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第三話 キミに相応しい場所へ (前編)

 懐かしい匂いというものがある

 彼女を見たとき、俺はそれを感じた。

 廊下を不安そうな顔でオロオロしていた少女の視線が、俺を捉える。

 次の瞬間、彼女は床を蹴り、こっちに詰め寄ってきて逃がさないとばかりに俺の学ランの裾を掴んだ。

「人だ! 人がいました! 助けてください! 私は異世界に迷い込んでしまったのです! ここはどこですか? 魔法の国ですか?」

 そして涙目で俺の顔を見上げて訴えてきた。

 本当に懐かしい。放課後、職員室に日誌を返しに行った帰り道で出会った女生徒は、どうやら一年前の俺と同様校内で迷子になっているようだった。

 彼女が訴えを続ける。

「おかしいのです! 消火器のところを右に曲がって真っ直ぐ行けば階段に出るはずなのに、なぜか全然知らない道に出ちゃったのです! 私は無実なんです! 時計を持った兎さんを追いかけたりなんてしてないのです! なのにどうしてこんな目に遭うんですか?」

 俺はそんな彼女の肩に手を置きながら励ます。

「まあ、似たような廊下があちこちにあるからなこの学校。それで異世界(パラレルワールド)に迷い込んだと結論したくなる気持ちもわかるけど安心して、ここは今まで君がいた世界だよ」

 静佳や水無月と同じくらいの華奢で小柄な体躯、恐らく一年生の中でも背の低い方なのだろう。

 腰まで伸ばされた長いポニーテールはうなじの辺りで白いレースのようなリボンで結ばれており、幼さの残るあどけない顔立ちは現在悲嘆に歪んで、非常に救いの手を差し伸べたくなる。

 俺は言う。

「よし、ここはお兄さんに任せなさい。どこに行きたいんだ? どこでも案内してやるぜ」

「本当ですか?」

 俺の言葉に、彼女の顔に安堵の色が浮かぶ。

「ありがとうございます。では玄関までお願いします」

「ようし、じゃあこっちだ。ついてこい!」

 そう言って俺は近場の階段に足を向ける。

 だが、少し歩いて彼女がついてきていないことに気づき、後ろを確認する。

「おい、どうした」

 彼女は眉をしかめ、さっきの場所に立ち尽くしていた。

 少女が顔をあげる。

「いえ、前にもこんなことがあったような気がしまして」

 俺は、何の話だ?と訊き返す。

 彼女は顎に手をあてて、むー、と考え込みながら、多分全然関係ないことですが、と前置きして話し始める。

「私、小学校に入ったばかりの頃にこの町に引っ越してきたんです。引っ越してきたばかりの頃、帰り道で迷子になってしまって。そのとき、今みたいに自分に任せておけ、と頼もしく案内役を引き受けてくれた女の子がいたんですが」

「なんだ、いい話じゃないか」

 俺は相槌を打つ。

 しかし少女は表情を険しくしたまま続ける。

「いえ、結局その子も一緒に迷子になってしまったのです。しかも暗くなった頃にはその子が、自分も引っ越してきたばかりなんだからしょうがないだろ!と逆ギレしてしまって、最悪でした」

 彼女は本当に嫌な思い出を語るように表情を歪ませた。

 そりゃあなんとも、うん。悲しい事件だったね。

『大丈夫ですよ。こーへーさんはそのときとは違います』

 サンタクロースがポニテっ子に話しかける。

 ポニ子には聞こえないだろうが、サンタ見習いの太鼓判により、俺は自信を取り戻した。

「まかせろよ。今度はちゃんと案内してやるから。そのときとは違うぜ」

 俺は口の端を釣り上げながら親指を立ててみせる。

「そうですよね、信じてますよ」

 彼女もようやくしかめ面を解いて、じゃあ行きましょう、と俺の後についてきてくれる。

「よし、んじゃまずこっちな」

 俺が階段を進む、が彼女はついてこなかった。

 振り向くと彼女は困惑の表情を浮かべていた。

「えーっと、私は玄関に行きたいと注文したはずなのですが、何故に階段を昇るのでしょう?」

 あー、そっか。俺にとっては当たり前の道順だったのだが、恐らくまだこの学校に不慣れな彼女には、とても強い違和感を与えたのだろう。

 俺は説明する。

「実はこの棟には一階まで降りる階段がないんだよ。だから一旦上の階に上がって隣の棟に移ってからじゃないと、下まで降りれないんだ」

「そ、そうなんですか」

 彼女は渇いた笑みを浮かべながら納得する。

「前々から思ってましたけど酷い校舎ですね、いっそアトラクションにしちゃえばいいんじゃないですか」

 やばい、とってもいい意見だ。

 ポニ子の話では、玄関でお姉さんと待ち合わせをしているらしい。

 お姉さんに携帯で道を訊いてたものの、現在位置が把握できずなかなかこの迷宮を脱出できずにいたようだ。

「ほれ、ご到着だ」

 そして俺達は玄関に辿り着く。

 彼女は万歳しながら、

「やったー、ゴールなのです! よかったのです! 苦節四十八分、ついに私は魔の迷宮から生還したのです。ありがとうございました眼鏡のお兄さん!」

「いえいえ、どういたしまして」

 俺は使命を達成した充実感を胸に抱きながら、外靴に履き替える。ポニを玄関先まで見送る為だ。家に着くまでが遠足なのである。

 ポーも自分の下駄箱で靴を履き替え、一緒に玄関を出たところで、

「翼ちゃん」

 どこからか、その名を呼ぶ声が響いた。

 その方向に目をやると、長いストレートヘアを背中で雅結いにし、女子にしては長身のスラリとした生徒が手招きをしていた。

「わーい。お姉ちゃーん」

 ポーが駆けていってその人に抱きつく。女生徒も両手を広げてそれを受け止めてくれた。

 この人がポーのお姉さんなのか。

「待ってたよー翼ちゃん。大丈夫だった?」

「大丈夫じゃありませんでした! すっごく迷いました。でも眼鏡の素敵なお兄さんが助けてくれました」

 会話の流れでお姉さんの視線が俺に向く。

 彼女はニッコリと温厚そうな笑みを浮かべて、俺に言葉を向ける。

「そっか、翼ちゃんがお世話になりました。ありがとうね、相馬くん」

 むっ、俺の名を知ってるだと? しかし俺には、目の前のお姉さんに見覚えはない。

「えっ、この人が噂に聞く相馬さんなのですか?」

 ポーもこちらを振り向く。

 えっ? 噂に聞いてんの?

 俺は頭をかきながら答える。

「やれやれ、まあ俺は王子様だからな。有名なのも困ったもんだぜ。サインは一人一枚までな」

 そう言うと、お姉さんは笑みを絶やさないまま、

「うん、待って今から怪しげな書類を用意するからそれにサインしてね」

「おう、って待ちなさい! 危うく詐欺に引っかかるところだった!」

 あはは、とお姉さんが笑う。そんな中、ポーだけが不思議そうな顔をしながら呟く。

「王子様ってなんのことですか?」

「うん、まあそれはあとで教えるから。それより今は、相馬くんにご挨拶しよう?」

 そう言うとお姉さんはポーを放し、俺に向き直る。

「一応はじめましてになるね。私は三年の織編咲夜(おりべさくや)

 それに続いてポーも勢いよく挙手する。

「はいはい! 私は一年の速薙翼(はやなぎつばさ)と言います!」

 むっ、ここは俺も自己紹介しなければ。

「どうもトム・クルーズです」

 俺のその紹介に、織編先輩と速薙の二人がどっと笑う。

 うむうむ、いい感じにウケをとったぞ。

 あはは、と笑いながら織編先輩が口を開く。

「ホント、相馬くんって聞いてた通りの子だね」

「色男はいつも噂の的なんで」

 俺は答える。

 織編先輩は年上の包容力に満ちた笑顔で、

「そういうことが言えちゃうのって自分に自信がある証拠だよね。確かにそれはカッコイイかも」

 と評価してくれた。

 やはり幾つになっても異性から言われる「カッコイイ」は嬉しいものである。

 とはいえ彼女の様子を見ると、本気で俺のことを「カッコイイ」と思ってない、まだまだ「可愛い後輩」ぐらいにしか感じてない気がする。

 よし、いつか俺に惚れさせてやるぜ。

『なんか、雑念が多すぎますよねこーへーさんって』

 それが男ってもんさ。

『そうなんですか。男の人ってみんなこうなんですね』

 サンタクロースがうんうんと納得した様子なので、俺は目の前の二人に話しかける。

「お二人は苗字の違う姉妹ですか。どうやら訊いちゃいけない複雑な家庭の事情がありそうなので、そこには触れずにそっとしておきます」

「うん、とても恩着せがましい上にそれを口に出してる時点で明らかにそっとしてないよね」

 と織編先輩が笑う。

「違うのです! 私達は別に姉妹というわけじゃなくて」

 速薙が説明を始めるところで織編先輩がその言葉を引き継ぐ。

「家が近所の幼馴染なんだよね。翼ちゃんは小さい頃から私のこと『お姉ちゃん』って呼んでくれてるの」

 まあそんなとこだとは思ったよ。雪音が俺や春火のことをお兄ちゃんお姉ちゃんと呼んで慕ってくれてるのと同じ感じだ。あいつ実の兄と姉は呼び捨てなのになあ。

「なるほど、理解したぜ」

 俺は親指を立ててポニーの顔を見る。

「よかったな速薙。つまりお前と織編先輩は血が繋がってない。結婚だってできるってことだ」

「ええー! なんでそうなるんですか? いくら私がお姉ちゃんのこと大好きでも、女の子同士で結婚するほどでは」

 速薙が遠慮気味なので、俺は言葉を重ねる。

「じゃあ俺と結婚しよう!」

「なんでそうなるんですか!」

 速薙が混乱気味に驚く。

 そこに織編先輩が人差し指を一本立て、めっ、と窘めるように口を挟む。

「駄目だよ相馬くん? 女の子にプロポーズするっていうのは、男の子の一世一代の大勝負なんだから、そんな冗談みたいに求婚してると男としての価値を下げることになるよ」

 織編先輩が優しく注意してくれる。

 むっ、女性視点の価値観だとこういう冗談はNGなのか。

 男の価値を下げるとまで言われると反省しなければならない。今後は注意しようと心に誓った。

「相馬くんはこれから帰り?」

 織編先輩が訊いてくる。

「いや、教室に俺を待ってる女の子がいるんで、一旦戻りますわ」

 その言葉にふわあ、と速薙が目を輝かせる。

「彼女さんですか?」

 俺は答える。

「ああ、俺のパートナーだな。今日一日一緒に日直の仕事を務めるパートナーが俺の帰りを待ってるんだ。モテる男は辛いぜ」

「うん、全然モテてない上に凄い事務的な理由で待ってるだけなんだってことはよくわかったよ」

 織編先輩が笑顔で頷く。

「じゃあ私達は帰ろっか翼ちゃん」

 その言葉に速薙が、はい、と頷いたあと、織編先輩は俺に手を振る。

「相馬くん、またあとでね」

 あとで? あとでなんかあんの? 全く心当たりがないぞ。

 その隣で速薙も顔をしかめながら呟く。

「トム・クルーズ先輩。今回は助けていただきましたが、次に会うときは敵同士です。まさにロミオとジュリエット状態というわけですね」

 いや、だから何のこと? 全然話が見えないんだが。

 そう訊き返そうとしたときにはすでに遅く、二人は俺に背を向けて談笑しながら校門に向けて歩いていくのだった。

「それでお姉ちゃん、トム先輩が王子様っていうのはなんなんですか? そろそろ教えてください」

「そうだったね。あれは半年くらい前に――」

 なんか、訊くタイミングを逃した。

 まあいっか、その「あとで」とやらになればわかるだろう。

 二人とも今は詳しく話してくれそうにない雰囲気だったし。

 俺はそう自分を納得させながら教室に戻った。



「今帰ったぞー」

 そう言いながら教室に入る俺を待っていたのは二人の少女だった。

 一人は俺の今日の日直仲間・永瀬さん。そしてもう一人は言わずと知れた、えーっと、誰?

 長い髪を後ろで二つに分けて、赤いゴムでまとめておさげにしている知らない女の子がいた。少なくともクラスメートではない。

 その子はくりくりした瞳で興味深そうに俺を見つめ、人懐っこい笑顔とともに口を開く。

「おかえりなさいアナタ。ご飯もお風呂もお預けですよ。今夜は寝かせませんから!」

 ええええええええええ!

 なにそれ! どんだけ鬼畜な妻の設定? 仕事で疲れた夫をもっと労わってよ! せめて体力回復の時間をください!

 でも思春期真っ盛りの俺としてはこんな可愛い子と夜の営みしてみたいなとも思ってしまう!

「幸平くーん、会いたかったよー!」

 そう言いながら、彼女は俺の腕に抱きついてきた。

 ええっ! これどういう状況? 俺の宇宙一明晰な頭脳をもってしても処理速度が追いつかない!

 お、落ち着け! まずは状況を整理しよう。まず腕に当たる柔らかい感触は彼女の女性特有の膨らみだ。柔らかいし、なかなかの質量がある。大きさは恐らく春火に勝るとも劣らずと言えるだろう。しかもこれ押し付けてきてないか? わざとか? 無意識なのか? 女の子ってこういうの男の体に当たっても自覚ないもんなの?

 以上の状況分析から、私はこう結論する。私は幸せだ。恐らく世界の誰よりも。

『そんな純愛ドラマのハッピーエンドみたいな綺麗な台詞をこんなところで使わないでください!』

 俺が素晴らしい処理速度で情報を解析しているところに苦笑いしながらこちらを見てる永瀬さんの声が届く。

「その子、相馬くんが来るまでずっと待ってたんだよ。残りの仕事は私がやっとくから一緒に帰ってあげなよ。いやー、しっかし相馬くんにこんな可愛い彼女がいたなんて知らなかったよ。ウチはてっきり近江さんとくっつくものだとばかり思ってたから」

 その永瀬さんの言葉から俺は新たな情報を得る。

 どうやら俺に抱きついてる少女は俺が帰ってくるのを待っていてくれたらしい。このことからも少女が俺とかなり親密な間柄なのが推し測れよう。

 そしてこの子はどうやら俺の彼女らしい。このことからも少女が俺とかなり親密な間柄なのが推し測れよう。

 って、え?

 新たに得た情報を分析するもエラーが起こり続け処理できない。俺は視線を落とし、俺の腕に抱きついている少女の顔を見る。

 彼女も俺の顔を見てにっこり笑ってくれた。そして言う。

「もー、私幸平くんのことずっと待ってたんだよ? 早く行こうよ。放課後は一緒に過ごすって約束でしょ」

 ま、待ってくれ。約束とかした覚えないし! 俺はキミが誰かもわからないんだ!

 俺は脳内のデータベースに彼女の顔を照合してみる。

 該当のファイルは見つかりませんでした。キーワードを変えて、再度の検索をお試しください。

 次はゴミ箱フォルダを漁ってみるも、春火が夜中に俺のフンドシ写真を撮るとか喚きだした忌まわしい記憶しか見つからなかった。

 俺がフリーズしていると、名も知らぬおさげ少女が不安そうな顔で俺を見上げながら言う。

「ひょっとして、私のこと忘れちゃったなんてことないよね?」

 うっ、まずい。彼女の不安そうな顔を見たら、これが演技だとか俺を驚かせる為の悪戯だとかには絶対に見えない。

 俺は彼女を安心させる為に笑いかける。

「ふっ、ばっかだなぁ。忘れるわけないだろマイハニー。ちょっと幸せボケしてただけさ。俺はまだ黒板消しをバフバフやる仕事とチョークを人を殺せるくらい鋭く削っておく仕事が残ってるんだ。すぐ終わらせるからちょっと待っててくれよ」

 俺がそう言うと永瀬さんが、いやそれもうウチが終わらせたから、日直の仕事はホントに全部終わってんのよ、と答えてくれた。

 なんてこった。俺が日誌を返しに行ってる間に他の仕事を全て彼女に押し付ける結果になってしまったとは申し訳ない。

『そもそもチョークを削っておく仕事なんてないですしね』

 仕方ないので俺は、ハニーと一緒に帰ることにする。

 帰り際に永瀬さんにお礼だけでも言っておこう。

「サンキュな永瀬さん。仕事、俺の分までやってもらっちゃって。今度お礼に眼鏡奢るからさ」

「うん、いらない。どういたしまして、相馬くん」

 いらないのか、結構高価な部類のプレゼントに入ると思ったんだが。

 やっぱり女の子にアクセサリーをプレゼントするっていうのは、ある程度親しい間柄になってからするべきなんだと学習した。

『なんでしょう。過程は凄く間違ってる気がするのに結論だけは正しいんですよね』

「じゃ、幸平くん。早く行こうよ。永瀬さんもありがとうございました」

 ハニーが抱きついていた腕をほどき、俺の手を引く。

 あったかいのが離れて若干名残惜しい気がするが、俺もそれについていく。

「よし、じゃあ放課後デートとでも洒落込もうか」

 手を繋いで廊下へ出たところで、俺はそう宣言するがハニーはそれを冗談でも笑い飛ばすかのように、

「なーに言ってんの幸平くん。放課後はチーム・スプリング・ファイアズで野球の練習でしょ」

 と言うのだった。

 そうか、この子も野球をするのか。しかもチームメイトなのか。

 どっちにしろ元々の放課後の予定がそれなので、俺としてはチーム練習に欠席せずに済んでよかったのだが。

 とにかく俺は早急に彼女のことを思い出さなければならない。

 もし俺が、キミのことなんて知らない。っていうか誰?なんて反応をした日には彼女がどれだけ悲嘆に暮れるか、さっきの様子を見ただけでも窺い知れる。

 彼女の目は本気だった。冗談でも演技でもない。本気で俺と恋人同士だと、俺のことを好きでいてくれている目だった。

 だからきっとこれは俺が悪いんだ。俺が彼女と過ごした大切な日々を忘れているだけなんだ。

 俺の馬鹿野郎! どうしてそんな大事な記憶を失くしてしまったんだ! 彼女との幸せな日々を何故忘れてしまったんだ! やったのか? 俺は童貞を卒業したのか? もしそうならせめてそのときの記憶だけでも蘇ってくれ!

『こ、こーへーさん。落ち着いてください。それと、どーてーってなんですか?』

 ああ、ありがとうサンタの卵。あと、童なんとかはお子様は知らなくていいことだよ。

 とにかく俺は現状を確認する。

 俺はハニーと肩を並べて廊下を歩いている。

 カップルなのだから、ここはなにか会話をしないとな。

 だが話題のセレクトは要注意だ。迂闊なチョイスをして俺が記憶を失ってることがバレれば彼女を深く傷つけることになりかねない。

 そう思っていると彼女がこっちに顔を向けて口を開く。

「こうして二人でいると思い出すね。一緒に東京タワーの展望台でデートしたときのことを」

 ぐっ、もちろん俺にそんな記憶はない。だが、ここは話をあわせなければ!

 ハニーは心底幸せそうな顔で言葉を続ける。

「あのときさ、テロがあってジェット機が展望台に突っ込んできて周りは火の海になったよね。私はそのあとすぐに気絶しちゃって憶えてないんだけど、あの時幸平くんはどうやって脱出したの? 殆ど無傷だったよね?」

 ええええええええええ!

 どうやってって、どうやって? どうしたらその状況から無傷で生還できるの!

 くそっ、記憶を失う前の俺なら簡単に答えられたであろう彼女の素朴な疑問にも、今の俺は頭を悩ませなければいけない。

 俺は銀河系トップを誇る明晰な頭脳を駆使して、答えを振り出す。

「あのときは、大変だったなぁ。エレベーターも動いてないからさ、エレベーターを動かす鋼鉄のロープみたいなのあんじゃん? 俺、あれにしがみついて頑張って下までおりてったんだよ。もちろんハニーを背負いながらな。手ぇ火傷しないように服とかぐるぐる巻きにして。今思い出しても、背筋が冷たくなるな。ホント、九死に一生だったよあれは」

 俺はそのときのことを思い出すように遠い目をして、一言づつゆっくり語る。

「へー、すっごーい! 流石幸平くん」

 ハニーがキラキラと目を輝かせながら俺を尊敬の眼差しで見つめる。なんか、ちょっといい気分だ。

「やっぱり私を助ける為に頑張ってくれたんだね?」

 彼女が期待するような眼差しで訊いてくる。俺はその期待に応えなければ。

「ああ、あの時は正直ハニーを助けることだけ考えて無我夢中だった。もし俺一人だったら自分が生き残ることさえ諦めてたかもしれない。お前がいてくれたから頑張れたんだ。これからの長い人生も俺はお前と一緒にいたい。ハニーさえいてくれたら、俺はどこまでも頑張れる気がするから」

 俺も彼女から視線を逸らさず、真っ直ぐそう告げる。するとハニーは感極まった様子で、

「わーい! 幸平くん大好きー! 超カッコイイ! 世界一大好き!」

 と大喜びするのだった。

「はっはっは、俺はハニーのこと宇宙一大好きなんだけどな」

「じゃあ私は銀河系で一番幸平君のことが大好きー!」

「なら俺は全次元で一番ハニーのことが大好きだ」

 もう自分で言ってて規模がよくわからない。

 それにしても、そんな記憶全然ないのに彼女に褒められると自分が強くてカッコイイ男になった気分になるな。

 やはりなんとしても俺は彼女の笑顔を守り続けなければ。

 その為には記憶を失ってることを悟られず、自然な会話をしなければならない。

 さしあたってはまず名前だな。俺は未だに彼女の名前も知らない。

 やっぱり名前で呼んだ方が親密度が上がりやすいからな。

 なんとか記憶を失ってることは悟られずに彼女の名前を知る方法はないだろうか?

 RPGだとこういう時、周りを詳しく調べればなにかアイテムが見つかるんだ。

 ということは彼女の体中を調べつくせばなんらかの手掛かりが見つかるのでは?

 俺はハニーの全身を観察する。

 その結果わかったことが三つほどある。

 まず一つ目、彼女の右手は俺と繋がれているが、左手には通学鞄を持っている。その鞄の取っ手にはネームタグのようなものがぶら下がっていた。ちなみに言っとくと俺も右手に自分の鞄を持っている。

 二つ目、彼女のスカートは短い。膝上二十センチくらいだ。春火やチナでもこんなに短くはしない。

 三つ目、特に見つからなかった。

 この三つの中に、必ず現状を打開するヒントが隠されているはずだ。

 諦めるな、考えろ、どんなに絶望的な状況でも知恵を絞り逆転するのが少年誌の主人公の務めだ。

 俺は黙考する。

『こ、こーへーさん?』

 なんだねサンタエッグ?

『どうしてあの人のスカートをじっと見つめているんですか?』

 そりゃあだって、あんな短いスカートだよ? 今にも中身が見えそうで心配で心配で、片時も目を離さずに監視しなければならない!

『私にはよくわからないですが、あの鞄についてるのに名前とか書いてありそうじゃないですか?』

 むっ、そういえばそうだな。お礼にいいことを教えてやろうサンタガール、お前はまだ子供だからわからないかもしれないが男の子は短いスカートを見るとドキドキしてとても落ち着かなくなるものなんだよ。

『そ、そうですか。勉強になります』

 うむ、将来色仕掛けをするときに役立てなさい。

 閑話休題。

「鞄、重いだろ。持とうか?」

 俺はそう言って切り出す。

 なんとか彼女の鞄をこちらに引き寄せれば、逆転のチャンスは来る!

 しかしマイハニーは思いもよらない言葉を返してきた。

「だーめ。だって幸平くんが鞄を二つ両手に持ったら」

 嬉しそうな顔で言って俺の手を一層強く握る。

「私達が離れ離れになっちゃうでしょ?」

 にこっと、若干頬を染めながらそんな可愛いことを言うのだった。

 う、うおおおおおお! わかったよ俺はもうこの手を絶対に放さない! どんなことがあっても俺達二人の絆を引き裂くことなんてできないんだ!

 例え記憶を失っても! 俺達は再び出会い、再び恋をし、お互いを求め合える!

 俺達は真実の愛で結ばれているのだから!

 そうこうしている内に玄関に辿り着いた。

「幸平くんの下駄箱はどこ?」

 とハニーが訊いてくる。

 どうやら俺達は相手の下駄箱までは知らない関係らしい。

「ハニーから先に靴を出しなよ」

 俺はそう言って促す。

 彼女は、ありがと、と笑みを浮かべながら俺の手を引いて自分の下駄箱を目指す。

 お互いに手を繋いだままなので、ハニーは左手の鞄を床に下ろして下駄箱の扉を開く。

 あっ、そういえば下駄箱にも名前書いてあんじゃん。

 俺はそこにセットされているネームプレートを読む。

 記されていた名前は「高原柚希」、「たかはらゆずき」と読むのだろうか?

 よし! これで彼女の名前を呼ぶことができる。

 俺は早速ハニーに会話を振ることにした。

「おっ、見ろ柚希。眼鏡が空飛んでるぞ」

「えっ! なんでウチの名前知ってんの?」

 俺の言葉に、柚希が素で驚く。

 俺は言葉を失う。

 柚希が、しまったという顔をする。

 俺達の間に暫く沈黙が流れる。

 そして俺は言う。

「あのう、つかぬことをお聞きしますが僕ら初対面ですよね?」

「急に他人行儀にならないでー!」



 彼女の言うところによると名前の読み方は「たかはらゆずき」で間違いないらしい。歳は俺と同じ二年生。

「つまりね、私の天才的な野球の実力に、はるちゃんが目をつけてスカウトしてくれたわけ。だから今日はスプリング・ファイアズに入ってあげようかなーっと思って来たの」

「わかった。つまり要約するとこういうことだな。お前は俺のことが好きで、知人を装って近づくナンパ法でアプローチしてきた、と」

「うん、全然違う」

 あのあと、ようやく本音で語り合えるようになった俺達は、言葉のドッジボールを交わしお互いを理解しあった。

『いや、理解できてませんから! 言葉のキャッチボールをしましょうよ!』

 高原は得意気な笑顔で言う。

「幸平くんはあれだね。結婚詐欺とかに簡単に引っかかるタイプだね。気をつけなよ?」

「お前は結婚詐欺師に向いてるよ。将来はその道でガッポガッポ稼げるな。頑張れ~」

「わーい、褒められたー」

 サンタクロースがそこにえっと、と控えめに口を挟んでくる。

『真実の愛で結ばれているのはどうなったんですか?』

 いいことを教えてやろうロリータサンタ。愛だの恋だのなんて所詮一時(いっとき)の夢さ。朝が来れば覚める短い夢と対して変わらない。

『演技や悪戯には絶対見えないと言ってましたが、演技や悪戯でしたね』

 いいことを教えてやろう(セント)ニコラウス。男の子は些細なきっかけでも、こいつ俺のことが好きなんじゃない?と自分に都合良く解釈してしまう生き物なんだ。

 まあ本音を言えば、対して傷ついちゃいない。

 なんか可愛い女の子と付き合う夢を見て、目覚めた後みたいなガッカリ感はあるが、結構楽しかったしな。

 つーか正直東京タワーのあたりでさすがに嘘くさいなぁと思ったけどね。でももうちょっと恋人ごっこを続けていたくてさ。ああ、ホンット楽しかったなぁ。マジでもっと続けてたかった。

「なあ高原。真面目に俺と付き合わねぇ?」

 俺は彼女の瞳を見つめながら、さらりと言ってみる。

 俺の言葉に高原はキョトンとした顔を浮かべる。

「うーん、幸平くんは誰にでもそんなこと言ってるらしいよね。永瀬さんから聞いたよ」

「そういうじゃねえんだって、俺マジ楽しかったし。さっきのアレ」

「私も楽しかったよ。幸平くんが私の無茶振りに頑張って対応してたのがイチイチ面白かったし」

 悪戯が成功してご満悦の様子で彼女は言葉を吐き出す。でも、と困ったような笑みを浮かべながら、

「そうやって褒められるのは嬉しいんだけど。ちょっと複雑かな」

 そう呟く。

 ふむ、今はまだ強く押していくときではないか。

 これから一緒のチームで野球やることになるみたいだし、少しづつ好感度を上げていけばいいか。

「で、春火達んところ行くならとっとと行こうぜ、三丁目のグラウンドでいつも練習してるから」

 そう言って俺は自分の下駄箱を開ける。そこでちょっと動きを止める。

「どうしたの? 靴箱の中に猫の死骸でも入ってた?」

 高原が興味津々な様子で訊いてくる。

「そういう経験あんのか?」

 うっ、何も考えず返事したら冷たい物言いになってしまった。実際は靴紐がほどけてるなーって思っただけなんだが。

 俺は反省する。これじゃ相手が失言したみたいじゃないか。

 高原はちょっと勢いを削がれた感じの笑顔を浮かべながら言う。

「いくら探しても見つからなかったノートが出てきた事はあったよ」

 なんか、微笑ましい日常の一コマだった。

 ん? だがよく考えると、なんで失くしたノートが下駄箱から出てくるんだ?

「ちなみにそのノートにはウチの悪口が沢山書かれてた」

「イジメじゃん! メッチャ陰湿なイジメ受けてるじゃんお前!」

 あはは、ウソウソと彼女は会話を打ち切って一足先に玄関を出る。

 謝るタイミング逃したなあ。いや、これは高原が流すのが上手いということだろうか。

「でさでさ、幸平くん。私はこれからチームに入るわけだけど」

 玄関を出たところで彼女は鞄を持った両手を後ろに回し、俺のことを待っていてくれる。

「入りゃいいじゃねえか。俺も一緒に行くぜ」

「うん、じゃあ協力してよ」

 協力? なにに? そう訊くと彼女はにっこり笑って答える。

「私がチームに入るにあたってインパクトのある初登場シーンを一緒に作ろう」

 ああ、俺は今理解した。

 こいつは目立ちたがり屋だ。

「具体的にはどんなシチュエーションがいいんだ?」

 俺は訊く。

「そうだねー、やっぱみんなのピンチに颯爽と駆けつけて悪を倒す正義のヒーローって感じがいいな」

 高原は拳を握りしめながら目を輝かせて熱く語る。

「まず幸平くんがライフルを乱射し、チームメイトを次々に射殺しているところに私が現れる」

 俺、メッチャ危険人物やん!

「そこで私が幸平君に決闘を挑む。お互い背中合わせに半歩あるいて振り向きざまに撃つ! 早撃ち勝負!」

 半歩かよ! なにそのゼロ距離射撃!

「私はガトリング銃の銃口を幸平くんの口に押し込みぶっ放す! 悪は滅びた! 正義は勝つ! ハッピーエンド!」

 どこが正義? 俺確実に顔面蜂の巣じゃん! メッチャ残酷な勝ち方のヒーローですよね!

 銃なんて用意できないし、そもそも俺を悪役にする案自体勘弁して欲しい。

 ここは俺がいい案を出して彼女の好感度を上げることにしよう。

「なあ高原、こういうのはどうだ?」



 一旦それぞれの家に戻って私服に着替えた後、俺達は自転車に乗っていつもチーム練習しているグラウンドに来た。

 やっぱり目立ちたがりな高原は私服もなんか派手だった。英文が縦横斜めと沢山書いてあるし、ズボンもところどころ破け気味なデザインだし、鎖のついた首輪や腕輪っぽいのしてるし。あれ、野球やるときに邪魔じゃね?

 そんな高原には近くに隠れてもらって準備完了だ。

 俺はグラウンドに降りる。

「こーちんおっそーい!」

 そこで早速春火が怒鳴りながら走り寄ってきた。

 ごめんなさい春火さん、とサンタクロースが謝るので俺も彼女の気持ちを汲んで謝ることにする。

「わりいわりい、眼鏡が遅れて」

「なに『電車が遅れて』みたいな言い訳してんの。全く意味わかんないから」

 呆れ気味の春火の反応に俺は語気を荒上げる。

「読解力のないヤツだな! もっと自分の頭で考えろよ!」

「まさかの逆ギレだと!」

 俺の言葉に春火は腕を組んで真剣に考え込んでしまったので、こっちは放っておいてお馴染みのチームメイト達を見回す。

 おっす、と片手を上げる三つ編みと、やや不機嫌そうに地面を蹴る日本人形。こんにちはと会釈する西洋人形。その他一名。

 ん? ってか誰だこの見ない顔の女の子は?

 俺がそう思っているとチナがニヤーっと口を三日月のように切れ込ませながら、見知らぬ少女の背中を叩いて俺の前に出す。

「幸平! 新メンバーよ。二年の方條蜜柑(ほうじょうみかん)ちゃん。仲良くしたげてね」

 あっ、と彼女は俺を見て目を丸くする。

 やや茶色がかったストレートロングの髪の両サイドに赤い紐状のリボンが蝶結びで結わえられ、ってそんなファッションチェックはどうでもいい! 問題はそこじゃない!

 どっかで見たことあると思ったらこの子あれじゃないか! 数日前、静佳達と初めて会った日、水無月の殺人ライナーから俺が庇って助けた子だ!

 あの日と違い私服姿の彼女は、裾や袖口、襟元などがフリフリしている紺のトップスを着てこの中で一番女の子らしい格好をしていた。それでも野球をする為に動きやすい服である点は同じだが。下もみんなと同じような寒色系のデニムだし。

 俺は彼女が何か言う前にこちらから挨拶することにする。

はじめまして(・・・・・・)。世界一のイケメンと名高いナイスガイ、相馬幸平です。守備位置は地球。未だ一度も滅びたことがないのが自慢です」

 俺の言葉に、彼女が戸惑った顔をする。

「あの、相馬さん? 私達、以前お会いしたことがありますよね? 何日か前に学校で、野球のボールが当たりそうになったとき相馬さんが助けてくれましたよね」

 その言葉に俺は、ふっと笑う。

 そして口の端を釣り上げながら、言う。

「なんだよ。泣き顔見たのをなかったことにしてやろうと思ったのに」

「えっ、あっ、すいません。私、そんなお気遣いにも気付かなくて」

 俺の恩着せがましい言葉に、彼女がなんだか恐縮していた。冗談が通じないというか、とても育ちがいいんだろうな。

 アンタの言動ってイチイチ予測不能よね、とチナの感心なんだか呆れなんだか、両方なんだかわからない声が飛んでくる。

 一緒にいて退屈しないだろう? 俺みたいないい男は。

 そう返すと、まっ、楽しい奴よね、とチナが満足げな表情を浮かべる。

 俺は恐縮している方條に声をかける。

「謝らなくていいさ。お前あれだろ? 数日前に俺が弾丸ライナーから助けた鶴だろ? 人間の女の子の姿をして恩返しに来てくれたんだな」

「い、いえ、元から人間の女の子ですから」

 流石にこれは冗談だとわかっているようで苦笑気味に方條が答えるとチナが口を挟む。

「いや、アレは鶴だった。アタシの目から見てもまごうことなき鶴だったわ。でなきゃ幸平が押し倒すはずないし。幸平は人間の女の子を押し倒すことは絶対にないけど、鶴に関しては理性を失うからね」

 なんだか俺にメチャクチャ不名誉な性癖が設定されてるぞ。

「いえ、ですから押し倒したというのは誤解であってですね。天草先輩」

 方條が焦り気味に弁明している。その様子からすると俺が来る前にもそのことで散々チナにからかわれたのだろう。

 俺は会話の方向を修正しようと方條に言葉をかける。

「鶴さん、鶴さん! 折角来たんだから恩返ししてくれよ。寿命くれ、寿命!」

 え、ええ?っと方條が困った顔を浮かべる。

 なんで寿命なんですか?と静佳が訊いてくる。

「だって鶴は千年、亀は万年って言うだろ? いいじゃん、寿命。なっ、なっ? 半分でいいからさ」

「そ、そんな無理ですよ」

 どうやらこいつは常識人過ぎてツッコミの技術が足りないようだな。これから一緒のチームでやっていくには俺が鍛えてやらなければ。

『いや、そこは野球の技術を鍛えましょうよ。チームメイトとして』

 そこで誰かが、くいくいと俺の袖を引っ張ってきた。

 視線をそちらに移すと、水無月が悲しげな目で俺を見つめていた。

「あんまり方條先輩を苛めちゃ可哀想」

 ん、そうだな。冗談を言うのはいいが、相手はちょっとこっちのテンションについていけてない様子だし、これくらいにしとこう。

 俺は話を締めることにする。

「じゃあ体で払ってくれ。俺達のチームに入って活躍することで恩返しをするんだ」

 俺の言葉に方條は安堵の笑みを浮かべる。

「はい、それでしたら是非ともお力になりたいと思います」

 よし、これで六人目のメンバーを確保だ。

 高原が入れば七人だなと思いながら周りを見回すと、腕を組んでいる春火と視線があった。

 次の瞬間、春火は鬼の首を取ったようなテンションで捲くし立てる。

「わかったぞこーちん! こーちんはスポーツをするときは頑丈な眼鏡を使おうと決めてたんだけど、注文していた眼鏡が届くのが遅れて遅刻したとそういう意味だったんだな!」

 俺はその言葉に呆気に取られる。

「お前、すげえな。よくそんなわけわかんない発想が出てくるな」

「素で返すなよ腐れ眼鏡ー!」

 はいはい、わかったわかった。遅刻のお詫びに差し入れ持ってきたから機嫌直せって。そう言って俺は自転車の荷台に積んでいたスポーツバッグから二リットルペットボトルの麦茶と紙コップを出す。

「飲む奴は手を挙げろー」

 おう、飲む飲むー!という春火の声を皮切りに、チナ、静佳、水無月、方條、そして方條の後ろにいる人物で計六人。この場にいる俺以外の全員が挙手した。

「よし、六人だな。つぐぞー」

 俺はグラウンド脇のベンチに六つの紙コップを並べて、そこに麦茶を注ぐ。

 全てのコップに注ぎ終わると、

「これは俺の分」

 と、一つを確保した後、全員に一人づつ手渡ししていく。

「まずはチナ」

「ほーい」

「静佳」

「ありがとうございます」

「水無月」

「ありがとう」

「方條」

「頂きます」

「春火」

「おう!」

 と返事をした春火をスルーして、方條の背中に隠れていた高原にコップを渡す。

「わーい! ありがとう幸平くん」

「これで六人。全員に行き渡ったな」

 俺がそう告げると、春火が「えっ、いや、ちょっと待てよ」と困惑する。

「おっけーおっけー、全員に行き渡ったね。じゃっ、一服しますか。ねっ? 春火」

 チナが、春火と言いつつもその視線は高原に向けて言う。

 高原もノリノリで、

「そうだねー、ちーちゃん」

 と返す。

 春火を除き、俺達はベンチに腰を下ろし麦茶に口をつける。

「えっ、や、ちょっと待てよこーちん。おかしい。なにかおかしいからこの空間は」

 なんか言ってる春火を無視して、俺は高原に話しかける。

「これでメンバーも六人揃ったな春火。あとこのチームには何が必要かな?」

 高原は答える。

「そうだねー。まずは俊足のミッドフィルダーが欲しいかな。あとはレシーバーも要るし、トランシーバーも必要だよね」

「いや、ミッドフィルダーはサッカーだし、レシーバーはバレーだし、トランシーバーなんて無線機だし、人ですらないし!」

 何か言ってる春火には誰も反応を示さず、チナは「春火、あったまいいー!」と普段は絶対言わないような褒め言葉を高原に投げかける。

 水無月だけは、心配そうな視線をチラチラ春火に向けている。静佳は、誰ですかその人は?と興味もなさそうな目でこちらに見ており、方條は何かを諦めたような顔をしていて、チナは俺と同様ノリノリの様子だ。

「ちーちゃん違うんだ! そいつは偽物なんだ! 帰って来て! お願い!」

 春火がなんか叫んでるがこっちは当然無視。

 あっ、春火。ほっぺたにご飯粒ついてるよ。とってあげる、と言ってチナが高原のほっぺに舌を這わす。

 きゃー、ちーちゃんくすぐったーい、と高原が笑う。

 もちろんご飯粒などついてないのだが。

「こーちん! こーちんならわかるっしょ? その子はウチじゃない! ウチはそんなおさげじゃない、本当のウチはもっと、こう、外ハネなの!」

 春火が自分のアイデンティティを主張しているが、俺は勿論それに反応を返すことなく雑談を続ける。

「なー、春火。駅前のコンビニ跡に新しく眼鏡屋ができるらしいぜ、今から楽しみだな」

『それを楽しみにするの、こーへーさんだけですよ!』

 俺の言葉に高原も満面の笑みで、そうだねー、そのときは一緒に行こうねこーちん♪と首を傾げる。

 うむうむ、やはりウィンドウショッピングはデートの基本だよな。

『基本的にデートで眼鏡屋には行きませんよ!』

 無視され続ける状況に、春火はとうとう心が折れたのか、力なく膝を折り地面に両手をついて絶望に打ちひしがれる。

「うう、なんなんだこの世界は。ドッペルゲンガー? ウチもうすぐ死んじゃうの?」

 その背中を、とんとんと水無月が優しく叩く。

 春火が顔をあげると水無月が労わるように言う。

「元気出して近江先輩。私は先輩の味方だから」

 その言葉を聞き、瞬時に春火が水無月に抱きつく。

「しろちゃーん! 大好きだー!」

 百合カップルが誕生したところで方條が息を吐いて、こっちを向きながら言葉を吐き出す。

「柚希、アナタが悪戯好きなのは知ってるけど、ほどほどにしておかないと。春火さんが可哀想よ」

 あれっ、呼び捨て? ひょっとして方條と高原って知り合いなのか?

「いやー、蜜柑の口からそんなこと言われる日が来るとはねー」

 と高原は悪びれもせずに頭を掻く。やはり二人はかなり親しい関係に見える。

 方條は、ふっ、と口元をわずかに綻ばせながら、体をこちらに向けて高原に話しかける。

「柚希、実はアナタに大切なお知らせがあるの」

「ん?」

 改まった様子の方條に高原が首を傾げる。

 方條はゆっくりと口を開く。

「実を言うとね、このチームにはもう柚希は必要ないの」

 その言葉に高原の表情に僅かに動揺の色が浮かぶ。しかしそれもすぐ消える。

『ど、どういうことですか!』

 サンタクロースが慌てる。

「やだなー蜜柑。ドッキリにはドッキリで返そうっての? どう見たってこのチーム九人すら集まってないじゃん。ウチの力が本当は必要なくせに」

 高原が全然信じてない様子で言葉を返す。しかしそれにも方條は冷静な声で答える。

「ここには全員揃ってないだけよ。人数はすでに十分だし、戦力的も問題なし。柚希が必要な要素もどこにもなし」

 これ、悪戯っ子の高原を懲らしめようっていう嘘なんだよな。そうだよな?

 多分そうだとわかっている俺でも、真剣な顔で断言する方條の様子に、実は本当のことを言ってるのではないかと思ってしまう。

 それは高原も同じなのか、みるみるその笑顔が乾いていく。

 俺は静佳の方を見るが相変わらず彼女は無関心な様子で、チナは面白そうだから放っておこうという顔をしている。

「柚希はお兄さんのチームにでも入れてもらえば?」

 方條が冷たく言う。高原はそれに焦燥を隠せない様子で言葉を返す。

「や、だって。カズ君とポジション争いしろっての? 勝ち目ないじゃん」

「別のポジションを狙えばいいじゃない。DHとか」

「せ、せめて外野とかって言ってよそこは!」

 今度の大会、別にDH制じゃないしな。

 方條が、はー、とゆっくり息を吐き出した後、心配そうな目で高原を見つめながら言う。

「柚希の目立ちたがりで構って欲しがりなところは悪い癖だと思うよ。もったいぶっていたらいつまでもチヤホヤされると思ったら大間違いだから」

 その言葉に高原が動きを止め、表情が凍りつく。

 エグイ。親しい相手だからこそ言える容赦のない指摘だった。

 暫くの間、高原が傷ついた様子固まっていると、その凍った時間を打ち破る声が響く。

「うおおおおおおー! 謎はすべて解けたー!」

 春火のアホっぽい雄叫びが。

「謎って何のことだよ」

 俺は春火に向き直る。だがすぐに後悔する。やっべ、今って春火のこと無視する設定だったのに。

 俺の返事に春火がニヤリと笑う。

「ウチはてっきり、ドッペルゲンガーが現れ、ウチの存在が誰からも認識されなくなる不思議な世界に迷い込んだと思ってしまった! しかしそれは違う! 一見ファンタジーにしか思えない現象も、科学的に説明してこそ真の名探偵! この事件は主人公とヒロイン以外の全員が共犯だということで説明できる!」

 春火が、主人公のところで自分を、ヒロインのところで水無月を指差す。

 そしてそれ以外の全員が共犯で、自分を無視してたという推理らしい。うん、まあその通りなんだけどね。

 春火は、びっ、と高原を指差しながら告げる。

「謎は解けた! ウチの勝ちだ! 勝ったからにはゆーちゃんにチームに入ってもらう!」

 その言葉に高原は目をパチクリとしたあと、

「も、もーう。仕方ないな。仕方ない。勝負に負けたからには仕方ないよね。はるちゃんのチームに入ってあげるよ」

 嬉しそうだ。頑張って隠そうとしてるがとっても嬉しそうだ。ついさっきまで方條に拒否られてたもんな。

 春火だって、自分が単にシカトされてるだけだってわかってたはずだ。不思議現象が起こってると考えるより、真っ先にそっちの可能性を考える方が普通だろう。

 なのにあれだけ大仰に振舞って、高原に助け舟を出したんだな。

 なんだかんだで空気が読める奴である。

「そうそう、こーちん聞いてよー! みーちゃんって凄いバッターなんだよ。さっきもしーちゃんの球をポンポン打ってたし、ノックだって凄く上手いんだから!」

 すぐに春火はいつものテンションに戻り、俺の肩をバシバシ叩いてくる。

 そうか、静佳め、方條に打たれたのか。どおりでここに来たとき静佳の奴が不機嫌だったわけだ。

 静佳の方を見ると、やはりこの話題に苛立っているのか、無理に顔を逸らして水無月に話しかけている。可愛いやつ。

 ベンチの反対側を見ると、チナがなんか泣き真似をしていた。

「春火、もうウチのノックじゃ不満だっていうの?」

「うーん、ちーちゃんのノックはさ、なんていうか打球が伸びないっていうか」

 やはり長年の付き合いである。泣き真似くらいで同情する春火ではなく、正直な意見をグッサリ告げる。

 悪かったわね非力でー、とチナは苦笑気味に怒った真似をする。

 俺は隣で話を聞いていた方條に言葉を向ける。

「どうだった方條。静佳の球は? 静佳とバッテリーを組んでる身としては是非とも感想を聞いてみたいんだが」

 俺の言葉に方條は、そうですね、と口元に拳をあてて少しの間考える。



 風を切り、白い光が迫ってくる。

 俺は左手に嵌めたミットで、その光を追い、掴む。

 構えた所と若干ずれたが、この程度の誤差はいつものことだ。試合でリードするときにはこの誤差を計算に入れて配球を組み立てないといけないな。

 俺は受け取ったボールを静佳に投げ返しながら、一緒に言葉も返す。

「体重が乗ってないな。体重移動を意識しろと前に教えたはずだ。それと振りかぶったとき脇を締めるのも忘れるな」

 静佳はそのボールを受け取りながら、はい!と真剣な顔で答える。

 俺の教えをひとつも零さず吸収しようとする一生懸命な顔だ。

 そして彼女は、すぐにその真剣さを成果に出す。

 教えた通り、完璧なフォームで投じた速球がミットに収まる。

「いいぞ! 今の感覚でもう一球投げてみろ」

 静佳は俺が投げ返したボールを受け取り頷くと、再び振りかぶる。

 本当にいい教え子だよコイツ。

 強くなることに貪欲で、飲み込みが早い。

 大分いい感じに投げれるようになったので、新しいことを教えることにする。

「よし静佳。振りかぶって軸足一本で立つときに右足を上げるよな? 次からは、あの右足をできるだけ高く上げるように意識しながら投げてみろ」

 はい!と元気のいい返事を返し、静佳が投球姿勢に入る。

 まだまだ、こいつのフォームには修正したいポイントが沢山ある。

 けど、それをいっぺんに全部教えても混乱するだろう。

 ひとつのことマスターしたら次のことを、なんてのんびりやるつもりはないが彼女が具体的に気をつけるポイントをある程度の数に留めておきたい。

「足を上げるのはいい感じだが、脇を締めるのを忘れたな」

 すみません!と静佳が謝る。

 新しいことを教わったせいで、前にできてたことが頭から抜け落ちてしまったようだ。わかるよ静佳。俺もそういう経験あるし。だから怒らない。

 頭で考えてできることじゃない。何度も反復練習して体で覚えるしかないことだから、怒鳴ったり叱ったりするのはお門違いだ。

 彼女ができるようになるまで俺も辛抱強く付き合う。それがバッテリーであり、師匠でもある俺の務めだ。

「ナイスボール! 今のいいな。この球なら水無月だって手が出ないぜ」

 その言葉に、静佳がちょっぴり照れくさそうに嬉しげな笑みを浮かべる。

 褒め言葉ってのも大切だよな、と思う。

 練習ってのはさっきも言ったが、体が覚えるまで何度も同じことを繰り返す単純作業だ。

 だから飽きないように、課題がクリアできたときのご褒美が必要なんだ。

 その一番手軽でいつでも与えられるご褒美が、褒め言葉なんだ。

 そりゃあ大事さ。

 さっきから俺もやっているが、理想通りに投げられなければ直すべき具体的なポイントを教えてあげる。でも教えた通りのいいボールが来たらご褒美として褒めてあげる。

 この繰り返しが自然と練習意欲を高めていくんだ。

 その為にもご褒美は、貰って嬉しい言葉をちゃんと考えて用意しなければならない。

 静佳ならライバルである水無月を打ち取るのが一番具体的な目標になるだろうと思ったから、俺はそれを褒め言葉にする。

 もっと練習すれば水無月も打てないくらい速い球が投げられるようになるぞ、体重移動ができれば、脇を締めて投げれば、足を高く上げて投げれば、その積み重ねがいずれライバルを空振りさせる豪速球を生み出すぞ、と餌を示してみせるのだ。

 もちろん簡単に手に入るご褒美にはやがて価値を感じなくなるだろうから乱用はしない。これぞという最高のボールが来たときだけ最高の褒め方をしてあげる。

 具体的な目標を示してやることで練習はその効果を増す。ライバルの存在ってのは偉大だよな。俺は自身の経験からもつくづくそう思う。

 そういえば、さっきは水無月を目標にしたが、

「方條にも打たれたんだっけな」

 俺がそう言うと、静佳は不機嫌そうな様子で顔を背けた。

 そして小さく呟く。

「相馬先輩が、」

 うん? 俺がなに?

「相馬先輩がリードしてくれれば負けませんでした」

 か、可愛い!

 なにこの可愛い生き物! どこまで負けず嫌いなの!

 静佳って普段クールぶってるくせに、こういうところは子供なんだよな。

 俺は思わず投球練習を中断し、静佳の近くに行って頭を撫でてやる。さらさらの髪が気持ちよかった。

「いやぁー、静佳がそんなに俺のことを頼りにしてくれてるなんてね。嬉しいよ」

 静佳は悔しそうに頬を赤らめながら俺の手を払う。

「なんですか、もう」

 バッテリーは一心同体。俺の力は静佳の力、俺のいないところで静佳が負けても、それは本当の敗北ではない、ってくらいに彼女に思われてるならそれはとても嬉しい。

 同時に、さっきの方條の言葉を思い出す。



「静佳さんの球は確かに速いし、ノビもいいですよね。本当に、一年生とは思えません」

 でも、と方條は申し訳なさそうに表情を曇らせながら続く言葉を紡ぐ。

「直球一本なら慣れれば打てるようになりますからね。私はピッチャーをやったことないので見当ハズレなことを言ってるかもしれませんが、個人的に思うのは――」



 球種を増やしたほうがいいかも、と控えめに言ってた。

 言ってることは尤もだと思う。

 確かに投球の幅を広げる為に変化球は必要だよな。

 俺は考えた末、一球種だけ静佳に教えることにした。

 覚えたての球はコントロールも全然利かず、実戦で使えるようになるまでまだまだかかるな、と感じさせられた。

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