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私と洗面台

遅くなりました。今回も食事中はお勧めできない内容を含みます。

 何故、何が、何を、なんで、ナニが、な、なん、なに、なにって、何が、ナニって、ななな…………


 体中から血の気が引いて手足が震えるのを抑えられない。身体からは冷たい汗が噴出し、濡れた病衣がべったりと身体に張り付いてくる。

 けれど受け入れられない現実に触れて確認する勇気も起こらず、体感温度が氷点下まで下がった個室の中、身体の制御が壊れて腰から便座に崩れ落ちるまでただただ無力に震えていた。

 便座に落ちた衝撃で一瞬戻った意識を手放さないよう、何かしなければと考えた時、頭を過ぎったのはこの場に最もふさわしく場違いで切実な感覚だった。


 そうだ……おしっこしなきゃ…………


 丁度よくここはトイレの個室で便座の上でズボンも下がっている。

 雑念を冷えた汗と一緒に振り払い、強張った身体の力を抜くといつものように痺れるような感覚があって――――――私はそれがついているというのがどういう事なのかを思い知った。

 例えばそれは蛇口にホースをつけたようなものだ。単純にタンクと発射口の距離が伸びているし、ホースの状態によって発射角度も変わってしまう。

 無防備に腰を落とした体勢で発射された液体は黄金色の放物線を描いて便器の外に着地していた。


 はわわわっ!!


 慌てて前傾して腰を起こすが今度は便器の淵に跳ね返り、飛散して股座をビショビショに汚した。

 もはやどうすべきなのかわからず、かといって倫理的生理的に抵抗があって直接触って押さえ込む事も出来ず、太ももで挟み込んでなんとか飛び散るのを防いだ時には股座が酷い事になっていた。なんだったらその後、事が終わるまでずっと太ももの裏は跳ね返りで濡れ続けた。


 うう…………なんでこんな事に…………


 用を終え、金色の野と化した個室に白きちり紙を降り立たせて掃除していると、情けなさに涙が溢れた。

 何が情けないってパンツとズボンも濡れちゃったから変なモノがブラブラする下半身丸出しという自分の格好だ。なるべく見ないようにはしているが、重心を移動させるような動きをするとブラブラ感が嫌でも伝わってくる。

 本当、なんでこんな事になってるんだろう。


 掃除が粗方終わり、大量の濡れ紙を詰まらないように小分けにして流していると、どこか遠くの方でバターンという音が響くのが聞こえた。

 何だろう。結構距離があるみたいなので建物の外かもしれないけど、自分以外に音を発する何かがある事に少しほっとした。人間、あんまり静か過ぎると不安になるもんなのだ。

 けれどつかの間の安堵は十秒と経たず不安に取って代わる。

 音のした方向から誰かが駆けるようなコッコッという足音が物凄い速さで近づいて来たのだ。私は水洗の流れが早く治まるよう祈りながら息を殺して聞こえてくる足音に意識を集中する。

 けれど水流が治まるより前に足音はトイレの前に到達し、かと思うと通り過ぎて別の扉を開ける音が聞こえてきた。


 …………急患か何かかな?


 先ほど廊下を歩いていた時は人の気配すら感じられなかったけど、単に病院自体が機能していない時間帯だっただけかもしれない。きっとそうだ。今の時期だと4時頃には陽が昇るのだからそんな時間なら病院といえども寝静まっているのが普通だろう。

 私はそう結論付けて頭を切り替え、残った濡れ紙を便器にぶち込み一気に流してからズボンとパンツ片手にそっと個室を出た。

 誰か入って来たら恥ずかしい格好だが今が早朝なら時間が経つほどその危険性は高くなっていくし、かといって洗わないで履くという選択肢が消えるくらいには汚染されているので、洗面台で水洗いしようと思ったのだ。当然今より更に濡れる事になるが、気分的にはずっとマシだし、絞れば履けなくもないだろう。

 そういうわけで洗面台にパンツとズボンを放り込み、ついでに手洗い用の石鹸も垂らしてジャブジャブと洗う。

 その段階になって私はようやく気付いた。ズボンは病衣なので見覚えなどないが、パンツの方はトランクスタイプでどこかで見た事のある柄だ。どこかで、と言っても私はこれでも女の子なので男性用パンツを見る機会など限られている。家だ。

 つまりこれは兄のパンツなのだろう。加えて股間に生えたブラブラするモノ。念のため確認したが自慢の胸も今はペッタンコで貧乳というレベルを超えていた。そして記憶が跳んだかのような突然の入院。状況証拠は揃っている。

 たぶん…………いや、ほぼ間違いなく、私は兄の身体に入っているのだ。

 否定する要素を頭の中で必死に探してみるが、何もわからないに等しい現状でそんなものが見つかるはずもなく、私は天を仰ぎため息をつく。


 はぁ……………………なんでこんな事になってるんだ。


 声に出しても何が変わるわけでもなし、ただ静かなトイレの壁に反響して空しく響いただけだった。

 ともかく今はあの美人さんに話を聞いてみるしかない。彼女が何者かはわからないので魔術関係の事は聞けないかもしれないけれど、少なくともこの身体が眠っている間にどんな事があったかは教えてもらえるだろう。何せ兄が真夏Bと入れ替わったのはつい数日前なのだ。

 やる事が絞られ混乱した頭を整理出来たところで、さっさと洗ってしまおうと視線を洗面台に戻そうとしたその時。

 天井から洗面台に到る軌道上にあった鏡に何かさっきと違うものが映りこんでいるのに気付いて視線を引き戻す。そして改めてそれを視認した時、折角落ち着いて整理された私の頭は再びフリーズした。

 長く揺らめく漆黒の髪、すべてを吸い込む闇のような黒い瞳、悪魔やドラキュラを連想する細く病的に尖ったアゴ…………先ほどまでとは別種の冷や汗が背中を伝う。

 そいつは何をするでもなくただじっと見つめるだけで、そのまま数十秒は固まっていただろうか。強張る身体を他所に必死で思考を巡らせ、このままでは埒が開かないと思った私は勇気を振り絞って振り返ろうと心に決めた。


 こういうのはタイミングだ。なんかよくわからんけどとにかくタイミングだ。3秒数えたら振り向こう。よ、よし。3、2、1…………


 バッと勢いをつけて、私は身体ごと反転させて後ろへと振り返り、そいつのいる方向に目を向けた。

 よく考えるとこのパターンって鏡には映ってるけど実際にはいないってのが一番怖い気もするが、幸いそいつは鏡に映った通りの場所に存在していた。

 目を限界まで見開き、いつのまにか口元を片手で隠して私の方を凝視している。俯き加減で視線が合わないのがまた気持ち悪くもおぞましい感じがして、私は一歩後ずさった。けれどその歩みは太ももに当たる洗面台に阻まれる。

 逃げられない…………っ!!

 それはわかりきっていた事だった。ここはトイレなのだ。入り口意外に出口といえば人一人通るには余りにも小さな通気口くらいである。

 その事に気付いた私は再び後ろに下がろうとして洗面台に邪魔され、腰を突き出すような形で更に身体を仰け反らせた。慌てて体勢を戻そうとするが慌てているせいか力が入らず逆に体勢を崩して後ろ向きに倒れこんだ。


 ひゃっ……


 そこには何故か水の張られた洗面台があった。洗面台は私のお尻を水のクッションで受け止めると、そのなだらかな曲面で私のお尻を包み込み、底に開いた排水溝でより強力に私のお尻を引き寄せる。

 気が付くと、足を開いた状態で洗面台に嵌り込み、足でMを描くように尻餅をついた私がいた。

 ともあれ、またビチャビチャにはなったものの、怪我もなく窮地を乗り切った私は再びトイレのドアに視線を移し、やつの様子を探る。

 けれど先ほどまでひょっこりと覗いていた顔はすでになく、代わりに中途半端に開いたままのドアの向こうから何か慌てたような女の子の声が聞こえてきた。


「ば、バカ。女子トイレで何やってんだよ。変態」


 ………………………………。

 自体が飲み込めず耳を澄ませて成り行きを見守る私の耳に続いて聞こえてきたのは、さっき個室の中で聞いたコッコッという音を立てて遠ざかってゆく何者かの足音だった。

 それが先ほど病室で見た美人さんである事に気付くのにたっぷり十秒かかった。

 その間も水は流れ続け、遠くの方でまたバターンと扉の閉まる音が聞こえた。


 ………………………………お尻冷たい。


ご覧いただきありがとうございました!

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