私と母の誤解
どうしよう、母がボケた。
私は変な汗を掻きながらも必死に頭を働かせてそう結論付けた。
元々ぽやっとしたところのある天然系ママ(37歳)である。昨日起こったショッキングな出来事を脳内変換で隠蔽したとしても不思議はない。
まずは惚けて様子を見る事にしよう。
お母たま、お兄たまは昨日の夜に家出致しましたよ?
「あら? そうだけど、さっきお昼過ぎにマトのお友達から電話があってマカと一緒だって聞いたわよ~?」
ほぅ…………そうきたか。
母の説明に、私の脳裏にあの男の名前が過ぎる。というか母が知らなくて私が知ってる姉の友達なんて一人しかいない。
多分、武山君だ。あんにゃろう。
彼がなぜ母に話すのか真意のほどはわからないが、これも何か意味があってやっているに違いあるまい。
だとしたら思い通りになるのは得策ではない。ここはシラを切り通そう。
「お兄ちゃんと会ってたんでしょう?」
いいえ。今日は友達と買い物に行っただけでございます。
兄が変化したと思われる人物も一緒にいたけど、そこは隠して正直に話す。
母の笑顔が一瞬引きつって見えた。良くない兆候だ。けれど焦って言葉を重ねれば墓穴を掘る事になりかねない。慎重にいかねば。
「そのお友達は七ヶ瀬の駅前にあるファーストフードのお店でマカと会ったって言ってたけど?」
特定しました。
母に電話をしたのは武山君で間違いないようだ。
けどこれはどう答えるべきだろう。そんな奴は知らないと言って武山君を狼少年に仕立て上げるべきか。それとも彼の存在は認めた上で兄との接触のみ否定すべきか。
う~ん…………前者の方が展開は読み易い気がするけど、母に嘘をつくのも心苦しい。ここは後者で。
兄の友達には会いましたが、その場に兄はいませんでした。
「本当に?」
お母たま。私は親に嘘を吐くような子に育てられた覚えはありませんよ?
「そう…………そうよね。そうなのよ。マカがそういう子だからお母さんも安心し過ぎていたのよね」
今まで努めてにこやかに話していた母が、突如思いつめたような表情になって視線を落とした。
え? え? なにソレ? どういう事?
「マカ、中学生になったくらいからお兄ちゃんに冷たくするようになったでしょう? 思春期の男の子と女の子なんだもの、それが当然。むしろ小学生の頃が仲良すぎたんだわってそう思ってたの」
話が見えない。兄が家出して私と会ってたという話をしていたはずなんだけど、なんで矛先が私に向いているんだろう?
困惑する私をヨソに母の独白は続く。
「二人の仲が悪くても親には素直な良い子達に育ってくれたって。けどそれがこんな事になるなんて…………」
そこで母の言葉が途切れた。
私は相変わらず母の言っている意味がよくわかっていない。こんな事ってなんじゃらほい?
理由のわからない重苦しい空気に耐えかねて視線を泳がせる私。と、母の視線の先に何か見覚えのあるものが置かれている事に気付いて目を凝らす。
それはダイニングの椅子の上に綺麗に畳まれて鎮座した兄のトランクスだった。
うちの家は兄も父もトランクス派なのでどれがどっちの物かなんて私は把握していない。けれどそれに関しては兄の物だとすぐにわかった。なぜならそれは、兄が昨日の夜、私の部屋で着替えた時に脱いだトランクスだったからだ。
ちょっと、待て。
何故それがここにあるのかはとりあえず置いておくとしよう。多分昼の間に母が私の部屋の掃除に入ったのだろう。
それはいつもの事なので構わない。放置して出掛けた姉を折檻する口実が出来たと思えば溜飲も下がる。今の問題はそこではない。
昨夜、兄はどうして家出をした?
本当の理由ではなく、母が把握している理由の方だ。
すっかり忘れていたが、母の中で兄は『妹にキスしようとしたのが親にバレて逃走した』事になっているはずだ。
そして翌日の昼、その妹の部屋に掃除に入ってみると兄のパンツが発見された…………と。
わぁっ、お兄ちゃんてば、ヘ・ン・タ・イ!
ってそんな事言ってる場合じゃないな。キスの時点で大変な事なんだけど、たぶん母の中では兄の蛮行はもっと大変な事になっているだろう。父が知ったら家出ではなく勘当になりそうなレベルだ。
私はこの誤解をどう解いたものかと頭を抱えた。
けれど母の誤解は兄を通り越して私にまでその火の粉を飛ばしていたのである。
「マカがツンデレだって気づいていればこんな事になる前に相談にのったのに…………」
ん? うん………………………………んんっ!?
どうやって誤解を解こうか思案する脳が母の呟いた言葉の意味を捉えて思わず二度見してしまう。
私がツンデレですと? いやいやいや、そんな属性は持ち合わせてないはずですけどっ。
「そっか。自覚もないんじゃ気づけなかったのも当然よね。でもね、お母さんは今朝確信したわ。だって今までずっと冷たくしていたのに、いなくなった途端マトの事をあんなにも擁護するんだもの。聞いててこっちが恥ずかしかったんだから」
何を言った。何を言ったんだ、あのバカ姉は。
私はもう怒りだか焦りだかよくわからない感情が込み上げて頭に血が上り、変な汗が滝のように流れ出していた。
つまり、だ。
母の中で私と兄はキスしようとしたりパンツ脱いだりするような仲(どんな仲だ)になっていて、昨夜両親がいないのを良い事にいちゃこらしようとしていたが、早めに帰って来たので慌てた兄が屋根へ隠れ、テンションの上がった私は母にそれを報告。兄の家出につながったと、こうなっているらしい。
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああああ嗚呼嗚呼嗚呼ぁっ!!
叫びたいっ! まだ明るいのをいい事に青春の情動とかなんとか理由をつけて夕日に向かって思いっきり叫びたい! 呪詛を込めて!
けれどそれをやると更なる誤解を生みそうだと本能が言うのでぐっと堪える。
とりあえず今は一つ一つ説明して誤解を解いていくしかないだろう。姉の事を隠したままどこまで説明できるのか自信はないが、それでも何とかするしかない。
あのね、お母さん…………
意を決して私がくず折れる母に説明しようと声をかけた瞬間、ぽっけに入れた携帯電話が着信のメロディを奏でる。
ああ、もうっ! タイミング悪いな。
取り出して画面に表示された名前を見ると、暗くなってから帰って来るはずの姉からだった。
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