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 洗い立てのタオルの類が入った洗濯籠を抱えてよたよたと歩く。積み重なった洗濯物のせいで前がよく見えない。少しふらつきながら、それでもすみれはなんとか洗濯室から出て地下廊下を歩いていた。洗濯室と同じく城の地下にはリネン室のようなところがあり、洗い終えたタオルはそこで畳んで置いておく決まりだ。各所から集められた洗濯物を洗濯室に運ぶのも、それをリネン室に持っていって畳むのもすみれの仕事だった。洗濯自体は洗濯機じみた魔具がやってくれるが、何往復もして山のような量のタオルを運び、それを数人で畳むのは結構な重労働だ。

 本当はこういうことは、侍女の仕事ではなかったらしい。すみれが任される雑務はどれも女中という侍女とはまた違う使用人の仕事で、そういえば同じ仕事をしているメイド服の人はいなかったと今さらながらに思い返す。仕事仲間が侍女だろうが女中だろうが、彼女達の仕事の大半がすみれに押しつけられることに変わりはないだろうが。


「あっ……!」


 不意に何かにつまづいた。世界が傾き、床に倒れ込む。幸い洗濯物がクッションになってくれたため怪我はしなかったが、籠からぶちまけられた洗い立てのタオルは薄汚れた地下の床のせいでほこりまみれになった。これではとても洗濯済みだとは言えない。洗い直しだ。


「あらあら、ちゃんと前を見て歩かないと危ないじゃない。せっかく洗濯したのに台無しよ」

「仕事を増やさないでよね。聖女様の侍女だか何だか知らないけど、ほんと使えないったら」


 上から降ってきた嗤い声は、すみれにこの仕事を押しつけた女中達のものだった。本当は彼女も洗濯物の運搬をするべきで、そうしたほうが絶対に早くリネン室にすべての洗濯物を運び込めて畳む作業に入れるのに、彼女達は何もしない。いや、彼女達二人だけではない。他の洗濯女中もリネン室でおしゃべりに興じるか、洗濯室とリネン室の周辺を歩き回るだけで何もしてくれなかった。


「……じゃあ、これが貴方達の仕事なんですか。好き勝手に喋って、わたしの邪魔だけして。人が転ぶところを見て楽しいですか?」


 廊下にはつまづくような障害物など何もない。洗濯籠から垂れたタオルを踏んだわけでもなかった。引っかかったのは、世界が傾く前に見たのは、女の足だ。顔がかぁっと熱くなる。握りしめた拳は、けれど力を強く込める以上の行動には移せない。


(そういえば、いじめられたことはあんまりなかったな)


 小学生や中学生のときは、軽いものもあったけれど。流行に乗れず、会話に加われず、“普通”とは言い難い家庭環境に、使い古され手入れもできずにみっともない格好と、所帯じみて疲れた雰囲気。格好のターゲットだ。伯父夫婦の強い要望で進学した自称進学校(こうこう)では学区が違う人達ばかりだったせいか、あるいは校内の気風か、それとも従姉の恥にならないよう身だしなみに気を使うことを許されたおかげか、空気に埋没して陰の中でひっそり生きるすみれを気にする者はいなくなったが。せいぜい、影でこっそり笑われる程度か。ここまで直接的に敵意を向けられることも中々なかった。


「はぁ?」

「ちょっと、あんたが勝手に転んだんでしょ? あたし達のせいにするんじゃないわよ」

「……」


 睨みつけながら立ち上がる。もともと目つきは悪いほうだ。虚勢でしかなくても、多少のすごみが出るのは知っている。女中達は少しひるんだようだったが、すぐにふんと鼻を鳴らして開き直るように踵を返した。

 わざとすみれを転ばせて、無様に倒れたすみれを嗤って、彼女達は何がしたいのだろう。どうしようもなく悔しくて、自分が情けなくて。汚れたタオルを拾い直す。押しかけの見習いメイドなのだから、雑用から始めるのは当然だ。そう何度も自分に言い聞かせる。流れるのは汗か涙かよくわからなかった。


*


「スミレ様も少しはこちらでの暮らしに慣れたかしら? ああいえ、訊くまでもないことでしたわね。王子殿下にさえも知ったような口をきくんですもの、さぞ皆様とも親しくなられたことでしょう。その面の皮の厚さはどちらで培われたのです?」

「そういえば昨日、女中達が泣いていましたわ。スミレ様に睨まれておどされた、と。聖女様のご威光に隠れて大きな顔をするのも大概にしてくださらないかしら。宮廷の空気が乱れてしまいます」

「身の振り方には気をつけたほうがよくってよ。貴方なんてしょせん、聖女様がいなければ何もできないんですもの。聖女様の後ろ盾があるからっていい気にならないでちょうだい!」


 王宮の端のほう、あまり人通りもなく薄暗い廊下の片隅で、箒を手にしたすみれを囲むのは三人の侍女だ。

 人がめったに来ないせいか、城内のいたるところに飾られている絵画や花の類はここにはなかった。あるにはあるが、国王夫妻の大きな肖像画やら薔薇の花やらそういった立派なものは何もないのだ。せいぜい、こじんまりした風景画や、楚々とした小ぶりの花が飾られている程度だった。わざわざ文句を言うためにこんな寂れたところまで来たわけではないだろうが、そうだとしたら侍女の本当の仕事とやらはさぞ気楽なものなのだろう。


「……どいてくれませんか。そこに立たれると、掃除ができないので」


 うんざりしながらため息をつく。連日続く嫌がらせも、ここまでくると慣れてしまった。禊の旅まであと二日だ。旅に出てしまえば、きっともうこの城に帰ってくることはない。あとはなんやかんやと理由をつけて離脱して、田舎の町かどこかでひっそりと暮らしてしまえばいい。

 すみれがこの世界に来てからだいぶ日が経つ。今さら日本に戻ったところで行方不明の説明などできるわけがない。だったら本当の新天地で、これまでの自分のことも聖女様のご友人様のことも知らない人達とともに人生をやり直したほうがいいに決まっていた。

 幸い、これまでの生活でこの世界における多少の常識は身についた。街にもよく出かけるようにしたので、認識が乖離しているわけではないだろう。どういう原理か、言葉についても最初から理解できているので心配はない。問題は仕事だが、どうやら一般庶民は読み書きと計算さえできれば大抵の場所で雇ってもらえるらしかった。どこかの商会の事務員なら、日本にいたときに漠然と考えていた就職先とそこまで違いはない。王都のならわしと田舎のならわしは違うかもしれないが、きっとなんとかなるだろう。少なくとも、ここでの暮らしよりはましなはずだ――――だから大丈夫、気にすることなんてない。


「まあ! せっかくわたくし達が忠告しているというのに、聞く耳も持ってくれないだなんて!」

「わたくし達の言葉など、スミレ様には必要ありませんでしたのね。だってスミレ様には聖女様がいらっしゃるんですもの」

「どうしてこうも理解してくださらないのかしら。本当に言葉は通じてらっしゃるの? 貴方のそういった振る舞いが、みなを不快にさせているのよ?」


 侍女達は目を三角にして鼻息荒く詰め寄ってくる。たちまち壁際に追い詰められた。忠告という名の言いがかりは続く。三人がかりの言葉の雨はすみれに反論の余地も与えない――――けれどこちらにむかって降り注ぐそれも、反対側からなら遮れる。


「そこで何をしているのです?」


 ただ一言、低い男の声がかしましい女達を貫く。それだけで静寂が下りた。一瞬の沈黙のうち、侍女達は振り返って声の主を認識する。彼女達の頭越しに、すみれも彼の姿を捉えた。右肩に垂れる長い髪の深い緋色、感情を読み取らせない仮面の白、すべてを塗りつぶすような祭服の黒。三つの色彩しか持たないその青年は、陽の光もろくに届かない廊下の先でぼんやり浮かび上がるようにして佇んでいた。


「ひっ……! ど、どうして城内に仮面修道会の……!?」

「い、行きましょう! こんなところで会ったら、何をされるかわからないわ……!」

「待ってくださいまし! 置いていかないで!」


 侍女達は蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。彼女達には目もくれず、カーディナル・フォウはまっすぐすみれのもとにやってきた。


「くだらない。何やら騒がしかったので来てみたのですが……逃げるということは、ろくな理由ではなかったのでしょうね。侍女殿、大丈夫でしたか?」

「は……はい、ありがとうございます」

「まったく、城内の風紀はどうなっているのやら。これで宮廷とは笑わせる。……私も実際に王城に足を運ぶのは初めてですが、ここまで程度が低いとは思いませんでした」


 最初に抱いたのは安堵だった。わたしなんかを庇ったらカーディナルさんも色々言われるんだろうなとか、隠れる先が聖女の影から男の背中になったと揶揄されるんだろうなとか、次の瞬間には別のことがぐるぐる渦巻きはじめる。けれど喜びのほうがそれらを飲み込むほどに大きくて。思わず頬が緩む。たとえ通りすがりでも、助けてくれる人がいる。守ってくれる人がいる。そう考えるだけで胸の奥がじわりと温かくなった。


「……カーディナルさん? どうかしました?」

「い……いえ、なんでもありません。では、私は……」


 カーディナルはそこで言い澱んだ。すみれの手にある箒と、腰にくくりつけられたはたきに彼の視線が向かったような気がした刹那、箒があっさり手を離れる。箒はいつの間にか彼の手に収まっていた。


「手伝いぐらいはいたしましょう。先のご婦人がたがすぐに戻ってこないとも限りません。私がいれば、多少の牽制にはなるでしょう。掃除の心得はございますから、ご安心を」

「え、でも、」

「どうせ私も、この城においては歓迎されない者ですから。その私が貴方の仕事を奪ったところで誰も何も言いませんよ。掃除が終わったら、少し休憩しませんか?」

「じゃあ……お願いします。助かりました」 


 一人では終わらない仕事も、二人でやれば半分の時間で終わらせることができる。カーディナルの助けがあったほうが効率的だ。きっと彼はそう思って提案してくれたのだろう。深い意味はないはずだ。

 仮にここにいるのがすみれでなくても、きっと彼は同じ提案をした。だから思い上がるな、勘違いするな、わたしが特別なわけじゃない。そう自分に言い聞かせつつ、おとなしくカーディナルの厚意に甘える――――たとえ誰に対しても同じ対応をするとしても、今ここにいるのが自分でよかった。ほんの一瞬そう思うだけなら、きっと許してもらえるだろう。


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