私と先輩
キュルリという音を立てて車椅子が動き出す。
キュリキュリ、キュリキュリ。
音と共に車椅子が進み、進むと共に景色が退がってゆく。
人生が終わったような真っ白な気分でその景色の流れを眺め、ただただ状況を受け入れるだけの機械となった私。
車椅子はスロープを伝って階下へ階下へと進み続け、やがて一階まで降りるとロビーのような場所を抜けて玄関へと向かう。今更だけれどここにくるまで一人の人ともすれ違っていない。やっぱりこの病院にはもう人がいないのかもしれない。
玄関を出ると目の前に黒いバンが停められていて、車椅子はその脇につけられた。
あれ…………? なんか思ってたのと方向性が違うような…………
絶望に沈んだ思考に揺らぎが生まれる。
てっきり黒塗りの高級車に詰め込まれてどこか港の倉庫にでも連れてかれるものと思っていたのだが、これはそういうのじゃなくて、もっとこうチンピラというかもどきというか低い地位のアウトローな人達が女子を攫うのに使うようなそういうイメージのある車だ。
私がいつも通りの私ならこの上ない恐怖を感じるところだが、今の私はいつもとは違う。なにせ身体は男の子なのだ。
答えの見出せない私を無視してハエもどきはバンのドアを開き、私の身体を中に移す。
中には男の人が一人、運転席に座っているだけで、私の入れられた後部座席側は背もたれを倒した広い空間が広がっていた。
ハエもどきは後部座席に私を横たえると車椅子を持ってどこかへ消え、しばらくすると手ぶらで戻ってきた。それから車に入ってドアを閉めると、ガスマスクをあごの下からぐっと押し上げて汗だくになった素顔を顕にした。
「っぷ~。あっちかったぁ~」
あうえーんあい!?
その素顔を見た瞬間、私は自分が喋れないのも忘れて思わずその名前を口に出した。
ハエを思わせる気持ちの悪い造型のマスクの下から現れたその人物。それは二日前に知り合ったばかりのちょっとノリのおかしな先輩――――写真部員、光野ハルネ先輩だった。
「きたなっ! よだれだらだらじゃん。ま、あたしの車じゃねーからいいけど」
ハルネ先輩の言葉に運転席から「おい」という不満気な突っ込みが入る。その聞き覚えのある声に目だけ動かして運転席をよく見てみると、それはハルネ先輩のバイト仲間であるハクさんだった。
ああ、この人こっちでもハルネ先輩に振り回されてるんだ。
「出していいよ」
ハルネ先輩の号令でエンジンをかけた車がゆっくりと動き出す。
加速の方向や窓から時折見える建物を見る限り、車は病院を出て大きめの道路へ入ったようだ。小さな路地をくねくねと移動されるとすぐに酔いそうなので少しありがたい。
それにしてもこれはどういう状況なんだろうか。
車内にいるのは私とハルネ先輩とハクさんの三人だけで、当然ながら武山さんは乗せられていない。彼女は未だ病院のベッドの下で転がっているのだろう。
つまりハルネ先輩達の目当ては私という事になるのだけど…………果たしてそれは中身の『篠宮真夏』だろうか。
考えているうちに車は大きい道を逸れ、何度か左折を繰り返して高速道路へ入ったようだった。
見上げる窓の向こうに広がる青い空を標識が高速で過ぎ去ってゆく。
まだ病院を離れて体感で十分程度しか経ってないけど少しずつ身体の痺れもとれている気がする。何かしてきたら噛み付いてやろう。
胸中で密かにそう目論んでいると、それを見透かしたかのようなタイミングでハルネ先輩が私に話しかけてきた。
「気分はどうかな? 白金真冬君」
どうやら私の身体が目当てらしい。この変態め。
ふぉのへんらいめ! えぶふっ。
足らない舌をなんとか回して一生懸命抗議した私に対し、返ってきたのは足の裏でほっぺを踏みつけるという暴挙だった。
ちなみに靴下は履いていた。初心者め。
「思ったより麻酔抜けるの遅いな。ま、いいや。とりあえず危害を加えるつもりはないから安心しな」
いけしゃあしゃあと言い放つハルネ先輩に開いた口が塞がらない。いや塞げないんだけど。
このほっぺに感じる足の感触は幻か。
「武山雪希がいたんでちょっと手荒になったけど、あんたにちょっと協力してもらいたい事があってな。それが終わったら帰してやるよ」
そう言って足でほっぺをぶにゅぶにゅ踏んでくる。まあ踏んでくると言っても車内のことなので体育座りで足を置いているだけなのだけど。履いているのがカーゴパンツなのが悔やまれる。
きぉうりょくしてもらいたいことって?
「あんたの頭ん中にあるやつに用があんだよ」
む? 頭の中って……私の事かな?
っていうか、そもそもどうしてハルネ先輩は私を白金真冬だと思っているんだろう。武山君の話では彼はすでに亡くなっているはずなのだが。
わからないけれど人違いなら早く開放してもらいたいので誠心誠意説明してみる。
わたし、しろがね、ちがう。おk?
「はははは。白金じゃないってんなら誰だってんだよ。父親に違う人間の記憶でも植え付けられたか? あり得る話だけど残念ながら私等が欲しいのはあんたがその身体を動かしている技術そのものさ。それさえあれば頭ん中がパァだって構わないんだよ」
誰の頭がパァやねん。
一部納得いかないところがあったものの、どうやらハルネ先輩の望みは白金真冬自身ではないらしい。けど身体を動かしている技術って、もしかしてこっちの私、真夏Bと白金真冬が入れ替わる原因になったという…………あー、なんとかって機械の事だろうか。
なんていったっけ? なんかアルファベット三文字で頭がBだったのは覚えてるんだけど…………ビー……ビーダブリューエイチじゃなくて…………
「BCI。ブレインコントロールインターフェイスだろ」
ああ、それそれ。もうちょっとで思い出せるところだったのに。
確か頭で考えた命令を発信機を通して義手や義足に伝える技術だったっけか。白金真冬と真夏Bならそれが脳に直接埋め込まれているらしいけど、今私の身体は兄の、篠宮真冬のものだ。期待に応えられそうもない。しかしどう説明したものか。
少し考えた挙句、白金真冬が亡くなっているという事実だけを伝えた。
「ん~、もちろんそれくらいは調べてるさ。けど、あの病院が絡んでるなら死体の偽装くらいはやるんじゃないかと思ってな。調べてみたら案の定ってわけさ」
ああ、言われてみれば確かにそれくらいやってそうかも。
説得するつもりが説得されてしまった。
いや、でもね。どっちにしろこの頭ん中に妙な機械なんて入ってないからね?
「ふ~ん。ま、調べりゃすぐわかることさ」
そう言うとハルネ先輩はポケットからおもむろに何か四角い携帯みたいなものを取り出してポチポチと操作し始めた。
走ってる車の中でそういう事するとすぐ気分悪くなりますよ。
私はまだ痺れの残る身体を気合で起こして車の壁に背を預け、その様子を見守る。しばらくそうしているとハルネ先輩の表情がどんどん険しくなっていくのがわかった。
どうですか?
「ない。BCI用の特殊帯域の電波が出てるはずなのに……マジか」
なるほど。無線で電波を飛ばすのだから周波数がわかればBCIの電波を検出できるのか。で、それが検出できなかったと。
ハルネ先輩はそれでも信じられないらしく手に持った機械を私の頭に近づけたり離したりして色々試していたが、最終的に諦めて私の説明を受け入れた。
「そうか……こんだけ危ない橋を渡ったってのに、人違いとはね……」
ハルネ先輩が自嘲気味に笑う。その笑い声は乾いているのに妙な凄みを感じさせて、私は嫌な予感を覚えた。例えるなら映画でテロリストが爆弾の爆破に失敗したような笑いだ。映画だと大抵そのあと自棄を起こして周りを巻き込み破滅の道へ進もうとする。
ま、まさかこのまま車で心中したりとかしないですよね?
冗談めかして聞いてみたがハルネ先輩からの返事はない。押し黙って何かを考えるように私をじーっと見つめている。
こ、こわひ。
車内の空気がぴりぴりと張り詰め、私の背中が脂汗でしっとりしてきた頃、車は高速道路を降りて見覚えのある通りに入った。うちの近所だ。
全く知らない世界に来た上にわけのわからない事態が続き、そろそろ不安も限界に達そうとしていたところへ見慣れた風景が飛び込んできたので、私は今自分が置かれている状況も忘れて安堵した。
けれど車は家のある団地から離れる方向へとハンドルを切り、更に私があまり言った事のない方向へどんどん進んでだんだん人気のない山道の方へと入っていった。
あの~、どこへ向かってるんでしょうか…………?
堪えきれずそう聞いてみるが、ハルネ先輩はもちろんハクさんからも返答がない。
脳裏には嫌な想像ばかりが過ぎり、いい加減疲れを覚えてきたころ、ついに車は速度を緩めて廃屋みたいな一軒屋の前に停車した。
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