第五話 手負いの獣
一点リードで迎えた最終回。
ツーアウトランナーなし。打席には相手の四番。
さて、どうするか。
マウンドに立つ俺は考える。
俺にはライバルがいる。
同い年とは思えない凄い速い球を投げるライバルが。
だけど同じ学年である以上、アイツを越えないとエースにはなれない。
そのアイツが今日は相手の四番に二打席連続ホームランを浴び降板した。
その後を継いだ俺はここまで相手打線を順調に抑えてきたが最後の最後でその四番との対戦を迎えてしまった。
ツーアウトランナーなし、一発打たれたら同点だ。
でも勝負しなければ、ランナーを背負うリスクはあるが次の五番なら簡単に打ち取れる自信がある。それでゲームセットだ。
だが俺のライバルの球を完璧に打ったあの四番を抑えれば、監督の俺への評価も上がり、エースになるのも夢じゃないかもしれないな。
俺は考える。
考えた末、俺の出した結論は――――
作りたての味噌汁と炊きたてのご飯、焼いたばかりの目玉焼きに昨日の残り物の煮物やらサラダやらで腹を満たした俺は一人の朝食を終える。
食器を洗い終えると天井を見る。そしてその上で未だ布団にくるまっているであろう家族のことを考える。
大丈夫だよな、このまま行っちゃっても。
今日出かけることは言ってあるし、食べ物もこれだけあれば朝と昼は余裕で足りるだろう。あるいは朝昼兼用になるかもしれない。土日は昼まで寝てるもんなあ、あの人。
部屋帰って荷物の確認するか、そう思い台所を出ようとしたところでたった今まで考えていたその当人がドアの向こうに姿を見せた。
「おはよう」
彼は俺の姿を認めると穏やかな、あるいは未だ眠気が覚めないようなと言ったほうが適切かもしれない声で挨拶する。
白髪交じりの髪、老眼鏡の下に覗く細い糸目、昔はもっと大きかったように感じる彼の背丈も今は俺と並んでしまった。
俺はそんな彼に挨拶を返す。
「おはよ、父さん。飯できてるぜ」
ああ、と力のない返事をして台所に足を踏み入れる彼は相馬善幸、俺の父である。
「今日は野球大会の日だっけ?」
食器を取り出しながら父さんはそう切り出す。
覚えていてくれたのか、そのことに感動というか安堵を覚える。
大人は子供が言ったことをすぐ忘れるというのが俺の小さい頃からの印象だからだ。
「今日は午前中に抽選やってトーナメントの組み合わせ決めて、午後から試合があるよ。それが俺らの試合になるかはクジ次第だけど」
俺はそう説明する。
父さんはご飯と味噌汁を盛り終えると席に着きながら「そうか」と吐き出す。
「観に行きたいな」
寝起きのローテンションが抜けたのか、やや機嫌が良さそうに彼は言う。
「試合が決まったら電話してくれ」
「ん、オッケー」
俺はそう答える。
父さんにはキャッチャー用具一式を買ってもらった恩がある。是非ともそれを着て活躍するところを見て欲しい。
「んじゃ、もう出かけるわ」
そう言って俺は台所を後にした。
『こーへーさんこーへーさん! お荷物をまとめておきましたよ!』
部屋に戻った俺を出迎えたのは大はしゃぎするチビッ子だった。
お前は遠足前の子供か、とツッコム。まあ似たようなもんか。
いよいよ今日、大会が始まるのだ。俺だって楽しみでない筈がない。
優勝できるかはわからないけど彼女達をひとつでも多く勝たせてやりたいと思う。
もちろんそれは雪音達のチームにも言えることである。別々のチームで出ようと自分で言っておいてなんだが、もし雪音のチームと戦うことになったら正直困る。
本気で戦えないかも。
それもこれもクジ次第か。そう考えると今日の抽選はドキドキものだな。
俺はサンタクロースが荷物をまとめたというスポーツバッグを見る。
「ミットは入ってるか?」
『入ってます』
「ヘルメットは」
『もちろんです』
「マスクは」
『おっけーです』
「プロテクター」
『ばっちりです』
「レガース」
『問題ありません』
「ネブライザー」
『大丈夫です』
「バットは」
『こちらのバットケースに準備済みです』
よし、荷物チェック完了。
俺はスポーツバッグとバットケースを担いで部屋を出る。そして玄関を出て物置に向かう。
すると方向上、どうしても隣の家が目に入ってしまう。
広い庭には大きな池があり鯉が泳いでいる。黒い瓦に守られた大きな屋敷はまさに日本家屋と言った感じの邸宅だった。
すごい敷地だよな。庶民との格の違いを感じさせる。これが野球界で何億円も稼いだ人の家なんだ。
こんな家に生まれた時から住んでいる春火がちょっと羨ましい。
そんな感想を覚えながら俺は物置から自転車を引っ張り出してくる。
『こーへーさんこーへーさん、コレなんですか? かっこいいです』
「え?」
自転車の荷台にバッグを置くとサンタクロースがなにかを発見したようだった。
俺は彼女の指差す先を見てみる。
そこにはマジックでK・Sと書かれていた。
「そら俺が昔書いたイニシャルだな」
そう教えてやるとサンタクロースが目を輝かせる。
『イニシャルですか、カッコイイです! 私のイニシャルも教えて欲しいです』
「あー」
そういえば普段からサンタクロースサンタクロースと渾名でばかり呼んでて本名で呼ぶことが最近すっかりなかったな。
俺は少しの間考えて彼女の名前とイニシャルを思い出す。
『すいません、私雰囲気とか察せなくて』
なんだかサンタクロースが落ち込んでしまった。違うって逆逆!
俺が悩んだのは彼女にイニシャルを教えたくないからでなく、彼女の質問に真剣に答えようとしてたからなのである。
『なるほどわかりました。ありがとうございます』
俺がイニシャルを教えてやると彼女は表情を綻ばせる。
よし、じゃあ早速荷物をくくりつけるか。
バットケースは肩にかけることにして、スポーツバッグからいくつか小さいものは自転車の前籠に入れ、大きいものはバッグに入れたまま荷台に縛り付ける。
『私はどこに座ればいいんでしょう?』
サンタクロースが小首を傾げる。
肩車でもすればいいんじゃね。
『なるほど、こーへーさん頭いいです!』
まさか本気にするとは思わなかった。
とりあえずサンタクロースはスポーツバッグの上に座らせることにして準備完了である。
「しっかり掴まってろよ。スピード違反でパトカーに追われたら振り切るぐらいのスピードを出すから」
『そ、そうなんですか。自転車でもスピード違反になるんですね』
「ああ、実を言うと徒歩でもスピード違反になる時はなる。お前も交通ルールとかはちゃんと知っておいたほうがいぞ。徒歩で時速三百キロ以上出したらスピード違反で掴まるからな」
『す、すごいです。そんなに速く歩けるものなんですか?』
「まあ実際のところ俺の身体能力がずば抜けて高いだけで、普通の人はその半分程度の速さでしか歩けないんだがな」
『すごいです。やっぱりこーへーさんはすごいんですね』
「ちなみに早く歩くコツは右手と右足を同時に出すことだ」
『はへー、こーへーさんは物知りですねー』
サンタクロースが感嘆の息を吐いて尊敬の眼差しで見つめてくる。超楽しんですけど。
大会の舞台は俺らの住んでるとこから三駅ほど離れた場所にある市民球場である。
学生の俺は交通費節約の為に自転車を漕いで行く。
球場内には係りの人が十人程、各チームの代表者とその付き添いと思しき人達が数十人は集まっていた。特に並び順とかは決まってないのでかなりごちゃごちゃしている。
マウンドの後ろに設置されたテーブルの上にはダンボールを改造して作ったっぽいクジ箱。車輪付きのホワイトボードに張られたトーナメント表はなんかのポスターの裏地にマジックで書いたような手作り感溢れるものだった。
そこで俺と遥介は自分がクジを引く順番を待っている。
「いよいよだな。自信の程はどうだよ幸平」
お互い待ってる間は暇なので遥介が話題を振ってくる。
「んー、微妙だな。まあ強いとことは当たらずに一、二勝くらいはしたいな」
俺は答える。
「随分弱気だな。ウチの主力選手を二人も引き抜いておいて」
ああ、織編先輩と速薙のことな。
「速薙なあ、あいつ実力はあんだけど俺の言うこときかねーんだもん」
「まあ一人で暴走しちゃうところはあるよなアイツ」
俺のぼやきに遥介が同調する。そして苦笑混じりに言う。
「まあ頑張れ、貰ってきたペットはすぐには懐かねーもんだ」
「そっか、それじゃあ仕方ねーな」
隣同士に並んでアホな会話をしながら俺は周りを見回す。
大会の参加者はオッサンから子供まで様々だ。しかし、
「明らかに高校生ぐらいのヤツラとかいんじゃん。勝てるわけねーだろ」
俺が溜息をつくと、まあな、と遥介が相槌を打ち、同時にグラウンドにマイク音声が響く。
「次は桜坂高校硬式野球部チーム代表、伊吹臣事君」
はい、としっかりした声で返事をして長身の青年がクジを引きに行く。
うわあ、やっぱ高校生なんだ。しかも野球部。本物の高校球児。やってらんねーな。
野球漫画だと高校野球を舞台にしたものが多いんだが、あれって同年代の男同士で戦ってるんじゃん。今の俺らの状況の方がよっぽど過酷じゃね?
そう思って気を重くしていると突然背中にドンという衝撃とともに、
「相馬! 久しぶりだな」
という嬉しそうな声が響いた。
痛い! っていうか誰?
そう思いながら振り返るとそこにあったのは懐かしい顔。
「雉村先輩! うわあ、お久しぶりです」
ナチュラルな茶色混じりのクセっ毛にきりっとした目元、人当たりのいい笑顔。
男としてもプレイヤーとしても全てにおいて尊敬できる俺のリトル時代の先輩、雉村藤氏。
先輩は常に明るく堂々として自信に溢れている人で、グラウンド上のどこでも守れると豪語していたユーティリティープレイヤーである。そしてその言葉を嫌味に感じさせない人望もある。
知り合いか?と訊いてくる遥介に簡単に紹介をして俺は再び先輩に話しかける。
「雉村先輩もこの大会に出るんですか?」
俺の問いに先輩は、ああ、と頷きながら言葉を返す。
「実はリトルの時の仲間内で俺らの代と一つ下の代くらいでチームを作ってこの大会に出ようって話になってな」
「マジっすか! じゃあ他の先輩がたも一緒のチームなんですか? そんな面白そうな話になってんならどうして俺も誘ってくれないんですか!」
俺が興奮気味に訊くと、先輩は苦い笑みを浮かべながら言葉を返す。
「いや、近江は誘ったんだ。近江に言っとけばお前にも伝わると思ってな。悪い」
なるほど、確かに怪我で野球を辞めた俺を誘うのは気まずいところもあるだろう。俺の怪我がどれくらい治ってんのかもわからないしな。
となると春火も俺をチームに誘ったときは相当慎重に言葉を選んでいたのだろうか?
春火のチームに入ってからおよそ一ヶ月になるが、そんな風に考えたことはなかったなぁ。
「春火はなんて?」
俺は訊く。春火は結局雉村先輩の誘いを蹴って自分のチームを作って俺を引き入れたのだ。どういうつもりで彼女はそういう選択をしたのだろう?
雉村先輩は、いや、その、とちょっと言いにくそうな苦笑混じりに答える。
「そっちのチームのベンチウォーマーになるくらいなら私は自分のチームを作る、ってさ」
なるほど春火らしい。
いくら草野球大会とはいえ、怪我人などが出る事態に備えてベンチに控え選手を用意しておくべきだ。守備職人の春火ならその役にぴったりだろうが、彼女のプライドがそれを許さなかったのだろう。
やっぱスタメンで試合に出たいよな。
「それでお前も」雉村先輩は俺の目を見据えながら言葉を吐き出す。「ここにいるってことは怪我は治ったのか?」
治ったといえば治ったし、治ってないといえば治ってない感じだな。
どう答えるべきかと悩んだ末に俺は口を開く。
「ええ、まあ変化球以外なら投げられますよ」
先輩の顔から笑みが消える。そして寂しげに目を伏せる。
「そっか、やっぱり完全には治らないか」
そんなしんみりしないでください。そう思って俺は言葉を続ける。
「まあでもピッチャーは無理でも俺は今のポジションも楽しんでますから。っていうかぶっちゃけピッチャーやれなくなってホッとしてるとこありますよ。ほら、投手って責任重いし色々しんどいじゃないっすか」
「まあ、わからなくもないな」と遥介が隣で頷く。
「そっか」と雉村先輩が曖昧に笑う。
ひょっとして強がってると思われただろうか? 俺は結構本心を言ってるんだが。
そう思ってると先輩は優しい笑みで言葉を吐き出す。
「わかってるよ。相馬は昔から真面目で練習熱心だから言い難かったけど、実は俺はお前のこと性格的な部分でピッチャーには向いてないんじゃないかなってずっと思ってたんだ」
そ、そうなんすか? 初耳っす。
「お前は覚えてないかもしれないけど、練習試合でお前が打たれたせいで負けてすげー泣いてたことがあったんだよ」
わ、わ、やめてくださいよそんな昔の話。恥ずかしいっすよ。
「あのときお前は試合に負けたことが悔しくて泣いてたんじゃなかったんだよな。
お前はチーム全員に泣きながら謝ってた、自分のせいで負けたことがチームメイトに申し訳なくって泣いてたんだ。
決勝タイムリー打たれたって、もとはバックのエラーで出したランナーじゃないか、俺だったら絶対謝んないね。だって俺のせいで出したランナーじゃないもん。エラーがなければとっくにスリーアウトチェンジだったじゃんアレ」
そ、そんなこともあったような。しかしあの優しい雉村先輩の口から「絶対謝らない」なんて言葉を聞くだけも衝撃なんですが。
それにたったそれだけで投手に向いてないって言われるのは。
「他にも色々、お前がピッチャーらしくないって思ったことはあったよ。一番はアレだな。練習試合で大谷のあとにリリーフした時、一点リードの最終回ツーアウトランナー無しで相手の四番を迎えてな」
言いながら雉村先輩は遥介の顔を見る。
「実は相馬には同い年でポジション争いしてたライバルの大谷って奴がいたんだ。すげー球速くて、相馬達が最上級生になる頃にはエースは大谷だろうなって誰もが思ってたくらい。けどその日は大谷が相手の四番に二打席連続ホームランくらっててな。相馬の奴、最終回でその四番と勝負になってどうしたと思う?」
「えっ、そうですね」
遥介はその問いにちょっと悩んでから横目でチラリと俺の方を見て答える。
「幸平って昔はかなりコントロール良かったんだよな。ならホームランだけは打たれないように低めに集めて、カウントが不利になれば最悪歩かせてもってところか?」
うう、遥介その推理は俺を買いかぶりすぎだ。
雉村先輩は首を横に振って言う。
「カウントが不利になればなんてもんじゃないよアレは。相馬は最初から勝負する気なかったもん。外に大きく外して、一球もストライク入れなかった。ベンチ指示でもキャッチャーの指示でもなく、投手が自分から敬遠を選択したんだぜ? ランナーもいないのにな。それだけでもかなり珍しいぜ」
ええー、勿体ねー!と言って遥介は俺の顔を見る。
「いくら相手がすごいバッターだってホームランなんて偶発的なもんなんだから、出るとは限らないじゃん。仮に打たれたって同点止まりだろ? そいつ打ち取ればエースになれたかも知れねーのに」
うるさい、そんなこと当時の俺だってわかってたさ。でももし勝負しに行って同点弾打たれたら、たとえ最終的に試合に勝っても悔いが残ると思ったんだよ。
「まあつまり」と雉村先輩は話を纏める。「相馬は打たれるのを恐がってるってことさ」
打たれるのが嫌なのは普通じゃないですか。
「違うな」と雉村先輩は笑顔のまま強い口調で断言する。
「例えばスキーのジャンプの選手が着地失敗して怪我することを恐がると思うか? もちろん恐いだろうが、失敗した時のことしか考えられないならその競技になんの楽しみも見い出せないし、そのスポーツを辞めたほうがいい。向いてないからな」
確かにスポーツってのは勝ち負けを決めるものだ。負けるのが嫌なのは当然だが、それに負けないくらい勝つ自信もあるからこそ勝負を楽しめるのではないか。
だから楽しめない奴は、そのスポーツに向いてないということか。
確かに俺はさっきはっきりと「投手やれなくなってホッとしてるところがある」と言ってしまった。反論はできない。
それに昔だって自覚はあった。俺はピッチングを楽しめてない。打たれるのが恐くて、打ち取るとホッとして。雉村先輩みたいに自信が持てなかった。
「そんなお前が何故ピッチャーを志望したのかはちょっと不思議だったんだが。まあ俺はお前がエースになるってのも面白いと思ってたぜ。泣き虫なエースだがな」
くくく、と雉村先輩は意地悪に笑う。
もう昔の話はいいですよ、恥ずかしい。
「今ピッチャーの話になったからついでに聞きますけど、先輩達のチームはやっぱり雉村先輩が投げるんですよね?」
俺は当然そうだろうと思って訊く。リトル時代、同じ投手として尊敬の対象だった先輩に。
しかし先輩は、いやあと苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「残念ながら先発は大谷だ。俺はリリーフに決まった」
その名前を訊いて俺の心臓が凍りつく。
大谷悟志。俺のかつてのライバル。
まさか雉村先輩からレギュラーの座を奪うまでに成長してるのかよ。俺は戦慄を感じずにはいられなかった。
先輩も年下に先発マウンドを盗られる悔しさを多少感じている様子だ。
だが、同時に面白いとも思う。
かつては同じチームでレギュラーの座を争っていたアイツと、今度は敵チームとして直接対決できるわけだ。楽しみだぜ。
あのすかしたツラを悔し涙で歪めてやれる。そう思うとすげー楽しみだ。
べ、別にアイツが昔春火と仲良かったから嫉妬してるとかじゃないからな! ホントだぞ!
見てろ、アイツの球なんて水無月がかっ飛ばしてやるぜ。
『結局他力本願なんですね、こーへーさん』
ち、違う! チームメンバーは一心同体。仲間の力は俺の力なのだ。
「次はチーム・スプリング代表、相馬幸平君」
そんなことを考えていると唐突に俺を呼ぶマイク音声が聞こえた。
「すんません、俺の番なんでクジ引きに行ってきます」
雉村先輩にそう挨拶して俺はテーブルへ向かう。その背中に、
「お前んとこのチーム名ってスプリング・ファイアズじゃなかったっけ?」
という遥介の素朴な疑問が飛んできた。
いや、だって語呂悪いし春火の自己顕示欲丸出しだし、彼女を説得して変えさせたんだよ。
案外素直に聞き入れてくれて助かった。
俺はそう思いながらミカンの空きダンボールを改造したっぽいクジ箱から、チラシの裏を使って作った紙切れを引いてそこに記されている番号を係りの人に見せる。
そしてトーナメント表にウチのチームの名前が書き込まれる。
トーナメントの参加チームは三十二チーム。トーナメント表下部に十六チーム、上部に十六チームと分けられて真ん中で繋がっているタイプだ。
そして下部の一番左にウチのチームの名前がある。
「いいクジを引いたじゃないか、午後の第一試合だぞ」
遥介達のところへ戻った俺を迎えた雉村先輩の第一声がそれだった。
つまり今日の午後イチでいきなり試合ということだ。多少覚悟していたとはいえ急だなあ。
「ついでに俺達とは決勝で当たるわけだな。勝ちあがって来いよ相馬」
雉村先輩は意地悪に笑って、じゃあなと言って去っていった。
いや、つーかその前にさっきの桜坂とかいう高校生チームと三回戦で当たるんですが。うわあ勝てる自信ねーよ。努力はするけどさあ。
まあ一回戦で強そうなところと当たらなかったのが幸運か。俺のクジ運って良くも悪くも無く平凡なんだなぁと思い知らされた。
トーナメント表の下部をAブロックと言い、上部をBブロックと呼ぶらしい。
今日の午後はAブロックの左端の二試合とBブロック右端の一試合、計三試合を行う予定みたいだ。
既に言ったとおり俺のチームはAブロックの左端、そしてBブロックの右端は雉村先輩率いる『八ツ橋リトル同窓会チーム』である。安直なチーム名だと思うか? 俺もそう思う。
まあ、お互い頑張りましょう雉村先輩。
「このあとどうする幸平?」
球場を出たところで遥介が聞いてくる。
俺は携帯を操作しながら答える。
「んー、午後の第一試合に決まったことみんなにメールで伝えて、どっかで昼飯食って時間潰すわ」
俺はアドレス帳からチームメイト達のメアドを呼び出す。
何週間か前に練習中に俺の携帯が女子共の間でたらい回しにされて、帰ってきたときにはチーム全員のアドレスが登録されていたことがあった。
ちなみにそのとき雪音とのメールも読まれて、チナや高原に散々からかわれた。くすん。
アドレス帳に並んだ名前を見て俺は考える。
さっちゃん、しーちゃん、しろちゃん、ちーちゃん、翼ちゃん、はるちん、みーちゃん、ゆーちゃん。
みーちゃんって誰だ? 水無月か? いや、それはしろちゃんか。
えーい、女の子のつける渾名はわからん! むしろ女子の言語センスがわからん! ギャル文字とか全然わからん。
「最近の若いもんの考えることはホントにわからんな」
「どこの年寄りだよお前は」と遥介が呆れ気味に吐き出す。
仕方ないので自慢に切り替えることにする。
「俺の携帯、女子のメアドで一杯だぜ。羨ましいだろう」
遥介はなんかどうでもよさそうな顔で「つーかさ」と切り出す。
「お前のチームって女ばっかの中に男がお前一人だろ。居心地悪くね?」
「悪い。ちょー悪い。女の子だけの話題とか入っていけないことよくあるし。でも俺頑張る。おしゃれの話とか頑張って会話に入れるように勉強してる」
「お前すげー頑張ってるな。俺には真似できねーわ」
「遥介、お前に女の子の秘密を教えてやる。女ってのはな、メールで顔文字とか絵文字とかよく使うけど俺が同じように顔文字とか使ったらキモイの一言で一蹴する。そういう生き物だ」
「あるある」
遥介と頭を使わない会話をしながらメールを完成させる。
どれが誰のアドレスかわからないが全員に送信すればいいよな。
と、いうわけで一斉送信しました。
あとは父さんにも電話して、と。
父さんへの連絡を終えると俺は何気なく周りを見回す。
抽選が終わって帰っていく人が大半の中、一際目を引く存在がいた。
女の子だ。こんな男ばかりのむさい場所にいるだけでも珍しいというのにその子はなんということか、背中まで伸ばされた長い髪の一部を後頭部のあたりに半透明の青い蝶形の髪飾りで結わえ、柔らかい目元は優しそうな雰囲気を醸し出している。
スラリとした長身、というか背もかなり高い。俺も同年代の中じゃ背丈には自信があるほうだったがその俺と変わらないくらいなのだから男の子のプライドブレーカーである。むこうのが年上だと信じたいな。
彼女も大会参加者なのか、赤いパーカーとブルーのデニムパンツというカジュアルな格好だが。
すごい、美人だな。俺は素直にそう思った。
こんな美人を前にして、真の男がやるべきことと言ったら一つしかない。
俺は口を開く。
「遥介、すげー可愛い子見つけたからちょっとナンパしてくる。ここで待っててくれ」
そう言って俺は彼女に向けて足を踏み出す。
おい、それでなんで俺が待ってる必要がある?というツッコミが背後から聞こえた。馬鹿だな、相手がもし二、三人の女友達と一緒だったらこっちもできるだけ人数を合わせたほうがいいだろ?
彼女も同じ大会参加者なら野球のことで話題を膨らませるのが一番有効だよな。
会話の始点はどうする? やはりここは定番で行くか。
「すいませーん」
俺は彼女に声をかける。
「はい? 私ですか?」と彼女がこちらを向く。やっぱり綺麗だな。ホントどこのアイドルだよって感じ。
俺は努めて普通に見えるよう言う。
「すいません、ここから一番近い駅はどこですか?」
ああ、それならと彼女は穏やかな笑みを浮かべて最寄り駅の名と方角を教えてくれる。
「ちょっと道が複雑なんですがわかりますか?」
そう訊いてくる彼女に俺は難しい顔をするよう意識して答える。
「いやあー、ちょっと自信ないですね。よかったら案内してもらえません?」
よし、ここまでは作戦通り。
近くの駅がどこかと訊けばこの駅を答えてくれるだろうことも、その駅に行くための道がちょっとわかり難いことも、そしてその駅まで彼女と歩けば二十分くらい会話の時間がとれることも計算通りである。
あとはその時間内に彼女と楽しくお喋りして、名前と電話番号を聞き出せれば成功である。
後ろに居る遥介から、お前チャリじゃん。電車乗る必要ねーだろ、みたいな視線を感じるがそこはどうでもいい。
駅まで案内してくれと言った俺に対して、彼女は戸惑いの色を見せる。
「実は私、友達を待ってて」
「ああ、いいですよ。それくらいなら待ちます」
俺は即答する。あたかも彼女の友達が来たらその後で俺を案内してくれることが確定しているみたいな前提で。
これで俺の頼みは断わりづらくなったはず。
案の定、彼女は俺の頼みを断わる様子は無く。じゃあ少し待ってていただけますか?と人当たりのいい笑みで答える。
彼女の友達が男か女かで難易度は変わるが、とりあえず彼女と二人きりで話す時間が得られたことは成功だな。
友達とやらを待っている間、俺は彼女に話しかける。
「そういえば貴女も草野球大会の参加者なんですか?」
「ええ、変ですか? 女の子が野球なんて」
彼女は口元に僅かに笑みを浮かべてこちらを試すような目を向けてくる。
「いや、俺の友達にもすげー野球好きの女子が沢山居ますから。別に普通でしょ。チーム名はなんていうんです?」
もうちょっと野球関連で会話を膨らませるつもりだったが、丁度良さそう流れだったので俺は彼女のチーム名を聞きだすことにする。
チーム名さえわかれば彼女の試合を見に来ることもできるからな。
彼女は眩い笑顔のまま答える。
「申し遅れました。私、チーム・スノーメロディーズのキャプテン姫宮星巳と言います」
おおう! これは一石二鳥、チーム名だけでなく彼女の名前も教えてもらったぞ。
えーと、チーム・スノーメロディーズか。スノーメロディーズ、スノーメロディーズ。えーっと。
い、嫌な予感しかしねぇ!
彼女がこちらに笑顔と言葉を向けてくる。
「それで貴方のお名前は?」
普段の俺だったらここで迷うことなく、自分の名を答えていたところだろう。しかし今の状況だと、彼女はすでに俺の名を知っている可能性がある。
えーっと。ぎ、偽名とか使っちゃ駄目ですか?
駄目だ。彼女の立場に立って考えると、ここで冗談ではぐらかしても好感度を下げるだけにしか思えない。
俺は素直に答えることにする。
「そ、相馬です」
その名を聞いて彼女が人差し指を頬に当て、なにかを思案するように視線を上に向ける。
「相馬君ですか? どこかで聞いた名前のような」
うわあ、思い出さないでくれ!
「まあ、あんまり珍しい名前でもないでしょ」
と言いかけた俺の声を別の声が遮る。
「相馬幸平君、チーム・スプリングのキャプテンにして、ユキっちの従兄弟のお兄さんっしょ?」
声の方向に目を向けると二人の少女が少し離れたところからこちらを見つめていた。
一人は吸血鬼のような八重歯と悪戯っ子のように爛々と輝く釣り目が印象的なストレートロングの少女。身長は、良かった俺より幾分低そうだ。歳も俺と同じくらいだろう。
白いTシャツに黒のベストを着て鼠色のショートパンツ姿というアクティブな感じのする私服姿だ。
もう一人はさらに背が低い。これは静佳と同じくらいだな。こちらは丸みのある幼い顔立ちと瞳に、不機嫌そうな色を滲ませ俺を睨みつけている。
長い髪を左サイドで赤いボンボンでまとめており、紺のキュロットにオレンジの半袖トップスと可愛い感じがするコーデだ。袖口に紐がついていてリボン結びになっているのがさらにキュートだな。
「マユちゃんにカナちゃん先輩!」
姫宮が驚いた様子で二人の少女のことを呼ぶ。この子らがさっき言ってた友達なのだろう。
「この人がユキちゃんのお兄さんなんですか?」と姫宮が八重歯の少女に訊く。
八重歯の少女はさっき俺の台詞に割り込んできたのと同じ声で、
「うん、前にウチ写真見せてもらったことあるもん。この人で間違いないよ」
と断言する。
やっぱりこの子ら、雪音のチームメイトか。
姫宮が不思議そうに顎に指を当てる。
「あれ? チーム・スプリングって午後の最初の試合でしたよね。試合だって同じ球場で行われるのに、わざわざ電車で一旦帰るんですか?」
そう言って俺のことを見つめながら小首を傾げる。
いかん、なにか言い訳をしないと。例えばチームメイトを呼びに行くとか、そう考えたときには既に遅く、八重歯の少女が楽しげな表情で姫宮の疑問に答えていた。
「バッカねえ。幸平君は地元育ちなんだよ? 駅の場所なんて最初から知ってるし、道案内は単なる口実でしょ。
ナンパの常套句、星巳とお話しするための」
その言葉に姫宮は、え、えー?と苦笑いを浮かべながらこっちを見る。
そして自分の顔を指差しながら、
「私、ナンパされてました?」
と俺に訊いてきた。
ここは肯定しちゃいけないよな。彼女は善意で道案内を引き受けてくれたんだし。
こちらが相手に気があるのかないのか、白黒はっきりさせてはいけない。グレーのままが一番好感度を上げやすい。
この人、私のことが好きなのかも? でも違うかも?ってぐらいの印象にしておけば俺のことを色々考えてもらえるからな。
俺は真面目な声を意識して答える。
「ここらへんはあんまし来ないし、駅までの道がわかんなかったのは本当ですよ」
続いて冗談めかした口調で笑いながら、
「でもこのままナンパにシフトしてもいいかなーとは思うね」
えー、と姫宮が眉を八の字に寄せながら笑う。
ちょっと苦笑気味だが、白でも黒でもなくグレーな答えを返せたぞ。
あはは、と笑いながら八重歯の少女が口を開く。
「マジでユキちゃんが言ってた通りの性格だね幸平くん。んじゃ合コンしよう、合コン。丁度昼時だしどっかご飯食べれるとこない?」
おっ、なんか面白い展開になってきたぞ。姫宮を口説きたい俺にとって願ってもない提案だ。
早速俺はその話に賛成することにする。
「それなら駅の向こう側にファミレスがありますよ」
俺がそう言うと、姫宮が笑顔とともに、
「そうですか。じゃあ案内してもらえますか相馬君」
その頼みに俺は迷わず即答する。
「ああ、任せてください」
そして一瞬で後悔した。
し、しまった。ハメられた。
姫宮が慈愛に満ちた笑顔のまま、俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
「頼もしいですね相馬君は。駅までの道がわからなくても、駅の反対側にレストランがあることを知ってるんですね。この辺の地理に詳しくてとても頼もしいです」
神様。俺、この子をナンパして本当に良かったんでしょうか?
早くも後悔し始めてる相馬幸平、十三の春。
「んでさ、この前あの子んち行ったらチョー可愛いぬいぐるみがあってー、あれ名前なんつったけ?」
そう言いながら八重歯の少女が片目を閉じてコメカミに人差し指を当てながら記憶を探る。
「キューちゃんのことですか?」
そう答えたのは姫宮だった。
「そうそれ! 思い出したわ! 別に羽が生えてるわけでもないし飛び道具も持ってないのになんでそんな名前なのか気になってたのよね」
「小さい頃のことだから覚えてないって言ってたけど?」
ボンボンをつけた少女がそう説明する。
そんなこんなで現在俺達はファミレスで合コンを開催中である。出来るだけ人数を合わせる為、乗り気でない遥介を無理矢理引っ張ってきてな。
「つーかよく考えたら自己紹介もまだだったね」と八重歯の少女が場を仕切る。
彼女の話を聞いてわかったことだが、八重歯の少女とボンボンの少女は俺が姫宮に声をかけた最初から一部始終を観察していたらしい。ボンボンの少女は早く姫宮と合流したかったろうが、八重歯の少女が面白そうだからという理由でそれを押し留めたのはなんとなく想像がつく。
八重歯の少女が胸に手を当てて言う。
「ウチは羽山中学三年、ソフト部キャプテン時雨要。『一刀両断のスナイパー』の異名を持つ闇の処刑人だよん。よっろしくうー」
すげえ。一刀両断のスナイパーだと? 武器が刀なのか銃なのかよくわかんねー。
ここは俺も自己紹介を返さないと。
「俺は八ツ橋中学二年の相馬幸平。『血塗られたホッチキス』と呼ばれた学園最強の男です。俺に触れると火傷するぜ?」
『攻撃方法がホチキスで挟むことなのですか? すごく弱そうです』
時雨さんが俺の紹介を聞いて、あははと笑う。
「やるね、幸平君。ってかタメ語でいいよ。敬語は堅っ苦しい」
「そうっすか、じゃあまあ好きにさせてもらいます」
俺の答えに、うんうんと満足そうに頷いて時雨さん(年上なので、さん付けに確定した)が隣に座る姫宮の肩を叩く。
「そしてこの子がソフト部の次期主将との呼び声高い二年生。ドS女王・姫宮星巳」
その紹介を聞いて姫宮がぷくーっと頬を膨らませる。
「心外ですね時雨先輩。私のどこがドSだって言うんですか」
「カナちゃんって呼んでくれなきゃ嫌だー!」
そう言って時雨さんが姫宮の首に抱きつく。ドS女王ね。うん、まあわかる気がする。
続いて時雨さんが椅子から立ち上がり、姫宮の隣に座るボンボンの少女を手で示す。
「それでこっちがソフト部期待の一年生。魅惑のロリータ・八雲麻弓」
八雲! その名前を以前雪音の口から聞いたことがあった。
俺は思い出す。それは数週間前に雪音と交わした会話。
――――お兄ちゃん聞いて! 坂本竜馬を殺した犯人は八雲ちゃんだったんだよ!
『いえ、そんな会話無かったですから! こーへーさんの捏造記憶ですから!』
俺の脳裏に不思議な光景が浮かぶ。見たことのない女性。しかし俺は彼女を知っている気がする。
お龍? まさかお龍なのか!
続いて浮かんでくるのは二人の男性。西郷殿! 木戸殿! まさかこれは薩長同盟の時の光景?
そうか、これは俺の前世の光景。
『こーへーさんが唐突に前世の記憶に目覚めてしまいました! っというかこーへーさんの前世は織田信長じゃないですか! その記憶は偽物です! 悪質なウィルスとかです! ゴミ箱フォルダにポイってしちゃってください!』
すまないサンタクロース、俺のゴミ箱フォルダは既に春火との思い出で一杯なんだ。
『ゴミ箱フォルダは一杯にしておくものじゃありません! 中にある物を削除するんです!』
確かに春火との思い出には辛いものも多い。けどどうしても忘れることができないんだよ。
そんな思考を経て俺は現実に復帰する。
「おおー! キミが八雲ちゃんか。雪音から聞いてるよ。唯一無二の親友だって」
俺の言葉に、ううぇえと嫌そうな顔をしながら八雲は姫宮の顔を見る。流石に唯一無二は大袈裟だったか。
姫宮は悪戯っぽく笑いながら、
「ええ、マユちゃんとユキちゃんはとっても仲良しさんなんですよー」
と答える。間髪入れず「ほ、星巳お姉様!」と八雲が慌てる。
「まあ喧嘩するほど仲がいいと言いますか」
姫宮がそう付け加える。
そこに時雨さんが、
「喧嘩っつーよりユキっちが一方的にマユピーをからかってるだけな感じだけどー」
ふーん、唯一無二の親友なんて言われて八雲が嫌がってた理由がなんとなくわかった気がする。そういう力関係なのか。
俺は本心を口にする。
「しかしちょっと想像できねーな。あの雪音が人をからかうなんて」
他人に興味のなさそうな雪音がね。長い付き合いの相手ならまだしも、中学入ったばかりで知り合った相手ともうそんなに打ち解けてるということは、この八雲という子はそんな雪音が気に入るだけの何かを持っているのだろうか。
俺のそんな思考を多少理解したのか姫宮が口を開く。
「確かにユキちゃんは一匹狼なところがありますよね。私や時雨センパ、」
「カナちゃんって呼んでくれなきゃ嫌だあー」
「こほん。私やカナちゃん先輩も初めて会ったばかりの頃は大分距離を置かれてる感じがしました」
だろうなー。
どんな風な出会いだったんだ?と俺は姫宮に訊いてみる。
「ユキちゃんと悠梨さんが一緒に練習しているところに偶然通りかかって、あの子達の実力に光る物を感じたから声をかけてみたんです」
だろだろ! アイツラすげーよな。特に雪音の野球は倉田監督仕込だからな。
俺はいい気分になる。もっと雪音のことを褒めてくれたまえ。
「でも私がいくら褒めてもお世辞としか受け取ってくれなくて、なんだか怪しげな勧誘に対して警戒心剥き出しみたいな感じで心が折れそうになりました。悠梨さんの方が話しやすくて」
姫宮は困った笑みとともに吐き出す。
そんな姫宮に俺も言葉を返す。
「気難しいだろアイツ。でも根はいい奴なんだ。これからも仲良くしてやってくれ」
その言葉はソフト部トリオ全員に言ったつもりだ。
時雨さんはハイテンションで「もっちろーん! ユキっちはアタシに生涯のパートナーに決定済みだからねん。末永く幸せにエロエロに暮らしますよ」と答えてくれた。
姫宮も輝かんばかりの笑みで「私も、ユキちゃんのことは大好きです。相馬君と縁を切ってさえくれるなら一生の友達でいたいと思います」
あれ? 今、最高の笑顔で致命的に酷いこと言われなかった?
しかし八雲一人だけは不服そうな顔をしてグチグチと文句を吐き出す。
「だってアイツ協調性がないんだもん。こっちが気を使ってやってんのにシカトしたりさ」
「そういうのが嫌なんだよ。プライドが高いからねユキちゃんは」
そう言って姫宮は八雲を諭す。
「その点マユちゃんは誰に対しても遠慮がないから、そういうところがユキちゃんは気に入ったんじゃないかな? 羨ましいなーマユちゃん、ユキちゃんとラブラブで」
「ちょっ、違いますお姉様! ウチと雪音は宿敵同士であって馴れ合うような間柄じゃないんですって」
焦り気味に弁明する八雲の首に後ろから時雨さんが腕を回して抱きつく。
「いいなマユピー、ユキっちとラヴラヴでー。ウチもユキっちともっと関係を深めたいー。ベッドインしたいー!」
仕方ないからここはマユピーのぺったんこのお胸で我慢しますか、と言って胸を揉みだす時雨さんに八雲は悲鳴をあげて抵抗する。
「た、助けてください星巳お姉様ぁー!」
「頑張ってマユちゃん。この試練を乗り越えてこそマユちゃんはソフト選手として一段階成長できるんだよ」
自分もターゲットにされる危険を感じてか、俺の背中に隠れながら姫宮は温かく言葉を返す。
悪ふざけの一環だとしても、女の子を背中に庇うってすごい気分がいいな。姫宮は俺が守る!
俺はそんな姫宮に肩越しに訊いてみる。
「それで雪音はどうしたの今日。また寝坊か?」
その問いに姫宮は苦笑いを返す。
「ええ、本当は今日も一緒に来る予定だったんですが」
俺もまたその答えに苦笑を返すしかない。
「あいっつホントに朝弱いからな。休日は昼まで寝てやがるし」
もし今日すぐに試合をすることになってたらスノーメロディーズ全員を呼ぶ予定だったらしいが、その必要もなくなってしまったようだ。
なので雪音は今も布団の中でぐっすりである。
ふとさっきから遥介が全然発言してないことに気付いて俺は周りを見回す。
奴はドリンクバーから飲み物を持ってきて戻ってくるところだった。
「おう悪かったな遥介。雪音の話ばっかりしちゃって。この中でお前だけ雪音に会ったことないんだから会話に入って来れないよな」
俺がそう声をかけると遥介は言葉を返す。
「ああ、でも話には聞いてるぜ。韓流スターが大好きでジムのファンなんだろ」
いや、明らかに韓流スターの名前じゃねーし。適当言うなよ。
「んじゃ、話題を変えよっか」と時雨さんが切り出してくる。
八雲はどこ行ったんだろう?とあたりを見回してみると、テーブルから少し離れた通路で胸を押さえて顔を真っ赤にしながら、ぜーはーと呼吸を整えていた。彼女は大切な物を守りきれたのだろうか?
「合コンの話題といったらやっぱアレだよねー」と言って時雨さんが人差し指を一本立てる。
そしてニヤリと怪しげな笑みで俺の顔を見つめる。な、なんだ?
「好みの女の子のお話ー!」
そして楽しげな声で俺に詰め寄ってきた。
「ねえねえ、幸平君はやっぱ巨乳好き? おっぱい大きい女の子が大好き?」
ええー! なにそのストレートに答えにくい質問! どう答えても姫宮や八雲に白い目で見られそうなんですが。
俺の隣では遥介が我関せずといった様子でカルピスを飲んでいる。く、どうすれば。
胸、胸か。俺はあんまり重要だと思ってないんだが。別に小さくても構わないし。
俺は当たり障りのない答えを返すことにする。
「まあ別に、俺はスリムな方がいいかな」
むっ、と時雨さんがつまらなさそうな顔をする。
だが間髪入れず次の質問を繰り出す。
「じゃあ髪は! 長い方と短い方どっちが好き?」
髪か。やっぱロングのがいいな。
「長い方が好きですね」
そう答えた途端、時雨さんが立ち上がって哄笑とともに俺の頭をペシペシ叩く。
「ぬははは! このむっつりスケベめ! 髪が長い女の子が好きなのはエロっちい証拠なのだぞ!」
う、うるさいな。年頃の男の子にとって、女の子にこの手の話題でからかわれるのは一番辛いんだぞ!
俺の答えに姫宮の表情が僅かに曇った気がする。なんだ?
姫宮がちょっと硬い笑みを浮かべながら、じゃあと俺に言葉を投げかける。
「身長はどうです? やっぱり彼女にするなら小さい方がいいですか?」
身長か。確かに俺より高いと焦るけど。正直に言って俺の好みは、
「スラリとして背が高いほうがいいな」
姫宮みたいな、と心の中で付け加える。
俺の回答に時雨さんの笑みも固まる。な、なんなんだ?
慌てた様子で時雨さんは再度質問を投げかけてくる。
「じゃあじゃあ、年上派? 年下派? それとも同い年?」
そりゃあ、
「年上派ですかね」
姫宮のことも最初に見た時は年上だと思ったわけだし。
時雨さんと姫宮から笑みが消え、二人は顔を見合わせる。
そして二人の間からヒソヒソ話でもするように、ヤバイよね、ヤバくない?などという囁き声が聞こえてくる。
なんなんだ? 特に意識したわけではないが、今言った俺の好みに時雨さんも姫宮も大きく外れてはいないと思うのだが。
時雨さんがもはや切羽詰ったように、
「じゃあ顔は? 可愛い系? 綺麗系? どっちが好き?」
と訊いてくる。シンプルな質問なので俺は即答する。
「綺麗系が好きです」
時雨さんが小声で、うわあ、と言ったのが聞こえた。
姫宮の笑顔も完全に乾いていて、隣の八雲も眉根を寄せ、難しい顔をしている。
一体どうしたっていうんだ?
俺は小声で男友達に助けを求めることにする。
「おい遥介。俺何かマズイこと言ってるか? なんかどんどん空気がおかしくなってるんだけど」
遥介も微妙に困った様子で小声で答えを返す。
「別に、そんなに変なことは言ってないと思うぞ。お前の好みが殆ど天草先輩に当て嵌まるなーってことぐらいしか感想はねーよ」
むっ、確かに身長以外はチナに符合するな。アイツを恋愛対象として見たことなんてこれまでの人生で一度もないんだが。
そして姫宮が最後の勝負に出てくる。
「じゃあ性格はどうです? 甘えん坊なタイプか、しっかり者なタイプか、どっちが好きです?」
これまた答えやすい二択。どっちを答えたら地雷なのかわからない俺は、迷わず自分の好みを正直に告げる。
「しっかり者の子のほうが好きですね」
言っとくけどチナを意識してるわけじゃないぞ。
そりゃチナはよく俺の相談に乗ってくれるし、大人だなーって思うこともあるけど。
そしてとうとう姫宮と時雨さんが完全に凍りつく。俺の最後の回答も見事地雷を射抜いてしまったらしい。
俺はもう正直に訊くことにする。
「なんなんすかさっきから。俺の好みってそんなにマズイっすか?」
「いやあ」と渇いた笑みを浮かべる姫宮。
「幸平君の好みにケチつける気はないけどさあ」と言葉を濁す時雨さん。
その空気を八雲の一言がばっさり両断した。
「だってそれ、雪音と正反対のタイプじゃん」
えっ?
あっ!
い、言われてみれば。
えーっと、えーっと。マズイ!
雪音は俺に懐いてくれる妹のような存在だ。彼女が俺のことを異性として見ているかはわからないが、今の会話が雪音の耳に入れば、彼女を落胆させてしまうことは容易に想像がつく。
俺は頑張って得意気な笑みを浮かべて親指を立てる。
「姫宮、雪音に伝えてくれ。俺はいつでも雪音一筋だと」
言ってみた。
姫宮は、えーっと、と困った笑みを顔に張り付かせる。
「すいません、私とても純粋で綺麗な心を持っているので嘘をつくとかはちょっと」
「そっかー、姫宮は純粋で綺麗で嘘をつけない性格なのか。俺と同じだな。俺達似たもの同士だ」
そう言って俺は笑う。釣られて姫宮も笑う。
「ええ、似たもの同士ですね。ところでどこかの眼鏡の人が邪悪な波動を出してくるのでちょっと喫煙席へ移動してもらいたいのですが」
「俺、喫煙家並に嫌われてる!」
と、とにかく。とにかくだ!
姫宮には取り付く島もないようなので俺はターゲットを時雨さんに移す。
そして愛想笑いを浮かべながら言う。
「時雨さん、この話は雪音には伝えないでおいてもらえますか?」
うわあ、という顔をする時雨さん。あ、呆れられた?
「幸平君ってやっぱ八方美人だ。狙ってる子以外にも嫌われたくないってワケね」
天井を仰ぎながら両目を手で覆うその様子を見ると俺のお願いを聞いてくれそうもない。これ以上食い下がっても彼女達の評価を下げるだけのような気がして俺はこの件にはもう触れないことにする。
「つっか幸平って午後の第一試合だろ。そろそろ行かねえとやばくね?」
絶妙なタイミングで遥介が話題を断ち切ってくれる。おお、親友よ感謝する。
時計を見ると試合開始まであと一時間半ほどだった。
ここから球場までかかる時間、メンバーを確認してスターティングオーダーを提出して準備運動してと考えると確かにそろそろ出たほうがいい時間だ。
「じゃ、もう出ますか」と時雨さんが伝票を掴む。
「午後の試合、私達も応援に行きますね」と言って姫宮が小首を傾げる。
「おう、頼むわ。姫宮が応援してくれるなら俺は無敵だ。ホームラン打って見せるからよ」
俺がそう返すと姫宮がにっこりと笑みを強めながら、
「何か、勘違いしてませんか相馬君」
え? 何を?
姫宮は桜の花が開くような満開の笑みを浮かべて続く言葉を紡ぐ。
「私が応援するのは相馬君と戦う相手チームのほうですよ?」
「姫宮、そんなに俺のこと嫌い?」
俺のツッコミに姫宮は困ったような顔をする。
「そんな、私は別に相馬君のこと嫌いじゃありませんよ。むしろ好きな方です。ゴキブリの次くらいに好きです」
「ゴキブリ以上に嫌いってことじゃん!」
女の子に好きって言われてここまで傷ついたのは初めてなんですけど。
そこに時雨さんの苦情が飛んでくる。
「お前ら、ご飯食べるところでゴキブリゴキブリ連呼するなよ。食欲が湧いてくるだろ」
「湧いてきちゃうの! どんな嗜好してすかアンタ!」
「ウヘヘ、上手そうな黒光りだぜ」
「あっ、カナちゃん先輩も喫煙席へ移動してもらえますか? 知り合いだと思われたくないので」
「ごめん星巳! 冗談だって!」
姫宮の冷たい反応に流石の時雨さんも真面目に謝罪モードに入る。
俺達はとっくに食事を終えて空になった食器で埋まってるテーブルの上で、それぞれ自分が食べた分を計算してお金を出し合う。
「実は最近のファミレスはレジで個別会計もできるんだよん。知ってたー?」
時雨さんが得意気に言う。
そこに姫宮は困り気味に言葉を挟む。
「でも迷惑じゃないですか? お店のほう忙しそうですし、五人で個別に会計すると時間もかかりますし」
「日曜の昼だからなー」と俺も言う。今混まなきゃいつ混むというのか。
店内は大繁盛だった。さっきから店員が一向に食器を下げに来ない理由もそれだ。客が帰った席を優先して片付けるだけで手一杯みたいだからな。
「俺、もう一杯コーヒー飲んでくるわ」
俺は自分の分の支払いをテーブルに置くと席を立ってドリンクバーに向かう。
カップをコーヒーマシンに置き、ボタンを押すと機械の駆動音が響く。
そうしてコーヒーが出てくるまで数秒のタイムラグがあるのだが、その僅かの時間に突然一人の少女が割り込んできて俺の置いたカップをとり、中に氷を山ほど入れて再びコーヒーマシンにセットし直す。
それを取り返す暇も無く、さっき俺がボタンを押したマシンがホットコーヒーを吐き出す。
ああ、あんなに氷を入れたらコーヒーが薄くて温くなっちゃうじゃないか!
なんてことを、なんてことを、
「なんてことをするんだ高原!」
俺が怒鳴ると先ほどの悪戯をした少女――高原がこっちを振り向き片手を上げる。
「あっ、幸平君。こんなところで会うなんて奇遇だね。やっぱり私達って運命の赤い糸で結ばれてる?」
そう言って指を一本立てる高原。
「なんで中指を立てるの! 運命の赤い糸つったら普通小指だろ!」
あはは、ごめんごめんと高原が笑う。
「うう、コーヒーが薄くなってしまった」
俺は心底残念だという空気をアピールしながらしてコーヒーマシンからカップを取る。
「いいじゃん、どーせ飲み放題なんだから。注ぎ直せば?」
「そんな勿体無いことはしない。俺はこのコーヒーを飲む」
食べ物を粗末にしてはいけません。
立ち食いならぬ立ち飲みをしたコーヒーはやっぱり薄かった。
俺がコーヒーを飲むのを横で見つめていた高原が唐突にトーンダウンした声で言葉を吐き出す。
「幸平君はさ、ああいう女の子が好きなの?」
「ん?」
カップを口から放し高原の視線を追うと、その先にいたのは姫宮だった。高原はさっきまでの合コン(と言っていいのか?)の様子も見ていたのかもしれない。
「んー、まあな」
高原の真意がわからない俺は曖昧な返事を返すしかない。
予想外に手強い性格だったので、姫宮を落とすのはもう諦めたほうがいいような気がしてきたが。
「ふーん。確かに綺麗だよねあの人。やっぱ美人な彼女が欲しいとか、キスしたいとか思うの?」
高原のその問いは心ここにあらずといった感じで、俺がどんな答えを返しても無感動に受け流しそうな気がした。
なんだ? どういう意図でそんな質問をしてくる?
俺は考える。逆の立場だったらどうだろう? たまたまファミレスでチームメイトの女の子が知らない男と楽しそうに談笑しているを見かけたら俺だったらどう思う? その女の子と自分の距離感にもよるが、多かれ少なかれ嫉妬するだろう。その子の恋愛観ぐらいは訊いてみたくなる。俺は彼女がいないから心が狭いだけかもしれないが。
今の高原もそれと同じような気持ち?
だとしたら正直に答えるべきか。
「まあ、思うよ。そういう高原はどうなんだよ? どんな男を彼氏にしたい?」
このまま質問攻めにされたら立場が弱くなりそうで、俺は聞き返す。
高原は即答した。
「いらない」
えっ?
彼女は姫宮から視線を外し、横目で俺を見つめる。
「私、恋愛ってものにあんまりいいイメージ持ってないし。恋人が欲しいとか生まれてこの方思ったことないもん」
その瞳は淡白で、本当にこの話題に何の関心も持ってないように見えた。
彼女は再び俺から視線を外し、前を見る。その瞳はもう姫宮も何も映していなかった。
そしてどこか上の空の様子で言葉を吐き出す。
「ちょっと前にね。私の友達が失恋してずっと泣き続けてたことがあってね」
悲しげに眉根を寄せ、泣き出しそうな目で、
「あの時は、見てられなかったよ」
一旦瞼を閉じた後、瞳を開き、「それに」と付け加える。
「嫉妬が人を傷つけることだってあるじゃない?」
あっさりとしているようでどこか重みがこもっている口調。なにか実体験に基づいているのだろうか?
再び俺の方へ向き直った高原はニッと笑う。
「あっ、でもでもー。好きな人はいないけど気になる男の子はいるかなー」
楽しげに言って俺を見上げてくる。さっきまでのシリアスムードはどうした?
「へえ、誰なんだよ」
俺は社交儀礼的に訊いてみる。こいつの態度からして真面目な話じゃなさそうだが。
高原は俺に身を寄せて、人差し指で俺の胸をツンツンとつついてきた。
そして可愛く頬袋を膨らませて俺を見上げる。
「さっきね。幸平君が知らない女の子と楽しそうにお喋りしてるの見て、胸の奥がモヤモヤしてきたの」
な!
なんですとー!
高原は恥ずかしげに目を伏せて、俺から離れながらポケットから横長の白い封筒を取り出す。
「私の気持ち、受け取ってくれる?」
そして上目遣いで俺を見つめて小首を傾げる。その封筒はハート型のシールで留められていた。
そ、そうか、そうだったのか! 高原は本当は俺のことが!
さっきの態度は姫宮に嫉妬してたからなんだな!
高原とは初めて会ったとき――およそ一ヶ月前にフラれたばかりだが、その後一緒のチームで練習するうちに俺の魅力に気付いたというわけか。
俺は彼女の手から封筒を受け取る。
「開けていい?」
俺がそう問うと彼女は頭を振る。
「今は、恥ずかしいから。私が帰ったあとに開けて」
「ん、わかった」
そう答えると高原は小さく、ありがと、と言って俺に背を向け小走りで店の出口へ向かう。
その背中が扉の向こうへ消えて見えなくなると、俺はさっきの封筒を開けてみることにする。
うう、なんだかドキドキするな。まさかこんなところで高原とこんな展開になるなんて思いもしなかった。
果たしてどんな文面が書かれているのか。俺は期待と緊張に胸を高鳴らせながら封筒の中に入っていた一枚の紙を開く。
そこにはこう記されていた。
あんかけご飯、六百二十八円。シーフードサラダ、四百十八円。海老スパ、六百二十八円。セットプレミアムカフェ、二百八円。
合計金額が、えっと。
……?
これ、伝票じゃん。
「た、か、は、らー!」
俺は封筒を握り潰す。くっ、あのお下げ。男の子の純情を弄んだ罪は重いぞ! さっきまで勘違いしていた自分が無性に恥ずかしい。
「どうした幸平? 今の子ってお前のチームの子だろ?」
近くを通りかかった遥介がそう声をかけてくる。
俺の食べた分の支払いはさっきテーブルに置いておいた。
「ああ。遥介、会計は頼む。俺はヤツを追う」
そう言って玄関に向かおうとする俺に姫宮がにっこり微笑みかける。
「頑張ってください相馬君。あの子、きっと相馬君のこと待ってますよ」
姫宮、お前さっきのやりとりを見ていたのか?
お前は封筒の中身を知らないからそんな勘違いを。
「封筒の中身? もちろん知ってますよ。伝票だったんでしょう」
知っててその台詞かよ! お前ホントいい性格してるな!
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取っておきます」
俺はとっとと玄関を出て高原を追うことにする、と思ったが彼女から受け取った伝票が俺の良心を縛り付ける。
仕方なくレジで高原の分の会計を済ませてから店を出る。
出てすぐの歩道の街路樹が植えられたレンガの上に高原は腰掛けていた。
「あっ、幸平君。私の気持ち受け取ってくれた?」
語尾にハートマークがつきそうなくらい上機嫌に彼女はそう訊いてくる。
俺はできる限りの笑顔を浮かべて言う。多分その笑みは引き攣っているだろうが。
「なあ高原、いくら親しい間柄とはいえ、いや親しい間柄だからこそ、お金のことはキッチリしないといけないと思うんだよ」
「え、将来は幸平君が養ってくれるんでしょ?」
楽しげに言って小首を傾げる。こんなろ、反省の色が微塵も見えねー。
「そーんな恐い顔しないでって。体で払ったげるから」
なんだかとても嬉しい台詞が聞こえたような気がするが、もう俺はそんな言葉に惑わされないぞ!
「た、だ、し」と言って彼女は立ち上がる。
「私を捕まえられたらね」
そう言い残してダッシュでその場を去る高原。
貴っ様ー! 待ちやがれ!
人の心を弄び、心の隙間に入り込む貴様の邪悪な所業! 俺は絶対に許さない!
『す、すっごい主人公っぽい台詞です。言ってる場面はカッコ悪いですけど』
俺は高原の背中を追う。待て、待ちやがれ! 待って! いやホントに待って、ちょっ、いやこれ、マジでどんどん離されていくんですけど! ヒー、ヒー! もう、息、苦し、い。ち、っくしょう。
アイツの足に追いつけると僅かでも思った俺が馬鹿だった。豆腐の角に頭ぶつけて死にたい。
なんで豆腐の角に頭をぶつけると死ねるのかな?と俺は考えてみる。
やはり冷奴の冷たさに心臓発作を起こして死ぬのだろうか?
ならば湯豆腐なら死なない?
湯豆腐太郎物語ー。
昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。
あるときお爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
お婆さんが川で洗濯をしていると上流から大きな湯豆腐がどんぶらこっこどんぶらこっこと流れてきました。
しかもその湯豆腐は急流に流されボロボロに崩れていきます。そして中から赤ん坊が産まれたけど、その泣き声も激流に呑まれて消えていきました。
『ヒーローが! ヒーローが生後まもなく命の危機です!』
お婆さんはその赤ん坊を助けようとして自分も川に飛び込みましたが二度と浮かび上がってこれませんでした。
『ああ、お婆さんまで巻き添えに!』
それから数年の時が経ち。
『嘘、まだ続くんですか! 頑張りすぎです!』
すくすく成長したお爺さんは村で悪さをしている鬼達の噂を聞き鬼退治へと旅立ちました。
『お爺さんは成長しないですよ!』
お爺さんが旅をしていると犬とか雉とか猿とかにキビ団子をカツアゲされすってんてんになってしまい、鬼に返り討ちにされましたとさ。
めでたしめでたし(鬼視点で)。
『誰かが幸福になると、その分誰かが不幸にならざる負えない。世の中の悲しい摂理を描いた深い作品でした。
この物語を細かいところまで考察すると、お爺さんは妻を喪った悲しみから死に場所を求めて鬼退治に向かったのかもしれないとか、お爺さんとお婆さんが二人暮らしなのは子供がいないのか、別居中なのか、いずれにせよお婆さんが危険を顧みず赤ん坊を助けようとしたのは子供が欲しいという願望があったからだったのかもしれません等など、いろいろ深読みできると思います。やっぱり行間を読むって大事ですよね』
現実逃避に馬鹿なことを考えながら、足を止め膝に手をついて息を整えていると、すぐ前に誰かの気配を感じた。
「幸平君。ひょっとして怒っちゃった?」
不安げな高原の声。こいつ逃げてたんじゃなかったの? なんで戻ってきてんだ?
少し、高原の立場から物事を見てみよう。
俺だったらどうだ? 俺が友達とファミレスに来て、支払いを友達に任せて逃げたら?
その友達とは今後も付き合いを続けていくんだから、逃げて済む問題じゃないだろう。
だからこれは相手をからかいたい為の悪戯なのだ。別に食事代を踏み倒す気なんて最初からない。
でも、もし逃げても相手が追いかけてこなかったら? 冗談が通じなくて怒らせたかもしれない。嫌われたかもしれないと不安になるのも分かる。
なんだ、結局高原の悪戯って相手とコミュニケーションをとる手段なんだ。それが失敗して相手に嫌われるのが恐いなんて、可愛いヤツ。
俺は顔を上げて高原の不安そうな表情を見る。
そして軽蔑しきった声を吐き出す。
「高原、お前最低だな」
彼女の表情が悲しげに曇る。
「ご、ごめん。冗談だって! お金はちゃんと払うから! カズ君にもらったお金があるし」
慌てて財布を取り出す高原の姿があんまりにも可愛くて俺は堪えきれなくなって吹き出す。
「くっ、あっはははは! いや俺のほうこそ冗談だって。別に怒っちゃいねえよ」
「えっ?」
彼女がキョトンとした顔をする。
そんな彼女を指差しながら、俺は言う。
「とりあえず、あんかけご飯と海老スパとシーフードサラダとプレミアムカフェ今度奢れ。それでチャラにしてやる」
「えっ、お金返せとかじゃなくて?」
高原が不思議そうな顔をする。
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめ口の端を釣り上げる。
「ああ、本当はお前とデートしたい口実だからコレ」
そう言って俺は彼女の頭を撫でる。高原は恥ずかしそうに頬を染めて顔を背けた。
球場に戻るとすでにウチのチームメンバーは全員揃っていた。
最初に俺達の姿に気付いたのは方條だった。
「柚希に相馬さん! 一緒だったんですか?」
その方條に高原が駆け寄る。
「ねー聞いてよ蜜柑。カズ君の付き添いで抽選会行ったら幸平君が知らない女の子ナンパしててねー。今まで尾行してたの」
なんだよ、こいつも最初から見てたのかよ。壁に耳あり障子に目ありとはよく言ったものだ。これだから地元は油断できねー。
方條は笑みを零しながら答える。
「相変わらず和希さんにべったりなんだね。まったくブラコンなんだから」
「えー、蜜柑に言われたくないしー」
まあいいや幸平君がナンパしてた話についてはあとでゆっくりしよう。あっ、それは聞きたいかも。お願いね柚希。という聞き捨てならない会話をする二人。
カズ君ってのはさっきも聞いた名前だな。
高原の伝票に書かれていた料理はとても一人分とは思えなかった。ドリンクバーも二つ頼んでたみたいだし、在卓がそもそも二人と記されていたような気もする。
これだけだと高原が彼氏とデートしてたようにも思えるがさっきの方條の発言を踏まえると、
「カズ君ってのは高原の兄か弟なのか?」
俺は訊いてみる。
高原は元気よく答える。
「うん! カズ君ちょーカッコいいんだよ! 部活でも主将としてチームを引っ張ってるし!」
確かにこれは重度のブラコンみたいだ。別に嫉妬はしねーけど、そのカズ君というのがどういう人でどこが魅力的なのか研究すれば高原の好みを割り出せるかもしれない。
そしたら高原を落とすこともできるかもな。
『なんだか、こーへーさんって誰でもいいみたいです』
サンタクロースが溜息をつく。いいじゃん、高原可愛いし。姫宮よりかよっぽど扱いやすい性格してるし。
とにかく、いよいよ大会が始まるのだ。
俺はみんなを呼び寄せ、スターティングオーダーを発表する。
この一ヶ月、みんなの能力や特性を分析して決めたポジションと打順。
発表が終わると円陣を組み、中央でみんなの手を重ね合わせる。
今こそ、俺達の結束力を見せる時。
俺はキャプテンとして音頭をとる。
「じゃあみんな。いよいよ待ちに待った大会だ。行くぞ! 目指すは――」
次の瞬間、みんなの声がひとつに重なり合った。
「優勝なのです!」と速薙。「全国制覇!」とチナ。「甲子園!」と高原。「世界征服!」と春火。「オリンピックだね!」と織編先輩。「みなさん楽しみましょうね」と方條。「いい思い出にしよう」と水無月。「誰にも負けません」と静佳。
全員の声が同時に重なり合って青空に溶けていく。
うん、このチームに結束なんてものが微塵も存在しないことがよくわかったよ。