私とおじいさん
「そいつに触れるのはオレの許可をとってからにしてくれないか? 許可なんて出さないけど」
ただ突きつけるだけでなくすぐにも突き刺せるよう左手でハクさんの首を固定して囁く武山さん。その表情はどこか狂気じみていて、とても私に対するのと同じ人だとは思えない程迫力に満ちていた。
というかそのカッターナイフどっから出したのさ。部屋に落ちてたんだろうか。
私は安堵して、一瞬落ちた間にそんなどうでもいい事を考えてしまう。
当の本人達はそれどころじゃないだろうけど私は特にダメージもなくソファの上で寝そべっているだけだから気楽なもんである。一応背もたれ越しにハルネ先輩の様子を気にしてはいるけれど、この状況では彼女も動きが取れないだろう。
このまま膠着状態に入ってお話し合いかしら? そんな展開が頭を過ぎった刹那、ハクさんが不敵な笑みを浮かべる。
「脳震盪を起こした直後にあまり激しい運動はしない方がいいぞ?」
圧倒的に不利な状態で言う負け犬の遠吠えにしては妙に自信ありげなその言葉に最初は違和感を感じたが、その理由はすぐにわかった。
カッターを持つ手が震えていたのだ。
よくよく見れば視線も微妙に焦点が合っていない。狂気じみて見えたのはその為か。
なんて冷静に分析してる場合じゃない。形勢逆転かと思ったのに全然好転してないじゃないか。
未だ喉元には凶器が突きつけられているというのにハクさんは全く歯牙にもかけた様子はなく、まるでネクタイか何かのようにカッターごと武山さんの腕をぐいっと引っ張ってその身体を床に放り捨てる。武山さんはびっくりするくらい力なく、されるがままに床に倒れこんでしまった。
あんな状態の彼女はこっちでも向こうでも見た事がない。大丈夫だろうか。さすがに心配になる。
「あらら、こりゃマズい。ずいぶん弱ってるじゃないか。すぐにでも病院に連れていかなきゃな」
私が武山さんの様子を心配していると横合いからわざとらしいくらい声を張って入って来たのはハルネ先輩だ。
彼女は未だ抵抗を試みようともがいている武山さんの身体を押さえつけて手際良くその自由を奪った。
万事休す。私達二人は拘束され、短い滞在となったこの世界での我が家に別れを告げた。
再び車に乗せられ、来た道をそのまま辿るように高速道路に乗る。
その先はあまり馴染みのない道なのでわからないけれどハルネ先輩の台詞から多分例の病院に戻るのだろうと思われた。
途中ハクさんがどこかに電話をしていたが声が小さくて聞き取れず、ハルネ先輩が見張っているので近づいて聞き耳を立てる事も出来なかった。
何より私は武山さんの事が心配でそれどころじゃなかった。
彼女も手足を縛られた状態で後部に転がされていたが、先ほどよりぐったりとして脂汗を浮かべ、顔色は白から青白い色へと移り変わって明らかに悪化しているように見えた。
やっぱり倒れてすぐ動いたのが原因かな……いやそれより前に打ち所が悪かったんじゃ……
心配が高じて不安になる。
ハルネ先輩も少しは責任を感じているのか、囚われの身で厚かましくも汗を拭いてやれだの水を飲ませてやれだのと喚く私の要望を困り顔で聞いてくれてはいたが、それでも武山さんの容態が良くなる事はなかった。
やがて車が高速を降り、見覚えのある白い建物の前に停車した時、そこには一人の男の人が立っていた。
ハクさんが真っ先に降り、会釈をしてその男の人に近づく。二、三言葉を交わしたかと思うとすぐに男の人を連れ二人並んで車の方へ戻ってきた。
外側から後部座席側の引き戸が開かれる。
ハクさんの隣にいたのはもう相当お歳を召した感じの白髪で人の良さそうなおじいさんだった。何より気になったのはその人が白衣を羽織っていた点である。
今いるのが病院で、目の前にいるのが白衣を着ている人、となれば真っ先に思い浮かぶのはお医者さんだ。
おじいさんはよっこらしょっと歳相応の掛け声と共に車の中に入ってくると、真っ先に武山さんに近寄り簡単に診察して車を降りた。それからハクさんに短く指示を出してすぐに病棟へと消えてゆく。
次にハクさんが車へと入って来て武山さんを連れ去ろうとしたので私は芋虫の要領で彼に飛び掛った。
「器用だな! 悪いようにはしないから暴れるな」
そう言われてはいそうですかと返せるものか。
白衣と見た目で無条件に信じてしまったけれどあのおじいさんが黒幕という可能性もあるのだ。何の黒幕だか知らんけど。
彼女を一人で逝かせるわけにはいかない。
私がそんな感じの事を言いながら暴れるのでハクさんも駄々っ子を見るような目になって困っていたのだけど、それを見かねたのかそれとも元々そういう予定だったのか、突然ハルネ先輩が私の身体を押さえて自由が奪われたと思うと、次の瞬間には手首を縛っていた縄が解かれていた。同様に足を縛る縄も解かれ、私はわけもわからず自由を得る。
「心配なら一緒に来ればいい。それなら問題ないだろ?」
あっけらかんと言う彼女に毒気を抜かれ、私はぽかりと口を空けたまま頷くしかなかった。
なぜかハクさんも同じ表情をしていた。
事件以後、捜査やら業務停止命令やらで人がいなくなった病院には未だ電気が供給されているらしく、すでに陽の落ちた敷地内には外灯が点いていた。
本来通る人のない無駄な電気の下を不思議な気分でくぐり抜け、おじいさんの消えていった病棟に入ると進むべき道を示すように廊下の電灯が点けられていた。
他に通る者のない無機質な廊下を進む道すがら不安を紛らわせる為にハルネ先輩と話す。
ハルネ先輩、あのおじいさんって誰なんですか?
「あの人は中上博士ってお偉いさん。一応医学の博士号も持ってるって話しだから任せて大丈夫だよ」
博士号って一応で持てるようなもんだっけ?
私の常識からは考えられないスケールの言葉に眉をひそめる。
とはいえハクさんの腕でぐったりと運ばれている武山さんに対して私に出来る事はあんまりない。対処は専門家に任せて変な事をされないように視姦……もとい、監視するのが私の務めというものだろう。
自らの使命を心に刻んで気を引き締めハクさんの後に続く事しばし、たどり着いたのは第一診察室というプレートのかかった細長い小さな部屋だった。
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