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「おや、侍女殿ではありませんか。どうかなさいましたか?」
出発まではここで過ごすよう命じられた王宮の客室。聖女達と顔合わせを済ませ、修道院から必要なものを持ち込み、やっと一息つきつつも旅に備えて荷造りでもしようと思った夜遅く、カーディナルにあてがわれたそこにやってきたのは、例の黒髪黒目の薄幸そうな少女だった。
聖女その人ではなく、聖女のおまけとして扱われることになったご友人。招かれざる客人を冷たく見下ろす仮面の青年にスミレは委縮したようだったが、それでも気丈に顔を上げてカーディナルを見据えた。眼鏡越しの瞳と目が合う。一概に黒目と言ってもよく見ると漆黒なわけではなく、こげ茶に近い黒のようだった。
「あの、藤宮さんが来てほしい、って。今、お時間大丈夫ですか?」
「聖女殿のお誘いを断るのは大変心苦しいのですが、あいにく今は手が離せないのです」
嘘は言っていない。忙しいことには忙しい。禊の旅に備えて持っていく薬の調合や整理、そして身代人形の作成をしなければいけないし、無限収納の中身の確認も終わっていない。足りないものがあれば明日以降買いに行かなければいけないから、なるべく早めに済ませなければいけないのだ。今は休憩として夜食をつまんでいるが。
「そう、ですか……」
休憩の邪魔はさせない。ふわりと香るレモンティーと甘いクッキー、それから香ばしいトーストサンドイッチの匂いはスミレも気づいただろう。それでもカーディナルが譲らないと察したのか、スミレは表情を曇らせながらも引き下がった。
「ごめんなさい。失礼しまーー」
「……ッ!」
ふらり、細い身体が傾ぐ。崩れ落ちそうになる彼女をとっさに受け止めていた。白い帽子から垂れる長い黒髪が顔にかかり、髪越しの黒い瞳と視線が交わったその瞬間。くぅ、と微かな音が聞こえる。音の主であるスミレは頬を真っ赤に染めて、飛び退くようにカーディナルの腕から離れた。
「あ、いやちが、ごめんなさい、これは、その……!」
「何も召し上がっていないのですか?」
言葉にならない声を上げ続けるスミレを押し止めて問う。スミレは蚊の鳴くような声で「忙しかったので……」とだけ言って俯いた。その様子を見て、カーディナルは小さくため息をつく。
「いいでしょう。こんな夜遅くに女性を部屋に招くなど気は引けますが、仕方ありません。さあ、入ってください。簡単なものしかありませんが、何も食べないよりはましです」
「え、でも、」
「渡すだけ渡したところで、後で食べる時間がなければ意味がありません。もし私を呼びに来るのが今日の貴方の最後の仕事でも、王宮の侍女は二人部屋だと聞いております。聖女の侍女の待遇も、彼女達とそう変わらないものだったはず。他人の前で一人だけ何かを食べるのはあまり歓迎されないでしょう」
スミレに渡した軽食を同室の侍女とわけあうことになったら、彼女の空腹は満たされない。さすがにそれを見越して二人分の軽食を渡しても、杞憂になるなら無駄になる。そもそも侍女には侍女の食事の時間と献立があるはずだが、だからこそ異なるものを食べているのを人に見られるのは好ましくないだろう。
「かといって、城内で歩き食べなどさせられません。それならここで食べていったほうが確実です。聖女殿には、私の説得に時間がかかったとでも言えばいいでしょう。あるいは説得するほどに切迫した用件でないなら、道に迷ったことにでもしてください」
反論の隙を与えず畳みかけるように言い募ると、スミレも葛藤に折り合いがついたようだった。気まずげな様子ではあるものの、素直に部屋に入ってきた。
豪奢なだけで生活感のない、借り物の部屋には異性に見られて困るものなど何もない。最初は落ち着かなさげに周囲を見ていたスミレだが、すぐに警戒心の類はなくしたようだ。
「紅茶の類とハーブティー……それからコーヒーがありますが、どれになさいますか?」
「じゃ、じゃあ、コーヒーでお願いします」
夜食の載った丸テーブルにはもともと椅子が一つしかない。それにスミレを座らせ、テーブルの上の箱型無限収納から新しいティーセットとコーヒーを淹れるための道具、それから自分用の椅子を取り出す。さすがに私物の椅子では客室に備えつけられたものと比べれば当然質は劣るが、座り心地では慣れ親しんだこちらのほうが格段に上だ。
「なにその箱!?」
「何か? ああ、これが珍しいのですか」
おそらく素の口調が出たのだろう、スミレは目を丸くしながら無限収納を見ている。無限収納に限らず、単純な日用品の枠を超えた魔具はとても高価なものだ。馴染みがなくても無理はない。
無限と名はつくものの、原理で言えば収納したい物をとても小さくして籠に入るようにしているだけだ。中に入れれば勝手に収納物の目録に加えられるので、取り出すときも迷わずに済むという機能付きではあるが。その利便性から、カーディナルは日常雑貨を入れるものと、薬の類を入れるものが二つずつ、そして食料品を入れるものを二つ持っている。いずれもそこまで大きなものではないものの、普段使ううえではまったく問題はなかった。
彼女の分のコーヒーを淹れながら「なんでも入る便利な籠ですよ」と適当に答えたが、それだけで彼女の中では理解できたらしい。いや、深く考えるのをやめただけなのかもしれないが。
「シュガーポットとミルクピッチャーはそこにあります。テーブルの上のものはどうぞご自由に召し上がってください。足りなければまた出しますから」
箱型の隣に置いた籠型無限収納には、常温保存用の食料品が入っている。一応そこからクッキーやパンを取り出して皿の空いているところに並べた。いずれも同期のビショップ・ナインに教えてもらったパン屋で買ってきたものだ。修道院での生活は自給自足が基本で、しかし嗜好品の類いを求めて外に買い物に行く場合もある。食にうるさい彼が行きつけにするだけのことはあり、パンも焼き菓子も絶品の店だった。カーディナル自身はそこまで食にこだわりがあるわけではないが、どうせ食べるのならおいしいほうがいいに決まっている。友人達から寄せられる情報、あるいは手土産は重宝していた。
仮面修道会の若い聖職者達の間でひそかに流行っている絶品パン屋の品々は、スミレの口にも合ったらしい。薄く切った鶏肉の香草焼きが挟まったトーストサンドイッチを、スミレは嬉々として頬張っている。カーディナルが淹れたコーヒーもまずくはなかったようだ。スミレは熱い真っ黒なそれをそのまま飲んでいる。好んで招いたわけではないし、彼女のために用意したつもりもないが、悪い気はしなかった。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
特に会話らしい会話はなく、食事自体も簡単なものだったため、夜食は十分ほどで済んだ。スミレは満足げな表情で立ち上がり、メイド服をぱたぱたと払う。安心しきったその笑顔を見ると、不思議と心が和らいで……けれど同時に、何故だか息苦しくなった。
「それはよかった。……今度からは、忙しくても食事を抜くことはしないようにしてくださいね。どんな作業であれ、効率が落ちてしまいますから。それと、たとえ主人の命令……失礼、ご友人の頼みであれ、夜分に一人で男の部屋に訪ねてくるような真似は慎んだほうがよろしいかと」
「は、はい。ごめんなさい」
「……私に謝ることではありませんよ」
一般論に基づく忠告を受け、スミレは素直に頷いた。
「おや? 侍女殿、ずいぶんと手が荒れているようですね」
「あっ……これは、その……」
ふと目についた手荒れを指摘すると、スミレは気まずげに顔を赤らめた。はて、侍女とは水仕事も業務のうちだっただろうか。疑問だったが、下手に聞き出すのも野暮かと思ってそれ以上は問いたださなかった。
薬が入っている無限収納を取り出し、中に入っていた軟膏を渡す。カーディナルが自分で調合したものだ。専門外ではあるのだが、修道会のマザーやシスターに乞われて美容にかかわるものを作ることもままあった。
「必要ならばお使いください。何もしないよりはましになるかと」
「あ……ありがとうございます!」
そのまま彼女は就寝の挨拶の言葉を告げて去っていく。聖職者を名乗っているとはいえ、四番目の枢機卿が所属しているのは異端も異端の仮面修道会だ。女神の名をかさに着た、名ばかりの聖職者だらけの汚らわしい集団。それが人々の抱く仮面修道会への印象であり、仮面修道会という組織の実態に対しては当たらずとも遠からずの評価でもある。
ラムグルナ独自の宗教団体である仮面修道会は、女神の宮殿はおろか各国の大教会からも認められていない。それゆえ仮面修道会は信仰を騙る者扱いだった。他の清廉潔白な聖職者とは程遠い、何か罪を犯すかもしれない、無条件で信じるに値しない。だから、年頃の娘が夜に一人で会いに来るなどもってのほか。それが仮面修道会に属する者が抱かれる偏見だ。カーディナルは、自分達への評判を客観的にとらえている。たとえひどい誹謗中傷であれ、わざわざ訂正するだけの気概はなかった。仮面修道会に属する者達の来歴を考えれば、外の人々の警戒は当然のものだからだ。誰もがそんな差別を嫌い、仮面修道会に逃げ込んだだけなのだけれど。
(そんな仮面修道会で生まれ育った私が聖女の旅に同行できるというのは、この身に余る栄誉なのでしょうが……ね)
女神への信仰は、三つの王国の根底をなす考えだ。誰もが女神を信じ、聖女に跪く。禊の旅の同行者に選ばれれば、それだけで信心深い人々は一生の幸運を使い果たしたと涙を流して喜ぶだろう。それでもカーディナルは、それが尊いことだとは思わなかった。
カーディナル・フォウが仮面修道会の聖職者になったのは、仮面修道会の修道院で生まれ育ったからだ。“個”を消し、“全”となるための白い仮面。名前を与えられるより早く、この仮面を生涯つけ続けるように定められた。そこにカーディナルの意思はない。女神への信仰心も、王家への忠誠心も、カーディナルには何もなかった。
*
買うべきものを記したメモを片手に街を彷徨う。白い仮面は仮面修道会に属する者の証だ。すれ違う人々はみな一様に奇異なものを見る目をカーディナルに向けたが、そんな対応も慣れたものだ。むしろ向こうのほうからすぅっと避けてくれるので楽ですらあった。
「……ん?」
露店が並ぶ市場にさしかかると、端のほうでぽつんと少女が佇んでいることに気づいた。彼女が着ているのは王宮の侍女が着る制服で、白い帽子からこぼれる髪はつややかな黒で。遠目でもわかる知り合いの様子にため息を一つつき、カーディナルはそちらへ向かった。
「何をなさっているのです、侍女殿」
「あ……カーディナルさん……!」
スミレは慌てて眼鏡を外し、わずかに潤んだこげ茶の瞳をぐしぐしとぬぐった。
「藤宮さん達と街を見に来たんですけど、はぐれちゃって……。王宮への帰り方もわからないし、それで……」
このあたりは普段から人通りが多い。特に今日は市場の日だ。物珍しさで外に出ようと思うのも無理はないが、気をつけなければ簡単にはぐれてしまうだろう。目印になりそうな、国章を掲げてそびえ立つ王城も、あいにくここからだと他の建物に遮られる角度になっているのか見つからない。
まだ大人ではないが子供というわけでもない年頃の者が迷子になった程度で泣くなんて、と呆れそうになったが、スミレもリリもほんの少し前にこの国に来たばかりだ。頼れる者もいないまま、見知らぬ街に放り出された少女。不安に思うのは当然のことで、それをカーディナルが責めるのは違う。棘を含んだ言葉は飲み込んだ。
「この人ごみでは、再度会うのは難しいでしょう。一度王宮に戻るべきかもしれませんね。……まあ、私と歩いていれば少しは目印になるでしょうが」
聖女が外出したなら、相応の護衛がついていることだろう。聖女達というなら他に同行している者もいるだろうし、あちらの心配をする必要はない。どうせ王宮に帰れば遅かれ早かれ再会するのだから、無理に合流を急ぐこともなかった。
今考えるべきはスミレだけでいい。しかし、スミレを王宮に送ってからまた城下街に来るのは手間だ。それならこちらからも探しつつ、向こうに見つけてもらえばいい。仮面修道会の聖職者と王宮の侍女が歩いていれば、多少なりとも噂になるだろう。もしリリ達がスミレを探しているなら、だが。
「こちらの買い物のついでになりますが、私と一緒に聖女殿を探しますか?」
問いかけると、スミレは心の底から安心したような顔で頷いた。
*
「すみれちゃん! よかったー! もう、どこ行ってたの!? めっちゃ探したんだからね!」
「ごめんね、ふ……り、璃々ちゃん」
結局、少女達は一時間と経たずに再会を果たした。璃々は大げさに、すみれは申し訳なさをにじませながら再会を喜んだ。璃々の側にはアンリとカミーユがいて、こちらもほっとしたような顔をしている。……彼らの安堵は、聖女の憂いが取り除かれたことに対するものなのだろうが。だって一瞬だけすみれに向けられた二人の眼差しは、あんなにも鋭くて険しい。
「偶然カーディナルさんに会って、一緒にいてもらったの。……本当にありがとうございました、カーディナルさん」
「そうなの? じゃあ、カーディナルさんも街に出てたんだ。会えてラッキーだったね! カーディナルさんも、すみれちゃんと一緒にいてくれてありがとー!」
「いえ、私は何もしていませんから。……まだ用事が済んでいないので、私はこれで失礼します」
「あっ……」
璃々から向けられる無邪気な目。居心地が悪いとでも言いたげに、カーディナルは足早にその場を去った。遠ざかるその背中に思わず手が伸びるが、結局それ以上は何も言えないまますみれは口をつぐむ。とっさに言いそうになったのが「いかないで」なのか「わたしもいきます」だったのかは、すみれ自身にもわからなかった。
「なんかさー、カーディナルさんって怖そうな人かと思ったけど、案外いい人じゃん? 話せばわかる系みたいな?」
「……そうだね。仮面のせいで近づきにくい感じだけど、普通に助けてくれるし……」
王宮に向かって歩きながら少女達がそう話すなか、二人の少し後ろを歩くアンリは眉根を寄せ、カミーユは不快さを隠しもせず璃々に声をかけた。
「おいおいリリちゃん、そう簡単に心を許すなよ。女王陛下がお決めになられて、女神からも認められた人選に文句を言うつもりはねぇが……あいつはろくな奴じゃねぇぞ。まともな奴は仮面修道会になんざ入らねぇからな」
「しかし何故女王陛下は、仮面修道会のカーディナル・フォウなんて得体の知れない男をお選びになったんだろうな。あいつが何かよからぬことを考えていないなんて保証は何もない。オレ達ももちろん目を光らせるが、どうかリリ様もお気をつけて」
カミーユの言葉にアンリも同意するよう口を開く。璃々は唇を尖らせた。
「えー? なにそれ。意味わかんない。そもそも仮面修道会って何?」
「七百年前、王家に弓引いた奴が作った団体さ。政変を起こそうとして失敗した反逆者とその取り巻きが、逃げ込むために作ったんだよ。今じゃ犯罪者本人やらその家族やら、そういった連中が所属してるんだ。他にも脱走奴隷とか、不義の子供とかがいるらしい。外にいちゃ迫害されるからって、寄り集まって暮らしてんのさ。あの仮面は、誰が誰だかわからなくするためにつけてんだと」
「髪型も服装も、完全に統一されているんだ。全員が同じ格好をしていれば、自分を連れ戻そうと探しに来た人がいても自分のことを見つけられないから、とな。一回、あそこの修道院に行ったことがあるが……本当に不気味な眺めだった」
二人の言葉を聞きながら、すみれはカーディナルの姿を思い描く。ざっくりした一本の三つ編みにして右肩から垂らされた長い深緋の髪と、何の感情も読み取らせないのっぺりした白い仮面は、彼が纏う立襟の黒い祭服によっていっそう際立っていた。
けれど仮面修道会とやらに属する人々がみな同じ格好をしているなら、すみれの知る“カーディナル・フォウ”は彼だけを表すものではない。すみれは彼の外見ぐらいしかわからないのに、それだけではあの青年自身を定義し構成する要素とみなすのに足りないのだ。
「……そんなに悪い人には見えなかったけどな」
誰に聞かせるでもなくぽつりとひとりごつ。あの白い仮面の下で、彼はどんな表情を浮かべるのだろう。何を考えているのだろう。目の色は、鼻の形は、唇は。隠されると、見えないと、余計に気になってしまう。顔も中身も、彼のことが無性に知りたかった。