私と謎の男の子
急速に現実味を失っていく視界の中、指を突きつけて私を見る姉の表情がやけに鮮明に映る。
その顔は可愛らしくも憎たらしい、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
あ……………………
天啓のように私の脳裏にある考えが閃く。
血の気が引いてホワイトアウトしそうになる頭で、私はようやく姉の真意を理解した。
くぅぅ……姉の思い通りになるのは癪だけど、ここに留まるわけにもいかない……か。
私は踏み出そうと持ち上げた足に先ほど脱いだサンダルを装備し直すと、勢いをつけて屋根を駆け、走り幅跳びの要領で車庫の屋根に飛び移ってその上を走った。
背中から悲鳴のような母の声が聞こえる。
その声の意味は驚愕か心配か、どちらにしても今の私に気にする余裕はない。
上がって来た時とは逆に塀に飛び降りると、今度はそのまま塀を伝って街路へ出る。
塀から飛び降りた私は一瞬だけ振り返って姉を睨むと出来るだけ感情が伝わるよう意識しながら聞こえないように「殺す」と呟いて夜道を駆け出した。
嗚呼嗚呼あああああああああああああああいつ、あいつ、あいつあいつあいつぅぅぅっ!
夜中というのも忘れ、怒りに任せて住宅街をデタラメに走る。
人影を見つけては路地を曲がり、角に電柱があるのを見つけては遠心ドリフトを決め、魂まで風になりながらヘロヘロになるまで全速で駆け抜けて、ふと気が付くと近所にある公園の近くまで来ていた。
前方三軒先には先ほど飛び出して来た自宅が見える。
家の周りを一周した…………だけ………………
私は全身を支配する虚脱感に負けてガクリと膝をついた。
無作為に走ったのに、どんだけチキンなんだよ私。
その体勢のまま這うようにして公園に入ると、幼児用の驚くほど低いブランコの鎖を手繰って座板に乗る。蜘蛛の糸にすがる亡者の気分だ。
そこは遊具が置いてあるだけの小さな公園だった。外灯も一つしか点いていないから全体的に薄暗い。
もう何年も足を踏み入れていなかった、懐かしい場所だ。
小学生の頃はよく兄とここに来て近所の子達に混ざって遊んだなぁ…………
幼い頃の記憶が湧き水のように思い浮かんでくる。
やーめーろー。今あいつの事は一番思い出したくないんだー。
頭を振って汗と一緒に湧き出る記憶を振り払う。
ちょっとやりすぎて頭がクラクラしたけど、それが治まる頃には乱れた呼吸も整って冷静さを取り戻した。
さて、どうしたものかな…………
途方に暮れて独り呟く。
姉の狙いは多分、兄を家出させる事だ。
本当なら自分が友達の家に泊まりに行って帰らない旨を携帯で連絡するとか、何かもっと簡単な方法を考えていたのだと思う。
けれどあの時私の抱いた邪な気持ちを感じた姉はその報復と同時にもっと自分に都合の良い方法を思いついてしまった。
すなわち、入れ替わりだ。
姉は私を『篠宮真冬』に仕立てて家出させる事によって『篠宮真夏』に成り代わろうとしているのだ。
姉のにやけた笑いを思い出し、ブランコを掴む手に力が入る。
鎖の軋む鈍い音がやけに大きく響いた。
とにかくこのまま黙って立場を明け渡すつもりはない。
姉を出し抜き立場を取り戻す。そのためには何か作戦を考えなければ!
自分の心に火を灯し、燃え上がる復讐心を道標に私は己の思考を加速させる。
と、そこに横合いから声をかけてくる奴がいた。
「……………………篠宮……?」
突然かけられた声に、私は心臓が飛び出そうなくらい驚いて顔を上げた。
声の主を探して公園の入り口を見る。
そこには同い年くらいの男の子が目を丸くして立っていた。
………………って、誰だこいつ。
眉根を寄せてその見知らぬ男の子を見る。
VネックのぴったりしたTシャツはどこかチャラい印象があるが、それを打ち消して余りあるほど整った顔立ち。ビーサンにハーフパンツ、手には買い物袋といった格好で、いかにも近所に住んでますという感じだ。
はて、ご近所にこんなイケメンが居たら知らないはずはないのだが。
私が警戒して黙っていると、男の子はなぜか不機嫌な表情になって公園の中に踏み込んで来る。
って、ちょっ! こっちに近づいて来た!?
男の子は瞬く間に目の前まで来ると空いてる方の手でブランコを掴んでこちらを覗きこんできた。
二人の視線が至近距離で絡み合――――――ってないな。微妙に下を見られてる?
これは…………まさか………………
私はその視線の意味に気付いて反射的に胸元を腕で押さえた。
ゆるめのTシャツなんか着てくるんじゃなかった! タダ見されちゃったよママン!
羞恥に熱くなる顔を見られないよう背けて俯く私。
しかし今度はその顔を覗くように男の子の目が追いかけてくる。
こ、コンニャロー、それ以上の狼藉は許さんぜよ!
胸は押さえたままその動きを止めるべく、私は咄嗟に足を上げ、アゴ先を狙って蹴り上げる。
当然両手はふさがっているので後ろ向きにブランコから落ちる事になるが、それも狙いのうちだ。
こうすれば痴漢から逃れようとして偶然足が当たったという言い逃れが出来る。しかも運が良ければ相手はパンチドランカーで失神するという寸法だ。
多少のダメージは覚悟の上!
くらえ、ガイル少佐直伝のサマーソル…………っ!
私が倒れる反動を利用して足を蹴り上げようとしたその時。
いつもより幾分遅く感じられる時間の中で男の子の顔が私に近付いて来たかと思うと、急にふっと視界から消えてなくなり、次の瞬間には背中に、また次の瞬間には胸を押さえる腕に、人肌の熱を感じる。
と同時に時間の流れが止まった。
否、重力に任せて落ちていた私の体が止まったのだ。
気付くと私は男の子に抱き止められていた。
え…………………………
えええええええええええええええええええええっっ!?
なんで? なんでなんで?
いや、助けようとしてくれたのはわかるよ?
でも腕だけでいいじゃない! こんだけ警戒心剥き出しにしてるのに抱きついてくるとか、どんだけ飢えてんだ!
心の中ではいくらでも突っ込みを入れられるが、肝心の声にはなっていなかった。
というかパニックで声の出し方忘れました!
やだ、やだやだ、これ本物だ…………本物の変態ってやつだ。
近所の公園だからって油断し過ぎた。色んな事があったからちょっと緩んでたんだ。
反省してももう後の祭りだけど、私は自分の甘さを猛省した。
唯一の救いは腕ごと抱かれているので、間にガードが入っているという事だ。
声を出して助けを呼べない以上、私を守る事が出来るのは私だけ。そこらの泣き寝入り系女子とは違うというところを見せてやる。
私は男の子がこれ以上の蛮行に至ろうと手を緩める瞬間を待って股下から足を引き抜き、股間を思いっきり蹴り上げるところをイメージした。
ヒールのないサンダルなのでどれくらいダメージを入れられるかわからないが、野球ボールくらいの威力があれば悶絶するはず。
痛みばかりは知りようがないが、昔兄が野球のフライを落として股間にくらった時はどういうわけか私も立ち上がれなくなった。あれはたぶん痛みとは別に筋肉が萎縮するような作用があって、その作用だけが伝わってきたからじゃないかと思う。つまり動きを封じるには最適という事だ。
冤罪が怖い世の中で、これ以上ないくらい間違いなく現行犯なのだ。向こうも一つ二つ潰すくらいは許してくれるだろう。
サンダルがすっぽ抜けないように足首を曲げてその時を待つ。すっぽ抜けて素足で蹴るのだけは簡便願いたい。
けれどいつまで待っても一向にその時は訪れず、男の子はただ黙って私を抱きしめるばかりだった。
いや、よくよく聞いてみると呼吸と共に音にならない声で何かを喋っているようにも思える。
けれどその音も呼吸の方が荒くて何を言っているのかよく聞き取れない。
それにさっきから震えが止まらないと思っていたけれど、こうして少し落ち着いてみれば私ではなく彼の方が小刻みに痙攣しているのがわかった。
これはもしかして――――――
嫌な予感を覚える。
まったく意味不明だし、なぜそうなるのか理解も出来ない。私とは全く違うのだけれど、男女の差というのもあるし…………
私は湧き起こった嫌な予感が否定されるのを期待して、心に浮かんだ疑問を声に出す。
意識しなかったからなのか、それとも少し落ち着いたからなのか、わからないけど不思議な事に今度は自然に声になっていた。
ね、ねぇ……もしかして………………
ゴクリと生唾を飲み込む音が妙に生々しく聞こえる。
もしかして、だけど………………………………
イっちゃった?
お読みいただきありがとうございます!
週一更新のつもりでやっていますが、話によってはもう少し早くするかもしれません。
まあストックなんてないんですけどねw