あ
私の記憶が無いのについて、花森さんは「どうにかしないとなあ。」という。私は「別にいいですよ。気にしません。」といった。「それに、あなたのことは忘れないんですから。」
「そうですかね。」
「そうです。」
強く答えた途端、急な頭痛がする。
「あ、なんだ、頭が痛い!」
「ど、どうしたんですかっ!」
私はばたりと倒れる。花森さんが救急車まで呼んでいるのが見える。だんだん視界は狭まって行き、ぷつんと切れた。
「こ、ここは。」
「あ、気が付いたあ。」隣に花森さんがいる。私が体を起こすと、そこは病院でした。
「急に倒れるからびっくりしたんですよ。お医者さんは特に変なところは見つかりませんと言ったけど、倒れたんだから何かあるのよ。」
「そうだね…」
私は考える。でも、何もわからない。
「疲労による疲れだろうって。でも、あなたは働いていないし…」
「そうだよね…」
私は正面を向いた。途端、ぞわぞわと得体の知れない恐怖が這い上がるようにして私を登ってきた。
「あ、ああ!」
「どうしたんですか!」
「お、思い出した。」
「え?」
「私はあの時仕事を辞めて帰ってきてたんだ。ためていたお金が多くなって、他に何かしよう、自分の会社でも欲しいってね。これでいて私もなかなか野心家だったんだ。無謀なことを思いついたもんだ。それで私はまず銀行へ行ってお金をおろした。月の始めだから、一ヶ月くらいもつほどお金を用意したんだ。そうしてそのお金で買い物をして、料理をして、」
「なぜ記憶が?」
「その銀行の帰りに、家に着いたときに、私は、私は」
「どうなったんですか?」
「あ、あれ、思い出せないな。」
私は真っ青な顔をして花森さんを見る。花森さんももうがたがた震えている。
「ーー帰りましょうか。」
そのあと何も言わずに帰った。そして家に着くと私は花森さんを見た。ずっとうつむいている。
「なぜ私なんかと関わったんですか?」私は聞いた。「私の記憶を奪ったのは、あなたじゃないですか!」
あの時、私は確かに花森さんを見た。花森さんは私を見つめていた所ははっきりしている。そして、記憶をひったくられたのだ。そうだ。あの時花森さんは、私に声をかけて、私が振り返ったところを頭をちょっと掴むようにして何かを引っ張ったのだ。ずぶずぶと音がして、私は立てなくなった。上を見上げると、花森さんはこちらを見つめていた。そして私は意識を失った。
「私は、私は記憶を頼り記憶を使い記憶を操ります。私は、そうです、あなたの記憶を奪いました。そうしなければならなかった。私には妹がいました。その妹は、昨年交通事故で死にました。ひき逃げです。まだ犯人は捕まってません。それからずっと妹の事が頭から離れなくて、私はいつも、自分の記憶から外そうとしました。でも、結局手は止まってしまったんです。妹の記憶を消すのは、私の中で妹を殺すことになるから。」
「じゃあなんで私を」
「他の人の記憶できを紛らそうとしたんです。ばかですかね、私は。」
「じゃあなんで」
「あなたの記憶を取ることは、つまりあなたは、死ぬことと同じ。私はあなたの記憶を見ていると、これから幸せを掴むのではないかと思ってしまったんです。あなたはこれから、いろんなことを始めようとしていたから。それを見ていた私がびしょ濡れのあなたを偶然見かけたとき、耐えられると思いますか?!…それから私は、他の人の記憶を見るなんて、他の人になりきるなんて、うんざりしてしまったんです。これでは現実逃避じゃないか、と。と同時にあなたに惹かれてしまった。あなたは記憶を失っても、あっけらかんとしていて、だからあなたは、会社を辞めたことは、自分の記憶を失う準備をしていたようなもので、それであなたは、自分の記憶を取られてもー」
「ではどうして私に記憶を返したんですか。」
「今言ったじゃないですか。私はこんな自分にー」
「嘘、嘘です。あなたは私の記憶を見尽くしたんだ。そうだ、記憶なんて形がないから、一秒もかからずに私の30年間の記憶ぐらいあっさり見たんだ、違いますか?」
「あ…そ、そんなこと」
「そうですよね、あなたは他の人の記憶を今持っているはずだ。花森さんは私になりきっていたと言ったけれども、私が記憶を返されたのは今日で、つまり昨日までは、あなたが持っていたことになる。でもあなたは変わらずあなただった。昨日も、そして今も。いつだって私ではなかった。つまりあなたは他人の記憶と自分の記憶を分けることさえできるんだ。…そんなことをしても妹の記憶のカモフラージュにはなりません。だって、自分と他人を分けて考えてるんだから。」
花森さんは口をぱくぱくさせていたが、やっと「記憶の戻った洞察力のいいあなたは怖いものなしね。」と言った。
「…」
「そう、そうよ、当たってるわ。」
「…」
「よくわかったわね。」
…
「何を考えてー」
「やっぱり違いますね。」
「え?」
「私に記憶を返したあなたは、もう私に会っちゃいけないはずだ、普通は。そう思いませんか。」
「どういうことですか?」
「あなたは私が倒れたとき見つめあったことを知っている。つまり私が目を覚ましたらあなたが私の記憶を奪ったと気付くのは容易なはずだ。だって私があなたを見た記憶もあなたは観たから。でも、あなたは逃げなかった。それは、どんな理由からですか?」
花森さんは黙っていたが、顔を上げて「実は私が今日奪った記憶の中に、妹をひき逃げするところがあったんです。」と言った。
「え?」
「私が今日標的にした人こそがひき逃げの犯人だったんです。私は、とうとう見つけた、と思いました。その人は、仕事場に急いでいて、それで信号を無視したんです。それで、妹をあんなに飛ばしたのに、怖くなって逃げたんです。1年前のことだし、証拠を見つけるのは難しい、と思いました。その人もその車をへこみを直して売っちゃったし…それで」
「それであなたは殺そうとしたんですか?」
「そうです、それしかないと思いました。ですがその前に一目でもあなたを見てからにしようと。殺した後は、自分も死のうと思いました。あなたの記憶の戻ったのを確かめて、罵倒された後、行こうと思ったんです。」
花森さんは持っていた鞄からナイフを取り出して放り投げました。キーンと音がしました。
「私はこれからどうしたらいいですか?」花森さんは涙ぐんでいる。
「そのままでいいのさ。間に合ってよかったもんだ。いつかきっと私といっしょにこっそりとでもいいから記憶をその人に返しに行こう。逮捕なんて、考えないほうがいい。偶然防犯カメラが変なところについてたんだろうからさ。」私が言うと「そうですね、私今日からここへいます。」と応えた。雨は上がり、雲の隙間から出た太陽が窓の水滴を痛いほど照らしていた。




