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* * * * * * * * * *


 ――――それは、すみれにとっては福音だった。


 両親は小学生のときに事故で失った。すみれを引き取ったのは意地悪な伯父夫婦で、優秀な従姉と常に比べられながら育てられた。

 家事は大体すみれに押しつけられて、同年代の子のように自由に遊ぶ時間も好きに使えるお金も与えられなくて。伯父一家が出かけるときは、いつもすみれだけ留守番だ。あらゆるものが常に誰かのおさがりだった。幼稚園のときから大好きで続けていたピアノに触れるのも、音楽の授業か放課後の部活の間だけになった。

 進路は伯父夫婦の意向通りにした。将来の夢なんて考える余裕はなく、伯父夫婦に従う以外の選択肢も二人に叛く勇気もなかった。

 きっと一生この家から出ることなく、伯父一家の召使として生を終えるのだろう。漠然とそう思っていた。逃げられないのだから、隷属して生きるしかないのだと。

 高校に入学してからは部活動が校則によって強制されるものではなくなってしまって、それでも何とか音楽部に入部した。けれどほとんど独学のすみれとしっかりレッスンを受けている周りの子との実力は開いていくばかりで。楽しくて弾いていたはずのピアノも、自分の限界に気づいて絶望してからは少し距離を置くようになった。

 両親も伯父夫婦も、決して貧しくはなかった。けれど伯父夫婦にとってすみれは厄介な居候だし、そもそも伯父夫婦と両親の仲は間違っても良好なそれではない。そんな伯父夫婦が、両親を失う前と変わらない生活をすみれに与える義理はなかった。自分達と同じだけの生活水準をすみれにも保障してやる義務だってなかった。

 隅に置いておいてもらえるだけありがたいと思うべきだろう。上を見ればきりがない。自分はまだ幸せなほうなのだと、言い聞かせなければやっていけなかった。

 すみれの居場所はどこにもなくて、すみれを愛してくれる人は誰もいなくて、自分から周囲に歩み寄る勇気もなくて。だから、璃々と一緒に突然見知らぬ世界に飛ばされたのは、意図しない形で伯父一家から逃げおおせたのは、これまでの最悪な人生をやり直すチャンスだと思えたのだ――――現実は、そこまで甘くはなかったけれど。


* * *


「マジありえないんだけどっ! これからゆーま君とデートだったのにさ、ほんとどうしてくれるわけ!?」

「藤宮さん、落ち着いて。……騒いだら、何されるかわからないよ」


 不満をあらわにする璃々を小声で諫める。璃々はまだ興奮した様子でぶつぶつ文句を言っていたが、もたらされる不利益を考えてすみれの忠告を受け入れるだけの冷静さは残っていたようだ。先を行く身分の高そうな女達の後をちゃんとついていってくれている。少しほっとしながら、すみれも遅れないように歩みを早めた。

 教室でまばゆい光に包まれて、璃々と目があった後、気づいたときには二人とも見慣れない石造りの部屋にいた。周囲には白いゆったりとした祭服のようなものを着ている老人達がいて、現代人の衣服とは似ても似つかない……どちらかと言えば世界史の教科書に載っていた肖像画の貴族が着るような服を着ている大人達がいて、誰も彼もが日本人には見えなくて。突然のことにパニックになったすみれ達の言葉は誰の耳にも届かない。

 「聖女」「娘が二人」「どちらが本物」……馴染みのない服に身を包んだ見慣れない大人達は口々にそう言っていた。どう見ても日本人には見えない人が、日本語をペラペラ喋る。けれど口の動きは合っていない。まるで吹き替えの洋画のような、二人の頭上で行われた討論はそう長くはなかった。白の祭服の中でも一番身分の高そうな老人が鎮めたのだ。その間、璃々をなだめようとしたのは形だけでも平静を保とうとしていたすみれだけだった。

 「わからないなら確かめればいい」……そう言われ、こちらとしては何もわからないまま部屋どころか建物の外に連れ出され、馬車に乗せられた。聞こえる言葉の端々から推察するに、すみれ達はなんらかの目的があって教室からここに飛ばされたようだ。けれど彼らに求められているのは一人だけで、どちらかが手違いで巻き込まれてしまったらしい。

 瞬間移動なんて技術を持った、見知らぬ大人達。警戒心以外の感情など抱けない。外の景色も日本のそれとは思えなかった。召喚だか天啓だか知らないが、突然拉致してきた未知の力を持つ相手に何をされるかわからない以上、従う以外の選択肢を選ぶ気はすみれにはない。


「お二人とも、お召し物を脱いでいただけますか?」

「はぁ!?」

「……ッ!?」


 通された部屋には女性しかいない。けれどそんな命令を即座に受け入れられなくて、すみれは小さく息を飲んだ。

 当然だが、それは璃々も同じだったらしい。すみれにはない苛烈さで、彼女はそう言ってきた女に食って掛かる。女達は怯え、それでも命令を取り下げようとはしなかった。


「わ……わかりました、脱ぎますから……! 藤宮さん、お願いだから従って……」

「……超サイアクなんですけど」


 必死に璃々を押し止める。これから何をされるかわからない恐怖より、歯向かったときの報復に対する恐怖が勝った。

 すみれの恐怖を理解してくれたのか、璃々も渋々と言った様子でブレザーを脱ぐ。割り切ったが故の潔さか、璃々はそのまま制服をぽいぽいと投げ捨てた。


「ほら、これで満足!?」

「……」


 怒りからか一周回って堂々として惜しげもなく裸体をさらけ出した璃々と、貧相な身体を抱えて羞恥に震えながらうつむくすみれ。女達は二人の周りをぐるりと回って、璃々の太ももの外側にあった痣に目を留めた。

 「聖痕よ」「この方が聖女様」「よかった、確かに降臨はなさっていたのね」……どうやらそれこそが彼女達の求めるもので、それさえ見つけてしまえばもういいらしい。すぐに着衣の許可が出た。


「この痣が何? セージョとかセーコンとか知らねーし!」


 まさか刺青かと思うほど鮮やかでくっきりした、蝶の形の黒い痣。どれだけ短いスカートを履いていても隠れるような位置にあるそれはすぐに制服のスカートに覆われる。噛みつく璃々に、女は言った。それは女神の使者、異界から舞い降りし聖女の証なのだと。

 信じられないがここは異世界で、最初に降り立ったのはラムグルナという国の王都にある教会で、今いるのは王宮で、彼女達が求めていたのは璃々だった。では、すみれは何故招かれたのか。何故璃々と一緒にここに来てしまったのか。何故、召喚に巻き込まれたのか。けれどそれに答えてくれる人はいない。女達はその理由を説明するどころか、彼女達にとってもすみれの存在は予想外のようだった。「で、この方はいつ帰るのかしら」……そう言いたげな眼差しが痛く、ぎゅっと拳を握って俯いた。


「聖女様、聖女様のご友人様、どうぞこちらに」


 璃々が聖女だというのなら、彼女にひっついてきたすみれにも何か肩書きが必要になる。そう思われてのことだろう、女は苦し紛れにすみれのことをそう呼んだ。

 違います、藤宮さんは友達じゃないんです。わたし達はただのクラスメイトで、わたしなんかと友達扱いされたら藤宮さんが困ります。いたたまれなさのあまり呟いた声はとても小さくて、もう誰の耳にも届かない。

 今度は女王に会ってもらうのだと、また別の部屋に連れて行かれながら、女はこれから璃々がなすべきことを流ちょうに告げる。いわく、璃々は女神の使者(せいじょ)として三つの国を回ってほしい。いわく、その旅には少数ではあるけれどこの国でも指折りの実力者が同行する。いわく、旅の終わりにその三ヵ国の平和と繁栄が約束される――――いわく、旅が終われば異界への道が再び開かれる。

 璃々にとって大事なのは最後に言われたことだけらしかった。女は「ご帰還なさるかこの世界にとどまるかは聖女様の御心のままに」なんて続けて、どちらかと言えば璃々が帰らないことを期待しているようではあったが、璃々はそれに気づかないふりをしている。すみれに至っては、そんな声かけすらされなかった。


「……すみれちゃんの言うこと、合ってると思うよ。あたしだって怖い。こいつらに従わなきゃっていうのもわかってる。何されるかわかんないもんね」


 女達に聞こえないよう、璃々は小さな声ですみれに話しかけてくる。その目はまっすぐ前を見つめていた。


「でもあたし、嫌なことは嫌って言うから。すみれちゃんに迷惑はかけないようにするけどさ」

「藤宮さん……」

「璃々でいいよ。あたしらクラスメイトだし、そんなかしこまらなくていいじゃん。……絶対、二人で元の世界に帰ろうね」


 力強く言って璃々は笑った。それは彼女の願いであり、同時にすみれを励ます言葉だったのだろう。けれどすみれは、心から同意できなかった。


*


 聖女様のご友人様という立場はあの場限りのものではなく、本当にそうなったようだ。いちいちそう呼びかけられて笑ってしまう。けれど異世界人にとって大切なのは璃々だけだ。すみれはあくまでもおまけに過ぎない。待遇の差は初日から明らかで、腫れ物に触るようなその対応が無性に気に障った。

 従姉がいたから、他人と比べられるのは慣れている。けれど何故、異なる世界に来てまでその呪縛から逃れられないのだろう。それはきっと己の弱さのせいで、それでも自分ではどうにもできないことだった。

 口では丁重にもてなそうとしているが、目には侮蔑が浮かべられている。璃々のことは心から重んじているようだが、その傾向が強い者ほどすみれのことをまるで璃々の威を借りる卑怯者のように見てきた。ただの小娘の分際で聖女にあやかろうとは図々しい、と。

 すみれだって、望んで璃々とともに来たわけではない。しかしそう言っても、「璃々達を召喚したのはこの世界の人間ではなく女神なのだから、自分達に言われても知らない」と返されるだけで通用しなかった。この世界の人間にとって、すみれはあくまでも女神の御業を悪用したずるがしこい娘らしい。聖女の座を乗っ取り、その名を騙ろうとした悪女だなどとまで囁かれているのだから最悪だ。

 璃々はすみれへの扱いの差について周囲をたしなめてくれていたが、それなら彼女の見ていないところで差別されるだけだ。むしろ「聖女様のご同情を買うとは」「聖女様に泣きつくなんて、偽物の分際でふてぶてしいにもほどがある」なんてまた見当違いの理由で責められる。だったらいっそ上辺だけのもてなしなどいらないと、すみれは璃々の侍女役をすることにした。働いているとすみれへの風当たりが弱まるからだ。それは誤差程度に過ぎなかったが、招かれてもいない穀潰しから押しかけ使用人になったことですみれの気持ちは少し楽になった。璃々は少し複雑そうにしていたが。


「あー……旅とかだっる……。王子様とかいるし、マグ? とかいうやつでいい感じにラクにならないかなー……。野宿とか絶対無理だし」

 

 この国に来てから一週間、ようやく決まったという旅の同行者との顔合わせを済ませたあと、与えられていた客室のベッドにうつぶせに飛び込むが早いか璃々は投げやりにぼやいた。

 幸いこの世界は一見すると近世ヨーロッパのようではあったが、生活レベルは現代日本とそう変わらなかった。便利さや発展度合いでは地球のほうが明らかに上だと思うが、科学の代わりに魔法が発達していて、電気ではなく魔力であらゆるものが動いている。魔具とかいう不思議な道具もあった。魔力以外で主流の動力となっているのは蒸気のようだ。

 日本で使っていた道具そのものはなくても、代用品なら手に入る。これまで璃々は使用人達に色々なものを要求していたが、そのどれもがたちまち用意された。すみれが求めると却下されたが、そういうときは大抵璃々が後で追加として頼んでくれてすみれに分けてくれた。すみれが使っていると知られると使用人達からぐちぐち嫌味を言われるため、なるべく璃々にも頼まないようになったが。


「旅行は好きだけどさぁ、新幹線とかなさそうじゃんね? ずっと馬車で移動するとかマジしんどそうなんだけど」

「馬車の移動も、最初は楽しいかもしれないけど……だんだん飽きてきそうだよね。でも、さすがに……り、璃々ちゃんにきついことはさせてこないと思うよ」


 話を合わせつつ曖昧に微笑む。この国の人間は、璃々に対しては本当に丁寧だ。心から璃々を敬い、傅いている。聖女(りり)に対してだけは、だが。

 日本から遠ざかってもすみれの居場所はなかった。聖痕を確認される前、一瞬、ほんの一瞬、拉致された状況下にあるにもかかわらず「この人達の言う“聖女”は、もしかしたら自分のことかもしれない」なんて場違いな期待を抱いたことは否定しない。それはすぐに先行きの見えない恐怖に掻き消されたが、それだけすみれは誰かに必要とされたかったのだ。実際は、異世界(ラムグルナ)においてもすみれなんて厄介者に過ぎなかったけれど。


「だといいんだけどさー。でも、あたしら以外全員男とかありえなくない? 女王様も何考えてるのって感じ。そりゃ、普通に話すのは別にいいよ? だけどこれから四六時中一緒にいるわけじゃん。あたしらもお年頃ですしぃ? 色々気まずいっつーの。あっちもあっちで気ぃ使うでしょ」

「男手が必要なんじゃない? ケガレとかいうのと戦ったりするわけだしさ」

「あーそっか、それじゃ確かに女の子だけだとしんどいかもね」


 クロードとカミーユは二十歳前後で、年下なのは十五歳のアンリだけだ。カーディナルに至っては仮面のせいで年齢もよくわからないが、年上には違いないだろう。女子高生とともに旅する仲間として適切と言えるのか怪しいメンバーだが、異世界なら大丈夫なのだろうか。見た目がいいから許されるというのも、限度はありそうな気もするが。

 そんなことを話していると、不意に一人の侍女がやってきた。王子の使いらしく、彼が聖女との晩餐を望んでいるらしい。璃々が王子の晩餐に招かれるのはいつものことだ。すみれ達が王城で暮らしてから一週間のうちに、城にいる大抵の有力者は璃々との顔合わせを望んでいた。クロードもアンリもカミーユも、すでに璃々と……それから一応すみれとも会っている。本当の意味で初対面なのは、仮面をつけた怪しげな聖職者、カーディナル・フォウだけだ。

 時計を見るともう二十時だった。使用人の夕食の時間は十八時だ。決められた時間帯に使用人の食堂に行けば食事できるのだが、ちょうどそこに被せてくるように他の侍女達にあれこれ用事を言いつけられたせいで間に合わなかった。そもそも時間通りに行ったところで、同じ料理は提供されないのだが。

 ここ数日はずっとそうなので、多分嫌がらせの一環なのだろう。大体周囲の目を盗んでつまみ食いをするのだが、今日にいたっては女王との謁見やら顔合わせやらがあったため朝から何も食べられなかった。自覚すると急にお腹が空いてきたが、食べるものがないのだから我慢するしかない。


「もうそんな時間? わかった、今行くね」

「あ、行く前に着替えたほうがいいんじゃないかな……」


 璃々が今着ているドレスは、装飾の控えめなものだ。のんびりくつろげるよう柔らかめの生地で仕立てられたそれはあくまでも部屋着でしかないらしく、他の侍女にやんわりたしなめられていたことがあった。その格好で外に出るな、人に会おうとするな、着替えてからにしてくれ、と。今日も構わずその格好で行こうとしたあたり、璃々本人はまったく気にしていないのだろうが。

 しかし、聖女様のものとしてもらった数々のドレスのほとんどを、璃々は「動きにくいから」の一言で着用を拒んでいた。可愛らしい彼女なら何を着てもさまになるが、レースやフリルがふんだんにあしらわれた淡い色合いのそれらはあまり彼女の趣味ではなかったらしい。どちらかと言えば少し露出が多い、大人っぽくて色っぽいもののほうが気に入ったようだった。

 一方のすみれは似合いもしないメイド服を着ている。聖女の侍女になるなら、と城から支給されたものだ。可愛らしさを追及したものではなく、本場のメイドのような意匠―実際この城に勤める本物のメイドが着ているものだ―なのが救いだが、気休めにしかならなかった。身だしなみの確認のために鏡の前に立つたびに憂鬱になる。


「はいはい。じゃ、支度するから待っててって言っといて。すみれちゃんも行こ!」

「わたしはいいよ。まだ仕事があるし、呼ばれたのは璃々ちゃんだけだから」

「えー?」


 璃々は不服そうに唇を尖らせる。だが、迎えの侍女もそれを当然とみなしているのを感じたのか、それ以上は何も言わなかった。

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