の方に軽く見せる。
愛剣ミストルティン――神殺しの魔道具。俺の武勲を称え、軍部が俺に授けてくれた、神の力すら断ち切る大剣だ。
うっすらと金色の光を纏う刀身に、手に吸い付く様に馴染む細かな装飾の刻まれた柄。握り手の根元には、黒々とした夜を湛えた宝石が一つ、埋め込まれている。
「俺は一般的な人間よりは強い方だと思っているが、魔道具がなけりゃ不死の神は殺せねぇ。これがあるから神と戦えるってことなんじゃねぇのか」
「魔道具……」
小さく肩をすくめながら、俺はそっと女を盗み見る。酷く悲しそうな目で、女は俺の剣を見ていた。
自分達固有の能力と思って、それを誇りに生きていたとしたら、彼らにとって自分の代替品はひどく妬ましい存在に思えるのかもしれない。
神というのは、もっと力強く、万能で、様々なことが出来る存在だと思っていた。だからこそ、戦場で自分が神を殺せるということが、酷く不思議で仕方なかった。
しかし、彼女の話を聞いて、少しだけ分かったことがある。神は頼られなければ酷く脆い。頼られ、信仰されることで自分の価値を見出すことのできる存在。
必要とされなくなれば、死を待つしかないのだ。目の前の彼女のように。
……いや、何か引っかかる。
「どうしたのですか?」
「……ん、いや考え事」
「神と話をしながら考え事など、本当に失礼な方ですね」
女の苦笑に適当に笑い返し、俺は雑談もそこそこに部屋を引き上げる。
すっかり暇を持て余していたが、どうせ時間があるのなら、一つ自分の疑問と向き合ってみようじゃないか。
何故、軍部がこんなくたばりかけの女神を必死になって生け捕りにしたのか、という疑問だ。
◇◆◇◆◇
その夏は猛暑だった。ジリジリと肌を焼く日差しがようやく収まってきた秋の頭頃、地方に駆り出されていたカミルがようやく都に帰ってきた。
久しぶりに二人揃って兵舎の食堂に赴き、食事をしながら雑談に花を咲かせる。
「フローラ様と随分仲良くやっていると聞いたが、俺がいない間どうだったんだ?」
「どーもこーも。時間つぶしにお互い会話する程度の仲だよ」
「その割に、最近書庫に籠ってると聞いたぞ。文化的な女神の影響を受けたか?」
カミルの視線が脇に置いた本に視線が向いたので、あぁ、と俺は苦笑する。
「これは個人的な調べもの。ちと気になることがあったんだが、俺の知識が足りねぇんだ」
「お前が?自主的に?調べもの?しかも戦術系以外の内容を?どうしたんだお前……何かあったのか?」
「カミル、お前は俺のことなんだと思ってんの?」
軽く咎める声で問いかけつつも、すぐに表情を引き締める。冗談もそこそこに、聞きたいことがいくつかあった。
「どうだった、地方は」
少し声を低めて言うと、カミルも眉を寄せる。
「酷い日照りだった。あれでは今年は大凶作だろう。西部の天候と前線を支えている魔道具が不調のようで、そのせいではないかと言われている。軍部では新しい魔道具の導入を考えているらしい」
「ほー。あぁそうだそうだ、丁度魔道具について聞きたかったんだ。どうも書庫に資料が足りなくてな」
「魔道具について? ジーク、それは……」
「バルシュミーデ隊長! ゲプハルト隊長! ここにいらっしゃったんですね!」
食堂の入り口から声をかけられ、俺達は言葉を切った。
視線を向ければ、若い兵士が一人こちらへ駆け寄ってくるところだった。
「何かあったか?」
「はい、現在の西部戦線に関しましてお話があるそうなので、作戦室に来て頂きたいと大将軍が」
「承った。すぐ行くと伝えてくれ」
残っていた食事を片付けていると、どうもさえない友人の顔に気付く。
「どうした、何かあったか」
「あぁ、いや……ジーク、その」
煮え切らない、歯切れの悪い口調で、カミルは小さく呟く。
カミルは生真面目で、どうしようもないお人好しな男だった。
「今更言うのも変な話だが、……あまり女神に、感情移入しない方が、良い」
だから俺は、この時点で、ある程度の覚悟を決めていたのだ。
◇◆◇◆◇
昼を過ぎ、日が暮れて、薄闇が辺りを覆う。
人気のない塔を、俺は一人、登っていた。
初夏からずっと吊るしたままだった軍服を肩に引っ掛け、腰の後ろに剣を二振り。いつもより重い身なりで、最上階の、ここ数か月ですっかり見慣れた木戸を軽く叩く。
返答まで、少し間があった。指先に引っ掛けた愛剣の重みを確かめながら、俺はぼんやりと扉の木目を視線でなぞる。
「はい、何か?」
「少し話がある。入るぜ」
鍵を開け、不審そうな女の視線を押し切って部屋の中に入る。
妙に冷めきった心が、ぼんやりとこの状況を俯瞰していた。
「お話、というのは?」
向かい合って椅子に腰かけ、女は、俺の顔色を探る。俺も、表情は動かさないまま、彼女の瞳の奥で揺れる感情を消して見逃さぬよう、じっと見つめ返した。
「先日、西部の生活基盤である魔道具が壊れた。軍部は新たな魔道具の導入を考えている。いや、もうずっと前から故障の兆しはあり、そこそこの期間、軍部は導入を検討していたらしい」
俺の言葉に、女はそっと目を伏せた。
「魔道具は、神に匹敵する力を持つ存在だ。今日、技術部の魔術師から連絡が来たよ。強力な魔道具を製作するためには、特別な材料がいる。大将軍の許可も出た」
その時の女の表情は、安堵と、諦観と、哀しみをぐちゃぐちゃに掻き混ぜたような雑多な何かで、それでも無理やり、笑顔を作ろうとしていた。
震える女の唇が、開く。
「その材料は……、その魔道具を作るために、私は、使われるのですね」
◇◆◇◆◇
元手の無いところから、奇跡など起こせるわけがない。
何の犠牲もなく、ただの被造物が神を上回れるわけがない。
何の理由もなく、軍が戦意の無い神を捕えるために、数多の犠牲を出すわけがない。
現政府の歴史は、神殺しから始まった。
とある無礼な魔術師が、衰え切った一柱の土地神を殺し、その力の核を魔術式に組み込んで、神の如き振る舞いを始めた。
けれども魔術師は所詮神ではない。利用していた神の残滓である核はそう長くは保たなかった。――だから魔術師は、次の神を殺した。
神を殺し、その力を奪って、奪った力が尽きる前に次の神を殺し、更に強大な力を得る。
あまりにも無謀で冒涜的なこれらの企みは、しかし奇跡的に成功してしまった。
強い力を得た魔術師は巧みに他の人間を集め、神との対立構造を煽った。神を殺すことを正当化し、人も神になれると奇跡を騙り、力の源に関する知識を隠蔽した。
今この世界の大多数の人間が、この反吐の出るような歴史を知らずに暮らしているというわけだ。
「こんな私でも、まだ人間の為に役に立てるなら……私はそれでも構わない、そう思うのです。そう……教えてくれてありがとうございます、ジークベルト」
彼女は取り乱すでもなく、ただ淡々と、俺の言葉を受け入れた。彼女は彼女で、きっとこの状況についてのある程度の推測を立てていたに違いない。
一呼吸置いて、俺は椅子から立ち上がる。
今日は別に、彼女の曇った表情を見に来たわけじゃない。大切なのはこれからだ。
「この塔にはあんたの力を封じる為の三重の結界がある。あんたの手にかけられた銀鎖、部屋に彫り込まれた拘束術式、王都を包み込む防護結界。そのうち前者二つは俺の剣で壊してやる。防護結界は壊せはしないが、移動の制約にはならない。できるだけ迅速に王都を出る」
「……え?」
「分からねぇか? あんたを逃がすっつってんだよ」
困惑。理解が追いつかない彼女に、一から十まで言い含める暇もない。
「何故?」
「詳しい話は後でしてやる。今は時間がない。結界を破り次第、王都の裏口から外に出る。裏口に馬を用意してあるから、そこから森へ。そこから先は、あんた次第だ」
反論の暇も与えず、俺は抜き放ちざまに彼女の手にかけられた鎖を斬り払う。それから切っ先を返して、複雑な模様の彫り込まれた壁を一閃。
「ちょっと! わ、私は逃げるつもりなんて」
「別にあんたの意思なんざ聞いてない」
「なっ……」
彼女の手を引き寄せて、そのまま腰を掬って担ぎ上げる。そのまま一息に部屋を飛び出すと、俺は二段飛ばしで塔の階段を駆け下りた。
「何なんですか! 私は最初に言ったはずです、私はもう終わりにしたい、死にたいと。貴方も情に絆されるような人間ではないでしょう!」
「よく分かってんじゃねぇか。もう少しおとなしくしてろ、舌噛むぞ」
「じゃあ何故!」
最後の段に着地して、俺は塔の裏手を駆け抜けた。僅かだが人の気配がある。すぐに異変は気付かれるだろう。
痺れるような緊張感。無意識のうちに、口の端が吊り上がる。
「あんたらのその、全部諦めきった顔が、俺は大っ嫌いだからだよ」
駆ける。暗闇の中松明の光で浮かび上がる裏口に、見張りの影が二つ。
「バルシュミーデ隊長!? 一体何を……」
「ちょ、止まっ……ッ!?」
「悪いな」
腰を落として、みぞおちに拳を一発。振り向きざまに近づいてきたもう一人を蹴り上げる。
裏口を潜って少し離れた場所に、馬が一頭。夕方の間に用意しておいた、よく訓練された軍馬だ。
彼女を先に馬の上へ押し上げ、すぐさまその後ろに飛び乗る。手綱を取ると、馬は冷たい夜の風を切り裂いて走り出した。
「あんたを連れ出した理由は二つある。一つは、あんたがこのまま悟った目で死んでいくのを考えると腹が立つから。二つ目は、自分達の自己満足の為に虚飾の繁栄を保とうとしている奴らに一矢報いてやりてぇから」
俺の行動理由は、酷く簡単だ。俺は馬鹿だから。腹が立ったから、お高く留まった貴族様たちの綿密な計画ってやつをぐちゃぐちゃに引っ掻き回してやりたいのだ。
「あんたの話を聞く限り、神ってのは信仰から生まれる存在だ。逆に、信仰が弱まれば神は生まれなくなる。だが魔道具の動力源は神を殺して奪った力で、これは有限。現在のように兵器利用から天候調節まであらゆる分野に魔道具を使用していた場合、あと百五十年もすれば、人間は全ての神を狩り尽くし、そしてすべての力を失う。その後に残されるのは、荒れ果てた大地と、ただ死滅するのを待つだけの人々。そう予測を立ててなお、軍部は神に成り替わるという夢を手放せずにいる」
一回り小さい彼女の体は、俺の腕の中にすっぽりと納まった。何度も、言葉にならない戸惑いの吐息が零れるのを聞きながら、俺は淡々と語る。
「戦場で、俺は何度か神と戦った。彼らは強く、脆かった。神の欠点はな、意思がないんだよ。望まれた役割しか果たせない。
戦場ってのは意思のぶつかり合いだ。生きてぇやつと生きてぇ奴がお互い刃を向けあって、最後の最後まで『生きる』と決めたやつが生き残る。あんたらにはそれができない。恐ろしい力を持っているにもかかわらず、最後の最後で『人間がそれを望むなら、致し方ない』なんてのたまうんだ」
強いのに弱い。優しすぎて、残酷な神々。
「人間も神も互いに死に絶えるか、争いをやめて元の支配体制に戻るか。神は既に死滅を受け入れているし、人間もやめるつもりはなさそうだ。そうなったら、誰かがこの状況に一石を投じてやるしかないだろ。ここまでが、俺の決断だ」
薄闇の向こう、より深い闇を湛えた森の入り口が近づいてくる。俺は少しずつスピードを緩め、そして森の入り口で、一人馬から降りる。
「ここからは、あんたが選ぶ番だ」
「……私が?」
ぱちり、と彼女は瞬きをする。
「あんたはこのまま馬を走らせて逃げてもいいし、ここで追手が来るのをただ待っていてもいい。ここで待ち続けるなら、あんたは最初に願った通りに死ぬことが出来るだろう。馬を走らせて逃げたとしても、あんたはそのうち追手に捕まるかもしれない」
大きく見開かれた青い瞳に、月の光が深く差し込んで、この時初めて、俺は彼女の瞳が綺麗だと感じた。
「だが、無様に足掻いて、地べたをはいずって、もし、あんたが他の仲間の元に帰り付けたら。あんたはもう一度、平和な世界ってやつを見ることが出来るかもしれない」
確証なんてない。不確定で、一度踏み外せばそこまでの努力など一瞬で無に帰すであろう賭け。
それでもそれに希望を託すことを、俺は生きることだと考える。
生きたいと考えて、その為に無様にも這いずり回るのが、生物の正しい姿だと俺は思う。
俺は腰からミストルティンを外し、彼女の方へと差し出す。
「行くなら持ってけ。人間相手には必要のないもんだ、御守り程度にはなるだろ」
少しだけ、彼女は目を閉じて口を引き結んだ。そしてそれから、柔らかな笑みを浮かべる。
「……私、貴方のことが苦手です。貴方はあまりにも野性的で、不敬で、何を考えているのかさっぱり分かりません」
それでも、彼女は俺の差し出した剣を手に取る。
「それでも、貴方の言うことはとても素敵です。だから私も、もう一度信じてみようと思います。……平和な未来を」
「……あぁ、俺も信じてる。じゃあな、フローラ」
行け、と俺は軽く馬の背を叩いた。小さくいなないた馬は、そのまま彼女を乗せて走り出す。
月光を受けて輝く金の髪が森に埋もれて見えなくなるまで、俺はただじっと、その後姿を眺めていた。
やがて、小さく草を踏み分ける音が響いた。近づいてくる足音を、俺は背中で聞く。
「典型的な恋愛小説なら、そこは共に手を取り合って駆け落ちするところだろうに。……お前は行かないのか?」
「ばぁか、俺がそういう惚れた腫れたで命張る性格に見えるか?」
「思わないから、とても困る」
苦しそうに、掠れる親友の声を聞く。ごめんな、と小さく呟きながら、俺は苦笑した。
「お前なら来ると思ってたよ。……俺がしなけりゃ、お前が逃がしただろ」
「そうだな。夕方、軍馬が一匹足りないと聞いて、同じことを考えている奴がいたんだなと驚いた」
「お互い考えることは似てるからなぁ。だから気が合った。おまえと会えて良かったと思うぜ」
「はは、美女に続いて俺にまでそんなセリフを吐くとは、今日のお前は気持ち悪いぞ」
「本当にな、俺もそう思うよ」
腰に吊るしていた、二本目の剣を引き抜く。何の変哲もない支給品の剣。
少し躊躇った後、カミルも剣を引き抜く。
「最初から、死ぬ気でここに来たんだな、ジーク」
「おう。俺は我が侭なもんでね。最後の幕の引き方まで、自分の意思で決めてやりたかったのさ」
「本当に、最低だよおまえは」
ほぼ同時に地面を蹴る。互いの殺気が肌に突き刺さる。響き渡る金属音が、俺達の心を震わせる。
俺は、神殺しの人殺しだ。殺して殺して殺して、今この地位を手に入れた人でなしだ。
貴族たちに目を付けられ始めた以上、これ以上の出世はあまり期待していない。そもそも権力争いってやつに根本的に向いていない。
遅かれと早かれ、俺は使い捨ての駒のように戦場でのた死ぬだろう。それが因果応報と言うやつだ。長生きできるような生き方を、これまでしてこなかった。
けれど、それなら。どうせ死んじまうってんなら。
お高く留まってるやつらの作戦地図の上でタップダンスを踊って、死にたがり女神のケツをひっぱたいて、散々奴らの顔に泥を塗りつけてからさ。
最後は逆賊として、一番信頼できる奴に手柄をくれてやろうと思ったんだ。
「んだよ、なまっちょろい剣筋しやがって! んな攻撃じゃ枝一本切れねぇぞ!」
「おまえこそ、もう少し技巧を凝らしたらどうだ! 猪突猛進の馬鹿め!」
切って、避けて、切り結ぶ。
剣先を払って、蹴り飛ばされて、泥を投げつけて、また切り結んで。
言葉もなくなって、思考もぶっ飛んで、ただ、感情を叩き付けるようにぶつかり合う。
最後の瞬間まで、心が震えている。
あぁ、満足だ。
衝撃を、胸の正面から受け止めた。刃が肉を引き裂き、肺を破り、背中まで突き抜けるのを感じていた。
「ちゃあんと首、落としてくれよ……。今頃カンカンのクソ野郎どものところまで、頼むぜ」
「友人に、最後に頼むことがそれか……ッ」
本当にお前は毎度毎度、美味しいところだけ攫って行くな、と、吐き捨てるような声を聞く。本当に、悪かったと思うよ。
それでも、いつかお前達が、幸せな世界を作ってくれると、俺は信じてる。
◇◆◇◆◇
「で、それからが大変だったらしいですよ。その軍人、脱走前に他にも山ほど魔道具を壊してて、人間は一気に戦力喪失。それに加えて、怒った神様たちが散々天変地異を起こして、結局それから二十年かそこらで、人間の天下は終わっちゃった。そりゃもう世界の終わりのようだったって、うちのおじいちゃんが言ってました」
新しく神殿に来た世話係の少女は、非常にお喋りだった。艶やかな黒髪とキラキラとした瞳を持つ娘で、くるくると働きながら、とにかくよく喋る。
「うちのおじいちゃんは何だかんだで戦争に反対してたから、戦争が終わった時もなんとか殺されるのを免れて、新しい社会を作るのに尽力してたんですって。あんま詳しいこと私知らなんですけどね、私バカなんで」
「必ずしも知識があればいいというわけではないですから、貴方は貴方の素直さを誇って良いと思いますよ」
「あれっ、今褒めてもらいました?へへー、嬉しいなぁ! フローラ様に褒めてもらっちゃった」
侍女長に自慢しちゃお~!と箒片手に飛び出していった少女の後姿を見送って、私は苦笑する。
あれからの出来事は、楽な道ではなかった。何度も自分の選択を疑い、早々にあの男が舞台を去ってしまったと聞いて、何度も恨んだ。
災厄の嵐のような男を、今でも好きにはなれない。あまりにも自分勝手で、周りの人間の気持ちなど微塵も考えない男だったから。
それでも。
柔らかな日差しの差し込む神殿と、緑の生い茂る庭と、そこを訪れてくれる巡礼者達。それをもう一度得ることが出来たことに、私は喜びを感じる。
自分の意思で、より良い未来をつかみ取ること。それが生きようとするということ。
それを教えて、私に未来をくれたのは、あの男だ。
「フローラ様ー! 焼きたてのパイの差し入れが届きましたー! ねね、三時のおやつ、これみんなで食べましょう?」
神に敗北した人間との間に、わだかまりがないわけでもない。けれど、きっとそれは時が解決してくれるだろう。
人と手を取り合える世界にしようと決めたのだから、きっと、そんな未来が作れる。
幸せを願う者達の意思の奇跡を、私は信じている。
こちらの作品はとある学祭にて無料配布した小説になります。
コラボ作品であり、製作には同サークルに所属していた絵師二人にも設定段階から協力していただきました。