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ウンコという名の悪魔

作者: 越智千尋

 ウンコだ。

 ウンコをしたい。

 唐突に思った。学校帰りのバスの中でのことだ。

 その日は、朝から腹の具合が良くなかった。何か悪いものでも食ったのかな。そんな疑問が頭をかすめていた。

 だからといって、その時には、別に便意というものが、あったわけではない。だから、いつも通りにバスに乗って、登校した。

 授業中も、お腹のあたりに、違和感があった。それでも、どうということはなかった。

 体育でサッカーをやっても、支障はない。ただ、ちょっとした違和感があって、ゴール前三メートルの位置から、フリーのシュートを外したくらいで済んだ。

 そうだ。その違和感が、緊急事態に発展することもなかったんだ。

 そして、今だ。

 突然に、便意が、襲ってきた。そう、それは、まさに突然だった。

 誰かが、言っていた。人生ってヤツは、一寸先は闇だと。何が起きるか、わからないと。まさに、その通りだった。

 ある人は、初めて出会った人に、突然、恋に落ちる。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、突然、万有引力の法則を思い付いた。

 そう、まさに、そういう出来事だった。

 帰宅途中だった。

 いつも通り、通学バスの一番後ろの席に座っている時だった。

 何かが、腹の中でうごめいたと思った時には、もう手遅れだった。猛烈な便意は、今、まさに、肛門という名の防壁を突き破って、外界へと、生まれ出ようとしていた。

「マズイ!」

 そう、ここでは、マズイんだ。

 というのも、ここは帰宅途中のバスの中なんだ。人間社会には、動物の群れと違って、ルールというものがある。いきなりバスの中で、ズボンをおろしてウンコをするわけには、いかない。

 当然だ。そんなことをすれば、バスの乗客すべての視線を集めることは、請け合いだろう。

 バスの中で、ウンコをする。

 それは、人類が、今迄に築き上げてきた、人間の尊厳に対する挑戦だ。神をも恐れぬ行為と言っていい。

 そして、この社会では、ルールから外れた人間には、生きる場所さえ与えられない。

 それだけではない。今後、いかなる形でも、社会復帰することは、できないだろう。

 おまけに通学用のバスには、トイレが付いていないし、同じ学校の連中だって乗っている。どこか別の場所で、このウンコを排出する必要があった。

 あわてて、辺りを見回してみる。

 普段は、通学途中のバスから見える風景なんて、気にもしていなかった。だから、バスコースの途中にあるトイレスポットも、知らない。

 どうすればいい?

 気持ちばかりが、焦る。だが、こんな時に限って、窓の外には、関係のないのどかな景色が、続いている。

 ちょっと、待て。

 ここは、ひとつ冷静になろう。冷静になって考えるんだ。

 まず、今はバスの中だ。家にたどり着くには、まだ二十分ほどかかる。肛門絶対防衛線の方は、そんなに待ってくれそうもない。おまけに自宅近くのバス停付近には、トイレスポットもない。

 さらに、バス停から自宅までは、十分ほどかかる。

だとしたら、このままバスに乗っているのは、愚かな選択というより他はない。とにかく、まずは、このバスを降りることだ。後のことは、それから考えればいい。

 そう決心すると、バスの停車ボタンを押した。

 とにかく、次の停留所で下りて、そこでトイレを探そう。

 いつもは、何とも思わないバスのスピードが、こんな時には、やけに遅く感じる。やがて、バスはブレーキを踏んで、スピードを落とし始めた。バス停に近付いたようだ。

 頭を働かせて、次に、何をすべきかを考えた。

 バス停に着いたら、バスを降りる。ここまでは、確定事項だ。だが、その後はどうする?

 と考えている間に、早くもバスは止まってしまった。ブザーが鳴って、降り口の扉が開く。

 ええい、仕方がない。とにかくバスを降りることだ。

 だが、あわてて降りれば、ただでさえ破裂しそうな肛門がヤバい。いいか、落ち着けよ。落ち着いてゆっくりと、だ。

 チンタラ降り口に向かっていると、車内の乗客の視線が矢のように突き刺さってくる。

 わかってる! わかってるんだよ、アンタたちがイラついているのは!

 でもなあ、こっちにも仕方のない事情ってものがあるんだよ。だから、少しだけ我慢してくれよ。頼むからさ。

 ようやく降り口にたどり着く。だが、問題は、ここからだ。昔から、よく言うじゃないか。百里を行くものは、九十里を半ばとするってね。

 そうさ。ここが肝心だ。

 階段だよ。階段があるんだよ。三段ほどのヤツが。

 下手な降り方をすれば、ケツの裂け目からドス黒いミソが、ここぞとばかりに、飛び出してくるだろう。ここは、一段一段確実にいくぞ。

 時間をかけて、やっとの思いで、階段という関門をくぐりぬけて、バスを降りる。

 よしっ!

 やったぞ!

 やったんだ!

 後ろでブザーが鳴って、バスの扉が閉まる。ほどなくバスは、排気ガスとエンジン音をその場に残して、走り去っていく。

 さて、まずは一つの関門は、無事通り抜けた。

 それで、これから、どうする? 

 どうしたらいい?

 じっくり考えている暇はない。辺りを見渡す。

 そうだ。こんな時こそ、状況判断が、大事なんだ。

 その辺りは、閑静な住宅街のようだ。いっそ、どこでもいいから、その辺の家に飛び込んで、トイレを借りるか?

 いや、ちょっと待て。それはマズいだろう。

 もし、その家が、高校の同級生の家だったらどうする。ソイツは、たちまちのうちにこの一件を、クラスメートに言いふらすだろう。

 そうしたら、どうなる?

 考えるまでもない。厚かましくも、赤の他人の家でウンコをした男のたどる末路など、改めて問うまでもないことだ。当然のように、ウンコマンの伝説が語り継がれることになる。

 そして、こういうことが、起きるんだ。

「あ、ごめん、トイレ、じゃなかった、消しゴム、貸してくれ」

 こんな笑えないギャグを口走るヤツが、必ず現れるだろう。

 おそらく十年後くらいには、学校の七不思議に、ウンコマンの項目が加わることになる。それだけは、避けなければならない。ごく普通の高校生という仮面は、今、ここで外すべきじゃない。

 落ち着け!

 落ち着いて、まわりを見てみろ!

 神は、困った人を見捨てたりはしない。

 そうさ。落ち着いて考えれば、何か解決策は見つかるはずだ。

 その時だった。視界の隅に、何かの違和感を感じた。

 何だ?

 何が、あるというんだ?

 もう一度、そちらの方を見てみる。きっと、そこに、何かが、あるはずだ。注意深く見てみる。

 あった。

 これだ。

 これが違和感の正体だ。

 そこには、本屋があった。その本屋の入り口には、新刊のマンガのポスターが貼ってある。

 そうか。

 そうだったんだ。

 今日は、大好きなマンガの発売日だ。そういえば、ずいぶん前からこの日を楽しみにしてきたじゃないか。今朝から、腹の調子が悪かったんで、うっかり忘れていた。

 て、そこじゃないだろ!

 今、考えるべきところは、そこじゃないんだ!

 マンガもいい。だけど、今考えるべきことは、アナルの内側で、この世に生れ出る時を、今や遅しと待ちかまえている黒い塊なんだ。

 ウンコだ!

 今、考えなければならないことは、ウンコなんだ!

 いいか。どんなことでもそうだ。優先順位ってものがあるだろ。今、この瞬間、優先順位のリストで第一位の座を占めているのは、この厄介なウンコという代物なんだ。

 その時だ。視界の中に、何かの看板のようなものを見つけた。ソイツは、自分の存在をひたむきに主張するように、そそり立っている。

 目を凝らして、もう一度見てみる。確かに、そこには、看板がある。

 コンビニの看板だ!

 なんという幸運!

 なんという運命!

 偶然降りたバス停で、コンビニを見つけるなんて。地獄に仏とは、こういうことか。お釈迦さまが垂らした蜘蛛の糸が、今、目の前にある。

 距離は、百五十メートルほどだろうか。充分間に合う距離だ。だが、まだ安心するのは早い。なぜなら、まだコンビニに着いたわけでは、ないからだ。

 いや、コンビニに着くだけでは、まだダメだ。コンビニのトイレの中まで進入して、初めて安心するべきだ。これからまだ、何が起きるか予断を許さない。

 よし。行くぞ!

 あのコンビニへ!

 この戦いの終焉の地へ!

 そう思うと、まずは右足を一歩踏み出す。ウンコとの戦いにおいて、人類がこの大地に記す偉大なる一歩だ。つづいて、左足。いいぞ。そうだ。そうやって、道を刻んでいくんだ。自由と解放への道を。

 肛門内の圧力は、上昇し続けていた。やけに遅い足取りで、コンビニを目指す。気安く動くと、排泄物の圧力に負けそうだった。

 頑張れ!

 頑張るんだ!

 ここであきらめたら、すべてが水の泡だ。人間というヤツは、あきらめた瞬間に負けが確定するんだ。あきらめさえしなければ、必ずチャンスはある。たとえ、それが、ウンコとの戦いであったとしても。

いつもなら、あっという間に着くはずの距離が、今日は、やけに長く感じる。果てしなく長い旅の途中にいるようだ。

 だが、決して負けてはいけない!

 気持ちを強く持つんだ!

 ゆっくりとした足取りは、だが、確かに、その距離を稼いでいた。

 次第にコンビニの姿が大きく見えてくる。もう、雑誌コーナーで立ち読みしている人の姿までが、確認できるようになった。

 そうだ!

 やっと、ここまで来たんだ!

 あと、もう少しだ!

 もう少し頑張れば、安らぎの時へと、たどりつける。

 そして、ついに、コンビニの駐車場へと歩みを進める。駐車場では、パートのおばさんが、掃除をしていた。

「いらっしゃいませ」

 おばさんが、威勢のいい声をかけてくる。

 いい挨拶だ。

 ここは、返事をすべきだろうか?

 それが、人としての常識なんだろうか?

 いや、だが、今は、声を出すわけにはいかない。そんなことをしたら、臨界点ぎりぎりまで来ている防衛線が、一気に崩壊しかねない。何とか努力して、ひきつった笑顔を返す。

 もう少しだ!

 もう少しで、店内に到達する!

 いいぞ、ゴールが見えてきた!

 やっとの思いで、コンビニの自動ドアの前に立つ。

 ふと、気が緩んだその瞬間だった。突然、後ろから、何かが、ドスンとぶつかってきた。その衝撃が、肛門に思いもよらぬ動揺を与える。ここまで、辛くも保ってきた均衡が、もろくも崩れそうになる。

 ダメだ!

 あきらめちゃいけない!

 ここであきらめたら、何のためにここまで頑張ってきたのか、わからなくなる。ケツ周りの筋肉を総動員して、肛門に展開する括約筋の援護に充てる。

 視界の中に、元気よく店内に駆け込んでいく子供の後ろ姿が、映った。

 クソッ!

 あのガキか!

 背後から、のどかな声が、飛んできた。

「だいちゃぁん、走っちゃだめよ。危ないからね」

 女の声だ。

 母親か?

 あのクソガキの名前は、「だいちゃん」というのか。

 だい……何だろう?

 大輔か。

 それとも、大三郎か。

 いや、ちょっと待て。今、考えるべきは、そこじゃないだろう。

 そうだ!

 とにかく今は、この窮地を脱出することの方が先だ!

「すいません、本当に」

「だいちゃん」の母親と思しき女性が、すれ違いざまに声をかけていく。

 若い!

 美人だ!

 バストは、推定九十七センチ。守備範囲だ。

 オイッ!

 何を考えているんだ、バカヤロウ!

 余計なことを考えるな!

 集中しろよ、集中!

 今は、このピンチをしのぎきることだけを考えるんだ!

 店内では、「だいちゃん」とその母親が笑顔で買い物を楽しんでいる。時折、入り口でジッとしている妙な高校生の方を見て、怪訝そうな顔をする。

 そうか。

 今更ながらのように思う。

 ここで、こうして凄絶な戦いの中に身を置いている少年がいることなど、誰も知らないんだ。誰も知らないこの世界の片隅で、少年は、たった一人で、戦い続けている。

 だが、その少年の周りでは、のどかで平和な日常という時が、過ぎているんだ。その平和な日常が、いかにもろく、はかなく、崩れやすいものか、ということに、誰も、気づかずに。

 そうだ。

 この不幸は、誰の上にも起こりえる。

 便意という名の悪魔は、時と場所を選ばない。その悪魔に魅入られた者は、誰であろうと構わない。一瞬にして、平和な日常から、凄惨な戦いへと駆り出されてしまうんだ。

 そうだ。

 これは、そういう種類の戦いなんだ。

 そして、それが戦いである以上、負けることは許されない。

 戦いにおける真実は、ただひとつ、勝つことだ。勝つことだけが、真実であり、正義であり、生きる権利なんだ。敗者には、何も残らない。「ウンコちびり」と呼ばれ、バカにされ、遠ざけられ、忌み嫌われる。戦いに負けるとは、そういうことなんだ。

 だから、負けてはならない。自分の中の勇気を総動員して、なんとか持ちこたえる。

 おお、だんだん便意がおさまってきたぞ。どうやら、わが肛門とその周りに展開する筋肉が、この戦いに勝利をおさめそうだ。

 いいぞ。その調子だ!

 頑張れ!

 頑張るんだ!

 勝利は、もう目の前だ!

 努力の甲斐あって、やがて、便意は終息の方向へと向かった。よし。これなら、歩けそうだ。

 用心しながら、一歩前に出てみる。

 大丈夫だ。

 何ともない。

 よしっ、いけるぞ。

 次の一歩を踏み出す。

 やっぱり大丈夫だ。

 周囲の状況を確認すると、用心深く店の隅に設けられたトイレへと、歩いて行く。雑誌コーナーの背後を回り、立ち読みしている人を避けながら、なんとか、トイレを間近に、おさめることができた。

 よしっ!

 ここまでくれば、勝ったも同然だ!

 あとは、トイレのドアを開け、中に入って便器に座ればいい。

 だが、「好事魔多し」とはよく言ったものだ。トイレの扉の前に立った時、衝撃の事実が襲いかかってきた。トイレの扉には、「故障中、利用禁止」と書いた札がぶら下がっていたんだ。

 何ということだ!

 ここまで気の遠くなるような戦いを繰り広げてきたというのに、神は、さらに過酷な運命を背負わせようというのか!

 クソッ!

 これまでの戦いは、何だったんだ!

 だが、ふと頭の中に別の考えが、浮かんだ。

 そうだ!

 男子トイレがダメなら、女子トイレを使えばいいじゃないか!

 多少、気まずかもしれないが、事ここに至っては、そんなことも、言っていられない。

 そうさ。

 何も、落ち込むことは、なかったんだ。

 そう思い、振り向くと、そこにも驚くべき事実が隠されていた。女子トイレの扉にも、「故障中。利用禁止」と書いた札がかかっている。その札の黒いインクが、自分の運命を暗示しているようにも思えた。

 すばやく頭を巡らす。

 どうする?

 どうすれば、いい?

 途方に暮れて、外を眺めていると、犬を散歩させている人がいた。なんて、のどかな風景なんだろう。  たった今、この瞬間、自分にだけ不幸が訪れていることが、恨めしく感じられる。

 なぜ、自分だけが?

 そんな言葉が、頭の中を駆け巡っていた。

 お犬様と飼い主は、コンビニの前を通り過ぎ、角の電柱のところまで、たどり着いていた。

 ふと見ていると、犬は、電柱の脇、つまり、コンビニの隣の空き地のところで、腰を落とし始めた。やがて、犬の肛門からは、新鮮なウンコが、飛び出してくる。

 そうか。あの犬は、幸せだな。人間社会のルールなど、どこ吹く風だ。

 犬は、鎖に繋がれて、自由がない、かわいそうだという人には理解できないだろう。犬は、ああして鎖に繋がれているがゆえに、人間が、決して味わうことのできない自由を手にしているのだ。

 それは、「どこでもウンコ」の自由だ。

 犬は、いつ何時、どんな場所でもウンコをすることができる。人間は、それをすることはできない。

 不思議なものだ。鎖につながれた犬には、自由があり、本来自由があるはずの人間には、自由がない。悲しいことだが、それがこの世界の真実なんだ。

 一体、人間は、そんな自由を、どこに置き忘れてきたというんだろう。

 その時だった。頭の中で、ささやく声がした。

 何だ?

 どういうことだ?

 その声は、何か重要なことを告げていた。その内容のあまりの突飛さに、一瞬、声を失う。

 その声は、こう告げていた。

「犬は、いつ何時でも、好きな場所でウンコをすることが、できる。だが、人間には、それをすることが、できない。だが、もしも、人間が、犬になることができたとしたら、どうだろう?」

 その声の意味するところが、次第に理解できてくる。

 そうか。

 自分を人間だと思うから、こうしてウンコのことで悩んでいるんだ。

 だが、犬になれば、どうだ。いや、何も本当に犬になる必要はない。犬のフリをすればいいんだ。

 早い話が、こうだ。犬のフリをしていれば、道行く人も、野グソをしたところで、気にも留めない。

 そうだ。

 犬であれば、それば自然な行動なのだから。

 だが、待て!

 人間が、犬のフリをする?

 そんなことが可能なんだろうか?

 だいたい、犬と人間では、体形が違う。犬は、前足も後ろ脚も、ほぼ同じ長さだが、人間は、手と足の長さが違う。だから、人間は、四つん這いになった時、足は、膝をつく格好になる。そんな明らかな違いがありながら、道行く人の目を欺くことが、できるのだろうか。

 だが、もしも、それが、本当に可能ならば、検討する価値がある。

 考えろ!

 考えるんだ!

 体形の違いは、何とかごまかせたとしよう。だが、それ以外の点ではどうだ。

 犬には、必ず飼い主が付いている。おまけに、首輪と紐も付いている。コイツは、どうするんだ?

 そこまで考えて、ハタと思い付いた。

 ちょっと待て!

 ここは、コンビニじゃないか!

 首輪はないとしても、それの代わりになる品なら、あるかもしれない。紐だってそうだ。たとえば、ここにおいてあるナイロンロープで代用することもできる。なんたって、ここは、品揃え豊富なコンビニなんだから。

 ひょっとしたら、いけるんじゃないか。

 そんな考えが、頭をよぎる。

 だが、一つ重大な問題がある。

 飼い主は、どうするんだ?

 誰かに頼むか?

 いや、論外だ。誰かに頼めば、その相手の目を欺くことはできない。もし、後々脅迫されるようなことになったら、目も当てられない事態に発展する。秘密を知る人間は、最小限にとどめるべきだ。

 そこまで考えて、ふと気がついた。さっきの犬がウンコをしていた場所には、電柱が立っていた。そう、コンビニ近くの電柱だ。

 たとえば、そこに紐を結びつけておけば、通行人は、飼い主は、コンビニで買い物をしていると、考えるんじゃないか。

 そうか!

 その手があったか!

 だが、待て!

 もう一つ重大な問題があった。それは、野グソをしたあと、そのウンコをどうするかということだ。

 自宅に持ち帰るべきだろうか?

 もちろん、飼い主のマナーから考えれば、そうするべきだ。それは、善良なる市民としては、当然の義務だろう。

 だが、もし自宅にウンコを持ち帰ったら、両親は、どんな反応をするだろうか?

 あるいは、気づかれないように隠して持ち帰り、トイレで流すか?

 でも、臭いは、どうする?

 ウンコは、クサい。鼻の利く母親は、臭いで気付いてしまうんじゃないか?

 そのプランは、実行可能なようでもあり、不可能なようにも思えた。

 では、どちらの可能性に賭けるべきか?

 いずれにせよ、時間は差し迫っている。決断しなければならない。

 そこまで考えていた時のことだ。

 ふと気づいた。

 服はどうするんだ?

 確かに、冬場には、セーターを着た犬を見かけることがある。だが、今は季節外れじゃないか。

 おまけに今着ているのは、高校の制服だ。高校の制服を着た犬なんて、見たことないぞ。

 じゃあ、脱ぐのか?

 でも、脱いだとして、体毛はどうなんだ?

 体に毛が一本も生えていない犬など、犬に見えそうもないぞ。

 そうか。

 そうだった。

 溺れる者は、藁をもつかむというが、どうやら冷静な思考を失っていたようだ。それに、大体発覚した時のことを考えてみればいい。ソイツは、その辺の民家でトイレを借りるより、恥ずかしいぞ。

 我に返ると、さっきまで名案だと思えていたものが、とてつもなく、くだらなく思えてくる。どうやら、最後は、かろうじて残った理性の声に、救われたようだ。

 サンキュー、マイ理性。

 相変わらず、いい仕事をしてやがるぜ。

 だが、そうなると問題になってくるのは、この直腸内にたむろするウンコをどうするかということだ。

 仕方があるまい。

 こうなれば、このコンビニをあきらめて、どこか他の場所でトイレを探すしかないだろう。

 だが、間にあうだろうか?

 いや、間に合わせるんだ!

 そう決心すると、次の行動は早かった。幸い、今は便意もおさまってきている。

 よしっ!

 行こう!

 細心の注意を払って出口へと向かう。

 その時には、さっきの「だいちゃん」は、影も形も見えなかった。「だいちゃん」はどうでもよかったのだが、あの母親の方は、電話番号くらい、聞いておくべきだったか?

 いや、過ぎたことをくよくよ考えるのはよそう。人間は、過去にこだわるべきではない。明日に向かって生きていくべきなんだ。そして、明るい明日のために今一番重要なのは、ウンコの処理方法だ。

 コンビニを出ると、左右を見渡した。

 どっちだ?

 どっちへ行けばいい?

 もしもトイレに臭いがあるとするならば、その臭いをかぎ分けられる鼻がほしかった。だが、そんな便利な鼻の持ち合わせはない。だから、ここは、野生の勘に頼るしかなかった。

 思い切って、決断する。

 右だ!

 右へ行こう!

 そう決めると、ゆっくりとした足取りで、コンビニ前の道を右に歩き始めた。まばらに通る車が、穏やかなBGMとなって追い越していく。

 肛門付近の緊張関係は、今や極限へと向かっていた。死のサバイバルウォークだ。いつ何時、終末の時が訪れても不思議はない。

 右の方に歩いていくと、やはり、民家が、延々と続いている。庭の緑が、目にまぶしい。

 いつもと変わらない日常。

 いつもと変わらない毎日。

 ついさっきまでは、自分もその中にいた。

 そうだ。そんないつもと変わらない毎日を送れるということは、あるいは、奇跡ともいえる輝きではなかったか。今更ながらのように、そう思う。

 だが、嘆いてみたとしても、失われた日々は帰ってこない。

 だから、取り戻すんだ!

 あの笑顔のある場所を!

 何の不安もなかった、あの日々を!

 そのためには、今は戦わなければならない!

 戦って、取り戻すんだ!

 そんな時だった。どこにでもあるハンバーガーショップの高い看板が、目の中に飛び込んできた。その看板は、威厳を持って、そびえ立っていた。

 おお、コイツはいい!

 ハンバーガーショップになら、トイレだってあるだろう。

 だが、何も注文せずに、トイレだけの利用だと、イヤな顔をされてしまうだろうか?

 されるかもしれないな。

 いや、きっとイヤな顔をされるだろう。

 だが、今のこの状況は、普通とは違う。ここは、ひとつ「緊急避難」ということで、何とかならないだろうか?

 そんなことを考えているうちにも、視界の中にハンバーガーショップが近づいてくる。心なしか、便意も、おさまってきているように感じる。足取りも軽くなってきた。

 いけるんじゃないか。

 今度こそ、手ごたえを感じる。

 そして、ハンバーガーショップに、たどり着いた。

 扉を開けて、中に入る。

 カウンターの方に目をやると、スタッフは忙しく立ち働いていた。入り口の方に目をやる余裕すらない。

これは、ラッキーだ。

 これなら、いやな顔をされることもないだろう。

 店内を見渡して、トイレを探す。

 あった!

 店の隅の方にトイレの表示がある。

 急ごう!

 トイレに向かって、歩みを進める。

 暗闇の中に、ふと一筋の光明を見出すことがある。そんな出来事だった。仲むつまじく寄り添う男女のマークが、幸福を運ぶ天使にも見えた。

 だが、まだ安心してはならない。さっきのコンビニでの悲惨な出来事が、心の中に暗い影を落としている。

 まだだ。便器の上に腰を下ろすまでは安心できない。そう、無事、家にたどり着くまでが、遠足なんだ。

 さあ、いまやトイレは目の前だ!

 扉をチェックしてみる。何も書かれていない。それは、そうだろう。たまたま助けを求めて、飛び込んだトイレが、二回続けて故障中である確率は、天文学的に低いはずだ。

 思い切って、トイレの扉に手をかけて開けてみる。中は、掃除が行き届いていて、清潔感あふれる便器が、そこに、たたずんでいた。

 中に入って、扉を閉める。

 ベルトをはずし、ズボンとパンツをワンセットで下ろす。

 さあ、いよいよ本日のクライマックスだ!

 便器の上に腰をおろすと、肛門の下で、便器がやさしく待ち構えた。

 来たんだ!

 とうとう、ここまで、たどり着いたんだ!

 感慨が一筋の波のように、心の水面をなでていく。これまでの長い戦いの歴史が、走馬灯のように、頭の中を駆け巡っていた。安らかな思いが、静かに時を刻んでいた。

 今、ようやく、戦いが終わる!

 だが、その時だった。ある種の違和感が、襲い掛かってきた。

 何だ?

 どうしたというんだ?

 先ほどまで、肛門絶対防衛線に襲い掛かってきた便意が、今は、跡形もなく消え去っている。

 どうしたんだ?

 何が、起きているんだ?

 今、あれほど夢見た便器の上に、座っているというのに、ウンコが出てこない。

 なぜだ?

 なぜなんだ?

 問いかける声に、こたえる者はいなかった。

 その瞬間、はたと思い浮かんだ。

 さっきまであれほど熱心にウンコを我慢していた。これは、その反動ではないのか?

 要は、我慢しすぎたんだ。我慢しすぎて、直腸内のウンコは、排泄作用に対して、反抗的態度をとるにいたったのでは、あるまいか。

 クソッ!

 なんということだ!

 あれほど捜し求めたトイレに、やっと出会えたというのに、今は、ウンコが出てこない。

 何たる皮肉!

 何たる不幸!

 しかし、男というものは、これしきのことで、あきらめてはならない!

 戦うんだ!

 たとえ運命が、試練の雨を降らせたとしても、こぶしを握り締める力が残っている限り、戦い続けるんだ!

 そう考えると、下腹に力を入れた。

 反抗上等だ!

 もしウンコが排泄を拒否するというのなら、その反抗的態度ごと、体外に排泄してやろうではないか!

 こうなれば、ウンコに対して、真っ向勝負を挑むより他はない!

 呼吸を整え、渾身の力を下腹に込める。ウンコは、激しい抵抗をしていたが、そんなものに配慮してやる優しさなど、ここでは無用だ。そうだ。今、この名も知れないハンバーガーショップのトイレは、戦場となるんだ。情け無用の排泄バトルロワイヤルだ。

 呼吸を止めて、いきり立つ。

 肛門が、ゆっくりと扉を開いていくのを感じる。

 そうだ!

 その調子だ!

 何度も何度も、呼吸を止め、何度も何度も下腹にあらん限りの力を込める。やがて、肛門から、ウンコが顔をのぞかせる。

 そうだ!

 ついに突破口を切り開いたぞ!

 ここからが、本当の勝負だ!

 駆け引きなど存在する余地のない総力戦だ!

 だが、そんな意気込みとは裏腹に、戦線はこう着状態に陥っていた。肛門から、親指の先ほどの頭を除かせたウンコは、そこからは、頑として排泄を拒んでいる。

 クソッ!

 なかなか手ごわいぞ!

 認めてやるしかない!

 このウンコの根性だけは!

 何度も何度も戦いは、繰り広げられた。だが、そこからは一進一退の攻防が続いた。

 そこで、考え込んでしまった。戦いには、戦略が必要だ。まず、状況を整理しよう。

 今、ウンコは、肛門から、頭をのぞかせている。この緒戦では、目覚しい戦果を挙げたといっていい。だが、その後は、ウンコ側も、激しい抵抗を試みている。

 ここから、どう攻めていくべきか?

 この親指の先ほどの部分を糸口に、ここから一点突破を目指していくべきか?

 それとも、いったんここはウンコをカットして、十分な休養を取り、新たな形で、戦いを再開させるべきなんだろうか?

 おそらく、こうした状況を「フン切りが悪い」というのだろう。正直、こちらにも疲労の色が見えてきた。このまま戦況が、こう着状態に陥れば、さらに苦しくなることも予想される。

 どうする?

 どうすればいい?

 ハンバーガーショップのトイレで、思案に暮れていた。

 その時だった。トイレのドアをノックする音が聞こえた。コン、コンという音が、狭いトイレの中に、響き渡った。

 どれくらいの時間、ここで、ウンコと格闘してきたんだろうか? そろそろ他の客がやってきても、不思議はない。あまりにも長い時間、トイレを占拠していれば、世論が、それを批判するのは、致し方ないだろう。

 ここは、戦いを一時中断し、いったんトイレを明け渡すべきなんだろうか?

 再び、扉の方から、コン、コンという音が聞こえた。さっきよりも、間隔が短く、音は大きくなっている。扉の外の誰かは、明らかにいらだっているようだ。

 仕方がない。

 いったん、ここは戦いを中断するしかないようだ。

 そう決めると、すぐに行動を開始した。

 いったん肛門を閉じて、ウンコを切る。カラカラとトイレットペーパーを取り出し、肛門周りを清掃する。それが終わると、パンツとズボンを上げて服装を整える。その工程を手早く済ませると、扉を開けて、外に出る。

 入れ違いに、メガネをかけた小太りの男が、トイレ内に突進して行った。どうやら、その男のウンコも、離陸寸前だったらしい。

 トイレから出ると、善後策を考えた。

 どうやら便意は一応の収まりがついたようだ。ということは、あの悲惨な便意の嵐は過ぎ去ったということだ。

 ということは、ここでウンコをしなければならないという必然性も、ないといえるのではないか?

 いっそ、自宅に帰って、ゆっくりと処理をした方が、平和的解決が望めそうだ。

 ならば、いったんバス停に戻って、自宅へ帰るか?

 それが、最も効率的な選択に思えた。

 そうだ!

 そうしよう!

 トイレの前を離れて、出口へと向かう。相変わらずスタッフは忙しく立ち働いている。

 来た時と違って、今は平穏な気持ちに包まれていた。やっと、平和でのどかな時が帰ってきた。

 よしっ!

 そうと決まれば、長居は無用だ!

 早速、バス停に引き返そう!

 道々の風景が、来た時とは違って見えた。気持ちひとつで、同じ風景が、こんなにも違って見えるものなのだろうか。今更ながらのように、感じる。

 穏やかな気持ちで、先を急いだ。バス停まで戻って、もう一度バスに乗らなければならない。

 おい、何かを忘れていないか?

 何だったっけ。

 そうだ。

 思い出した。

 あの本屋だ。

 今日は、待ちかねたマンガの発売日だ。ちょっとのぞいてみるか?

 そうだな。平穏な日々を取り戻した今、必要なのは、その生活に潤いをもたらす何かだ。

 自然、足は本屋に向かっていた。さて、その本屋の入り口にたどり着いた時だ。それは、突然やってきた。

 便意だ!

 またしても、直腸内のウンコが、肛門めがけて殺到してきた!

 クソッ!

 どういうことなんだ?

 今、ここで出てくるぐらいなら、何で、さっきハンバーガーショップのトイレで、出てこないんだ?

 美人のわがままに振り回されるのなら、まだしも納得はいく。だが、ウンコのわがままに振り回されるのは、合点がいかない。

 だが、そんな思惑など、まったく意に介することなく、ウンコは、出口を求めていた。

 ふと、今、歩いてきた道を振り返る。さっきのハンバーガーショップは、今はもう遥か彼方だ。一難去って、また一難というヤツだ。

 ハンバーガーショップまで戻るか?

 だが、この便意は、並大抵のモノじゃないぞ!

 果たして、あそこまでもつだろうか?

 突然、肛門の辺りに、差し込むような、ほとばしりを感じる。

 ウンコだ!

 ウンコの大群が、押し寄せてきた!

 思わずケツの周りの筋肉をググッと内側に寄せ、そのまま、全神経を集中して耐える。

 顔が、強張ってくる。

 何とか、もってくれ!

 祈るような思いだった。

 周囲では、平和な日常の光景が織りなされている。その平和の中で暮らす人々にとっては、本屋の前でこわばっている男子高校生の姿は、ずいぶん奇異に映ったに違いない。

 本屋を訪れる人たちが、不思議そうに、こちらを見ている。その視線は気になったが、だからといって、ここで集中を緩めるわけにはいかない。もはや、外見を気にしているゆとりすらない。

 頑張れ!

 頑張るんだ!

 ここをしのぎ切れば、きっと何とかなる!

 その時だった。

 本屋の扉が開いて、アルバイトと思われるお姉さんが出てきた。美人だ。「だいちゃん」のお母さんといい、今日は、やけに美人に縁がある。

 だが、いくら美人に縁があっても、親睦を深められる状態ではなかった。お姉さんは、店から出てくるなり、その場で凍りついている男子高校生に目をとめた。

 やばい!

 やばいぞ!

 絶対、不審に思われた!

 それが証拠に、コッチを見て、声をかけようかどうか迷っている。

 ごまかせ!

 なんとかして、この場は、ごまかすんだ!

 勇気を振り絞って、お姉さんの方を向く。そして、その状態で強張った顔に無理矢理笑顔を作った。

 お姉さんは、明らかに引いていた。気持ちの悪いものを見る目で、おずおずと会釈を返してくる。そして、そのまま店内へと引き返して行った。

 アッ、ちょっと待ってください。

 違うんです。

 怪しい者じゃないんです。

 届かない言葉が、心の内で空しく響いていた。

 ああ、まったくなんて一日だ!

 絶対に誤解された!

 絶対にイカれた野郎だと思われたぞ!

 クソッ!

 運命ってヤツは、本当にままならないものだ!

 だが、そうした悪戦苦闘にも、わずかではあったが、光明が見えてきた。肛門にかかる圧力が、おさまってきたんだ。

 よしっ!

 いいぞ!

 もう少しだ!

 もう少し頑張れば、ここから移動できるくらいまで、回復するだろう!

 なおも、意識を肛門に集中する。ほどなく、便意は、おさまった。ヤツは、雷鳴のようにやって来て、カタツムリのように去って行った。

 よしっ!

 何とか、危機的状況だけは、回避した!

 さて、問題は、これからどうするかだ。便意の第一波は、何とかやり過ごすことができた。だが、やがて用意万端整えた第二波が、やってくるだろう。その前に、何とか行動を起こさなければならない。

 どうする?

 さっきのハンバーガーショップへ戻るか?

 それとも、別の選択肢に賭けてみるか?

 ゆっくり考えている暇もない。

 よし。

 さっきとは反対方向に行ってみよう。

 さっきの道は、ハンバーガーショップにたどり着くまで、トイレはなかった。だが、この状況から考えると、とてもじゃないが、ハンバーガーショップまでは持ちそうにないぞ。

 だが、ハンバーガーショップと反対側に行けば、まだ見ぬトイレに巡り合えるかもしれない。それは、あまりにも小さな可能性にしか過ぎない。だが、その可能性に賭けなければ、勝てない戦いもある。

 そう決心すると、まだ体を動かせるうちに、移動を開始した。

 今のところ、便意はない!

 この隙に距離を稼ごう!

 いつまた第二波が、襲ってくるとも限らない!

 そうなってからでは、遅い!

 その道も、住宅街が広がっていた。時折、そうした一戸建て住宅の中に、アパートが混じっている。のどかな景色だ。穏やかな風が、頬をなでて通り過ぎていく。さっきまでのウンコ地獄が、ウソのようだ。

 だが、ウソではない。その証拠に、下腹部の辺りに、相変わらず違和感がある。この違和感が、便意へとその姿を変える前に、トイレを見つけることが、できるだろうか?

 道の両側に気を配りながら、先を急ぐ。

 せわしなく道の両側に走らせていた視線に、何かが映る。

 何だろう?

 よく目を凝らしてみた。表通りから一本裏に入ったところに、どうやら公園があるようだ。結構、広そうだ。その規模の公園なら、ひょっとすると、トイレもあるかもしれない。

 行ってみるか?

 便意は、まだない。

 よし、行ってみよう!

 歩く向きを変える。住宅に挟まれた小さな路を入る。住宅をやり過ごしたところで、公園の全景が見えてきた。そこに、トイレを探す。

 あった!

 あれは、トイレだ!

 確信が、ある!

 そのトイレは、ここから公園の反対側、ブランコの脇にあった。

 さっきは野生の勘で、ハンバーガーショップにたどり着いたが、こちらの方が断然バス停から近かった。

なんだ。案外、勘というやつは、頼りにならないものだな。そんな思いが、よぎる。

 まあいい。

 早速行ってみよう。

 一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。ウンコ前線が、にわかに肛門へと押し寄せてきた。

 来た!

 第二波の到来だ!

 心なしか、さっきよりもパワーアップしている。

 そうか!

 そういうことか!

 ウンコも、経験値を積んで、レベルアップしたということだろう。

 だが、トイレは、いまや届きそうな場所にある。負けるわけにはいかない。立ち止まって、ケツ周りの筋肉とともに、ウンコ軍を迎え撃つ。

 便意との壮絶な死闘が始まった。歩くことが、できなくなる。今、歩きだしたら、確実に前線は崩壊するだろう。

 この波をやり過ごすんだ!

 周囲からは、子供たちの声が聞こえてくる。

 公園の中では、お母さんに連れられた子供たちが、遊んでいた。三人ほどの子供が、ジャングルジムに、よじ登っている。お母さんたちは、ベンチに座って、子供たちを見ながら、おしゃべりに余念がない。

 少し離れた場所には、三輪車に乗った女の子がいて、そこいらを走り回っていた。そのうちに、果敢にも、砂場の中へ突っ込んでいく。たちまち、三輪車は、サンドバギー状態になった。

 だが、それでも、その女の子は、必死に三輪車のペダルを回そうとしている。

 ガッツのある女の子だ。

 そんな幼い女の子の頑張りが、こちらにも、闘志を分けてくれる。

 あんな小さな女の子でも頑張っているんだ。高校生のお兄さんが、こんなところで負けてはいられない。そんな風に思う。

 やがて、ベンチに座っていたお母さんが、娘の状態に気付く。立ち上がって、砂場で戦う女の子の元へやってきた。

 声をかけられて、女の子は、振り返ってお母さんを見た。だが、三輪車を降りようとはしない。なおも、ペダルを回そうとする。

 ふと、この女の子は、将来、大物になるのではないかという予感がした。

 なるだろう!

 あの不屈の闘志なら!

 ウンコとの戦いも、凄惨を極めていたが、徐々に便意は弱まってきていた。いまだ、予断を許さないものの、これならば、何とかしのげそうだと感じていた。

 そうだ!

 頑張るんだ!

 あと少し!

 ウンコの力は、弱まってきている。

 しのぎきれ!

 そして、ウンコどもに教えてやるんだ!

 人類の強靭な意志を!

 人類は、決してウンコどもの圧力には、屈しない!

 胸に誇りを抱け!

 肛門の括約筋には、力を与えよ!

 ウンコの恐怖に怯える日々は、もういらない!

 さあ、立ち上がるんだ!

 人類は、今日こそウンコから解放されて、自由を手にするんだ!

 心の中で、雄々しい雄叫びをあげながら、戦い続けた。

 その甲斐あって、便意はかなり収まってきていた。

 よしっ!

 ここまでくれば、なんとか歩けそうだ。

 行くか?

 行こう!

 向こうにそびえ立つ、あのトイレへ!

 決意すると、一歩一歩を踏み出していく。

 いける!

 ウンコは、猛烈な反撃に出会って、その力を弱めている。

 さあ、チャンスだ!

 公園の地面に勇気と誇りとを刻みつけて、トイレへと迫る。

 しだい、しだいにトイレの姿が大きくなる。今はもう、トイレの壁に刻み込まれた、男マークも、女マークも、見える。そのひと組の男女は、まるで織姫と彦星のように、トイレの両端に引き裂かれていた。

 いつか、あの二人は、結ばれることがあるんだろうか?

 そんなことを考えているうちに、トイレは、目の前まで迫ってきていた。

 よし、便意も収まってきた!

 さあ、トイレへ入ろう!

 だが、その考えは甘かった。まだ第二波が去りきらぬうちに、第三波がやってきた。その衝撃に、思わず足が止まる。

 クソッ!

 こんなところで!

 いや、まだ勝負はついていない!

 頑張るんだ!

 耐え忍ぶんだ!

 トイレの壁が、すぐそこにあった。その壁に左手をつけて、うつむいたまま、必死に戦い続ける。おそらく、ここがこの戦いの天王山になるだろう。ここをしのぎ切れば、勝利が見えてくる。

 そうだ!

 今は、目先の苦しさに、目が、奪われているかもしれない。

 だが、それは、とりもなおさず、勝利が目前に迫っているということでもあるんだ。

 そう考えると、少し気持ちが楽になる。

 気がつくと、太陽が、空に紅の色を投げかけている。夕刻が迫ってきている。子供たちに付き添ってきていたお母さんたちも、そのことに、気づいたようだ。

「あかねちゃぁん、お家に帰るわよぉ」

「けんちゃぁん、そろそろ行くわよぉ」

 そんな、のどかな声が聞こえてきた。

 そうか。

 もうそんな時間になっていたのか。

 どうやら、知らないうちに、時間は矢のように過ぎ去っていたらしい。

 遠くから風に乗って、いい匂いが、漂ってくる。どうやら、すでに夕食の支度を始めている家も、あるらしい。

 戦いの中に生きる男には、そんなありふれた家族のぬくもりさえも、懐かしく思えてくる。

 ふと気付くと、便意は、弱まってきている。

 そうだ!

 今なら、トイレの中に移動することも、可能かもしれない!

 行ってみるか?

 自信はない。

 たが、ためらいからは、なにも生まれてこないのも事実だ。

 思い切って、挑戦してみよう!

 そう決意して、右足をソロリと前に出してみる。

 大丈夫だ!

 何ともない!

 次は、左足だ。

 ソロリと前に出す。

 いける!

 よし、次は、また右足だ!

 そんな具合に、亀のような歩みで、トイレの中に一歩、一歩迫っていく。トイレの扉が、もう目の前にある。

 よしっ!

 いいぞ!

 あとは、この扉を開ければ、戦いは終わる!

 フィナーレだ!

 だが、トイレの扉を開けた瞬間、またしても驚愕の事実が明らかになった。

 そもそも、この公園のトイレは、ロクに掃除していなかったらしい。そのため、トイレの中は、かなり汚れていた。いつのものかは、わからないが、古い新聞紙や、藁のようなものが散乱している。

 まあ、それだけなら仕方ないと諦めることもできる。

 最も驚いたのは、便器だった。

 その便器の縁には、干からびたウンコが、こびりついていた。

 オー・マイ・ゴッド!

 アウト・オブ・バウンズじゃないか!

 おまけにクサい!

 そうだったんだ。

 初めに公園のトイレを発見した時から、こういう事態は予測しておくべきだったんだ!

 だいたい、学校のトイレと違って、公園のトイレには、掃除当番がいない。おそらくは、近所の人のボランティアで、維持されてきたんだろう。

 いや、待てよ。

 ということは、この辺りに住んでいる連中は、公園の手入れもしないふざけたヤツらなのか?

 でも仕方ないか。

 自分だって、公園の掃除なんて、やったことがないんだから。

 その臭気には耐え難いものがあったが、今は、時間に余裕がない。文句を言っている場合じゃないだろう。

 やむを得ない!

 ここで済ませるか?

 それしか、ないだろう!

 とりあえず、トイレの中に入る。

 扉を閉めて、鍵をかけると、ズボンとパンツをおろし始めた。

 しかし、クサい!

 鼻が曲がりそうだ!

 それを我慢して、しゃがみこんだ。

 さあ、今こそふざけたウンコのヤツを、外界へと放り出す時が来たんだ!

 さあ、肛門全開だ!

 いや、ちょっと待て!

 その前に発射角を調整するべきだろう。

 そうでないと、ここでまた、アウト・オブ・バウンズの悲劇を繰り返すことになる。

 そうだ!

 そうしよう!

 便器の上にまたがったまま、位置を微調整する。

 いいだろう!

 これならウンコは、便器の中に、きれいに収まるはずだ!

 それだけ確認すると、この凄惨な戦いに終止符を打つべく、下腹部に力を入れた。みるみる肛門が緩んでいく気配が、伝わってくる。

 次の瞬間、先ほどから悩みのタネであったウンコが、けたたましい音とともに、便器の中へ飛び出してくる。えもいわれぬ満足感があった。

 長い戦いだった。

 だが、この戦いは、ついに人類の勝利に終わったのだ!

 ふと、これまでの道のりが思い起こされてくる。始まりは、朝の目覚めからだった。起きた時のあの違和感。もっと注意しておくべきだったのかもしれない。あの時に気づいていれば、これほどまでに悲惨な運命は待ち受けていなかったかもしれない。

 だが、あるいは、仕方がなかったのかもしれない。人は、いつだって過ぎ去って初めて、自分の過ちに気付くものなのだから。

 そして、帰宅途中のバスの中、突然襲ってきた便意という名の悪魔。

 バスを降りてからの、短くも長い旅路。

 故障中だったコンビニのトイレ。

 やっとの思いで辿り着いた、ハンバーガーショップのトイレ。

 さまざまな思い出が、走馬灯のように思い起こされた。

 だが、まあ、それも今となっては懐かしい思い出だ。いつかきっと、笑って話せる時も来るだろう。

 それに、この厳しい戦いも、いつの日か、明日を生きる勇気に変わる日が来るかもしれない。その日まで、この思い出は胸の内にしまっておけばいいさ。

 今日の戦いは、ここまでだ!

 さあ、もう夕食の時間だ!

 帰ろう!

 懐かしの我が家へ!

 その時だった。

 ふと気付いた。

 さっきから目の前にある、トイレットペーパーホルダーには、トイレットペーパーが入っていない。

 ジーザズ・クライスト!

 なんということだ!

 運命は、ここまで来て、こんな悲劇を用意していたなんて!

 もちろん、ティッシュペーパーなんていうものは、持っていなかった。

 クソッ!

 甘かった!

 どうする?

 どうすればいい?

 考えろ!

 考えるんだ!

 どうすれば、この苦境を乗り越えられる?

 とにかく、ウンコで汚れた肛門周りの清掃業務は、おろそかにすることは、できない。

 肛門を拭くものは、何か、ないだろうか。

 トイレの中には、古い新聞紙が散らばっている。いつのものなのかは、わからないが、しわくちゃになって、黄色く変色している。

 これを使うか?

 いや、しかし、これだと、かえって汚れそうな気もするが。

 しかも、どう見ても量が足りなさそうだ。

 では、他に何かないか?

 何もない!

 万事休すだ!

 じゃあ、肛門の周りを拭くことなく、そのままにしておくか?

 いや、ダメだ!

 考えてもみるがいい。

 ウンコが、パンツにこびりつく程度ならまだいい。

 だが、そのウンコが、パンツを侵食し、ズボンにまで到達したらどうなる?

 ウンコのシミのついたズボンで、学校生活を送れというのか?

 それは、いくらなんでもできないだろう!

 考えろ!

 考えるんだ!

 ここまでなんとか、やってきたんだ!

 この苦境も、きっと知恵と工夫で、乗り切れるはずだ!

 あきらめては、ならない!

 次第に、トイレの中も寒くなってきた。おそらく外は、夕暮れのはずだ。グズグズしている暇はない。ここで夜を明かすなんて、ごめんだ。おまけにここで一晩過ごしたからと言って、それで何かが解決するわけじゃない。

 じゃあ、どうする?

 なにも手がなければ、ここから出ることはできないぞ。

 その時、ふと思い付いた。

 パンツを使ったら、どうだろう?

 つまり、今はいているパンツを使って、ウンコをきれいさっぱり拭い去る。しかる後、自宅までノーパンで帰る。

 どうだろう、このアイディアは?

 なに、ズボンをはいているんだ。ノーパンだからって、別に問題はないだろう。恥ずかしいものを見られる危険が、あるわけじゃないんだ。

 この新しいアイディアについて、さまざまな角度から検討してみた。だが、特に問題はないように思えた。

 そうだ!

 パンツだ!

 パンツを使おう!

 よし。そうと決まれば、善は急げだ。あまり遅くならないうちに、帰らなければならない。

 その薄汚れたトイレの中で、いったんズボンを完全に脱ぐ。次は、パンツに手をかける。

 よし!

 パンツ・オフ、完了!

 脱いだパンツを使って、肛門の周りを丹念に拭いた。

 よしっ!

 これで、キレイキレイになったぞ!

 いまや、肛門周りまで、ピッカピカだ!

 そうさ。人間、どんな時もあきらめちゃいけないんだ。あきらめなければ、道は開けるものさ。

 だが、そこでまたひとつ、新たな問題が発生した。このウンコで汚染されたパンツをどうしよう?

 ここに、捨てていくか?

 いや、しかしただでさえ汚れたこのトイレを、さらに汚してしまってもいいものか?

 それは、人として許されることなんだろうか?

 その時、はたと思いだした。

 そうだ!

 昨日、シャーペンの芯が切れていたから、学校へ来る途中コンビニで買ったんだ!

 その時に、コンビニ袋に入れてもらったはずだ!

 あんなにちっちゃなシャーペンの芯に、袋が必要なものなのかどうかと疑問に思ったが、急いでいたのでそのまま受け取ってきた。

 確か、その袋を学校でかばんの中に突っ込んで、そのままになっていたはずだ。

 すぐに、鞄を探ってみる。

 あった!

 コンビニ袋だ!

 よし、汚染パンツをこの中に入れよう!

 帰る途中、さっきのコンビニに捨ててくればいいさ。

 素晴らしい!

 これで、すべての問題が、解決したぞ!

 トイレから出てみると、太陽が西の空で最後の別れを告げていた。急いで、さっきのコンビニまで行って、そこのゴミ箱に汚染パンツを捨てる。そして、バス停へと戻った。

 再び取り戻した平和を、しばし、かみしめてみる。

 いや、なに、すべて終わってしまうと、今日は貴重な経験をしたんじゃないか。そんな風にも思える。

 人間あきらめなければ、どんな窮地の中でも道は開けるものだ。そんな教訓を学んだ気がする。

 だが、まあいい。

 とりあえずは、早く家へ帰ろう。

 夕闇せまる町の風に吹かれながら、そんなことを考えていた。


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