ウンコという名の悪魔
ウンコだ。
ウンコをしたい。
唐突に思った。学校帰りのバスの中でのことだ。
その日は、朝から腹の具合が良くなかった。何か悪いものでも食ったのかな。そんな疑問が頭をかすめていた。
だからといって、その時には、別に便意というものが、あったわけではない。だから、いつも通りにバスに乗って、登校した。
授業中も、お腹のあたりに、違和感があった。それでも、どうということはなかった。
体育でサッカーをやっても、支障はない。ただ、ちょっとした違和感があって、ゴール前三メートルの位置から、フリーのシュートを外したくらいで済んだ。
そうだ。その違和感が、緊急事態に発展することもなかったんだ。
そして、今だ。
突然に、便意が、襲ってきた。そう、それは、まさに突然だった。
誰かが、言っていた。人生ってヤツは、一寸先は闇だと。何が起きるか、わからないと。まさに、その通りだった。
ある人は、初めて出会った人に、突然、恋に落ちる。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、突然、万有引力の法則を思い付いた。
そう、まさに、そういう出来事だった。
帰宅途中だった。
いつも通り、通学バスの一番後ろの席に座っている時だった。
何かが、腹の中でうごめいたと思った時には、もう手遅れだった。猛烈な便意は、今、まさに、肛門という名の防壁を突き破って、外界へと、生まれ出ようとしていた。
「マズイ!」
そう、ここでは、マズイんだ。
というのも、ここは帰宅途中のバスの中なんだ。人間社会には、動物の群れと違って、ルールというものがある。いきなりバスの中で、ズボンをおろしてウンコをするわけには、いかない。
当然だ。そんなことをすれば、バスの乗客すべての視線を集めることは、請け合いだろう。
バスの中で、ウンコをする。
それは、人類が、今迄に築き上げてきた、人間の尊厳に対する挑戦だ。神をも恐れぬ行為と言っていい。
そして、この社会では、ルールから外れた人間には、生きる場所さえ与えられない。
それだけではない。今後、いかなる形でも、社会復帰することは、できないだろう。
おまけに通学用のバスには、トイレが付いていないし、同じ学校の連中だって乗っている。どこか別の場所で、このウンコを排出する必要があった。
あわてて、辺りを見回してみる。
普段は、通学途中のバスから見える風景なんて、気にもしていなかった。だから、バスコースの途中にあるトイレスポットも、知らない。
どうすればいい?
気持ちばかりが、焦る。だが、こんな時に限って、窓の外には、関係のないのどかな景色が、続いている。
ちょっと、待て。
ここは、ひとつ冷静になろう。冷静になって考えるんだ。
まず、今はバスの中だ。家にたどり着くには、まだ二十分ほどかかる。肛門絶対防衛線の方は、そんなに待ってくれそうもない。おまけに自宅近くのバス停付近には、トイレスポットもない。
さらに、バス停から自宅までは、十分ほどかかる。
だとしたら、このままバスに乗っているのは、愚かな選択というより他はない。とにかく、まずは、このバスを降りることだ。後のことは、それから考えればいい。
そう決心すると、バスの停車ボタンを押した。
とにかく、次の停留所で下りて、そこでトイレを探そう。
いつもは、何とも思わないバスのスピードが、こんな時には、やけに遅く感じる。やがて、バスはブレーキを踏んで、スピードを落とし始めた。バス停に近付いたようだ。
頭を働かせて、次に、何をすべきかを考えた。
バス停に着いたら、バスを降りる。ここまでは、確定事項だ。だが、その後はどうする?
と考えている間に、早くもバスは止まってしまった。ブザーが鳴って、降り口の扉が開く。
ええい、仕方がない。とにかくバスを降りることだ。
だが、あわてて降りれば、ただでさえ破裂しそうな肛門がヤバい。いいか、落ち着けよ。落ち着いてゆっくりと、だ。
チンタラ降り口に向かっていると、車内の乗客の視線が矢のように突き刺さってくる。
わかってる! わかってるんだよ、アンタたちがイラついているのは!
でもなあ、こっちにも仕方のない事情ってものがあるんだよ。だから、少しだけ我慢してくれよ。頼むからさ。
ようやく降り口にたどり着く。だが、問題は、ここからだ。昔から、よく言うじゃないか。百里を行くものは、九十里を半ばとするってね。
そうさ。ここが肝心だ。
階段だよ。階段があるんだよ。三段ほどのヤツが。
下手な降り方をすれば、ケツの裂け目からドス黒いミソが、ここぞとばかりに、飛び出してくるだろう。ここは、一段一段確実にいくぞ。
時間をかけて、やっとの思いで、階段という関門をくぐりぬけて、バスを降りる。
よしっ!
やったぞ!
やったんだ!
後ろでブザーが鳴って、バスの扉が閉まる。ほどなくバスは、排気ガスとエンジン音をその場に残して、走り去っていく。
さて、まずは一つの関門は、無事通り抜けた。
それで、これから、どうする?
どうしたらいい?
じっくり考えている暇はない。辺りを見渡す。
そうだ。こんな時こそ、状況判断が、大事なんだ。
その辺りは、閑静な住宅街のようだ。いっそ、どこでもいいから、その辺の家に飛び込んで、トイレを借りるか?
いや、ちょっと待て。それはマズいだろう。
もし、その家が、高校の同級生の家だったらどうする。ソイツは、たちまちのうちにこの一件を、クラスメートに言いふらすだろう。
そうしたら、どうなる?
考えるまでもない。厚かましくも、赤の他人の家でウンコをした男のたどる末路など、改めて問うまでもないことだ。当然のように、ウンコマンの伝説が語り継がれることになる。
そして、こういうことが、起きるんだ。
「あ、ごめん、トイレ、じゃなかった、消しゴム、貸してくれ」
こんな笑えないギャグを口走るヤツが、必ず現れるだろう。
おそらく十年後くらいには、学校の七不思議に、ウンコマンの項目が加わることになる。それだけは、避けなければならない。ごく普通の高校生という仮面は、今、ここで外すべきじゃない。
落ち着け!
落ち着いて、まわりを見てみろ!
神は、困った人を見捨てたりはしない。
そうさ。落ち着いて考えれば、何か解決策は見つかるはずだ。
その時だった。視界の隅に、何かの違和感を感じた。
何だ?
何が、あるというんだ?
もう一度、そちらの方を見てみる。きっと、そこに、何かが、あるはずだ。注意深く見てみる。
あった。
これだ。
これが違和感の正体だ。
そこには、本屋があった。その本屋の入り口には、新刊のマンガのポスターが貼ってある。
そうか。
そうだったんだ。
今日は、大好きなマンガの発売日だ。そういえば、ずいぶん前からこの日を楽しみにしてきたじゃないか。今朝から、腹の調子が悪かったんで、うっかり忘れていた。
て、そこじゃないだろ!
今、考えるべきところは、そこじゃないんだ!
マンガもいい。だけど、今考えるべきことは、アナルの内側で、この世に生れ出る時を、今や遅しと待ちかまえている黒い塊なんだ。
ウンコだ!
今、考えなければならないことは、ウンコなんだ!
いいか。どんなことでもそうだ。優先順位ってものがあるだろ。今、この瞬間、優先順位のリストで第一位の座を占めているのは、この厄介なウンコという代物なんだ。
その時だ。視界の中に、何かの看板のようなものを見つけた。ソイツは、自分の存在をひたむきに主張するように、そそり立っている。
目を凝らして、もう一度見てみる。確かに、そこには、看板がある。
コンビニの看板だ!
なんという幸運!
なんという運命!
偶然降りたバス停で、コンビニを見つけるなんて。地獄に仏とは、こういうことか。お釈迦さまが垂らした蜘蛛の糸が、今、目の前にある。
距離は、百五十メートルほどだろうか。充分間に合う距離だ。だが、まだ安心するのは早い。なぜなら、まだコンビニに着いたわけでは、ないからだ。
いや、コンビニに着くだけでは、まだダメだ。コンビニのトイレの中まで進入して、初めて安心するべきだ。これからまだ、何が起きるか予断を許さない。
よし。行くぞ!
あのコンビニへ!
この戦いの終焉の地へ!
そう思うと、まずは右足を一歩踏み出す。ウンコとの戦いにおいて、人類がこの大地に記す偉大なる一歩だ。つづいて、左足。いいぞ。そうだ。そうやって、道を刻んでいくんだ。自由と解放への道を。
肛門内の圧力は、上昇し続けていた。やけに遅い足取りで、コンビニを目指す。気安く動くと、排泄物の圧力に負けそうだった。
頑張れ!
頑張るんだ!
ここであきらめたら、すべてが水の泡だ。人間というヤツは、あきらめた瞬間に負けが確定するんだ。あきらめさえしなければ、必ずチャンスはある。たとえ、それが、ウンコとの戦いであったとしても。
いつもなら、あっという間に着くはずの距離が、今日は、やけに長く感じる。果てしなく長い旅の途中にいるようだ。
だが、決して負けてはいけない!
気持ちを強く持つんだ!
ゆっくりとした足取りは、だが、確かに、その距離を稼いでいた。
次第にコンビニの姿が大きく見えてくる。もう、雑誌コーナーで立ち読みしている人の姿までが、確認できるようになった。
そうだ!
やっと、ここまで来たんだ!
あと、もう少しだ!
もう少し頑張れば、安らぎの時へと、たどりつける。
そして、ついに、コンビニの駐車場へと歩みを進める。駐車場では、パートのおばさんが、掃除をしていた。
「いらっしゃいませ」
おばさんが、威勢のいい声をかけてくる。
いい挨拶だ。
ここは、返事をすべきだろうか?
それが、人としての常識なんだろうか?
いや、だが、今は、声を出すわけにはいかない。そんなことをしたら、臨界点ぎりぎりまで来ている防衛線が、一気に崩壊しかねない。何とか努力して、ひきつった笑顔を返す。
もう少しだ!
もう少しで、店内に到達する!
いいぞ、ゴールが見えてきた!
やっとの思いで、コンビニの自動ドアの前に立つ。
ふと、気が緩んだその瞬間だった。突然、後ろから、何かが、ドスンとぶつかってきた。その衝撃が、肛門に思いもよらぬ動揺を与える。ここまで、辛くも保ってきた均衡が、もろくも崩れそうになる。
ダメだ!
あきらめちゃいけない!
ここであきらめたら、何のためにここまで頑張ってきたのか、わからなくなる。ケツ周りの筋肉を総動員して、肛門に展開する括約筋の援護に充てる。
視界の中に、元気よく店内に駆け込んでいく子供の後ろ姿が、映った。
クソッ!
あのガキか!
背後から、のどかな声が、飛んできた。
「だいちゃぁん、走っちゃだめよ。危ないからね」
女の声だ。
母親か?
あのクソガキの名前は、「だいちゃん」というのか。
だい……何だろう?
大輔か。
それとも、大三郎か。
いや、ちょっと待て。今、考えるべきは、そこじゃないだろう。
そうだ!
とにかく今は、この窮地を脱出することの方が先だ!
「すいません、本当に」
「だいちゃん」の母親と思しき女性が、すれ違いざまに声をかけていく。
若い!
美人だ!
バストは、推定九十七センチ。守備範囲だ。
オイッ!
何を考えているんだ、バカヤロウ!
余計なことを考えるな!
集中しろよ、集中!
今は、このピンチをしのぎきることだけを考えるんだ!
店内では、「だいちゃん」とその母親が笑顔で買い物を楽しんでいる。時折、入り口でジッとしている妙な高校生の方を見て、怪訝そうな顔をする。
そうか。
今更ながらのように思う。
ここで、こうして凄絶な戦いの中に身を置いている少年がいることなど、誰も知らないんだ。誰も知らないこの世界の片隅で、少年は、たった一人で、戦い続けている。
だが、その少年の周りでは、のどかで平和な日常という時が、過ぎているんだ。その平和な日常が、いかにもろく、はかなく、崩れやすいものか、ということに、誰も、気づかずに。
そうだ。
この不幸は、誰の上にも起こりえる。
便意という名の悪魔は、時と場所を選ばない。その悪魔に魅入られた者は、誰であろうと構わない。一瞬にして、平和な日常から、凄惨な戦いへと駆り出されてしまうんだ。
そうだ。
これは、そういう種類の戦いなんだ。
そして、それが戦いである以上、負けることは許されない。
戦いにおける真実は、ただひとつ、勝つことだ。勝つことだけが、真実であり、正義であり、生きる権利なんだ。敗者には、何も残らない。「ウンコちびり」と呼ばれ、バカにされ、遠ざけられ、忌み嫌われる。戦いに負けるとは、そういうことなんだ。
だから、負けてはならない。自分の中の勇気を総動員して、なんとか持ちこたえる。
おお、だんだん便意がおさまってきたぞ。どうやら、わが肛門とその周りに展開する筋肉が、この戦いに勝利をおさめそうだ。
いいぞ。その調子だ!
頑張れ!
頑張るんだ!
勝利は、もう目の前だ!
努力の甲斐あって、やがて、便意は終息の方向へと向かった。よし。これなら、歩けそうだ。
用心しながら、一歩前に出てみる。
大丈夫だ。
何ともない。
よしっ、いけるぞ。
次の一歩を踏み出す。
やっぱり大丈夫だ。
周囲の状況を確認すると、用心深く店の隅に設けられたトイレへと、歩いて行く。雑誌コーナーの背後を回り、立ち読みしている人を避けながら、なんとか、トイレを間近に、おさめることができた。
よしっ!
ここまでくれば、勝ったも同然だ!
あとは、トイレのドアを開け、中に入って便器に座ればいい。
だが、「好事魔多し」とはよく言ったものだ。トイレの扉の前に立った時、衝撃の事実が襲いかかってきた。トイレの扉には、「故障中、利用禁止」と書いた札がぶら下がっていたんだ。
何ということだ!
ここまで気の遠くなるような戦いを繰り広げてきたというのに、神は、さらに過酷な運命を背負わせようというのか!
クソッ!
これまでの戦いは、何だったんだ!
だが、ふと頭の中に別の考えが、浮かんだ。
そうだ!
男子トイレがダメなら、女子トイレを使えばいいじゃないか!
多少、気まずかもしれないが、事ここに至っては、そんなことも、言っていられない。
そうさ。
何も、落ち込むことは、なかったんだ。
そう思い、振り向くと、そこにも驚くべき事実が隠されていた。女子トイレの扉にも、「故障中。利用禁止」と書いた札がかかっている。その札の黒いインクが、自分の運命を暗示しているようにも思えた。
すばやく頭を巡らす。
どうする?
どうすれば、いい?
途方に暮れて、外を眺めていると、犬を散歩させている人がいた。なんて、のどかな風景なんだろう。 たった今、この瞬間、自分にだけ不幸が訪れていることが、恨めしく感じられる。
なぜ、自分だけが?
そんな言葉が、頭の中を駆け巡っていた。
お犬様と飼い主は、コンビニの前を通り過ぎ、角の電柱のところまで、たどり着いていた。
ふと見ていると、犬は、電柱の脇、つまり、コンビニの隣の空き地のところで、腰を落とし始めた。やがて、犬の肛門からは、新鮮なウンコが、飛び出してくる。
そうか。あの犬は、幸せだな。人間社会のルールなど、どこ吹く風だ。
犬は、鎖に繋がれて、自由がない、かわいそうだという人には理解できないだろう。犬は、ああして鎖に繋がれているがゆえに、人間が、決して味わうことのできない自由を手にしているのだ。
それは、「どこでもウンコ」の自由だ。
犬は、いつ何時、どんな場所でもウンコをすることができる。人間は、それをすることはできない。
不思議なものだ。鎖につながれた犬には、自由があり、本来自由があるはずの人間には、自由がない。悲しいことだが、それがこの世界の真実なんだ。
一体、人間は、そんな自由を、どこに置き忘れてきたというんだろう。
その時だった。頭の中で、ささやく声がした。
何だ?
どういうことだ?
その声は、何か重要なことを告げていた。その内容のあまりの突飛さに、一瞬、声を失う。
その声は、こう告げていた。
「犬は、いつ何時でも、好きな場所でウンコをすることが、できる。だが、人間には、それをすることが、できない。だが、もしも、人間が、犬になることができたとしたら、どうだろう?」
その声の意味するところが、次第に理解できてくる。
そうか。
自分を人間だと思うから、こうしてウンコのことで悩んでいるんだ。
だが、犬になれば、どうだ。いや、何も本当に犬になる必要はない。犬のフリをすればいいんだ。
早い話が、こうだ。犬のフリをしていれば、道行く人も、野グソをしたところで、気にも留めない。
そうだ。
犬であれば、それば自然な行動なのだから。
だが、待て!
人間が、犬のフリをする?
そんなことが可能なんだろうか?
だいたい、犬と人間では、体形が違う。犬は、前足も後ろ脚も、ほぼ同じ長さだが、人間は、手と足の長さが違う。だから、人間は、四つん這いになった時、足は、膝をつく格好になる。そんな明らかな違いがありながら、道行く人の目を欺くことが、できるのだろうか。
だが、もしも、それが、本当に可能ならば、検討する価値がある。
考えろ!
考えるんだ!
体形の違いは、何とかごまかせたとしよう。だが、それ以外の点ではどうだ。
犬には、必ず飼い主が付いている。おまけに、首輪と紐も付いている。コイツは、どうするんだ?
そこまで考えて、ハタと思い付いた。
ちょっと待て!
ここは、コンビニじゃないか!
首輪はないとしても、それの代わりになる品なら、あるかもしれない。紐だってそうだ。たとえば、ここにおいてあるナイロンロープで代用することもできる。なんたって、ここは、品揃え豊富なコンビニなんだから。
ひょっとしたら、いけるんじゃないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
だが、一つ重大な問題がある。
飼い主は、どうするんだ?
誰かに頼むか?
いや、論外だ。誰かに頼めば、その相手の目を欺くことはできない。もし、後々脅迫されるようなことになったら、目も当てられない事態に発展する。秘密を知る人間は、最小限にとどめるべきだ。
そこまで考えて、ふと気がついた。さっきの犬がウンコをしていた場所には、電柱が立っていた。そう、コンビニ近くの電柱だ。
たとえば、そこに紐を結びつけておけば、通行人は、飼い主は、コンビニで買い物をしていると、考えるんじゃないか。
そうか!
その手があったか!
だが、待て!
もう一つ重大な問題があった。それは、野グソをしたあと、そのウンコをどうするかということだ。
自宅に持ち帰るべきだろうか?
もちろん、飼い主のマナーから考えれば、そうするべきだ。それは、善良なる市民としては、当然の義務だろう。
だが、もし自宅にウンコを持ち帰ったら、両親は、どんな反応をするだろうか?
あるいは、気づかれないように隠して持ち帰り、トイレで流すか?
でも、臭いは、どうする?
ウンコは、クサい。鼻の利く母親は、臭いで気付いてしまうんじゃないか?
そのプランは、実行可能なようでもあり、不可能なようにも思えた。
では、どちらの可能性に賭けるべきか?
いずれにせよ、時間は差し迫っている。決断しなければならない。
そこまで考えていた時のことだ。
ふと気づいた。
服はどうするんだ?
確かに、冬場には、セーターを着た犬を見かけることがある。だが、今は季節外れじゃないか。
おまけに今着ているのは、高校の制服だ。高校の制服を着た犬なんて、見たことないぞ。
じゃあ、脱ぐのか?
でも、脱いだとして、体毛はどうなんだ?
体に毛が一本も生えていない犬など、犬に見えそうもないぞ。
そうか。
そうだった。
溺れる者は、藁をもつかむというが、どうやら冷静な思考を失っていたようだ。それに、大体発覚した時のことを考えてみればいい。ソイツは、その辺の民家でトイレを借りるより、恥ずかしいぞ。
我に返ると、さっきまで名案だと思えていたものが、とてつもなく、くだらなく思えてくる。どうやら、最後は、かろうじて残った理性の声に、救われたようだ。
サンキュー、マイ理性。
相変わらず、いい仕事をしてやがるぜ。
だが、そうなると問題になってくるのは、この直腸内にたむろするウンコをどうするかということだ。
仕方があるまい。
こうなれば、このコンビニをあきらめて、どこか他の場所でトイレを探すしかないだろう。
だが、間にあうだろうか?
いや、間に合わせるんだ!
そう決心すると、次の行動は早かった。幸い、今は便意もおさまってきている。
よしっ!
行こう!
細心の注意を払って出口へと向かう。
その時には、さっきの「だいちゃん」は、影も形も見えなかった。「だいちゃん」はどうでもよかったのだが、あの母親の方は、電話番号くらい、聞いておくべきだったか?
いや、過ぎたことをくよくよ考えるのはよそう。人間は、過去にこだわるべきではない。明日に向かって生きていくべきなんだ。そして、明るい明日のために今一番重要なのは、ウンコの処理方法だ。
コンビニを出ると、左右を見渡した。
どっちだ?
どっちへ行けばいい?
もしもトイレに臭いがあるとするならば、その臭いをかぎ分けられる鼻がほしかった。だが、そんな便利な鼻の持ち合わせはない。だから、ここは、野生の勘に頼るしかなかった。
思い切って、決断する。
右だ!
右へ行こう!
そう決めると、ゆっくりとした足取りで、コンビニ前の道を右に歩き始めた。まばらに通る車が、穏やかなBGMとなって追い越していく。
肛門付近の緊張関係は、今や極限へと向かっていた。死のサバイバルウォークだ。いつ何時、終末の時が訪れても不思議はない。
右の方に歩いていくと、やはり、民家が、延々と続いている。庭の緑が、目にまぶしい。
いつもと変わらない日常。
いつもと変わらない毎日。
ついさっきまでは、自分もその中にいた。
そうだ。そんないつもと変わらない毎日を送れるということは、あるいは、奇跡ともいえる輝きではなかったか。今更ながらのように、そう思う。
だが、嘆いてみたとしても、失われた日々は帰ってこない。
だから、取り戻すんだ!
あの笑顔のある場所を!
何の不安もなかった、あの日々を!
そのためには、今は戦わなければならない!
戦って、取り戻すんだ!
そんな時だった。どこにでもあるハンバーガーショップの高い看板が、目の中に飛び込んできた。その看板は、威厳を持って、そびえ立っていた。
おお、コイツはいい!
ハンバーガーショップになら、トイレだってあるだろう。
だが、何も注文せずに、トイレだけの利用だと、イヤな顔をされてしまうだろうか?
されるかもしれないな。
いや、きっとイヤな顔をされるだろう。
だが、今のこの状況は、普通とは違う。ここは、ひとつ「緊急避難」ということで、何とかならないだろうか?
そんなことを考えているうちにも、視界の中にハンバーガーショップが近づいてくる。心なしか、便意も、おさまってきているように感じる。足取りも軽くなってきた。
いけるんじゃないか。
今度こそ、手ごたえを感じる。
そして、ハンバーガーショップに、たどり着いた。
扉を開けて、中に入る。
カウンターの方に目をやると、スタッフは忙しく立ち働いていた。入り口の方に目をやる余裕すらない。
これは、ラッキーだ。
これなら、いやな顔をされることもないだろう。
店内を見渡して、トイレを探す。
あった!
店の隅の方にトイレの表示がある。
急ごう!
トイレに向かって、歩みを進める。
暗闇の中に、ふと一筋の光明を見出すことがある。そんな出来事だった。仲むつまじく寄り添う男女のマークが、幸福を運ぶ天使にも見えた。
だが、まだ安心してはならない。さっきのコンビニでの悲惨な出来事が、心の中に暗い影を落としている。
まだだ。便器の上に腰を下ろすまでは安心できない。そう、無事、家にたどり着くまでが、遠足なんだ。
さあ、いまやトイレは目の前だ!
扉をチェックしてみる。何も書かれていない。それは、そうだろう。たまたま助けを求めて、飛び込んだトイレが、二回続けて故障中である確率は、天文学的に低いはずだ。
思い切って、トイレの扉に手をかけて開けてみる。中は、掃除が行き届いていて、清潔感あふれる便器が、そこに、たたずんでいた。
中に入って、扉を閉める。
ベルトをはずし、ズボンとパンツをワンセットで下ろす。
さあ、いよいよ本日のクライマックスだ!
便器の上に腰をおろすと、肛門の下で、便器がやさしく待ち構えた。
来たんだ!
とうとう、ここまで、たどり着いたんだ!
感慨が一筋の波のように、心の水面をなでていく。これまでの長い戦いの歴史が、走馬灯のように、頭の中を駆け巡っていた。安らかな思いが、静かに時を刻んでいた。
今、ようやく、戦いが終わる!
だが、その時だった。ある種の違和感が、襲い掛かってきた。
何だ?
どうしたというんだ?
先ほどまで、肛門絶対防衛線に襲い掛かってきた便意が、今は、跡形もなく消え去っている。
どうしたんだ?
何が、起きているんだ?
今、あれほど夢見た便器の上に、座っているというのに、ウンコが出てこない。
なぜだ?
なぜなんだ?
問いかける声に、こたえる者はいなかった。
その瞬間、はたと思い浮かんだ。
さっきまであれほど熱心にウンコを我慢していた。これは、その反動ではないのか?
要は、我慢しすぎたんだ。我慢しすぎて、直腸内のウンコは、排泄作用に対して、反抗的態度をとるにいたったのでは、あるまいか。
クソッ!
なんということだ!
あれほど捜し求めたトイレに、やっと出会えたというのに、今は、ウンコが出てこない。
何たる皮肉!
何たる不幸!
しかし、男というものは、これしきのことで、あきらめてはならない!
戦うんだ!
たとえ運命が、試練の雨を降らせたとしても、こぶしを握り締める力が残っている限り、戦い続けるんだ!
そう考えると、下腹に力を入れた。
反抗上等だ!
もしウンコが排泄を拒否するというのなら、その反抗的態度ごと、体外に排泄してやろうではないか!
こうなれば、ウンコに対して、真っ向勝負を挑むより他はない!
呼吸を整え、渾身の力を下腹に込める。ウンコは、激しい抵抗をしていたが、そんなものに配慮してやる優しさなど、ここでは無用だ。そうだ。今、この名も知れないハンバーガーショップのトイレは、戦場となるんだ。情け無用の排泄バトルロワイヤルだ。
呼吸を止めて、いきり立つ。
肛門が、ゆっくりと扉を開いていくのを感じる。
そうだ!
その調子だ!
何度も何度も、呼吸を止め、何度も何度も下腹にあらん限りの力を込める。やがて、肛門から、ウンコが顔をのぞかせる。
そうだ!
ついに突破口を切り開いたぞ!
ここからが、本当の勝負だ!
駆け引きなど存在する余地のない総力戦だ!
だが、そんな意気込みとは裏腹に、戦線はこう着状態に陥っていた。肛門から、親指の先ほどの頭を除かせたウンコは、そこからは、頑として排泄を拒んでいる。
クソッ!
なかなか手ごわいぞ!
認めてやるしかない!
このウンコの根性だけは!
何度も何度も戦いは、繰り広げられた。だが、そこからは一進一退の攻防が続いた。
そこで、考え込んでしまった。戦いには、戦略が必要だ。まず、状況を整理しよう。
今、ウンコは、肛門から、頭をのぞかせている。この緒戦では、目覚しい戦果を挙げたといっていい。だが、その後は、ウンコ側も、激しい抵抗を試みている。
ここから、どう攻めていくべきか?
この親指の先ほどの部分を糸口に、ここから一点突破を目指していくべきか?
それとも、いったんここはウンコをカットして、十分な休養を取り、新たな形で、戦いを再開させるべきなんだろうか?
おそらく、こうした状況を「フン切りが悪い」というのだろう。正直、こちらにも疲労の色が見えてきた。このまま戦況が、こう着状態に陥れば、さらに苦しくなることも予想される。
どうする?
どうすればいい?
ハンバーガーショップのトイレで、思案に暮れていた。
その時だった。トイレのドアをノックする音が聞こえた。コン、コンという音が、狭いトイレの中に、響き渡った。
どれくらいの時間、ここで、ウンコと格闘してきたんだろうか? そろそろ他の客がやってきても、不思議はない。あまりにも長い時間、トイレを占拠していれば、世論が、それを批判するのは、致し方ないだろう。
ここは、戦いを一時中断し、いったんトイレを明け渡すべきなんだろうか?
再び、扉の方から、コン、コンという音が聞こえた。さっきよりも、間隔が短く、音は大きくなっている。扉の外の誰かは、明らかにいらだっているようだ。
仕方がない。
いったん、ここは戦いを中断するしかないようだ。
そう決めると、すぐに行動を開始した。
いったん肛門を閉じて、ウンコを切る。カラカラとトイレットペーパーを取り出し、肛門周りを清掃する。それが終わると、パンツとズボンを上げて服装を整える。その工程を手早く済ませると、扉を開けて、外に出る。
入れ違いに、メガネをかけた小太りの男が、トイレ内に突進して行った。どうやら、その男のウンコも、離陸寸前だったらしい。
トイレから出ると、善後策を考えた。
どうやら便意は一応の収まりがついたようだ。ということは、あの悲惨な便意の嵐は過ぎ去ったということだ。
ということは、ここでウンコをしなければならないという必然性も、ないといえるのではないか?
いっそ、自宅に帰って、ゆっくりと処理をした方が、平和的解決が望めそうだ。
ならば、いったんバス停に戻って、自宅へ帰るか?
それが、最も効率的な選択に思えた。
そうだ!
そうしよう!
トイレの前を離れて、出口へと向かう。相変わらずスタッフは忙しく立ち働いている。
来た時と違って、今は平穏な気持ちに包まれていた。やっと、平和でのどかな時が帰ってきた。
よしっ!
そうと決まれば、長居は無用だ!
早速、バス停に引き返そう!
道々の風景が、来た時とは違って見えた。気持ちひとつで、同じ風景が、こんなにも違って見えるものなのだろうか。今更ながらのように、感じる。
穏やかな気持ちで、先を急いだ。バス停まで戻って、もう一度バスに乗らなければならない。
おい、何かを忘れていないか?
何だったっけ。
そうだ。
思い出した。
あの本屋だ。
今日は、待ちかねたマンガの発売日だ。ちょっとのぞいてみるか?
そうだな。平穏な日々を取り戻した今、必要なのは、その生活に潤いをもたらす何かだ。
自然、足は本屋に向かっていた。さて、その本屋の入り口にたどり着いた時だ。それは、突然やってきた。
便意だ!
またしても、直腸内のウンコが、肛門めがけて殺到してきた!
クソッ!
どういうことなんだ?
今、ここで出てくるぐらいなら、何で、さっきハンバーガーショップのトイレで、出てこないんだ?
美人のわがままに振り回されるのなら、まだしも納得はいく。だが、ウンコのわがままに振り回されるのは、合点がいかない。
だが、そんな思惑など、まったく意に介することなく、ウンコは、出口を求めていた。
ふと、今、歩いてきた道を振り返る。さっきのハンバーガーショップは、今はもう遥か彼方だ。一難去って、また一難というヤツだ。
ハンバーガーショップまで戻るか?
だが、この便意は、並大抵のモノじゃないぞ!
果たして、あそこまでもつだろうか?
突然、肛門の辺りに、差し込むような、ほとばしりを感じる。
ウンコだ!
ウンコの大群が、押し寄せてきた!
思わずケツの周りの筋肉をググッと内側に寄せ、そのまま、全神経を集中して耐える。
顔が、強張ってくる。
何とか、もってくれ!
祈るような思いだった。
周囲では、平和な日常の光景が織りなされている。その平和の中で暮らす人々にとっては、本屋の前でこわばっている男子高校生の姿は、ずいぶん奇異に映ったに違いない。
本屋を訪れる人たちが、不思議そうに、こちらを見ている。その視線は気になったが、だからといって、ここで集中を緩めるわけにはいかない。もはや、外見を気にしているゆとりすらない。
頑張れ!
頑張るんだ!
ここをしのぎ切れば、きっと何とかなる!
その時だった。
本屋の扉が開いて、アルバイトと思われるお姉さんが出てきた。美人だ。「だいちゃん」のお母さんといい、今日は、やけに美人に縁がある。
だが、いくら美人に縁があっても、親睦を深められる状態ではなかった。お姉さんは、店から出てくるなり、その場で凍りついている男子高校生に目をとめた。
やばい!
やばいぞ!
絶対、不審に思われた!
それが証拠に、コッチを見て、声をかけようかどうか迷っている。
ごまかせ!
なんとかして、この場は、ごまかすんだ!
勇気を振り絞って、お姉さんの方を向く。そして、その状態で強張った顔に無理矢理笑顔を作った。
お姉さんは、明らかに引いていた。気持ちの悪いものを見る目で、おずおずと会釈を返してくる。そして、そのまま店内へと引き返して行った。
アッ、ちょっと待ってください。
違うんです。
怪しい者じゃないんです。
届かない言葉が、心の内で空しく響いていた。
ああ、まったくなんて一日だ!
絶対に誤解された!
絶対にイカれた野郎だと思われたぞ!
クソッ!
運命ってヤツは、本当にままならないものだ!
だが、そうした悪戦苦闘にも、わずかではあったが、光明が見えてきた。肛門にかかる圧力が、おさまってきたんだ。
よしっ!
いいぞ!
もう少しだ!
もう少し頑張れば、ここから移動できるくらいまで、回復するだろう!
なおも、意識を肛門に集中する。ほどなく、便意は、おさまった。ヤツは、雷鳴のようにやって来て、カタツムリのように去って行った。
よしっ!
何とか、危機的状況だけは、回避した!
さて、問題は、これからどうするかだ。便意の第一波は、何とかやり過ごすことができた。だが、やがて用意万端整えた第二波が、やってくるだろう。その前に、何とか行動を起こさなければならない。
どうする?
さっきのハンバーガーショップへ戻るか?
それとも、別の選択肢に賭けてみるか?
ゆっくり考えている暇もない。
よし。
さっきとは反対方向に行ってみよう。
さっきの道は、ハンバーガーショップにたどり着くまで、トイレはなかった。だが、この状況から考えると、とてもじゃないが、ハンバーガーショップまでは持ちそうにないぞ。
だが、ハンバーガーショップと反対側に行けば、まだ見ぬトイレに巡り合えるかもしれない。それは、あまりにも小さな可能性にしか過ぎない。だが、その可能性に賭けなければ、勝てない戦いもある。
そう決心すると、まだ体を動かせるうちに、移動を開始した。
今のところ、便意はない!
この隙に距離を稼ごう!
いつまた第二波が、襲ってくるとも限らない!
そうなってからでは、遅い!
その道も、住宅街が広がっていた。時折、そうした一戸建て住宅の中に、アパートが混じっている。のどかな景色だ。穏やかな風が、頬をなでて通り過ぎていく。さっきまでのウンコ地獄が、ウソのようだ。
だが、ウソではない。その証拠に、下腹部の辺りに、相変わらず違和感がある。この違和感が、便意へとその姿を変える前に、トイレを見つけることが、できるだろうか?
道の両側に気を配りながら、先を急ぐ。
せわしなく道の両側に走らせていた視線に、何かが映る。
何だろう?
よく目を凝らしてみた。表通りから一本裏に入ったところに、どうやら公園があるようだ。結構、広そうだ。その規模の公園なら、ひょっとすると、トイレもあるかもしれない。
行ってみるか?
便意は、まだない。
よし、行ってみよう!
歩く向きを変える。住宅に挟まれた小さな路を入る。住宅をやり過ごしたところで、公園の全景が見えてきた。そこに、トイレを探す。
あった!
あれは、トイレだ!
確信が、ある!
そのトイレは、ここから公園の反対側、ブランコの脇にあった。
さっきは野生の勘で、ハンバーガーショップにたどり着いたが、こちらの方が断然バス停から近かった。
なんだ。案外、勘というやつは、頼りにならないものだな。そんな思いが、よぎる。
まあいい。
早速行ってみよう。
一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。ウンコ前線が、にわかに肛門へと押し寄せてきた。
来た!
第二波の到来だ!
心なしか、さっきよりもパワーアップしている。
そうか!
そういうことか!
ウンコも、経験値を積んで、レベルアップしたということだろう。
だが、トイレは、いまや届きそうな場所にある。負けるわけにはいかない。立ち止まって、ケツ周りの筋肉とともに、ウンコ軍を迎え撃つ。
便意との壮絶な死闘が始まった。歩くことが、できなくなる。今、歩きだしたら、確実に前線は崩壊するだろう。
この波をやり過ごすんだ!
周囲からは、子供たちの声が聞こえてくる。
公園の中では、お母さんに連れられた子供たちが、遊んでいた。三人ほどの子供が、ジャングルジムに、よじ登っている。お母さんたちは、ベンチに座って、子供たちを見ながら、おしゃべりに余念がない。
少し離れた場所には、三輪車に乗った女の子がいて、そこいらを走り回っていた。そのうちに、果敢にも、砂場の中へ突っ込んでいく。たちまち、三輪車は、サンドバギー状態になった。
だが、それでも、その女の子は、必死に三輪車のペダルを回そうとしている。
ガッツのある女の子だ。
そんな幼い女の子の頑張りが、こちらにも、闘志を分けてくれる。
あんな小さな女の子でも頑張っているんだ。高校生のお兄さんが、こんなところで負けてはいられない。そんな風に思う。
やがて、ベンチに座っていたお母さんが、娘の状態に気付く。立ち上がって、砂場で戦う女の子の元へやってきた。
声をかけられて、女の子は、振り返ってお母さんを見た。だが、三輪車を降りようとはしない。なおも、ペダルを回そうとする。
ふと、この女の子は、将来、大物になるのではないかという予感がした。
なるだろう!
あの不屈の闘志なら!
ウンコとの戦いも、凄惨を極めていたが、徐々に便意は弱まってきていた。いまだ、予断を許さないものの、これならば、何とかしのげそうだと感じていた。
そうだ!
頑張るんだ!
あと少し!
ウンコの力は、弱まってきている。
しのぎきれ!
そして、ウンコどもに教えてやるんだ!
人類の強靭な意志を!
人類は、決してウンコどもの圧力には、屈しない!
胸に誇りを抱け!
肛門の括約筋には、力を与えよ!
ウンコの恐怖に怯える日々は、もういらない!
さあ、立ち上がるんだ!
人類は、今日こそウンコから解放されて、自由を手にするんだ!
心の中で、雄々しい雄叫びをあげながら、戦い続けた。
その甲斐あって、便意はかなり収まってきていた。
よしっ!
ここまでくれば、なんとか歩けそうだ。
行くか?
行こう!
向こうにそびえ立つ、あのトイレへ!
決意すると、一歩一歩を踏み出していく。
いける!
ウンコは、猛烈な反撃に出会って、その力を弱めている。
さあ、チャンスだ!
公園の地面に勇気と誇りとを刻みつけて、トイレへと迫る。
しだい、しだいにトイレの姿が大きくなる。今はもう、トイレの壁に刻み込まれた、男マークも、女マークも、見える。そのひと組の男女は、まるで織姫と彦星のように、トイレの両端に引き裂かれていた。
いつか、あの二人は、結ばれることがあるんだろうか?
そんなことを考えているうちに、トイレは、目の前まで迫ってきていた。
よし、便意も収まってきた!
さあ、トイレへ入ろう!
だが、その考えは甘かった。まだ第二波が去りきらぬうちに、第三波がやってきた。その衝撃に、思わず足が止まる。
クソッ!
こんなところで!
いや、まだ勝負はついていない!
頑張るんだ!
耐え忍ぶんだ!
トイレの壁が、すぐそこにあった。その壁に左手をつけて、うつむいたまま、必死に戦い続ける。おそらく、ここがこの戦いの天王山になるだろう。ここをしのぎ切れば、勝利が見えてくる。
そうだ!
今は、目先の苦しさに、目が、奪われているかもしれない。
だが、それは、とりもなおさず、勝利が目前に迫っているということでもあるんだ。
そう考えると、少し気持ちが楽になる。
気がつくと、太陽が、空に紅の色を投げかけている。夕刻が迫ってきている。子供たちに付き添ってきていたお母さんたちも、そのことに、気づいたようだ。
「あかねちゃぁん、お家に帰るわよぉ」
「けんちゃぁん、そろそろ行くわよぉ」
そんな、のどかな声が聞こえてきた。
そうか。
もうそんな時間になっていたのか。
どうやら、知らないうちに、時間は矢のように過ぎ去っていたらしい。
遠くから風に乗って、いい匂いが、漂ってくる。どうやら、すでに夕食の支度を始めている家も、あるらしい。
戦いの中に生きる男には、そんなありふれた家族のぬくもりさえも、懐かしく思えてくる。
ふと気付くと、便意は、弱まってきている。
そうだ!
今なら、トイレの中に移動することも、可能かもしれない!
行ってみるか?
自信はない。
たが、ためらいからは、なにも生まれてこないのも事実だ。
思い切って、挑戦してみよう!
そう決意して、右足をソロリと前に出してみる。
大丈夫だ!
何ともない!
次は、左足だ。
ソロリと前に出す。
いける!
よし、次は、また右足だ!
そんな具合に、亀のような歩みで、トイレの中に一歩、一歩迫っていく。トイレの扉が、もう目の前にある。
よしっ!
いいぞ!
あとは、この扉を開ければ、戦いは終わる!
フィナーレだ!
だが、トイレの扉を開けた瞬間、またしても驚愕の事実が明らかになった。
そもそも、この公園のトイレは、ロクに掃除していなかったらしい。そのため、トイレの中は、かなり汚れていた。いつのものかは、わからないが、古い新聞紙や、藁のようなものが散乱している。
まあ、それだけなら仕方ないと諦めることもできる。
最も驚いたのは、便器だった。
その便器の縁には、干からびたウンコが、こびりついていた。
オー・マイ・ゴッド!
アウト・オブ・バウンズじゃないか!
おまけにクサい!
そうだったんだ。
初めに公園のトイレを発見した時から、こういう事態は予測しておくべきだったんだ!
だいたい、学校のトイレと違って、公園のトイレには、掃除当番がいない。おそらくは、近所の人のボランティアで、維持されてきたんだろう。
いや、待てよ。
ということは、この辺りに住んでいる連中は、公園の手入れもしないふざけたヤツらなのか?
でも仕方ないか。
自分だって、公園の掃除なんて、やったことがないんだから。
その臭気には耐え難いものがあったが、今は、時間に余裕がない。文句を言っている場合じゃないだろう。
やむを得ない!
ここで済ませるか?
それしか、ないだろう!
とりあえず、トイレの中に入る。
扉を閉めて、鍵をかけると、ズボンとパンツをおろし始めた。
しかし、クサい!
鼻が曲がりそうだ!
それを我慢して、しゃがみこんだ。
さあ、今こそふざけたウンコのヤツを、外界へと放り出す時が来たんだ!
さあ、肛門全開だ!
いや、ちょっと待て!
その前に発射角を調整するべきだろう。
そうでないと、ここでまた、アウト・オブ・バウンズの悲劇を繰り返すことになる。
そうだ!
そうしよう!
便器の上にまたがったまま、位置を微調整する。
いいだろう!
これならウンコは、便器の中に、きれいに収まるはずだ!
それだけ確認すると、この凄惨な戦いに終止符を打つべく、下腹部に力を入れた。みるみる肛門が緩んでいく気配が、伝わってくる。
次の瞬間、先ほどから悩みのタネであったウンコが、けたたましい音とともに、便器の中へ飛び出してくる。えもいわれぬ満足感があった。
長い戦いだった。
だが、この戦いは、ついに人類の勝利に終わったのだ!
ふと、これまでの道のりが思い起こされてくる。始まりは、朝の目覚めからだった。起きた時のあの違和感。もっと注意しておくべきだったのかもしれない。あの時に気づいていれば、これほどまでに悲惨な運命は待ち受けていなかったかもしれない。
だが、あるいは、仕方がなかったのかもしれない。人は、いつだって過ぎ去って初めて、自分の過ちに気付くものなのだから。
そして、帰宅途中のバスの中、突然襲ってきた便意という名の悪魔。
バスを降りてからの、短くも長い旅路。
故障中だったコンビニのトイレ。
やっとの思いで辿り着いた、ハンバーガーショップのトイレ。
さまざまな思い出が、走馬灯のように思い起こされた。
だが、まあ、それも今となっては懐かしい思い出だ。いつかきっと、笑って話せる時も来るだろう。
それに、この厳しい戦いも、いつの日か、明日を生きる勇気に変わる日が来るかもしれない。その日まで、この思い出は胸の内にしまっておけばいいさ。
今日の戦いは、ここまでだ!
さあ、もう夕食の時間だ!
帰ろう!
懐かしの我が家へ!
その時だった。
ふと気付いた。
さっきから目の前にある、トイレットペーパーホルダーには、トイレットペーパーが入っていない。
ジーザズ・クライスト!
なんということだ!
運命は、ここまで来て、こんな悲劇を用意していたなんて!
もちろん、ティッシュペーパーなんていうものは、持っていなかった。
クソッ!
甘かった!
どうする?
どうすればいい?
考えろ!
考えるんだ!
どうすれば、この苦境を乗り越えられる?
とにかく、ウンコで汚れた肛門周りの清掃業務は、おろそかにすることは、できない。
肛門を拭くものは、何か、ないだろうか。
トイレの中には、古い新聞紙が散らばっている。いつのものなのかは、わからないが、しわくちゃになって、黄色く変色している。
これを使うか?
いや、しかし、これだと、かえって汚れそうな気もするが。
しかも、どう見ても量が足りなさそうだ。
では、他に何かないか?
何もない!
万事休すだ!
じゃあ、肛門の周りを拭くことなく、そのままにしておくか?
いや、ダメだ!
考えてもみるがいい。
ウンコが、パンツにこびりつく程度ならまだいい。
だが、そのウンコが、パンツを侵食し、ズボンにまで到達したらどうなる?
ウンコのシミのついたズボンで、学校生活を送れというのか?
それは、いくらなんでもできないだろう!
考えろ!
考えるんだ!
ここまでなんとか、やってきたんだ!
この苦境も、きっと知恵と工夫で、乗り切れるはずだ!
あきらめては、ならない!
次第に、トイレの中も寒くなってきた。おそらく外は、夕暮れのはずだ。グズグズしている暇はない。ここで夜を明かすなんて、ごめんだ。おまけにここで一晩過ごしたからと言って、それで何かが解決するわけじゃない。
じゃあ、どうする?
なにも手がなければ、ここから出ることはできないぞ。
その時、ふと思い付いた。
パンツを使ったら、どうだろう?
つまり、今はいているパンツを使って、ウンコをきれいさっぱり拭い去る。しかる後、自宅までノーパンで帰る。
どうだろう、このアイディアは?
なに、ズボンをはいているんだ。ノーパンだからって、別に問題はないだろう。恥ずかしいものを見られる危険が、あるわけじゃないんだ。
この新しいアイディアについて、さまざまな角度から検討してみた。だが、特に問題はないように思えた。
そうだ!
パンツだ!
パンツを使おう!
よし。そうと決まれば、善は急げだ。あまり遅くならないうちに、帰らなければならない。
その薄汚れたトイレの中で、いったんズボンを完全に脱ぐ。次は、パンツに手をかける。
よし!
パンツ・オフ、完了!
脱いだパンツを使って、肛門の周りを丹念に拭いた。
よしっ!
これで、キレイキレイになったぞ!
いまや、肛門周りまで、ピッカピカだ!
そうさ。人間、どんな時もあきらめちゃいけないんだ。あきらめなければ、道は開けるものさ。
だが、そこでまたひとつ、新たな問題が発生した。このウンコで汚染されたパンツをどうしよう?
ここに、捨てていくか?
いや、しかしただでさえ汚れたこのトイレを、さらに汚してしまってもいいものか?
それは、人として許されることなんだろうか?
その時、はたと思いだした。
そうだ!
昨日、シャーペンの芯が切れていたから、学校へ来る途中コンビニで買ったんだ!
その時に、コンビニ袋に入れてもらったはずだ!
あんなにちっちゃなシャーペンの芯に、袋が必要なものなのかどうかと疑問に思ったが、急いでいたのでそのまま受け取ってきた。
確か、その袋を学校でかばんの中に突っ込んで、そのままになっていたはずだ。
すぐに、鞄を探ってみる。
あった!
コンビニ袋だ!
よし、汚染パンツをこの中に入れよう!
帰る途中、さっきのコンビニに捨ててくればいいさ。
素晴らしい!
これで、すべての問題が、解決したぞ!
トイレから出てみると、太陽が西の空で最後の別れを告げていた。急いで、さっきのコンビニまで行って、そこのゴミ箱に汚染パンツを捨てる。そして、バス停へと戻った。
再び取り戻した平和を、しばし、かみしめてみる。
いや、なに、すべて終わってしまうと、今日は貴重な経験をしたんじゃないか。そんな風にも思える。
人間あきらめなければ、どんな窮地の中でも道は開けるものだ。そんな教訓を学んだ気がする。
だが、まあいい。
とりあえずは、早く家へ帰ろう。
夕闇せまる町の風に吹かれながら、そんなことを考えていた。