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一月六日。金曜日。

一月六日。金曜日。

晴れ。

今朝は常時一般と違つた。

どこか家の外から西洋の莊厳な音樂が大きな音で流れて來て、その幼い頃に聽いたことがあつたやうな音に僕は目を覺ました。幼い頃にはうるさいとしか感じなかつたが、今日聽くと成程あのやうな音樂にも音の强弱や高低が認められた。

僕はこの音樂と共に何だか清々しい朝を迎へられたなと思つて起き上がつたのだが、奏でられる音樂に對してこの部屋が餘りにも質素に感じられた。この音樂は樂會とか若かるべき場所で聽くべきだと思つた。

僕はあの音樂の出所が氣になつて雨戸を開けて外を確認してみたが、庭の植木でよく見えぬ。暫くして後音樂は鳴り止んだ。

朝飯を食つてゐる時に梅やに一寸朝の音樂を聞いたか確認してみたが、案の定、それなら毎朝流れてゐるぢやありませんかといふ要領を得ない返答が歸つて来た。梅やの耳は僕に劣るといふのは今日にわかつたことぢやない。

けふといふ一日は専らこの音樂に持つて行かれた。僕は朝飯を食つてすぐ今朝聽いた音樂の出所を探ることにした。外は凍てつく程寒かつた。僕は腕を組んで邊りを見廻しながら垣根を一周した。けれども、周りの家々を見たところで中に演奏者がゐることなど一向にわからぬ。一寸でも音樂を演奏してくれと思つたが、どの家からも音樂は聞こえてこなかつた。

僕は豫想通りとも期待外れともとれる心境でゐた。音樂はだいぶ鮮明に聽こえたから聽き間違ひぢやないと思つた。それに、頭の中で流れてゐた譯ぢやなく、確かに耳で聽いてゐる感覺がした。音樂が聽こえてきて目を覺ましたこと抔一度も無かつた。

僕は腑に落ちぬまま、一寸考へ事をしようと日の當る緣側へ赴いた。日の高度からすると凡そ八時頃だつたと思ふ。僕が緣側に腰を下ろして間も無く、また音樂が聽こえてきた。今度のは靜かだけども重厚で低い、西洋の笛の音であつた。僕の耳を持つてしても、朝のとこの時のとでは、全く音樂が持つ雰圍氣が違ふと感じられた。朝のとは違ふ奏者かも知れないと思つたが、その音が案外近くから聽こえてきたので一寸行つてみようと思ひ立つた。僕は腰を上げると、その音の止まないうちに突き止めようと急いだ。庭を後にして垣根を出た時、外の風がびゆうびゆう吹いてゐて驚いた。音のする方を見ても、奏者らしき人は建物に隱れて映じず、聽こえる音のみを頼りに脚を運ぶしかなかつた。僕にはこの音樂が正面から吹きつける風が運んできてゐるやうに思へた。音の方へ向かへども向かへども音との距離は縮まず、音は僕と同じ速力で遠ざかつているやうに感じられた。

十分は追いかけたと思ふ。息を切らして驛の方まで出てきたものの、音樂は大通りの喧騒に掻き消されてしまつた。

僕は殘念に思つたが、驛まで脚を運んだ折、この前見つけた音夢堂にでも行つてみようかしらと思ひ、朧げな記憶を頼りに音夢堂へ行つた。

表の硝子から音夢堂の中を覗くと、中には人の氣配は無かつたが、灯りは點いてゐて、ピヤノやバイオリンが光り輝いて見えた。僕は樂器店に這入つたことが無かつたし、何も樂器を買ふつもりぢやなかつたので、一寸躊躇ひがちに扉を開けた。扉はぎいと大きな音を立てて開いた。僕は御免下さいと言つたが、中から人は出てこなかつた。店内には硝子越しに見えた樂器以外にも多種多樣な樂器が棚や特別な台の上などに置かれてゐた。その殆どは西洋からの輸入品で、ピヤノやバイオリン抔、祖父の死んだ今では買へない價値のものばかりであつた。港からは程遠いこの地でかやうな樂器が賣つてゐるとは些か疑問であつた。僕は幼少期以來に見る樂器に夢中になりながら、この樂器は何だらう、どんな音がなるのだらう、一寸ひいてみたいと思つた。

店の奧まで來て、階段を見つけた時、二階からピヤノの音樂が流れて來た。僕はぎしぎしとうるさい階段を登つた。二階では一人の男が僕に側面を向けて、瞼を閉じ、ピヤノが奏でる美しい音樂に浸るやうに鍵盤の上で手を動かしてゐた。二階は一階とほぼ同じ廣さで、黑い大きなピヤノ一台以外に樂器は見當らなかつた。板張りの床。向かうの壁には大きな硝子窓がくり抜かれて陽の光が空間を包み込んでゐた。僕は彼がピヤノを彈く姿に見とれてしまつた。

間も無く演奏は終了して、僕は思はず拍手をした。彼は僕の方を見ずに「どうしたんですか急に。いつも通り彈いてゐただけですよ」と言つた後、僕の方を振り向くなり驚いて「おや、あゝ、失敬」と言つた。どうやら僕を誰かと勘違ひしたらしかつた。續けて彼は音夢堂には滅多に客が這入つて來ないから、あなたを店主と勘違ひしたとの旨を告げた。僕は不思議な店だなと思ひながら、彼にこの店についてと彼がこの店とどういつた關係なのかについて聞いた。以下に彼の言つたことを簡潔に述べる。

彼の名は皿田君。僕と同い年。音夢堂で唯一の常連客。長年音樂をやつてゐて、自分のコンサートを開く程の腕前だ。

音夢堂は江戸からこの地にあつた樂器店で、當時は和樂器が主な賣り物であつたが、二三年ほど前から西洋樂器を賣り始めて、今や品の大半が西洋樂器に取つて變つてゐる。當時は大分繁盛してゐたさうだが、丁度西洋樂器を賣り始めた頃皿田君が來て以来誰一人客は増えなかつたさうだ。店の經營者は四五十の店主とその一人娘だけだが、この娘が東京の美術學校に通つてゐるから、大方店に居るのは店主だけらしい。今日はその店主も外出してゐたから、代わりに常連の皿田君が店番をしてゐたらしい。

ここまでを一氣に言ひ終へた皿田君は、目の前に客がゐることにまだ驚いてゐた。皿田君は自分の自慢できるところも謙虛過ぎる程に説明し、决して奢らなかつた。金本とは大違ひであつた。

僕も自己紹介をしようと思つた時、皿田君が急に

「いかん、いかん、お客さん、申し譯御座ゐません」

と言つて、店主の居ない今は樂器を賣ることが出來ず、店主の歸りを待つとするとざつと三時間はかかるとの旨を述べた。が爲に僕は今日自己を名乗る機を失つた。皿田君は餘つ程緊張してゐたのか、所々どもつて聞き取れなかつたが、僕は樂器を買ふつもりは無かつたので別段問題はなかつた。

僕は皿田君に再ピヤノの演奏を頼んだ。皿田君は快く受け入れた。彼は十曲程、西洋の曲を彈いてくれた。僕は再流れるやうな音樂と彼の彈いてゐる姿に目を奪はれた。

僕は曲の終わりごとに皿田君に何て曲か聞いたら、ベートーベンとシヨパンのが大半であつた。後で皿田君に聞いたのだが、ベートーベンが彈けてシヨパンを嗜むのが現代の日本で一流と言はれるピヤノ奏者像らしい。

彼の演奏を聽き終へた暫く餘韻に浸つてゐた頃には昼になつてゐた。僕は梅やに何の斷りもなく家を出てゐたことを思ひ出して、皿田君に禮とまたここへ來るとの旨を傳へて慌てて店を飛び出した。

家へ着いたらもう梅やが梅干しのやうに顔を眞赤にして飯をついばんでゐた。僕は冷めた飯を食はされた後、梅やにひどく叱られた。今後は外出時に梅やにその旨を傳へてから外へ出ることと決まつた飯の時間には家に歸ることを約束させられた。

僕はどうにか自室へ逃れて今日記にありつけてゐる。今日は大人しくこの部屋に閉じこもつて讀書でもしようと思ふ。

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