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一月七日。土曜日

一月七日。土曜日。

雨。

今日僕は午後に音夢堂へ行つた。

冬の雨の日は一段と寒い。僕は美の一切を嗜まぬが故に服裝にも全く關心が無い。多種多樣の文様や柄の服が生まれる理由も一向解せぬ。服はその機能性にのみ重視すべきである。といふ譯で僕は地元の唐桟織だとかいふ類の服しか持つてゐない。それも全く同じのが二着も三着もあるから、服選びに割く時間が一切なくていゝ。

例によつて僕は今日も季節に關わらず藍の唐桟を着て外へ出た。

傘をさして步けば傘に當る雨音がする。今日の僕にはそれが音樂を奏でてゐるやうに感じた。雨音に集中すると雨音に聽こえる。注意の方向を變えてみると雨音が曇つて音樂に變わる。實に不思議な體驗であつたが、音樂を解し始めたら世もかやうに聞こえるのかもしれぬと思ひ、雨の音樂を聽いて步いた。

二階建築の音夢堂の灯は兩階ともついてゐた。ピヤノの音樂が聽こえて來るから、きつと皿田君が演奏してゐるのだらうと思つた。今日は扉を開けると店主と思しき男が出迎へてくれた。男は丁度親爺と同じ位の年齢で、洋服が似合ふ面であつた。男はどうやら皿田君から話をされたらしく、僕を見るなり話の人物だと見當を立てた。男は明るく僕を中へ入れて、昨日の不在を詫びた。

店主に皿田君が居るかと聞くと今日は居ないと言はれた。僕はこの音樂を彈いてゐるのは他の客かと思つたが、店主の御嬢さんらしい。御嬢さんもピヤノを彈くのか聞いた所、皿田君がこつちへ越して來てこの店へ來るやうになつてから何度かピヤノを敎へてもらつてゐたさうだ。所で僕は皿田君が何故ここへ越して來たのか聞いたが、店主の答は本家がこの邊に住んで居るとか何とかあやふやであつた。僕がこの質問をして、店主は僕に

「皿田君からは何も聞いてないのかい」

と聞いてきた。僕は何もと答えた。すると店主が勝手に皿田君の説明を始めた。店主によると音夢堂で賣られてゐる樂器は殆ど皿田君から譲り受けたもので、今日この店がやつてゐるのも彼の御蔭といつても過言ではないらしい。この町へ二三年前に來る前は西欧のどこかの国へピヤノの稽古で行つてゐたさうだ。日本に歸つて來てからは全国でピヤノ演奏会を開いて生計を立ててゐて、暇な日は日夜音夢堂へピヤノを彈きに來る。皿田君によるとどうも家より音夢堂の二階の部屋の方が演奏には適してゐるらしい。音夢堂の二階一部屋を皿田君のピヤノを彈く爲の部屋としてゐるのは、彼がこの店に多くの西洋樂器を寄贈したこともあつてのことだらう。彼の寄贈した樂器は資産家であつた彼の亡くなつた父が有してゐたもので、その價値はこの音夢堂の二階一部屋ぢや到底賄へない。皿田君はそれ程金を持つてはゐるが、かといつて金を持たがらない。ピヤノを彈いて生活していけるのならそれ以上の贅澤に手をださうとはしない。いや、彼にとつては今の生活が充分贅澤ださうだ。

僕は皿田君を知る程彼の人としての生き方に魅せられた。僕はそれを聞けただけでも満足して歸らうかと思つてしまつた程である。ますます彼に會いたくなつた。

「何か演奏してみたい樂器はあるかな」

店主のこの質問が、目的の無かつた僕にだんだん目的を見出させ始めた。

「樂器を餘り彈いたことがないんで、どれを彈きたいとかも全く。さうだ、御嬢さんのピヤノを彈いてゐる所を一寸拝見させてもらつてもいいでせうか」

と聞いたら問題はないだらうと言はれた。僕は階段を昇つてあの美しい部屋を再目に入れた。昨日と違つたのは、鍵盤の前に坐す人が女であつたことだ。御嬢さんもまた僕や皿田君と同じ位の年で、御嬢さんは僕が二階に上がるなり氣が付いて

「あら、貴方が例の御客さんで。御名前は何ていふの

と聞いた。僕は名乗つた。

「學さんね。學生でゐらつしやいますの」

「R大學に行つてます」

「さう、ぢや私の行つてゐる學校と近いのね。私A美術學校に通つてゐるの」

「繪を描くんですか

「えゝ。西洋の油彩のはうを。ほらあれは私が描いたんですの」

彼女の眞正面の壁に油繪が掛かつてゐた。どうやら何処か西洋の船場が描かれてゐるやうだ。繪を解せぬ私にはその繪の美しさが更々わからなかつた。ある場所を繪にした所でその場所の見たままの自然の姿に及ぶ筈が無いと思つた。

僕は反應に窮し、適當に美しいですねとか御上手ですねとか言つた思へがある。

「ピヤノの方もやるんですか」

「やつてるはやつてますけど、學さんに御聞かせできるやうなものぢやありませんよ。私の演奏を聽くんだつたら學さん彈いてみたら。學さんピヤノを御彈きにならないんでせう」

僕はそんなことを言つた覺へが無かつた。がその通りだ。

「はあ、幼少期に何度か彈いてみたことはあるんですが、初心者も同然です」

「なら私が敎へられる範圍で敎へてあげますわ」

御嬢さんは席を立つて僕を鍵盤の前に座らせた。

「最初は私何も言はないわ。好きなやうに彈いて音を聽いてみて」

僕は何十本もある鍵盤のどこの白と黒のどちらを最初に押すか迷つた。僕は結局一番目の前にある鍵盤を人差し指で押した。とたんに鍵盤から音が生まれ、それは僕の耳を震わした。その音は徐々に小さくなつていく。その音の消えむとするに連れ指を鍵盤からそつと離すに連れ、不思議なことにその鍵盤から綠とも靑とも言へぬ色が生まれ滲むやうに廣がり目を覆つた。そして音が止むと同時に色は薄まつて消えた。この自然界の法則ぢや説明出来ない感覺を僕はそれが感性といふものかと思ふことにして自己に容認せしめた。僕は次に先に押した鍵盤の一つ右の鍵盤を押した。その鍵盤は先の音より高く響いた。そして音に伴つて今度は先のより光度が强いが、また言葉では言い得ぬ色が波のように廣がつては消えていつた。僕は今度は左端から順ゝに全ての白鍵を流れるやうに彈くと、音の移り變りに合はせて樣ゝな色が滲み出ては消える樣が僕の目に映じた。

「彈いてみてどうでした。大分興味が御ありのやうですけど」

「何て言へばいゝのか。色が見えました。音に合はせて、異なる色が」

「あらさう、そこまで感じられましたの。大分感性が御ありなのかしら」

「はあ」

僕が鍵盤に色を見たのは矢張り常人に認められぬことなのだらうか。と僕は不思議に思つたが、その後起こつた奇怪な事に比べると、これなどは全く何でもなかつた。僕がピヤノを彈いたのは以前はもう十年も昔の事だから、而もピヤノを習つてゐた當時ですら碌に彈けやしなかつたのだから、增して今日この時になど彈ける筈はなかつた。

僕が御嬢さんにも一度ピヤノを彈いてもいゝですかと斷らうとした時、突然自然界のものとは思へぬ色が視界の左側から滲み出てきて、見る見る中に御嬢さんの姿にまで侵食してきた。僕は思はず左を向いた。この時の狀況として、僕がピヤノの前に座し、その右隣に御嬢さんが立つてゐたから、自然と左を向くとピヤノの鍵盤が真正面にきた。僕の目に映じた鍵盤は色を伴つてゐた。先程僕の目を侵した色はこれであつた。鍵盤は押してなかつたのだが、樣々な色が鍵盤のいたる所から滲み出てきては消えていつて見えた。僕は暫くその一部始終を覗いてゐたら、それらが色をなす鍵盤の位置と時間的な差とが何かを意味してゐるやうに思へてきた。その樣々な色彩は、この鍵盤を押せとでも言ふやうであつた。そして先程まで見えてゐた色は一瞬間に忽ち消え鍵盤の白と黒だけが殘つた。僕はこれを自分ではない何かからの合圖だと察し、僕は深く息を吸つて吐いた。僕はこの時初めて靜けさといふものを知覺した。僕がただならぬ雰圍氣に包まれてゐたのを察した御嬢さんは一聲も發せず、窗が外界の雨風の音の侵入を遮斷してゐた。僕はこの時靜けさを音樂の一部として見出した。

僕にはこれから再鍵盤が色付くといふ確信があつた。

最初の色が見えた時、逃すまいとその鍵盤を彈いた。とたんに色は幾つもの鍵盤から生まれ、僕は慣れない手つきで忙しく鍵盤を彈いた。あの色を追ふのは常人には無理であらうが、僕には不思議とそれが出來た。と言ふのもそれらの色を視覺的に知覺する前に、體が知覺してゐるやうであつた。色は僕の中から生まれてゐたやうに思へた。

僕はピヤノを彈きながら、自分が奏でてゐる音に魅せられた。彈き終へた時、暫く僕は余韻にひたつてゐたが、隣で存在すら忘れてゐた御嬢さんが凄まじい拍手を僕に呉れたので僕は驚いた。一曲と言つていゝのかは疑問だが、僕は確かに音樂を彈いたのであつた。僕は御嬢さんに驚かれて後、色々と質問をされて返答に窮した。御嬢さんの問掛は、何故ピヤノを彈けるのを隱してゐらしたのとか彈いた曲は貴方が作られたのとかいふ僕にとつては要領を得ないものばかりであつた。

僕は日記を書いてゐる今でも今日の出夾事を信じられないでゐる。僕が雷にうたれた日から、何やら僕には超科學的なことがつきまとつてゐるのかしら。何だか僕の日記は日を經るにつれて科學的な意義を帯びてきたやうに感じられる。何処かの學者の研究資料にでもなるかしら。


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