第二話 天秤
深山の投じた白球がホームベース上を通過する。
打者の振ったバットは何も捉えることもなく空を切った。
「ストライク! バッターアウト!」
キャッチャー兼球審みたいな位置づけになっている俺がそう宣言すると、大空振りして打席で尻餅をついていた春火がすっくと立ち上がって、猛スピードで深山に近づく。
「凄ーい! 凄いじゃん! 凄い凄い、球速い! メッチャコントロールいい!」
そう言って深山の両手を握りしめる。
深山は春火のテンションの高さについていけない様子で、あ、ありがとうございます、とだけ答える。
「よくこんな人材をスカウトしてきた! こーちん偉い!」
今度は標的が俺に向き、外ハネが殴りかかってくる。
俺はその拳を掌で受け止めながら言葉を返す。
「はっはっは、凄いだろう。偉いだろう。惚れていいぞ」
「うんうん、惚れた惚れた! 結婚して!」
冗談とわかっているが、ちょっとだけ本気が混じってたらいいな。
俺は腰に手をあてて、自分の功績を自慢することにする。
「まあなんてったって深山は俺の前世からの付き合いだし、運命の再会ってヤツよ」
春火は、マジで!と驚く。深山は呆れた顔をしている。
「俺の前世が織田信長だという話は以前したと思うが」
「えっ、前はアレキサンダー大王だって言ってなかった?」
春火がなんか言ってるのを無視して俺は言葉を続ける。
「深山の前世は明智光秀なんだよ。俺達の間には前世から強い絆で結ばれていることがわかるだろう?」
「メッチャ因縁の間柄じゃん! アンタ殺されたじゃん!」
「んで、春火の前世は猿な。さあ猿、主である信長の仇をとれ! 光秀を討て!」
そう言って深山を指差すと、春火は困ったように彼女に向き合う。
「しーちゃん。会った早々に悪いけど、そのお命頂戴いたす!」
「本当に悪いですよ。あげませんよ」
深山が冷静に答える。
「まあ、前世は色々あった因縁の俺達だけど、この平和な時代に生まれたからには仲良く一緒に野球をすることができる。平和って素晴らしいなってことだよ」
俺は爽やかな笑みでそう締めくくる。春火も同じように爽やかな笑みを浮かべ、
「そうだね!」
と同意してくれた。深山は疲れた顔をしていた。
放課後、春火の作ったという草野球チームに早速俺が新メンバーを二人連れてきて、その実力を見せつけたことで春火はご満悦である。
昼休みの一打席勝負のあと、勝負に熱中し過ぎてボール拾いに行く時間がなくなってしまったことに気付いて大慌てだった俺達の前に、大量のボールを抱えたチナが現れてくれたことで、なんとか俺達は一命を取り留めた。
そしてチナの命令により俺はその場で深山と水無月両名をこのチームに勧誘することになる。
深山が二つ返事で了承してくれたのがありがたかった。
あの一打席で俺の実力を認めてくれたなら嬉しい。
ストライクを投げたのはたった一球で、殆どがボール球を振らせる安全な配球だった。
今まで馬鹿正直に真っ向勝負ばかりしていた深山にとってはカルチャーショックだっただろう。
そんなわけで、各自家で私服に着替えたあと、今は近場のグランドに集まっている。みんな大体Tシャツにデニムパンツ姿だ。
紫を中心に落ち着いた色合いのチナ、炎の柄が描かれた赤を基調とした春火のTシャツ、薄黄色のTシャツに白のデニム姿の暖色が好きそうな水無月と、対照的に黒いTシャツに紺のデニムと寒色の多い深山、それぞれの性格が出ている気がする。
ちなみに、静佳が入るなら私も、と連鎖的に入部してくれた水無月は先程、チナの投げたボールを特大ホームランにして、これ以上はボールがいくつあっても足りなさそうなので自重したところである。
「これでもう、ちーちゃんはピッチャーとしてお役御免だね」
春火が上機嫌なままのノリでそんなことを言う。
それをチナはジロリと見返す。
「うっさいわねー。後ろ守ってる方が楽しいから異論はないけどさ。ってか春火、アンタ最近ウチのこと舐めてない?」
「えっ、何を今更?」
春火が意外そうな顔で見返す。
そういやそうだ。春火は小学校時代、スポーツ万能だったチナを尊敬していて随分懐いていた。
だが、チナは成長期が早過ぎたようで中学に入ってから背が伸びず、俺はもちろん今じゃ春火にまで追い越される始末である。
「身長で勝ってるからっていい気になりやがって」
チナが恨みがましくそう吐き出す。
しかし春火は悪びれる様子もなく、
「いやいや、腕相撲でも勝ったし、この前」
と返す。
そういやチナって忍者みたいに身軽だけど、非力なんだよな。
「それに凄いピッチャーだけじゃなく、凄いバッターも連れてきたし」
春火のキラキラ輝く目が今度は水無月の方を向く。
水無月がびくっと体を震わせた時にはもう春火は彼女の元に辿り着いており、自分より数段背の低い後輩の髪を撫でる。
「しかもちょっと茶髪混じってない? 不良だフリョー!」
春火は馬鹿高いテンションで盛り上がるが、水無月はすぐに体を引いて悲しそうな顔で叫ぶ。
「不良じゃない!」
春火の馬鹿騒ぎが止まる、自分が地雷を踏んでしまったことを悟ったようだ。
二人の間に深山が入って、両手を広げ後ろに水無月を庇う。
「そうですよ。麻白ちゃんは脱色なんかしてません。この髪は地毛です」
「うっ、ご、ごめん」
春火が落ち込んだ様子で謝る。
俺の推測でしかないが、水無月はこれまで髪について教師などに散々文句を言われてきたのかもしれない。
いい子の水無月が生まれつきの髪の色なんかで大人達に非難されてどれほど傷ついたか、想像するだけ胸が痛む。
春火は申し訳なさそうに、水無月に話しかける。
「ごめんね、しろちゃん。でも馬鹿にしたわけじゃないの。ちょっと羨ましかったからさ。ウチも高校卒業したら髪染めたいな〜って思うし」
しかし二人の間には深山が立っているので彼女が仲介する形となり、肩越しに後ろの水無月に語りかける。
「ほら、麻白ちゃん。近江先輩が謝ってるよ。自分のことバットで思いっきりかっ飛ばしていいから許してって言ってる」
「しろちゃんオレを殴れ! バットで思いっきり! オレはお前のことを傷つけてしまった。だからその分の痛みをオレにも与えてくれ! でないとオレの気が済まない!」
春火、何故お前は乗る。
そんな簡単に命を捨てるな。頼むから。
これが少年漫画的熱血展開だったら、水無月が春火を思いっきり殴って、「これで、全部チャラだ」とか言ってお互いを許しあうのだろうか?
でも金属バットで殴るのはないと思う。春火の人生が全部チャラになっちゃうよ。
水無月は焦ったように言葉を返す。
「殴ったりなんかしない!」
そしてしゅんとして反省したように、
「私こそごめんなさい、仲直りさせてください」
と吐き出す。
水無月は謝ることなんて何もないのに。いい子である。
そんな水無月に親友である深山は太陽の様に暖かく微笑みながら言う。
「大丈夫だよ麻白ちゃん。バットはボールを打つ為のもの。そしてボールは友達! 近江先輩も友達! つまり近江先輩をかっ飛ばしても何も問題ないということだよ」
その言葉に水無月が深山から申し訳なさそうに顔をそらす。
「ごめん静佳、私はアナタとその価値観を共有できそうにない」
ドン引きだった。二人の友情あっさり壊れてないか?
しかしまあ、春火が水無月を思いっきり抱きしめてるし、なんだかんだで仲直りしたっぽい雰囲気だ。
俺は春火の隣に並んで言葉をかける。
「でも、俺的には染めないでそのままの髪の方が好きだな」
「なんでこーちんの好みに合わせなきゃいけないの」
うざったそうに睨まれました。
『こ、こーへーさん。元気出してください』
視線を下げるとサンタクロースが両手を握りしめて励ましてくれる。
ば、ばっかお前、俺は別に傷ついたりしてねーよ。
顔をあげるとチナがニヤニヤした顔でこっちを見ていた。なんだテメーその顔は。
べっつにー、と言ってチナは顔をそらす。
「さて、それでは新メンバーの実力も見せてもらったところで、第一回チーム・スプリング・ファイアズのミーティングを開始したいと思いまっす」
そう宣言して春火は場を仕切る。
俺、チナ、深山、水無月の四人は春火の周りに扇状になって体育座りでグラウンドに座る。ちなみに俺の左隣にはちゃっかりサンタクロースが座っている。
「チーム・スプリング・ファイアズって」
俺が呟くと右隣のチナがヒソヒソ話をするように口に手を立てて、
「春火の名前を英語にしただけよ」
と教えてくれた。特に声量は抑えてなかったが。
なにその語呂悪いネーミング。それにファイアは複数形にならないんだぞ。
「こら! そこの眼鏡! 三つ編み! 私語を慎め!」
なんか体育会系の注意をしてきたネーミングセンス・マイナス二百七十五℃の幼馴染。
「先生、質問です!」
俺は挙手する。
すると春火は偉そうに腕を組んで返事をする。
「うむ。そこの眼鏡、発言と呼吸を許可する」
今まで呼吸すら許可されてなかったらしい。
俺は隣に座る三人を見回しながら、言葉を吐き出す。
「ということで俺以外の奴らは呼吸を許可されてないらしいぞ。みんな、息を止めろ。途中で気絶したらマウス・トゥー・マウスしてやるから」
そう告げると、チナは「セクハラ〜」と意地悪な笑みを返し、深山は、はあ、と呆れた表情を見せ、水無月は素直に口と鼻を押さえて息を止める。
とにかく俺は春火に訊きたい事を訊くことにする。
「このチームはこれで全員なのか。俺の知識に間違いがなければ野球は九人いなきゃできないものだと思っていたんだが」
そう問うと、外ハネは腕を組んで頷く。
「そう、野球は九人いなければできない。しかし、このチームはまだ九人揃っていない。つまりこのチームは野球が出来ないということだ。
そして被害者は昨夜、野球により殺された。よってこのチームには完全なアリバイがある」
何の話だ。
そうツッコムと、隣のチナが饒舌に語りだす。
「アイツはね、殺されて当然のヤツだったのよ! 今、ここにいるヤツラだって全員アイツに恨みを持ってるんでしょう?」
『うわぁ、千夏さんが悪役に』
サンタクロースが引いていた。なんか絶対チナ次の犠牲者だよな、この台詞。
チナは言葉を続ける。
「みんなだって十九年前のあの事件をまだ引き摺ってるんでしょ!」
春火がそれを遮るように、口を挟む。
「ちーちゃん、その話は無しにしよう? あれは事故だったんだよ」
チナはその言葉に勢いを失う。
「うっ、そうね。ごめん。アタシはちょっと部屋で休むわ。夕飯になったら呼びにきて」
去ろうとしたチナの背中に春火が呼びかける。
「ちーちゃん! このペンションで殺人が起こったんだよ! 一人になるのは危険だよ!」
そんな春火に、チナは肩越しに顔だけを向けて告げる。
「だからこそなおさらよ、犯人は今このロビーにいる中の誰かってことじゃない。殺人犯と一緒になんていられないわ」
だからなんでお前はそう面白いくらい死亡フラグを立てるんだ。絶対これ、夕飯の時間になって呼びに行ったらチナ死んでる展開だろ。
そしてチナがその場から離れて、数メートル行ったところで春火が唐突に、
「もしもし、ちーちゃん!」
電話も持ってないのに、電話を受けるふりをした。
チナも真似してエア電話を耳に持っていく。
「春火、わかったのよ犯人が!」
おっ、まさかチナが探偵役なのか?
彼女は言葉を続ける。
「あのトリックを使えたのは、ぐ、あ、やめて! うわー!」
チナが唐突に悲鳴をあげてぱたりと倒れる。
「ちーちゃん! ちーちゃん! もしもし!」
死んだ! 探偵より先に真相に気付いて、口封じの為に殺された被害者役だった! 死亡フラグ立て過ぎだこいつ!
そんな風に盛り上がっているところに深山の冷静が声が割り込む。
「すいません、先輩方は何の話をしてるんですか? それと麻白ちゃんはいつまで息を止めてればいいんですか?」
俺はそんな深山に説明する為に口を開く。
「なんだ、忘れちまったのか? 今は誰が水無月を窒息死させたのかという話をしてたんだろ」
「明らかに相馬先輩じゃないですか」
冷静に返される。
ち、違う! 春火が呼吸の許可を与えないのがいけないんだ!
「大体さぁ、こーちん。今回の事件の被害者は窒息死じゃなくて、野球死だよ」
そう春火が注意してくるので俺はそれを聞き入れることにする。
「そうだったな。じゃあこうしよう。被害者は深山静佳」
「私ですか」
深山が呆れてる感じなので俺は語気を荒あげて主張する。
「刑事さん! 俺を疑ってるんですか? 静佳は俺の恋人ですよ! なんで俺が彼女を殺さなきゃいけないんですか!」
その演技に深山が苦笑いととも言葉を零す。
「しかも勝手に恋人にされてるし」
なんかいい反応だったので、俺はそこで冗談めかして言う。
「えぇー、いいじゃん。俺みたいにカッコイイ彼氏がいたら自慢になるだろ? 俺も、俺に釣りあう女は世界中探しても静佳しかいないと思うし」
「うわ、また始まったよ。こーちんの口説き癖」
春火が呆れた声を出す。
「はあ、どうでもいいから麻白ちゃんに呼吸させてください」
静佳が力の抜けた笑みでそう言うので、俺はそのお願いをきくことにする。
「そうしたら俺に惚れる?」
「むしろそれだけで惚れられるとしたらどれだけ魅力的な呼吸のさせ方なんですか」
ふふ、いいだろう俺がそのカッコイイ呼吸のさせ方を見せてやろう。
俺はいい加減苦しそうな表情の水無月の腕を掴み、その手を引っ張って掌を口と鼻から引き剥がす。
「水無月、自殺なんかするな! 自殺なんて絶対ダメだ!」
「これは自殺じゃなくて先輩に言われて」
何か言いかけた水無月の言葉を、俺は遮って捲くし立てる。
「そりゃお前だって、静佳が死んで、後を追いたくなるくらい悲しいのかもしれない! でもお前が死んだら、残されたお前の家族や友人まで同じような悲しみを味わうことになるんだぞ。
お前にはまだこれからの人生が残っているんだ! 失ったものは帰ってこないかもしれない、けどそれでも残されたお前の家族や仲間達とともに支えあいながら幸せな人生を送れると、いや送りたいとお前の親しい人達は思っているはずだ!
だから、な? お前はその人たちの思いを無駄にするな。俺もその一人だから。お前を幸せにして一緒に生きていきたいと願う一人だからさ」
思った以上に感情移入して熱く語ってしまった。
隣で『こ、こーへーさん』とサンタクロースが感涙で目をウルウルさせている。
ああ、お前もわかってくれたか。
水無月もポカンとして言葉を失っている。
「まあ、頑張りましたね相馬先輩」
静佳が苦笑気味に声をかけてくれる。
「どうだ、カッコ良かっただろう?」
俺は聞き返す。
「単なる責任転嫁にも見えましたが」
静佳が呆れ気味な笑みで息を吐き出しているので、俺はそんな彼女に質問することにする。
「じゃあさあ、静佳はどんな男が好みなの。教えてくれよ」
俺のその問いに彼女は腕を組みながら、
「まあ、そうですね。考えたこともあまりなかったですが」
そう言って少しの間黙考する。
そして一言、シンプルに告げた。
「私より強い人です」
その言葉に俺はニヤリと笑みを浮かべながら即答する。
「じゃあ、俺だな」
静佳が不満そうに俺の顔を見返してくる。
「なら私の球が打てますか?」
俺は、フッと余裕の笑みを浮かべながら数秒間、静佳の顔を見つめる。
静佳が気圧されたように表情を強張らせたタイミングで俺は言う。
「お前の球は確かに速い。けど捕れないほどじゃない」
昼休みもさっきも俺はキャッチャーとして静佳の球を捕っている。捕球する分には問題ない。
「そしてお前の単調な配球なら、どんなコースに来るか大体読める」
そこまで言って俺は言葉を止め、静佳の顔を再び見返す。
しばらくの間、その場に沈黙が流れる。
静佳の表情に少しずつ焦りの色が見えてくる。
そして彼女は、
「もういいです」
と言って気弱な表情とともに首を横に振った。
俺の勝ちだ。
まあ「打てる」とは一言も言ってないんだけどね。
静佳の球を打つとしたら正直な話、ブランクを取り戻す期間が何ヶ月か欲しいところである。
「じゃあ話を戻そうか」
と、春火が場を仕切る。
「ここで雪山ペンション野球殺人事件の概要についておさらいしておこう」
戻ってねぇ! 話が微妙に戻ってねぇ!
そうじゃなくて、このチームがまだ九人揃ってないって話だったろ!
「しろちゃん、この事件の被害者・深山氏の友人であるキミから、一連の流れを説明してくれ」
息を荒くして肺に酸素を取り込んでる水無月に、春火の無茶振りが飛んでくる。
水無月はその言葉に、えっと、と顎に手をあててしばらく悩んだ後、
「そう、あれは私と静佳が二人で雪国へ旅行に行ったときのことだった」
と語りだした。
私は親友の静佳と二人で旅行に来ていた。
彼女はお土産物屋さんで買った可愛い雪だるまのストラップを上機嫌に自慢してくれた。
午前中は雪国ならではの氷細工教室で氷細工の作り方を学んで楽しんだ。
午後は二人でスキーに行き、そこで静佳は男の人にナンパされたのだ。
その人は相馬幸平さんというらしく、すぐに静佳と仲良くなった。
ペンションでは私と静佳は隣同士の部屋となった。そして廊下でトップアイドルの近江春火さんと出会い、私達は盛り上がった。
彼女は静佳の部屋の反対側の隣の部屋に泊まっているらしい。
そして午後七時くらいに食堂で、ペンションの従業員である天草千夏さんが作った料理に舌鼓を打ち、その後私達は解散した。
午後九時ごろ、部屋に一人でいた私は、凄い音を聞き、驚いて廊下に出た。
そこでは相馬さんが焦り気味の様子で、静佳の部屋の扉をノックしていた。
彼は静佳にいくら電話しても出ないと、私に教えてくれた。
彼女の部屋の扉には鍵がかかっているが、隙間からは明かりが漏れている。
私はついさっき隣の部屋から何かが倒れるような音がしたと彼に伝えた。
そこで私とは反対側の隣の部屋のドアが開き、近江さんが出てくる。
彼女は私達の様子を見て、緊急事態であることを察してくれた。
このペンションにマスタキーのようなものは一切ない。この部屋の鍵は静佳が持っているもの一本だけだ。
その静佳がどこにいるかわからない以上、扉を開けるには力技で押し開けるしかない。
相馬さんは扉に体当たりして、ドアを破った。
そして部屋に入った私達を出迎えたのは、床にうつ伏せに倒れ、背中に野球が突き刺さっている静佳の遺体だった。
私達はすぐに静佳に駆け寄ったが、すでに静佳が手遅れであることを悟り、涙を零した。
室内はいくら雪国とはいえ、暑いくらい暖房がかかっていた。
そこで私は机の上に鍵が置いてあるのを発見し、それを相馬さん達に伝えた。
その鍵は静佳の部屋の鍵、静佳がお土産物屋さんで買った雪だるまのストラップをこの鍵につけて自慢していたのを私はよく覚えているから見間違えるはずもない。
この部屋のドアを施錠できる唯一の鍵がこの部屋の中に閉じ込められていたのだ、もちろんこの部屋にはオートロックなどの仕掛けはない。
外側からドアを施錠できるのはこの鍵のみだ。
ならば静佳を殺した犯人は内側から施錠したのか?
ならどうやってこの部屋から脱出したのか? 窓は全て内側から鍵がかかっていたと近江さんが教えてくれた。
扉も窓も、内側からなら鍵無しで施錠できるが、窓は外側から施錠する手段は存在しない。
私は窓の外に出てみる。そこはベランダになっていて、両隣の部屋と繋がっている。
ここは二階ではあるが、ベランダから飛び降りることも出来るだろう。
しかしベランダから見下ろした地面はまっさらな雪で覆われており、そこには誰かの足跡などは一切なかった。
もし殺人犯がこのペンションの近くにまだ潜んでいるなら危ないと思い、私達は天草さんにこのことを伝えることにした。
今日このペンションに泊まっているのは、私、静佳、相馬さん、近江さん、そして従業員の天草さんだけだ。
私達は一時間近くペンション内を探したが天草さんの姿は見つからず、まさか事件に巻き込まれたのかと不安になり始めた頃、彼女はひょっこりと姿を現した。
彼女が言うには倉庫の方でなんらかの作業をしていたということらしい。
私達は単なる客なので、その倉庫とやらがどこにあるかもわからないし、見つけられないのも無理はなかった。
しかし静佳は一体密室の中でどのようにして殺されたのか?
真相は私達が推理するしかなさそうだ。
「おー、密室殺人! 面白くなってきた!」
水無月の語りが終わると、春火が拳を握りしめて盛り上がる。
俺は静佳に向けて言葉を紡ぐ。
「どうだ静佳? 犯人はこの中にいるんだ。推理してみろ、被害者の名にかけて」
「凄い不名誉な名ですよね。っていうか被害者なら犯人を知ってるんじゃないですか?」
そこまで言って、彼女は腕を組む。
「私が麻白ちゃんと一緒に旅行に行ったら二人部屋に一緒に泊まると思うけど?」
そう言って首を傾げながら水無月を見る。
「ありがとう静佳。でもこのペンションには一人部屋しかなかったと考えて」
水無月が補足する。
静佳はその言葉に頷いて、組んでいた腕を解く。
「まあいいや。例えば毒ガスとか、部屋の外から殺害する方法はないの?」
その言葉に水無月はふるふると頭を振る。
「静佳の死因は背中に野球が刺さってたことによるもの。室外から殺害することは不可能」
「その殺害方法が一番の謎なんだけど。なに、野球が突き刺さってるって? その状況が全くイメージ出来ないわ」
静佳が相変わらず水無月にだけはタメ口で愚痴る。
そこでチナが提案する。
「じゃあ、自殺とかは?」
これも水無月は首を横に振る。
「静佳は背中を刺されていた。客観的に見て自殺はほぼ不可能」
ふーむ、やはり密室殺人。春火じゃないがこれは推理するのが面白そうだ。
そう思っていると水無月が口を開く。
「まず各人の細かいアリバイを説明しておく。相馬先輩は静佳の携帯にいくら電話しても繋がらず、部屋の前まで来たところで仕事の関係の人から電話がかかってきて、静佳の部屋の前で十分くらい携帯で話していた。電話の相手がアリバイを保証してくれるけど、警察はその電話の相手は相馬先輩の親しい人物なのでアリバイ工作の可能性も低くないと見ている。
とにかく相馬先輩の証言を信じられるなら、彼は十分ほど静佳の部屋の前にいて、その間その部屋の扉からは誰も出入りしてないことが保証される。そして通話を終えて、彼が静佳の部屋をノックしているところで隣の部屋から私が出てくる。その後、近江先輩も出てきて相馬先輩がドアを体当たりで破って事件発覚となる。
私は一人で部屋にいたため、アリバイはない。近江先輩も一人で部屋にいたけど、相馬先輩が電話をしていた十分間の間、近江先輩の部屋からはテレビの音と彼女の笑い声が聞こえたと相馬先輩が証言してくれる。
天草先輩もアリバイがないけど、彼女は倉庫で明日の麻薬取引について麻薬の売人と携帯で打ち合わせをしていた。警察はこれに対しても相馬先輩同様アリバイ工作の可能性を疑っている」
おい警察、アリバイ工作云々よりまず麻薬の売人を逮捕しろよ。新たな犯罪の匂いがするよ。
そこで春火が、はいはい!と挙手し、口を開く。
「まずはシンプルなところから疑っていくよ。扉が本当は施錠されてなかった可能性は? 例えばこーちんがドアノブをガチャガチャやっただけで鍵が閉まっていると言って、他の二人は実際に施錠されているかどうか確認していないとか」
水無月はその問いに頭を振る。
「扉の施錠は私も近江先輩も確認した。よって、その仮説は三人が共犯の場合しか成り立たない」
俺はその言葉に頷く。
「なるほど、五人しか登場人物がいない物語で、一人が被害者、三人が共犯だったらふざけてんな。でも可能性はゼロじゃない。この仮説については保留にするか」
そして今度はチナが仮説を提唱する。
「それじゃ静佳の遺体が発見されたのが本当は静佳の部屋じゃなかった可能性。例えば扉に部屋番号が記されたプレートがあって、それを別の部屋に付け替えることによって、あたかもそこが静佳の部屋だと勘違いさせた。それなら犯人はその部屋本来の鍵で施錠すればいいわけで、中に静佳の部屋の鍵があろうと問題ない」
水無月はその答えにも頭を振る。
「静佳の部屋の両隣は、私と近江さんの部屋。部屋を間違える可能性はほぼない」
なるほど、これも水無月と春火が共犯でなければありえない可能性というわけか。結局さっきと似たような結論になってしまう。
次は俺が推理を披露する番だ。
「じゃあ例えば静佳は犯人に脅迫され、部屋に内側から鍵をかけて閉じこもっているよう指示されたとか。彼女は遅効性の睡眠薬を盛られており部屋の中で床に倒れて眠ってしまう。扉の内側には犯人の指示により、野球が固定されていたんだ。そこで俺たちが扉に体当たりすることで静佳の体は扉の下敷きになり、背中に野球が突き刺さるようになっていたとか」
その言葉に水無月は間髪要れず即答する。
「静佳の遺体は扉から離れていた。もちろん、その他の不審な仕掛けも発見されなかった」
むぅ、これもダメか。
『私も! 私も推理します!』
なんか隣でサンタクロースが駄々をこねていた。
そこで静佳が水無月の目を見据えて訊ねる。
「じゃあ、麻白ちゃん。今から私の質問には警察に訊かれているものと思って答えて」
その言葉に水無月は大きく頷く。
「まず、最後に私の生きている姿を目撃したのは誰? いつ?」
水無月は即答する。
「それは私、事件発覚の二時間ほど前に食堂で一緒に食事を食べた」
なるほど、と静佳は頷く。水無月は言葉を続ける。
「ちなみにそのときの静佳は、『この旅行が終わったら、私、相馬さんと結婚するんだ』って言ってた」
「ああ、しっかり死亡フラグ立ててるんだね私。っていうか出会って一日と経ってない人と何故結婚を決意してるの」
静佳が肩を落としているので、俺はその肩に声をかけてやる。
「じゃあ、静佳は俺から告白されてたってことにしようぜ。それでその告白の返事を今夜聞かせてくれって言われてたということで」
「どっちにしろ死亡フラグじゃないですか」
苦笑いを浮かべる静佳を俺は励ましてやる。
「いや、わかんないぞ。このパターンだと俺のほうが死ぬ展開もあり得る」
あはは、と笑う静佳。
そしてしばらくして笑いが治まった後、彼女は腕を組んで瞼を閉じる。
そして独り言のように言葉を紡ぐ。
「麻白ちゃんは事件当時、隣の部屋から何かが倒れるような音が聞こえて廊下に出た。普通に考えればこのとき私が殺されて床に倒れた音を聞いたものだと思う。けど、その音を聞いたのは麻白ちゃん一人。その証言が嘘だとすれば、私はそれよりずっと前に殺されていたという推理も可能」
うっ、と水無月が小さく呻く。もう静佳は真相に辿り着いたようだ。
静佳は水無月の目を見据え、淡々と言葉を紡ぐ。
「麻白ちゃんは食堂で私と解散したとさっきの語りではっきり言った。だからその後は別行動で、私が真っ直ぐ部屋に戻った保証はないし、事件発覚までの二時間までの間、寝るには早い時間に私が他の誰とも会ってないとどうして断言できるの? 何故自分が最終目撃者だと即答できたの?」
水無月が静佳の視線にたじろぐ、彼女はその隙を逃さない。
「麻白ちゃんに答えられないなら、私が答えてあげる! それは麻白ちゃんが犯人だから! 二時間前に自分の手で私を殺したから、だからそれ以降誰とも会ってないと知っていた!」
そして静佳が水無月を指差し、お約束の台詞を吐く。
「犯人はお前だ!」
そしてそのまま人差し指で水無月の脇腹を突っつく。
「や、やめて静佳。くすぐったい」
えいえい!と突っつきながら静佳は推理を続ける。
「麻白ちゃんは私を殺したあと、私の部屋の扉から出て、外から鍵を使って施錠した。そして事件発覚時、ポケットにでも忍ばせておいた鍵をあたかも部屋の中で発見したかのように振舞った。これが真相です!」
静佳の突っつきが、やがてくすぐりにシフトする。なにこの微笑ましい犯人追究。
水無月はくすぐられながら苦しそうに告白する。
「そう、犯人は私。静佳を殺して、死体が発見されるまでの時間稼ぎとして部屋を施錠しておいて、翌日には遠方へ逃げるつもりだった。けど相馬さんが静佳の部屋をノックしているとき、私は焦ってしまった。そして隣の部屋にいた自分が不審な物音の一つも聞いてないのは不自然じゃないかと思い、つい何かが倒れるような音が聞こえたと嘘をついてしまった。死体が見つかった後は自分が鍵を持っていることがばれると警察に疑われると思ったから、静佳の部屋の中で鍵が見つかったように振舞った。これが事件の真相です」
悲しい事件だった。静佳と水無月は仲のいい親友同士だったはずだ。だが俺という一人の男をとりあって、二人の友情は捻れ、殺人にまで発展してしまった。
「いや、誰もそんな動機告白してないから」
とチナが笑みを零しなら、俺にチョップを入れる。
そこで唐突に、静佳のくすぐり地獄に捕獲されている水無月を春火が後ろから引っ張り救い出した。
そしてひっしと水無月の頭を抱きしめながら彼女は叫ぶ。
「しろちゃんは犯人じゃない。犯人はウチなの!」
『は、春火さんが! そんな! しょうげきのじじちゅでしゅ!』
サンタクロースが驚いている。リアクション芸人だ。最後に噛んだが。
春火が自分の犯行を告白する。
「私はしーちゃんを殺したあと、廊下からこーちんがノックしてくるのに気付いて慌てて窓から出てベランダを通って隣の自分の部屋に戻ったの」
「だけど、部屋からはずっとテレビの音と春火の笑い声が聞こえて」
俺はそう振ってやる。
春火は待ってましたとばかりに答える。
「忘れた? はるちんはトップアイドルなんだよ」
そう、彼女は自分が出演しているバラエティー番組かなにかをテレビで流していたのだ。だから俺が聞いた春火の笑い声は、テレビの声だったのだ。これで彼女のアリバイは崩れる。
だけど、彼女は窓から部屋を出たと言った。しかし窓は全て内側から施錠されていた。
「それを最初に確認したのもウチだよ? 窓の鍵が開いていることに気付かれるとウチが疑われると思って、こーちん達が死体に気をとられている隙に、自分の出て行った窓を内側から施錠したの。
しろちゃんは私を庇っていただけ。真犯人は私なの!」
悲しい事件だった。春火は俺の幼馴染で、ずっと俺のことを好きだったという。しかしその想いを打ち明ける勇気がなく、自分を磨こうとアイドルになった。
しかしトップアイドルにまで登り詰めた頃には俺の隣には静佳がいた。彼女の嫉妬が殺意に発展するまでに時間はかからなかっただろう。
「いや、だから誰もそんな動機告白してませんって」
静佳が苦笑する。
しかしそんな中、チナが立ち上がり、春火と水無月の頭をやさしく撫でる。
「春火、麻白、庇ってくれてありがとね。でもアタシはやっぱり二人に罪を着せたままのうのうと生きていけない。告白するわ、アタシが真犯人だったのよ」
『にゃ、にゃんですとー!』
サンタクロースが相変わらず噛みながら驚く。
チナが解説を始める。
「扉も窓も内側から鍵がかかっていた。だから犯人は密室の外に出る手段はない。答えは至ってシンプルなのよ。
犯人は犯行後、幸平達が廊下にいるため部屋を出られず、彼らが死体を発見してから部屋を立ち去るまで、ずっと室内に隠れていた。それが可能だったのはあの時アリバイがなかったウチだけ」
そんな馬鹿な。あの時俺達は誰かが隠れてないか机の下とか色々探したのに。
そう言うとチナは、ふっと笑いながら答えてくれた。
「机の下に隠れるなんて凡人の発想よ。ウチはね、机の上に隠れてたの」
なるほど、それは盲点だった!
『無理ですよそれ! そもそも隠れてませんよ!』
悲しい事件だった。チナはなんか色々あって、静佳への殺意が芽生えたのだった。
『なんかもうこーへーさん、動機考えるのが面倒臭くなってるでしょ!』
俺はゆっくりと立ち上がる。
そして想いを吐き出す。
「チナ、春火、水無月。みんな、俺を庇ってくれてありがとうな。けどもういいんだ。俺が犯人だったんだ」
『こ、こーへーさんまで!』
俺は今回の事件についてゆっくり説明を始める。
「あの夜俺は、廊下で静佳に告白の返事を聞いた。彼女は俺を受け入れてくれた。じゃあ、話が進まないのでとにかく何かがあって俺の中に静佳への殺意が芽生えたことにする。けど告白の返事はOKだった。静佳が俺を振るわけがない」
「なにそこだけ妙にこだわってんの! なにその変に高いプライド!」と春火が口を挟むが俺は構わない。
「とにかくなんやかんやで部屋に帰りかけた静佳の背中に俺は野球を突き刺した。突然のことに静佳は俺から逃げ、自分の部屋に篭って内側から鍵をかけた。だがそこで力尽きてしまったのだろう。
俺が静佳の後を追って彼女の部屋のドアを叩いてるところに水無月が現れたので、俺は咄嗟に嘘をついてその場を凌いだ。これが真相だ」
悲しい事件だった。俺達はお互いを愛し合って結ばれたはずなのに、物語の進行上の都合により殺意が芽生えてしまった。
『今までで一番酷い動機説明です!』
そこに静佳の甲高い声が響く。
「相馬先輩は犯人じゃありません!」
そして瞳に涙を溜めながら、全員を見渡しながらぽつぽつと彼女は話し出す。
「それからみんなも犯人じゃありません。私は自殺だったんです。壁に野球を固定して自分から背中を勢いよく押し付けたんです」
「そ、そんな! あの現場に、野球を壁に固定できるような仕掛けは見つからなかったのに!」
春火が驚愕の表情を浮かべるが、静佳はすぐにその疑問に答える。
「その仕掛けは氷で作ったんです。昼間の氷細工教室で習ったものを応用して。部屋には暖房が強くかかっていたので、私の自殺後すぐにその氷は溶けてしまったのでしょう」
「ばっきゃろう、そんなわけあるか!」
俺は静佳の語りを遮るように声を荒上げる。
相馬先輩、と驚いた顔で静佳がこっちを見返す。
「静佳は俺が幸せにするって決めたんだ! その彼女に自殺する動機なんてあるわけねぇ! どうして俺達はお互いに罪を被りあってんだ? 俺達は信頼の絆で固く結ばれたチームメイトのはずだぜ。そうさ、最初から俺達の中に犯人なんていねぇんだ!
野球は九人いなきゃできないのに、何故俺達は単独犯を前提に話をしてるんだ?
あのペンションには五人しかいなかった。だから誰にも野球殺人は不可能。俺達以外の未知の人物達が潜んでいてそいつらが犯人なんだ!
俺達は静佳の部屋の密室内からあの部屋の鍵を見つけた。だが待ちな、それは本当に静佳の部屋の鍵だったのか? 俺達は雪だるまのストラップがついていたからそう判断しただけで、それが本物の鍵かどうか誰も確かめちゃいねぇ!
つまり犯人達は静佳の部屋の鍵から雪だるまのストラップを外し、別の鍵に付け替えたんだ! 静佳の部屋で見つかった鍵は偽物だったんだよ! 俺達はあれに雪だるまのストラップがついているから、あれを静佳の部屋の鍵だと思い込んじまっただけなんだ!
本物の鍵は犯人達がドアを外から施錠するのに使ったんだ! これが真相だ! 俺達はお互いを疑わなくていい、罪を被りあわなくていい! チーム・スプリング・ファイアズという絶対の絆で結ばれてるんだよ!」
「そ、相馬先輩」
「こーちん」
「幸平」
「先輩」
『幸平さん』
俺達は皆、感涙で瞳を満たしながら顔を見合わせる。
チーム・スプリング・ファイアズは今、真の意味で完成したのだ。
「そんな最高の友情で結ばれたチーム・スプリング・ファイアズはまだまだ新メンバー募集中、みんなもお友達を誘ってみてね」
最後に春火が宣伝チックにそう締めくくった。
女の子って演技で涙を流せるものなんですね。僕初めて知りましたよ。
俺が軽く女性不信に陥ってるところでさっきの推理大会についてみんなで語り合う。
「でもさー、ウチびっくりしちゃった。しろちゃんが鍵を発見したあたりで。あれ、語り手なのに嘘ついてたってことっしょ。それって反則じゃない?」
春火が同意を求めるように言う。
それに答えたのはチナだった。
「まあ一人称小説ならアリじゃない? さっきのは小説じゃなくて、麻白の語りだけど」
神の視点と呼ばれる三人称小説と違い、主人公視点の一人称小説は主人公の主観に大きく脚色される。
例えば一人称小説の地の文で、静佳の死体を見つけた、と描写してもそれは主人公が死体と認識してるだけであって、本当は死んだフリかもしれないということだ。
主人公が相手の表情や声音から、心の内を推測したとしてもそれが丸っきり外れていることもある。
人の気持ちを推理することはきっと名作ミステリーよりも難しい。
そんな話を俺達は語り合った。
チナが言う。
「例えば、幸平視点の一人称小説があったとしよう」
何故俺?
「で、地の文で、春火は可愛い、と描写したとする」
ぜってー書かねー。
「でもそれは幸平の主観で可愛いと言ってるだけで、実際は可愛くないかもしれない。幸平の身内贔屓で可愛く見えてるだけかもしれない。読者には様々な解釈が許されるというわけ」
えー、ちーちゃんヒドイー、と春火が笑う。
例えば、少女漫画などでは一つのコミュニティにやたら美男美女が集まることが多い。それを不自然だと言う意見もあるだろう。
しかしこれが一人称小説になるとアラ不思議、そこに集まる人達が美男美女と表現されてもそれは、主人公の身内贔屓であって、実際は平凡な顔ばかりなのかもしれない、と解釈することも出来るわけだ。
「どんな受け取り方をしてどんな場景を想像するかは読者の解釈次第で十人十色ってワケか。小説っていうのはつくづく便利な媒体だな。いや、インチキ臭いと言やあいいのか?」
俺はなんの気なくそう吐き出す。
チナは人差し指を一本立てて、口の端を釣り上げる。
「じゃあこういうのは反則だと思う? 例えばさっきの話で、麻白が静佳と一緒に夕飯を食べてたシーンがあるっしょ? それが丸っきり、現実には起こってなかったシーンなの。その時刻、麻白は静佳を殺していた。
そして麻白は亡き友人とひょっとしたら楽しい時間を過ごせていたのかもしれないという後悔の念から、二人で食事をしていた情景を想像していた」
流石にそれは、と静佳が顔を引き攣らせる。
反則反則ー!と春火が口を尖らせる。
それでもチナは不敵な笑みを崩さない。
「反則じゃないわよ。アンタラだって漫画とかで夢オチとか妄想オチとか見たことがあるでしょ? 全てが妄想で現実には起こっていませんでしたー、なんて種明かしは最後の最後ですればいいの」
なんという暴論、これからは小説を読むときは気をつけようと俺は心に誓った。
ふと、さっきから水無月が発言していないことに気付いて俺はそちらの方に視線を向ける。
彼女は、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「どうしたよ水無月、推理ゲームは楽しかったか?」
俺は彼女の隣に腰を下ろす。
彼女はそんな俺に顔を向け、ちょっと控えめな声で、けど嬉しそうに、
「うん、楽しかった」
と言うのだった。
さっきの問題は俺としては難し過ぎず、易し過ぎず、程よい難易度を楽しめたが、それを素直に口にしていいものか?
思いの他みんなが簡単に問題を解いてしまったので、彼女は少なからずショックを受けているかもしれない。
俺は慎重に彼女の気持ちを探ることにする。
「水無月は推理小説とかよく読むのか? やっぱそういうのよく読んでるからああいう問題が咄嗟に思いつくのかなぁ」
俺の言葉に彼女は、それほどでは、と頬を朱に染めて謙遜する。
「さっきのは私が知ってる密室トリックの王道パターンの中でもわかりやすいものをいくつか出しただけ。例えば釣り糸を使ったりー、なんていう複雑なトリックはミステリー好き以外には敬遠されがちだから除外して考えた」
恥ずかしがり屋の彼女も自分の得意分野とあっては多少饒舌になるようだ。
俺は訊く。
「わかりやすいものを出したってことは、俺達素人に合わせて手加減してくれたってことか?」
ある意味ではそうだけど、と彼女は呟く。
「これはゲームだから、みんなが楽しめなきゃ意味がない。みんなが挑戦する気も起きないような難解な謎を出題しても意味がない」
なるほど、水無月なりに空気を読んでくれたってことか。
水無月はちょっと大人びた笑みを見せ、語る。
「これは私の個人的な価値観なんだけど、よく出来た謎の条件は難解であることじゃないと思う。如何にフェアで、手掛かりを集めれば解けるように出来ているか。真相を知ったとき納得できるか」
それに、と彼女は言葉を続ける。
「そうやって作った自慢の謎を解き明かしてもらえるのが嬉しい。それは自分の作った問題にみんなが真剣に向き合い、真剣に考えてくれた証だから。その上で謎が解ければ自分の出題フェアなものだったという証明になる」
そこまで言って彼女は喋りすぎてしまったことを恥じるかのように顔を俯かせる。
なるほど、謎を解かれるのは作者にとって本望っていうわけか。
俺はようやく自分の気持ちを素直に吐き出せるようになった。
「そっか、ありがとな。お前のゲーム楽しかったぜ。難し過ぎず、易し過ぎず、程よい難易度だった」
その言葉に彼女は恥ずかしそうに頬をかきながら、あ、ありがとう、と呟いた。
「なあ、水無月」
俺は彼女の肩に手を置く。
「お前将来小説家とかになれるよ。そしたら俺の武勇伝書いてくれよ。俺主人公」
え、えー、と彼女は困ったような笑みを見せる。
そこに春火の声が飛んでくる。
「こら、こーちん抜け駆けすんな! 書いてもらうとしたらチーム・スプリング・ファイアズの結成から活躍の軌跡を綴ったノンフィクション・ドキュメンタリーでしょ!」
わ、わかった、どっちも書くから、と水無月が困っている。
あはは、こんな小さな約束まで律儀に守ろうとするなんてつくづく純心なヤツだな、と思った。
さて、とミーティングの再開である。
春火がさっきと同じようにみんなの中心に立つ。
「えー、先程はこーちんのせいで話が大幅に脱線してしまったことをここにお詫びする」
えっ、俺のせい? いや、どう考えてもお前のせいだろ!
俺のそんな反論など春火には蛙の面に水と言った感じで、話を続ける。
「それでは、我らチーム・スプリング・ファイアズの今後の活動方針について話し合おうと思う。諸君らも知っての通り、我がチームの当面の目標は数週間後に控えた、第一回町内草野球大会に出場することである」
すまん、初耳だ。
なのに静佳は、ああ、あれですね、と言い。水無月は、丁度私達もあれに出たいと思ってた、と頷く。
ええー、なにそれ! 俺だけ? ついていけてないの俺だけ?
困惑している俺に、チナが一枚の紙を見せてくる。
「幸平、アンタこの町に住んでてこのポスター見たことないの?」
渡されたポスターには確かに、第一回町内草野球大会と書かれていた。
あっ、これ何週間か前に見たことある気がする。
あの頃は俺もまだ医者から野球やる許可が下りてなかったし、春火も入院中だったから俺達には関係ないと記憶の彼方へ追いやられていた存在だ。
改めてそのチラシを読んでみる。
見せてくださーい、とサンタクロースが覗き込んでくる。
大会開催は約一ヵ月後。参加チームは最大三十二チーム。
毎週日曜に数試合消化し、約三ヶ月かけてトーナメントを行う形式らしい。
使用球は軟球。イニングは七回。十点差まで許容するが、十一点差以上開くとコールドゲームとなる。
ふむふむ、優勝賞品がやたら豪華だな。最速百五十キロのピッチングマシンを始め、バッティングネットやトスマシン、ティースタンドにゴムチューブなど各種練習用具が用意されているらしい。
正直百五十キロなんて誰が打つんだ、と思う。
静佳の真っ直ぐが百キロそこらなのだから、百五十キロなんて雲の上の話だろう。
一応参加費を徴収するとはいってもこれじゃ赤字じゃないのか? 心配になって大会運営者の名前を見てみる。
春火の親父さんの名前があった。
ああ、いいのか。あの人なら赤字でもこういう大会をやりたがりそうだ。
なんか、全てに納得した。
一チーム最低九人、最大十八人の登録が可能。やはり問題はここだよな。
「おい、春火。それで残りの最低でも四人のメンバーにアテはあるのか?」
俺は幼馴染の無計画ぶりが心配になって聞いてみる。
大会まであと一ヶ月となると、殆ど練習期間がない。
そうなればやはり残りのメンバーにもそれなりの経験者が欲しいところである。
しかし俺は言ってから後悔した。
俺の言葉を聞いて、春火がすんごい暗い表情になったからだ。
春火には草野球仲間が沢山いるハズだ。アテがないわけはない。それでこれだけ集まりが悪いのだから、誰よりも凹んでいるのは彼女だろうに、俺の無神経!
春火はチナに泣きつく。
「ちーちゃん、こーちんが苛めるよー! ねぇ、勧誘の方はどうなってんの? 凄い選手連れてきて眼鏡にモノ見せてやって!」
そんな春火の頭を撫でながらチナは苦い表情をする。
「ダメね。咲夜も翼も子供会の方のチームで出るって。柚希達の方はどう?」
逆に聞き返された春火は、頭を大袈裟に振る。
「ダメダメ、ゆーちゃんもみーちゃんもお兄さん達と一緒のチームに入るって、意思は固いみたいだった!」
その返答にチナが諦観気味の笑みを浮かべる。
知らない名前が沢山出てきた。
サクヤ、ツバサ、ユズキ。男でも女でもどっちでもありえそうな名前だが、春火が欲しがるほどの実力者となると自然にどちらかは想像がつく。
しかしやはりチーム集めの時期が遅すぎたのが敗因のようだ。
春火は入院してたのだから仕方ないんだが。
深山や水無月ほどの逸材を獲得できたこと自体奇跡的と言えよう。
俺は立ち上がって、言う。
「まっ、メンバー集めはなんとかなるだろ。俺も知り合いとかに声かけてみるし、静佳や水無月も協力してくれるよな」
そう言って二人の方をみると、ええ、はい、とそれぞれ頷いてくれた。
最悪、実力や経験に拘らなければ頭数を揃えることぐらいできるだろう。
春火がようやく泣きマネをやめてチナから離れる。
「うん、こーちん期待してる。しろちゃんクラスのバッターをあと四人連れてくるだけでいいから」
ハードルたけえ! 俺どんだけ期待されてんの!
女の子の期待を裏切っちゃダメよこうへ〜い、とチナが嫌な笑みを浮かべる。
「もし見つからなかったらこーちんはスカートの刑ね」
春火がサディスティックな笑みを浮かべながら言う。
ちくしょう! こいつの弱々しい態度に騙された!
つか、懐かしい刑だな。この歳で女装は正直勘弁して欲しい。
うう、話題を変えよう。
「それより、今後の練習方針とかはどうなってるんだ!」
俺が問うと春火がぽんっ、と手を打つ。
「そうだね。その話をしよう。まず守備位置についてだけど、ピッチャーしーちゃん、キャッチャーこーちん」
待て。静佳はいいとして何故俺が捕手になる?
春火は不思議そうに小首を傾げる。
「えっ? だってさっきもキャッチャーやってたじゃん。ちーちゃんが言うには、昼休みもしーちゃんとバッテリー組んで、好リードしてたらしいし」
そうは言っても、あれはその場の思いつきだぜ。実際キャッチャー経験なんて殆どないし。
俺が渋っているとチナが言う。
「だからってキャッチャー経験が豊富な人が他にいるわけでもなし。いいじゃない、そういうちょっとしたお試しで天職が見つかることもあるんだから」
天職。キャッチャーが俺の天職、か。
視線を下げるとサンタクロースが両手を握りしめて、こーへーさん頑張ってください、と応援してくれた。
よし、いっちょやったるか。
「わかった。俺は捕手をやる」
俺はそう宣言する。
春火が、よっ、男前!などと囃し立てる。
そう褒めんなって、照れるぜ。
防具とか色々出費がかさむなぁ、父さんに頼むしかないか、と内心溜息を吐きながら。
こうして、投手を辞めた俺の、第二の野球人生が始まった。
ちなみに他のメンバーは、まだ九人揃ってないということで複数のポジションを守れるようにという練習方針に決まった。
今日一日の疲れをお湯に浸かって洗い流して部屋に戻ってきた俺を出迎えたのは、机の上で暴れている携帯電話だった。
『こーへーさん、こーへーさんお電話ですよ!』
トナカイ柄の赤いパジャマ姿のサンタクロースが電話をとって俺に手渡ししてくれる。
ディスプレイにはかけてきた相手の名前が映っていた。
そこに表示されている名は、上咲雪音。
俺は通話ボタンを押し、ベッドに腰掛けながら電話を耳に持っていく。
「どうしたよ? 今丁度こっちからかけようと思ってたのに、俺のことが恋しくなって待ちきれなかったか?」
俺はもはや、もしもし、すら言う必要のないほど親しい相手に声をかける。
電話の向こうから元気な声が聞こえてくる。
『うん、待ちきれなかった。お兄ちゃんのこと恋しくて恋しくて、私は夜も眠れないの。昨夜だって十時間しか寝られなかったし』
おおう、そんなに俺のことを想ってくれてるのか! やはり美しさとは罪だな。しかし雪音が俺のことを好きになりすぎて睡眠不足にならないか心配でたまらないよ。
『ねえねえ、お兄ちゃん今なにしてた?』
電話の向こうから雪音が無邪気な声で訊いてくる。
俺は答える。
「今か? 今風呂上りでフンドシ一丁」
その返答に、あははという彼女の笑い声と布団をばふばふ叩く音が返ってくる。
左肩に電話を挟んでベッドの上で笑い転げている彼女の姿が自然と目に浮かぶ。
『見たい見たい! お兄ちゃんのフンドシ姿見た〜い! ねぇ、写真撮って送って?』
そして邪悪な要求をしてきた。
どうしよう? 冗談だったのに。いや、むこうだってそれはわかってるはずなのだが。
今の俺の姿は、本当は春火から貰ったテディベアパジャマである。これはクマった。
「いや、実は冗談」
言いかけて、電話の向こうから不安そうな声が聞こえてくる。
『ひょっとしてお兄ちゃん、雪音に嘘吐いたの? 雪音のこと騙したの?』
うっ、演技だとわかっているがとても罪悪感を刺激される声色だった。これはクマった。
こーへーさん、女の子を苛めちゃダメですよ、と隣に座るサンタクロースにも注意される。いや、そういう問題じゃないんだが。
俺は決意を固める。
「雪音」
電話の向こうに向けて真剣な声で語りかける。
「俺は確かに嘘吐きかもしれない。けどお前に嘘を吐くとしてもそれはいつだってお前の為を思っての嘘だ。それだけは、信じてくれ」
しばしの沈黙、そのあと、
『うん、信じる! お兄ちゃんのことならなんでも信じるよ!』
とても嬉しそうな声が返ってきた。
よかった。お姫様のご機嫌をとることは成功したようだ。
俺達はその後、とりとめのない世間話をする。
「鈴姉や辰兄は元気?」
『鈴歌と辰哉? 元気だよ。鈴歌は相変わらず遅くまで部活やってるし、辰哉も最後の大会に向けて張りきってるみたい』
「そっか、辰兄今年受験だもんな。俺も来年は我が身だ」
『でもお兄ちゃん頭いいから、どんな学校も千切っては投げ千切っては投げ、でしょ?』
「簡単に言うなよ。三年になったらまた勉強難しくなるかもしれないじゃん。んで、再来年はお前だな」
『えー、やだー。そんな先の話したくないー』
「だな、お前はまだ中学入ったばかりだし。新しいクラスはどうだ? 友達は出来たか」
『えっ、うん。まあ出来たよ』
雪音が答え辛そうに答える。これは、あまり芳しくなさそうだ。
「なんて子?」
俺は訊く。
『えっと、八雲ちゃんって子』
そっか、最低でも一人は友達が出来たのか。よかった。
「ああ、これからも頑張って友達作れよ。人と人との繋がりは大事だぜ。人間は助け合って生きていく生き物なんだから」
『でもお母さんは、自分でなんでも出来るようにしなさいって言うよ』
「それはそれ、これはこれだ」
子育てって大変だなあ。
『で、それでさ』
話題が途切れたところで、雪音が切り出してくる。
『お姉ちゃんからあの話聞いた?』
むっ、あの話とは?
「坂本竜馬を殺した犯人がわかったって話か」
『わかったの? 凄い!』
「ああ、竜馬は史実によれば十二月十日に殺されたことになっているが、実はその前日に死んでいたとしたら? 関係者達のアリバイは崩れる!」
『ああ、その話も凄く気になるけど、そうじゃなくて草野球大会の話』
ああそっちか、竜馬の件に比べれば遥かに小さい出来事なのですっかり忘れていた。
「てーことはお前も出るのか?」
俺は訊く。
『うん、出るよ。今こっちも大分メンバーが集まっててね、それでさ』
雪音は少しの間溜めて、控えめに言葉を続ける。
『よかったら、お兄ちゃん達も私と一緒のチームに入らない?』
ふむ、それは素敵な提案だ。こっちのチームのメンバー不足も解消できる。
しかしその前に俺は確認しておかなければならないことがあった。
「そっちは? 何人集まってんの?」
『えっ、そうだね。辰哉や鈴歌も協力してくれるっていうから合わせて十二人ほどだね』
「なんだ、なら十分じゃねえか」
俺は言う。
「こっちも割と人数集まってんだ。今さら合併したら、ベンチで何もしないでいるメンバーが増えてつまんねーだろ? やっぱり参加するからにはみんな試合に出たいだろうし」
俺はそこまで言って、彼女の反応を待つ。
雪音は、うん、と小さい声で頷いてくれた。
俺は言葉を続ける。
「お前も住んでるとこ遠いから俺達と一緒に毎日練習とかできるわけじゃないし、なら」
結論を告げる。
「別々のチームで出ようぜ」
俺のその言葉に、雪音はちょっとの間沈黙する。
電話越しなので表情はわからないが、彼女は少し残念そうに。
『うん、そうだね』
と呟く。
『確かに、お兄ちゃんの言う通りだね』
同意してくれた。
完全に納得したわけではなさそうなその様子に胸が痛むが、俺は雪音にはむこうの仲間を大事にして欲しい。
俺らがむこうのチームに加入して、元からいたメンバーが試合に出られなくなったら彼らは残念がるだろう。それが原因で、雪音との関係に影を落とすことになるなんて絶対に避けたい。
だから俺は言う。
「楽しみにしてるぜ。お前がどんなチームを作ったのか。大会で会おうぜ」
『うん! 期待してて、すっごい強いチームだから! お兄ちゃんがウチを敵に回したことを後悔するぐらい!』
「あはは、そいつは楽しみだ」
俺は壁にかけてある時計を見る。
「もういい時間だし、今日はこのくらいにしとこうか」
『えー、もっとお兄ちゃんとお話してたいー』
雪音が楽しそうな声で駄々をこねる。
「だーめ、朝起きられないだろ?」
『はーい。んじゃおやすみね、お兄ちゃん』
「ああ、おやすみ」
通話を終え、携帯を机に置くと、俺は通学鞄を開く。
『こーへーさん、これからまたお勉強ですか?』
宿題はとっくに終わってるが、まだノートをまとめないとな。お前はもう寝てろ、良い子は寝る時間だ。
『はーい、私はサンタさんからプレゼントを貰えるくらい良い子なので寝まーす。そして将来の夢は自分もサンタクロースになって、私の自慢の編み物をみんなにプレゼントすることです。お母さんに褒めてもらった毛糸の靴下が自信作なんです』
そっか、と俺は頷く。
そして布団に入る彼女を見ていると微笑ましい気持ちになる。
将来はサンタクロースになりたいなんて、子供らしい可愛い夢だと思う。
現実にはサンタクロースなんて職業はないが、それでも彼女は将来人を喜ばせる仕事に就くのだろう。
わかってる。そんな未来なんて永遠に来ないことは。
俺は、現実を知っている。
そうして暫く机に向かっていると再び俺の電話が振動しだした。
ディスプレイに表示された相手の名前は、春火だった。
俺は通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「なんだよ。こんな時間に」
珍しい。そう思いながら言葉を吐き出す。
『こーちん! こーちん! こーちん! 今からそっちに行って貴様のフンドシ写真を撮ってやるから首を洗って待ってろい!』
春火は異常にハイだった。
「えっ、なにフンドシ写真って? 雪音からなにか吹き込まれたの? つか来んな、不法侵入でサツに突き出すぞ」
『例えポリ公を敵に回してもウチは構わねぇ! 可愛い妹からのお願いの方がそのパイ倍大事だ!』
円周率かよ! 約三倍だ。思ったより低いな。
『ウチはね。ずっと一人っ子だったから、ゆっきーみたいな可愛い妹が欲しいなって思ってたんだ! そのゆっきーが、お姉ちゃんお願い、って可愛い声でおねだりしてきたんだぞ! 刺し違えてでも使命を果たさなければならん!』
刺し違えるの? 誰と? 俺は嫌だぞ。
「ってか落ち着け。あいつの本性知ってるだろ? 実の兄も実の姉も呼び捨てにしてるだろ」
『それでも、ウチにとっては可愛い妹なんだぁー!』
春火が馬鹿テンションで叫ぶ。
これはクマった。