明日を呼ぶ呪い
帰宅をして声を掛ければ、返ってくると思った言葉がなく、冷や汗が流れる。
普通ならば、それくらい、と思うかもしれないが俺にとっては全く以てそれくらい、ではないのだ。
履いていた靴を脱ぎ捨て、肩に引っ掛けていた鞄もその場に落とす。
短い廊下を駆け、リビングを横切り奥の部屋へ。
ほんの少し開いた扉を勢い良く押し開ければ、案の定、見慣れた細い体が眼前にぶら下がっている。
蹴り倒された踏み台に登り、ギシギシと音を立てる麻縄を解く。
その作業も手馴れたように、ほんの少しの時間しか掛からなくなっていた。
こんな慣れ、俺は欲しくない。
重力に従って落ちた体を慌てて掴めば、バランスを崩した俺も踏み台から投げ出され、足元に敷かれていたカーペットへと落ちる。
抱え込んだ体からは小さな呻き声が聞こえた。
「うっ……っはぁ、げほっ……えほっ、ごほっ」
絞められていた細い喉を押さえ咳き込む姿も、縄を解くのと同じ回数見ていた。
白い肌に残る赤い跡が生々しい。
しかし本人は気にした様子もなく、ひとしきり噎せた後には、深い溜息と共に求めていた「……お帰り」という言葉を投げる。
こんな状況で出迎えられても嬉しくない。
自然と顔を顰めれば、もう一つオマケにと咳き込むような音がして、腕の中の彼女が起き上がる。
大きく波打つ癖毛は、学生時代よりも大分伸びた。
「本当、作ちゃん。お願いだから、こういうの止めて。心臓に悪い」
「はぁ。まぁ、そうかね」
ふわふわとした髪を揺らしながら、分かっていないような返事とともに首を動かす。
高校時代より好きだった彼女と付き合えるようになったのは大学半ばで、一日に一度は告白をしていた俺に根負けしたかのように「……じゃあ、付き合う?」と言ったのが彼女だった。
押して駄目なら、更に押すまで、ということだ。
そうして付き合い始め、同棲を申し込んだのは俺で、それに対して彼女は大して考えてもいないような真顔で、うん、と一つ頷いた。
思い返してみればみるほど、俺は何かと苦い思いの方が多いかもしれない。
それでも、彼女が大好きで大切なのだが。
だからこそ、こんな形で出迎えられるのは好きではなく、彼女一人を家に置いておくのは心配で堪らない。
帰ってきて、ただいまの呼び掛けに何も帰って来なければ、いつだってその華奢な体がぶら下がっていたり、浴槽に沈んでいたり。
ハッキリ言って俺の方が死にそうだ。
「崎代くんと一緒にいると、なかなか死ねない」
「うん。死なないでね」
不満そうな声に間髪入れずに言えば、その白い頬がぷっくりと膨らむ。
顔付きも声と同じで不満そうになった。
学生時代は可愛らしいが先行していた容姿は、いつの間にか綺麗に変わりつつある。
ふわふわの髪を撫で付ければ、膨らんでいた頬がゆっくりと萎み、長い睫毛が伏せられた。
お人形のようだ、と言われていた彼女は、その頃よりも表情豊かになった気がする。
身を委ねる彼女の姿は、過去のそれと重なるが、まとう空気が穏やかだ。
もしもそれが、俺だけが感じるものではなくて、他の誰が見てもそう感じるものならば良い。
そうして、それを俺が引き出しているなら、もっと良い。
自然と広角が上がっていくのを感じていると、彼女の目が俺に向けられる。
真っ黒な、黒曜石のような瞳。
真っ直ぐに俺を射抜くその目に、俺はゆっくりと首を傾けた。
それでも腕の動きは止まらずに、彼女は小さくみじろいで、その薄い唇を動かす。
透明度の高い声だ。
小さい声だが、視線と同じように真っ直ぐに突き抜け、鼓膜をゆるゆると震わせる。
「結婚、しよっか」
目の前で彼女は柔らかに笑う。
唇を引き上げ目を三日月に変え、小首を傾げるようにして、微笑むのだ。
彼女の頭を撫でていた手が、重力に従うように落ち、薄い背中に向かう。
そうして引き寄せた彼女の体は、思ったよりも簡単に傾いてしまった。
小さな笑い声が聞こえる。
くすくす、くすくす、鼓膜を擽るような笑い声。
「俺のために、生きてくれるの?」
その細く白い首筋には、首輪のような赤い跡。
これは数日では消えないだろう。
そう思いながらも、彼女の華奢な体を掻き抱けば、彼女も俺の背中に手を伸ばす。
「うん。もう、死ねないね」
俺を抱く腕に力が込められて、どうしようもなくなった俺は、そのまま彼女の肩に顔を埋める。
小さな肩を濡らせば、彼女は声を上げて笑った。