第十六話 クリーンナップ
五回表、野球部チームの攻撃。
この回彼らはベンチ前で円陣を組んでいた。
「どうも嫌な予感がしますね」
そう言って切り出したのはキャプテンの高原和希だ。
「嫌な予感って?」
日下がそう訊くと、和希は守備につくスプリングのメンバーを見渡しながら言葉を紡ぐ。
「今、あちらのチームは追い上げムードです。ここはこっちも追加点を上げて流れを完全に掴むべき場面です」
その言葉に、チームメイト達が一様に頷く。
しかし、と和希は言葉を続ける。
「先程の紫苑のホームランからこちらは一向に点がとれません」
「いい当たりは出てるんだけどね」
そう言って紫苑は苦笑を浮かべる。
三回に放った紫苑の本塁打、源の四球以降、野球部チームは完全に勢いをつけて積極的なバッティングで攻め続けた。
しかしそれは勢いだけで得点には至っていない。
甘いボールを見逃さず、早いカウントからガンガン打っているのだが何故かヒットにならない。
そういう時もある。運が悪かった等と今までは楽天的に考えていたが和希はそこに違和感を覚え始めた。
彼は告げる。
「ひょっとしたら今まで凡打が続いていたのも偶然ではなくあちらの捕手の計算なのかもしれません」
そう言って横目でキャッチャーズボックスにつく幸平を見る。
そして彼はチームメイトに視線を戻す。
「とりあえず三回四回の打席で打ち損じた球のことを一人づつ教えてください」
そう言って六番の西園から話を聞いていく。
七番鈴木、八番佐藤、九番鬼川原。一番の和希は出塁したがその後の日下がまた凡退。
全員に共通するのが打ったのはストレートだということ、甘いコースに来たので反射的に手を出したが結果は凡打になってしまったということだった。
情報を纏め終え、和希は難しい顔で腕を組む。
そして彼は言う。
「むこうのピッチャーの持ち球はストレートとチェンジアップの二つだけです。少なくとも今まで私達はそう認識していました。しかし恐らく彼らはまだ何か手札を隠している」
静佳・幸平のバッテリーは未知の球種を持っており、それを気付かれないように使うことで今までアウトを奪ってきたのではないかと和希は推測する。
「ならやることは一つだろ」
欠伸をしながらつまらなさそうに月城は言う。
「まずはその球の正体を暴く。それが今の最優先事項だ」
彼はバットを片手に持ってポンポンと背中を叩きながら円陣から外れる。
ゆるフワパーマの頭にヘルメットを被せながら打席に向けて足を進める。
そんな彼の姿を見て、和希は微笑を浮かべる。
「そうですね。期待してますよ月城」
「頼んだよ先輩」と紫苑も声援を送る。
この試合は七イニング制。
すでに後半戦と呼んでいい五回表。野球部チームの攻撃が始まる。
三番の日下が右打席に立ち、バットを構えると球審がプレイを宣告する。
彼はマウンドに立つ静佳に視線を集中する。
今まで味方のヤツラは浅いカウントから手を出して凡打になった。
なら自分はバットを振らずにしっかり球を見極めよう。
そう思いながら投球を待つ。
静佳が振りかぶって体を捻り、その左腕を振り抜く。
白球がホームベースに飛んで来るのを見て、月城は苦々しく口元を歪める。
ボールは幸平のミットに突き刺さる。
「ストライーック」
球審がそうコールする。
ど真ん中かよ。月城は内心で毒づく。
こんな風に甘いコースに投げられたのでは今までの打者が釣られてしまうのも無理はない。
しかも今の球を見た限り何の変哲もないストレートだった。
自分ならホームランにすることも出来ただろう。そう思うと非常に勿体無い。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
自分の仕事はあのピッチャーの手の内を探ること。ヒットを打つのは二の次だ。
そう思いを決め、次の球を待つ。
二球目、静佳がワインドアップから左腕を振り下ろす。
勢いのある直球がバッターボックスへと向かってくる。
ボールはホームベースを通過し、幸平のミットに収まる。
「ストライック、ツー」
今回も月城はバットを振らなかった。
しかし来た球は先程と同じ単なる直球。
コースも甘く、簡単に飛ばせそうな球だった。
なかなか切り札を使ってこないな。
まさか、と思い月城は後ろに座る幸平を見る。
俺が打つ気がないのがこいつに見抜かれてる?
視線に気付き、幸平が顔を上げる。
「どうしました先輩? そんなに熱い視線を送られたら恥ずかしいですよ」
そんな軽口を返される。
この男、表面上は惚けた風を装っているが人の心理を見抜くことに長けている。
月城はそう感じた。
ツーストライク。次が最後だ。
月城はタイムをとって打席の外に出る。
そして数回素振りをした後、打席に戻る。
今の素振りで打つ気があることをアピールした。さて、相手はどう出る?
ゲームが再開され、静佳が両腕を振りかぶる。
そして左足を軸に体を捻り、上げた右足を下ろすと共に左腕から白球を投げ放つ。
飛んできた球を見て月城は内心舌打ちをする。
またストレートか。
月城はバットを振ってその球に合わせる。
ファールチップがバックネットに飛ぶ。
球審が新しいボールを幸平に渡し、それが静佳の元に放られる。
次だ、と気持ちを切り替える。
このままストレートを投げ続けても自分はカットし続けられる自信がある。早く切り札を投げて来い。
四球目、さっきと同じワインドアップで静佳がボールを投げる。
どんな球が来てもカットする。そう意識しながら月城はスイングを開始した。
しかしボールは予想に反して、月城の元に届かない。
緩い軌道で膝元に落ちてくる。
チェンジアップか。月城は苦しげに口元を歪めた。
完全にタイミングを外されながらも月城は踏み止まり、飛んでくるボールにバットの先を当てる。
ボールはホームベース上でバウンドした後、幸平のミットに収まる。
幸平はボールを持ったミットで月城にタッチするも、審判はファールを宣告する。
危なかったと月城は息を吐く。
そして静佳に視線を向けながらバットを構える。
次は何の球種が来るんだ? たとえ何が来たって粘り続けてやる。
そう覚悟を決めた。
キャッチャーマスク越しに月城先輩の姿を見つめながら俺は思う。
この人は間違いなく感づいてる。静佳のあの球を引き出そうとしている。
今までの打者は特に意識もせずにバットを振ってくれたから気付かれずやり過ごせたけど、そろそろ隠し通すのも厳しいかもしれない。
五球目、俺は静佳にサインを送る。
それに彼女が頷くと、振りかぶって投球動作に入る。
体を捻り、全身のバネを使って左手を振り抜く。
そこから放たれた鋭い直球が低めに飛んでくる。
そのボールに月城先輩は僅か反応したがバットを出さず、白球は先輩の膝下を通過し俺のミットに収まった。
ボール、と球審がコールする。
手を出さないか。
なら次はストライクだ。静佳にボールを投げ返し、サインを送る。
彼女は頷き、振りかぶって白球を投げ放つ。
鋭い直球が内角高め、ストライクかボールか判断が難しいようなところに飛んでくる。
よし、いいコース。そう思ったのは一瞬だった。
俺の目の前でバットが一閃される。
快音が響き、ボールはレフト方向の空を舞う。
そしてポール横のフェンスの向こうに消えていく。
「ファール」
あ、危なかった。
マウンドの静佳も苦い顔をしている。
一塁に向けて走り出してた先輩が戻ってくる。
もう見るのは止めて普通に打ってくるつもりなのか?
それに静佳のストレートは既に見切られてる。あの球を温存するのも限界か。
月城先輩がバットを構え、打席が再開する。
俺は覚悟を決めてサインを出す。
あの球だ。
静佳がいつもと変わらぬポーカーフェイスで頷き、投球動作に入る。
そしてその左腕からストレートが投じられる。
鋭い直球が空気を切り裂きこちらに迫ってくる。
ボールはホームベースを通過し、俺のミットに突き刺さった。
先輩は、バットを振らなかった。
「三振、バッターアウト」
審判のそんなコールが響く中、先輩はバットを下ろし俺の方を見る。
「なるほどね、そっちのストレートか」
微笑を浮かべながら放たれたその言葉に俺の心臓が跳ねる。
見られた。バットを振ってくれれば気付かれずに済んだかもしれないのに。
月城先輩は自分の打席を犠牲に静佳の球の正体を暴いたんだ。
彼女のもう一つのストレートを。
打席を出た月城はベンチに向けて足を進める。
その途中、ネクストサークルから歩いてくる紫苑と目が合った。
紫苑は言う。
「どうだった?」
その問いに月城は瞼を閉じながら答える。
「ああ、何のことはねえ。さっきから俺らが詰まらされてた球。ありゃ多分ツーシームだ」
「ツーシーム」
その言葉を反芻しながら紫苑は頷く。
月城は続ける。
「今まで投げてた直球がフォーシーム、それに比べりゃツーシームはちょっと遅いかな。あと心持ち沈む」
簡単な説明を受けて紫苑は納得する。
ツーシームとはストレートの投げ方の一種だ。
今まで静佳が投げていたのはフォーシーム、ボールに綺麗なバックスピンをかけノビのある球にする投げ方だ。
ノビのある球は打者もバットに当てるのが難しい。
対してツーシームはボールに変化をつけ、バットに当たっても飛びにくい球になる。
一般的にストレートといえばフォーシームを投げる投手が多いので、ツーシームは珍しい部類に入る。
紫苑はニヤリと笑みを浮かべる。
「オッケー、正体がわかったんなら後は打つだけだね」
そう言って打席に足を向ける。
紫苑は左打席に立ち、ヘルメットを取ってお辞儀をする。
そしてヘルメットを被りなおすと静佳に視線を向ける。
彼はにこやかな顔で静佳に言葉を投げかける。
「こわーい先輩達がそろそろ追加点が欲しいって言ってるからさ。もう一本ホームラン打たせてもらえないかな?」
そう言われた静佳は瞼を閉じて、ふんと鼻を鳴らす。
「点が欲しければ力づくで奪うことですね。それが勝負の世界の掟です。もっとも」
そして瞳を開き紫苑に視線を突き刺しながら言い放つ。
「これ以上一点も渡しませんけどね」
その台詞を聞き、紫苑はニイイと口の端を吊り上げる。
そして楽しげに言葉を返す。
「いいね、僕好みだよ。そういう強気な子はさ――」
彼はバットを構えながら吐き出す。
「もっともっと苛めたくなっちゃう」
球審がプレイを宣告すると幸平がサインを出す。
静佳はそれに頷き、振りかぶって投球動作に入る。
右足を上げ、体を捻って左腕を振り抜く。
そこから放たれた白い光を、紫苑は注意深く目で追う。
速い球だ。一見してただのストレートに見える。
しかしその球が手元に来ると僅かに揺れて沈んだ。
紫苑が見送ったボールは幸平のミットに収まり、球審がストライクをコールする。
紫苑は誰にも気付かれないくらい小さく口の端を持ち上げた。
なるほど、今のがツーシームか。
そしてマウンドの静佳に目を向ける。
彼女の切り札は既に見切った。次は打たせてもらう。
静佳が幸平からの返球を受け取ると、再び投球動作に入る。
ワインドアップからの第二球、鋭い白い光が再び迫る。
もうツーシームの球筋は掴んだ。紫苑は迷いなくバットを振り抜く。
胸元に来たボールを弾き返す。その手に完璧な手応えが残った。
鋭い金属音と共にボールはライト方向の空に高く上がる。
そしてそれはファールゾーンのフェンスにぶち当たる。
うわー、惜しい等の声が野球部チームのベンチから漏れる。
一塁に走りかけた紫苑が打席に戻ってくると幸平が人当たりのいい笑みと共に口を開く。
「いやいや、ナーイスバッティング。まさかもう静佳のツーシームが見切られる思わなかったよ」
紫苑もそれに苦笑で返す。
「いやいや幸平君もナイスリードだよ。内角のボール球でわざとファールを打たせるなんてさ。思わず釣られちゃったよ」
幸平はクククと笑いを零す。
「恐いなあ紫苑君は、どうやったら討ち取れるのかまるでわからないや」
言いながら彼は球審から受け取ったボールを静佳に投げる。
紫苑も笑みを崩さず言葉を返す。
「いやいや、僕には幸平君の方がよっぽど恐いよ」
そしてバットを構え、静佳に向き直る。
カウントはノーボールツーストライク。紫苑に不利だ。
静佳は幸平のサインに頷いた後、投球動作に入る。
振りかぶって体を捻り、全身のバネを使って左腕を思いっきり振り抜く。
そしてそこから鋭い直球が放たれた。
紫苑は、にっと口の端を持ち上げる。
またストレートか、なら打てる――そう思った瞬間、ボールは紫苑の横を通過していた。
目にも留まらぬ速球が轟音と共に幸平のミットに突き刺さる。
紫苑は驚愕に目を見開いた。
速い。今の球は一体?
今まで既にツーストライク。そして今の球もやや高めだったとはいえストライクゾーンに入ってた気がする。
紫苑が驚きに思考を凍りつかせる中、球審が高らかにコールする。
「ボール」
その言葉を聞いて、紫苑の体が安堵から弛緩する。
た、助かった。
そしてマウンドの静佳に視線を移しながら思考を巡らす。今の、一際速かった直球について。
今のはフォーシームか。なるほど、直球の中にも緩急があるんだ。
いくらツーシームが隠し玉だったとはいえ、静佳にとっての最高球速はやはりフォーシーム。
ツーシームを打つつもりでいると、それより速いフォーシームには反応できない。
静佳がボールを受け取り、投球体勢に入る。
それを見ながら紫苑は口元を歪める。
次はどっちが来る? フォーシームか、ツーシームか。チェンジアップもあるぞ。
やばい、絞れない。
静佳の手から白球が放たれる。
それがホームベースに近づくまでに紫苑が出した結論は、四番のプライドを捨てるというものだった。
紫苑はバットを横に寝かせ、左手を添える。
その構えを見て、静佳は驚きの表情を浮かべる。
静佳の放った速球に対し、紫苑がバントの構えからバットを軽く当てる。
ボールはピッチャー、サード間に転がる。
すぐさま幸平の指示が飛び、静佳がボールを拾いに行く。
紫苑は打席を飛び出し一塁に向けて走る。
想定外のセーフティバントにスタートの遅れた静佳は、舌打ちとともにボールを拾って一塁に投げる。
鋭い送球が一塁に駆け込む紫苑の背中を後ろから追いかける。
そして彼が一塁キャンバスを駆け抜けると同時にボールは咲夜のミットに収まる。
一塁塁審が両手を広げる。
「セーフ」
おおお、と野球部ベンチが盛り上がった。
一塁を駆け抜けた紫苑が、安堵の表情と共にベースに戻ってくる。
それを見ながら静佳は苦い顔を浮かべていた。
幸平がタイムを取って彼女に近寄る。
彼は相変わらず余裕を感じさせる笑顔で告げた。
「やーれやれ、結構面白いことすんねアイツも」
そうして静佳の顔を見ながら、ニヤリと意地悪な表情を作る。
「前の打席はホームランを打った四番バッターが、今度はせけえセーフティバントだぜ?
アイツは静佳の球を打てないとわかって勝負から逃げたんだ。全くおもしれーヤツだよなあ」
その言葉に静佳は苦笑いを浮かべる。
相手に出塁を許したというのに笑っていられる相馬先輩の方が不思議な人です、とは言わないでおいた。
でも彼のお陰で動揺せずに済んだ。
劣勢のこの試合、いつもの自分だったらランナーの一人にも目くじらを立てていただろう。
幸平は言う。
「まっ、こんな小細工は次の五番六番にはできないからよ。お前の最っ強ーのストレートで封じ込めてやろうぜ」
言葉と共に、ニッと笑う。
静佳もつられて笑みが浮かんできた。
「そうですね」
口を開きながら静佳は一塁の紫苑を見る。
「もう二度とホームは踏ませません」
タイムが解かれ試合が再開する。
五番の源が右打席に立ち、バットを横に寝かせて構える。
バントの構え。それを見て幸平は静佳にサインを送る。
静佳はランナーの紫苑に視線を送りながらクイックモーションでボールを投じる。
ストライクゾーンに飛んできた直球に源はバットを当て、一塁線に転がした。
勢いを殺した上手いバントだ、そう感心しながら幸平は内野陣に指示を飛ばす。
「織編先輩、ファーストへ」
前進してきた一塁手の咲夜がボールを拾い、一塁に送球する。
ベースカバーに入った千夏がボールを受け取り、アウトが宣告される。
二死二塁。これでいい、と幸平は考える。
俊足の紫苑に足で揺さぶられるよりはバントさせてとっとと二塁へ進ませた方がいい。
幸平は二塁から離れリードを広げる紫苑を見つめ、思う。
ランナーは得点圏、二点ビハインドの後半戦。もうこれ以上点差を離されるわけにはいかない。
そう覚悟を決める。
六番の西園が右打席に入り、バットを構える。
その彼の目がマウンドの静佳に向けられる。
彼女もそれに鋭い視線を返す。
気合入ってるねえ。そんな静佳の顔を見て幸平は口元を緩める。
ピンチの場面でこそ闘志を燃やす。
こんなピッチャーだから幸平は惚れたのだ。
幸平はサインを送り、静佳はそれに頷く。
そして彼女はセットポジションから投球動作に入り、左腕を投げ抜く。
鋭い速球が空気を切り裂く。
そしてボールはホームベースへと迫る。
西園も躊躇わずバットを振り抜く。
二つの風圧のぶつかり合い、ホームベース上で竜巻が起こった。幸平はそんな風に感じた。
しかし自分の左手には静佳から投げられた白球が確かに握られている。
ストラーイックと球審が声高に宣言する。
よし、いける。ボールを受け止めながら幸平は思う。
静佳の速球のスピードはさらに乗ってる。
五回だというのにその威力は衰えるどころか増してるような気さえする。
この調子で西園の苦手な低目をついていけば抑えられる。
幸平は静佳にボールを投げ返すと、改めてサインを送る。
二球目、彼女が投球体勢に入りその左手から白い弾丸が投擲される。
鋭い閃光が西園の膝の高さを通過し、幸平のミットに突き刺さる。
バットを振ることすらできないその速球に、西園は言葉を失った。
「ストラック、ツー!」
追い込んだ。次で仕留める。
幸平は静佳にボールを返しながらそう心を決める。
三球目、セットから静佳は右足を上げ、体を捻る。
そしてその左腕から光速の砲弾が放たれる。
鋭いストレートがバッターに迫る。
スピードはあるがコースは若干高いか、幸平がそう考えていたところで西園のバットが振り抜かれた。
金属音が響き、ボールはセカンド方向に飛ぶ。
浅い当たりのライナーだが、ジャンプする千夏の頭上を越えるには十分だ。
外野に落ちたボールを前進守備をしていたライトの麻白が捕球する。
ここまでは幸平の計算内だ。ヒットを打たれても外野を前に出していたのでランナーはせいぜい三塁止まり。
「先輩」
麻白が全力のボールをホームへと投げ返す。
それを見ながら紫苑は三塁を回ったところで足を止める。
しかし外野からの返球を見て幸平は、げえっと表情を歪めた。
ボールは一塁側に大きく逸れる悪送球。
幸平は慌ててそれを拾いに行く。
チャンスとばかりに紫苑は再スタートを切る。
目指すは当然ホームベースだ。
左打席から数メートル離れたところで幸平がボールを拾って振り返る。
紫苑が猛ダッシュで突っ込んでくるのが彼の目にも映った。
だがタイミングは微妙だ。
「静佳!」
幸平はホームのカバーに入っていた静佳にボールを投げる。
「任せてください」
それを受け取った静佳は三塁方向へ振り向く。
紫苑は真っ直ぐそちらに向かってくる。
ホームの前に立ち塞がっている静佳を避ける気はない。
紫苑は野球が好きだ。
野球に対しては常に誠実でありたいと思っている。
だからたとえ相手が女の子でも手を抜くことは出来ない。
両腕を頭の前でクロスさせ、静佳に正面から突進する。
「静佳!」
紫苑の意図に気付き、幸平が声を上げる。
そして二人の体が衝突する。
一瞬の静寂。
幸平の位置からは静佳が完全に紫苑の体当たりを食らった様に見えた。
だが静佳の小柄な体は微動だにせず立ち続けている。
そんな中、静佳は紫苑にだけ聞こえる声で小さく呟く。
「残念でしたね」
紫苑が目を見開き、かはっ、と苦しげな息を吐き出す。
彼の突進は静佳には届いていなかった。
静佳は紫苑の腹部にめり込んだ自分の左腕を前に出し、その体を殴り飛ばす。
彼の体は仰向けに地面に叩きつけられた。
紫苑の突撃のスピードを利用したカウンターパンチ。
そして静佳は左手に握った白球を掲げる。
「アウトー!」
球審の宣告が空に木霊した。