第十三話 チームの為に
打席には二番打者の千夏が狐のヘルメットを被って構えているところだった。
そこで月城は、一塁からリードをとる翼に声をかける。
「なあ」
はい?と彼女の視線が向く。
「君らのチームのキャプテンって誰?」
その問いに翼は自慢げな顔でベンチを指差し答える。
「あそこに座ってる眼鏡の男の子がそうです。相馬キャプテンです」
そちらを見ながら月城は吐き出す。
「へえ、結構イケメンじゃん。それに相当頭いいでしょ? さっきのホームスチールを防いだ送球カットとか、源の立ち上がりを突く攻撃とか。俺らをよく研究してないとできないもん」
そうでしょそうでしょ、と翼は胸を張る。
実際には翼自身幸平のことを尊敬したことは一度もないのだが、チームメイトが褒められるのは純粋に嬉しくてつい得意げになってしまう。
「じゃあさ」月城は口を開く。「君達のその素晴らしいキャプテンのいいところを十個挙げてみて」
その言葉に翼は固まる。
「じゅ、十個ですか」
え、えーと、と彼女は両手の指を一つづつ折っていく。
「えーと、顔がカッコいいことと、いつも面白い冗談を言うことと、それからー」
虚空を見上げながら必死に頭を絞る。
そこに月城が助け舟を出す。
「選手の自己判断に寛容とかはどうよ? 野球ってのはチームスポーツだから確かに指揮官の指示に従うことは大事だよ。
でもそれだけじゃなくて、グラウンドに立った選手が自分で状況を判断して時には指示されてないプレイを実行して成功を収める。そういうのも同じくらい大事だと俺は思うわけよ」
なるほど、と翼は頷く。
「例えば、盗塁のサインが出てなくてもチャンスがあったら狙ってみるとかな。そこらへん君らのキャプテンはどうよ」
反射的に翼は答える。
「そ、それはもうウチのキャプテンは超優しいですよ。選手の自主性を尊重しまくりなのです」
言いながら翼はセットポジションで構える源の背中を見る。
源は右投手なので、一塁ランナーの動きは見えない。
そしてその肩がピクリと動いた。
今だ。翼は一気に二塁に向けてスタートを切った。
しかし源は一塁へと左足を踏み出し、牽制球を投げる。
ええ!と翼は驚きの顔を浮かべる。
ボールを受け取った月城は翼を追いながら、彼女の行く先に立つ紫苑に送球する。
紫苑がボールを受け取ると、翼は急ブレーキをかける。
しかしすぐ正面まで来ていた彼女に、紫苑はにっこりと笑って言う。
「残念でした。ところで前から刺されるのと後ろから刺されるのどっちが好き?」
えーっと、と表情を引き攣らせながら翼は言う。
「注射は嫌いです」
「好き嫌いは駄目だよ」
笑顔でそう返しながら紫苑は逃げようとする翼の肩にタッチした。
「こ、の、ア、ホー!」
牽制死してトボトボとベンチに戻ってきた速薙に、俺は前述の台詞を投げつけてやった。
彼女は、きゃーと怯えた様に頭を抱える。
俺は、はあっと溜息を吐く。
「なあ速薙、俺は盗塁しろなんてサインは出してないよな?」
は、はい。すいませんと彼女は項垂れる。
「なあ、お前は何の為に走るんだ?」
そ、それはと顔を上げる。
「点を獲るためです」
「そうだな。点を獲ること、ひいてはチームの勝利の為だな」
俺は頷く。
「つまりお前は、俺の作戦に従うより自分で勝手に走った方がチームの為になると考えてるわけか」
「そ、そういうわけでは」
焦った顔で彼女は弁解しようとする。
しかし俺は言う。
「いいんだ。お前に限らず、ウチのメンバーは俺のことを信頼してない奴ばかりだ。それは俺の力不足のせいだからな」
言って、視線を打席の方に向ける。
チナが何か球審にアピールしていた。
「何やってんだあいつは?」
ベンチにいた蜜柑が説明してくれる。
「どうも髪の毛にボールが掠ったみたいですよ」
はあ、セコイな相変わらず。
その為に髪を伸ばしてるのかと思ってしまう。
デッドボールを宣告され、チナが一塁に歩いていく。
入れ替わりに打席に立つのは犬のヘルメットを被った三番の高原。
彼女は左打席内でバットをライトスタンドに向ける。
あいつは。
「ホームラン予告、ですね」
蜜柑が表情を引き攣らせながらそう言う。
マウンドの源はそれを見て、苛立たしげな顔を見せる。
続けて高原妹はバットをピッチャーの方へ向け、言葉を吐き出す。
「待ち望んだよこの時を。私のバットでお前に引導を渡すこの瞬間をね」
源は静かな怒りを湛えながら、はん!と息を吐き出す。
「逆恨みもここまで来るといい加減ウゼーな」
源が高原妹を見つめ返す。
二人の視線が交錯する。その間では火花がぶつかり合ってるのだろう。
『凄い気合ですね柚希さん。これからこのお二人の真っ向勝負が見れるのでしょうか』
なんだかサンタクロースがワクワクしているみたいだが俺は雰囲気に流されずチームの為の作戦を考えなければならない。
源の調子は未だ悪い。ここは四球待ちを徹底した方がいいだろうな。
ヤツラの鉄壁の内野守備陣を考えれば下手に打てばゲッツーの危険性が高い。
ここはバットを振らず球数が増えるのを待とう。カウント次第では送りバントに切り替えて、ランナーを二塁に置いて水無月に繋ぐ。
俺は高原にバットを振るなとサインを送る。
そのサインを見て、彼女はこの世の終わりみたいな絶望的な顔をした。
そして俺の方を涙目で見つめてくる。
打ちたいよ、打たせてよ幸平君。そう言いたげだ。
そりゃまあ源と因縁の対決をしたいのはわかるが、野球はチームの戦いなのだ。
ピッチャー対バッターの個人的な対決ではなく、何人ものバッターの連携で点を獲るもの。
今のお前の役割は打つことではなく水無月の前に絶好のチャンスを作っておくことだ。
源がセットポジションで構えるとチナがリードを広げる。
源は一塁へと振り向いて牽制球を投げ、チナはベースに戻る。
一塁手からの返球を受け取った後も、彼は鬱陶しげな視線で一塁の方を見ている。
やっぱチナが気になるか。
源は改めてバッターの方を向き、セットから第一球を投げる。
ボールは高めに外れ、それを捕手の西園が受け止める。
盗塁警戒か。
二球目も同じく高めに外し、三球目は高原の胸元へのボールが外れてこれでスリーボールノーストライクとなる。
こりゃいけるな。ゲッツーの危険を冒さずに高原を一塁に進ませられる。
この後連続でストライクをとられてフルカウントになったとしてもランエンドヒットに切り替えれば進塁打になる可能性は高い。
高原柚希は打席の中で複雑な感情を持て余していた。
自分は今日の試合を楽しみにしていたのに。目の前の投手――源に一年前の借りを返し、真の決着をつけられると思っていたのに。
なのに勝負させてもらえないなんて。
ここまでのカウントはスリーボール。なるほど待球を指示した幸平の判断も間違ってないのはわかる。
けど、自分は打ちたい。自分はバッティングが好きなのに。試合の中で自分の打席が一番楽しみなのに。
だいたい幸平君は私の力を過小評価しすぎじゃない? 併殺を恐がってるのかもしれないけどストライクが来れば私は打てる――
そう思っていたところで源の投げた第四球、コースはストライクゾーンの、
(ど真ん中、もらった)
反射的にスイングを開始していた。
バットを振るなという指示をもらっていたとしても、甘い球が来れば反射的に食いついてしまうのはバッターの本能だ。
そしてその球は柚希のバットに当たる寸前で、沈んだ。
(カーブ!)
ボールはバットの下に当たり、速い打球が三遊間方向へ転がっていく。
柚希は慌てて一塁に走り出す。
やってしまった。けど当たりは悪くないはず。お願いだから内野を抜けてよ。そう思いながら。
「あいつめ」
打つなという指示を無視して、変化球を打ち損じた高原を見て、俺は歯噛みする。
しかしゴロ打ちになったとは言え打球は速い。これは内野を抜けるか? そう思ったところでショートの高原先輩がボールに追いついていた。
えっ、いくらなんでも早すぎねえ?
そう思ったのは一瞬だ。すぐに先輩は振り返って二塁へ送球する。
二塁ベースを踏みながら紫苑がボールを受け取り、チナはスライディングする暇すらなくアウト。
そして一塁に転送される。
高原が必死で走る先、一塁手の月城が後ろ足でベースを踏んだままボールを受け取る。
「アウト、スリーアウトチャンジ」
高原がベースを駆け抜けた後、一塁塁審が力強くそう宣告する。
また、俺の作戦が崩れた。
高原がしょんぼりした様子でベンチに帰ってくる。
そこで俺と視線が合う。
「幸平君、大好き」
すぐさま満面の笑みを浮かべてそう言って来た。
「もう幸平君、超カッコいい、超サイコー」
言いながら俺の胸をつっつく。
俺は言葉を返す。
「ああ、俺も大好きだよ柚希」
彼女は頬を赤らめながら俺の顔を見上げる。
「両想いだね」
「ああ、相思相愛だ。もう俺と柚希はツーと言えばカーって仲だな。言葉にしなくても以心伝心」
そう言ってやると柚希の表情が固まる。この話の流れはマズイと悟ったのだろう。
「なあ柚希。俺の大好きな柚希。俺はワンストライク入るまで打つなってサインを送ったと思ったんだけど。俺の愛のサインが伝わってなかったかな?
おかしいな。俺と柚希はもう心も体も繋がってる関係の筈なのに」
うっ、と笑顔を引き攣らせながら柚希は言葉を返す。
「で、でもさ。ど真ん中の甘い球だったし。やっぱり好球必打って大事だよね。今のはカズ君の守備範囲がやたら広かっただけで並のショートなら抜けててもおかしくなかった訳だし」
「並じゃない相手だからこそ慎重になるべきだったんだよ」
言って俺は、はあっと溜息を吐く。
そして彼女の目を改めて見据える。
「なあ柚希。お前はチームの勝利と自分が楽しむ野球。どっちが大事だ?」
そう告げると、彼女は目を見開き、言葉を失う。
厳しく叱っても仕方ない。俺は監督じゃない。
俺達は共に選手と選手、友達同士。片方が命令を聞いて当たり前の関係じゃない。
でも気付いて欲しいんだ。チームが勝つ為には、ひとりひとりが自分の判断でバラバラなことをやっていては駄目だということを。
二回表、野球部チームの攻撃は七番鈴木、八番佐藤、九番鬼川原を凡打に打ち取り、三者凡退に終わる。
そして二回裏、チーム・スプリングの攻撃。
ピンクのウサギ型ヘルメットを被った水無月が右打席に立ち、よろしくお願いしますと頭を下げる。
俺は三塁コーチボックスからその姿を見守る。
ピッチャーの源は握っていたロージンバックをマウンドに捨てると、投球体勢に入る。
振りかぶって第一球、ボールは水無月の膝元へ曲がり落ちる。
水無月はバットを振らずそれを見送る。
「ストライーック」
球審が拳を握り締めてコールする。
カーブか。しかも低めいっぱい。
二球目はストレートが高めに外れて、これでワンエンドワン。
そして三球目、再び緩いカーブが膝元に曲がり落ちてくる。
次の瞬間、水無月のバットが空気を切り裂いた。
金属音が響き、打球がレフト方向の空を舞う。
おおー、と味方のベンチが盛り上がった。
打球はそのままレフトの頭上を越え、フェンスへと近づいていきその向こう側に飛び込んだ。
それがポールの左側だったのは残念だが。
「ファール」
審判のその宣告に走り出していた水無月は打席に戻ってくる。
「いいぞ、白ちゃん。次こそホームランだ」
ベンチから春火が賑やかな声援を送る。
マウンド上の源は今の特大ファールを見て、表情を歪める。
そして第四球、再び膝元にカーブが迫る。
その球を水無月は見送る。
「ボール」
これでツーツー。
でかいの打たれた後、同じコースに同じ球種を今度はボールにして釣ろうとするとは冷静な組み立てだな。
おそらくは西園の配球なんだろうが。
次の球は外角低めにやや大きめに外れるストレート。
つか今の球はまさか。
六球目、さっきと同じようにストレートが外角に外れる。
「ボール、フォア」
フォアボールにより、水無月はバットを置いて一塁へ歩いていく。
「おーし、ナイスセン」
ベンチで春火が盛り上がるが、今のは明らかに。
「勝負を避けたよなあ、あれ」
マウンドでは源が不満そうな顔をしている。
水無月はさっきの一発で随分警戒されたみたいだ。
はっきりとした敬遠ではないが、ストライクに入るかどうかの厳しいコースを狙えというのが西園の指示なのだろう。
源のコントロールを考えれば四球になる可能性の方が高い、勝負を避けたも同然か。
ランナーなしで敬遠されたって事は、水無月は次の打席も同じようにされる可能性が高い。
となれば重要なのは水無月の後ろ。
五番の蜜柑が右打席に入る。
変化球キラーの彼女が、源の変化球を打ち砕けるかにかかってるな。
羊のヘルメットを被ってバットを構える。
源は一球牽制を挟んだ後、セットポジションから第一球を投げる。
ボールは沈むカーブ。それがホームベース前でワンバンしてボールワンとなる。
まだ奴は本調子じゃないか?
次にストレートが内角に決まってワンエンドワンとなる。
ストレートはともかく、変化球のコントロールに苦労している感じだな。
次の織編先輩は速球には強いが変化球はてんで苦手な不器用なバッターだ。
次を考えれば、源が変化球を投げるのを躊躇ってくれるよう仕向けたほうがいいか。
俺は蜜柑にサインを送る。
ボール球には手を出すな、と。
蜜柑は頷き、視線をピッチャーに戻す。
次の球は、外角低めに逃げていくスライダー。
蜜柑はそれも見送る。
ツーボールワンストライク。
四球目、オーバーハンドから放たれた球は蜜柑から遠いアウトコースへ曲がりながら逃げていく。
またスライダー。
そこに蜜柑のバットが伸びる。
って、おい。
快音が響き、ボールはファースト月城の頭上を越えて、ライト線ライン際に落ちる。
その球をライトの鬼川原が止め、ランナーは二塁一塁となる。
「っしゃあ、みーちゃんの必殺悪球打ちが飛び出したあ」と春火。
「ホント、あんな外の球によくバットが届くよね。ウチには無理だよ」と柚希。
いや、あの、ボール球には手を出すなってサイン送ったんだけど。
一塁ベースを踏む蜜柑を見ると、彼女と視線が合う。
すいません、と言いたげに手を上げて彼女は謝罪の意を見せる。
はあ、ヒットを打ったとはいえこれじゃ後ろが続かない。
次の織編先輩はこれで変化球攻めになるだろうな。
熊さんのヘルメットを被った織編先輩が右打席に入る。
頼むぜ先輩。
俺は送りバントのサインを出す。
先輩はサインに頷き、バットを横に寝かせる。
源はセットポジションで構え、左足を上げ体を捻り第一球を投じる。
ボールは低めに沈むカーブ、織編先輩はバントを試みるがボールには掠りもしない。
「ストラーイク」
審判が拳を握り締めてコールする。
相変わらずバントが苦手なんだなあの人。
まあ、いくらなんでも三球もチャンスがあれば当ててくれるだろう。
第二球、さっきと同じように低めにカーブが来る。
織編先輩はバットを出すが、ワンバンのカーブに再びバント空振り。
「咲夜ー、そんなボール球にバントなんてしてるんじゃないよー」
一塁コーチボックスからチナが野次を飛ばしている。
「そんなこと言ったってー」
織編先輩が困った顔をする。
俺も困っている。次はスリーバントか。
俺は再度サインを送る。
次はヒッティングで。当てるだけでいいからゴロ打ちで一塁方向を狙って、と。
織編先輩はそれに頷く。
源の手から放たれる第三球。
内角低めへのカーブを、呼び込んでから短く持ったバットに当てる。
本当に当ててだけのボテボテのゴロがグラウンドに転がる。三塁方向に。
おおーい。
サードの日下が突っ込んできてボールを拾い塁を見回す。
三塁に滑り込む水無月、二塁到達寸前の蜜柑。
仕方なく捕手からの指示を受けて日下は一塁へ送球する。
月城がボールを受け取り、ワンナウト。
はー、心臓に悪い。
しかしなんとか送りバントと同じ形になってくれたか。
これで一死二塁三塁。
よっしゃ次のバッターは誰だ?
「いえーい、ウチだー」
ネクストサークルで春火がアピールしていた。
そうか、お前だったな。
はあ。
俺はコーチボックスを出てベンチに帰る。
「ダブルプレーでスリーアウトチェンジか。さっ、みんな守備の準備しよーぜ」
「ちょおっと待てい。こーちんなんで防具の準備してる? まだこっちの攻撃は終わってないよ」
春火がベンチまで戻ってきて食いついてきた。
俺は言う。
「俺は未来が見えるのさ。お前はサードライナーでゲッツーになる。これは運命によって既に決まっていることなんだ」
その言葉に春火は反論する。
「いや、運命というのは人が自分の意思で切り開くものだ。そんな運命など私は信じない。私は自分のバットで運命を変えてみせる」
「なんだと、貴様運命に抗おうというのか? この併殺職人め」
春火が、うげ、という顔を見せる。
「そ、そのあだ名で呼ぶな眼鏡魔王」
「貴様の運の悪さは今までの付き合いでよくわかってる。お前がバットを振れば打球は必ず最悪の方向に飛んでお前がアウトになるだけでなくランナーまで巻き添えに死ぬんだ」
今は一死二三塁だから恐らくダブルプレーになるだろう。もし無死ならトリプルプレーになる。春火はそれくらい運がない。
俺は言ってやる。
「お前の運の悪さは日常生活でも既に証明されている。今年の正月に引いたおみくじになんて書いてあったか覚えているか?」
そう問うと彼女は堂々と胸を張って答える。
「覚えてない」
「そうか、俺も覚えてない」
春火は真剣な眼差しで俺の目を見つめてくる。
「隊長、ここは私に任せていただきたい」
「任せるだと」
そう、と彼女は頷く。
そして言う。
「私に託して欲しいのだ、スクイズを」
す、スクイズだと。
俺は優しい声音で言う。
「わかった、春火ちゃんももう子供じゃないんだね。じゃあお使いお願いね。
お店に着いたらおじさんにスクイズさせてくださいってお願いするのよ」
「うん、わかったよママ」
春火が目をキラキラに輝かせながら大きく頷いてくれる。
一塁コーチボックスを見るとチナが腹を抱えていた。
「あんたらが仲良しなのはわかったから。イチャイチャしてないで試合を続けなさい」
そうして春火は猿のヘルメットを頭に被ると打席に向けて歩き出した。
そんな幸平達の会話は当然野球部チームの内野陣にも聞こえていた。
春火が右打席に立つと、彼女は幼子のように純真な瞳を輝かせながら西園に向けて言う。
「おじちゃんおじちゃん、スクイズ一回やらせてください」
そんな金魚掬い一回やらせてくださいみたいに言われても、と西園は困る。
彼の短くない野球人生の中でもこうして直球でスクイズさせてなんてお願いされたのは初めてだ。
ワンナウト二三塁で、打力の劣る下位打線。
まあこの場面なら言われなくてもスクイズを警戒するところか。
春火はバントの構えでピッチャーの投球を待っている。
堂々とスクイズ狙いを宣言した以上、警戒されるのは当然。むこうもそれはわかってる。初球から仕掛けて来るとは思えないが。
西園は内野陣に前進守備のサインを送る。
そして投手に次の投球のサインを送る。
源は三塁走者の麻白を見つめながら、投球体勢に入る。
セットから彼の右腕が放ったボールは春火より遠く離れた左打席を通過し、立ち上がった西園のミットに納まる。
春火はバットを引き、ワンボール。ランナーも動いてない。
まずはスクイズ警戒のウェストボールで簡単にスクイズをやらせないというところを見せてやる。
二球目、源にサインを送る。
源が投げたのは再びストレート。それが左打席を通る。
春火はバットを引く。今回もランナーは動いていない。
二球連続のウェスト。これでツーボール。
西園が源にボールを投げ返し、源はそれを受け取るとセットで構える。
三球目、ストライクゾーンの真ん中近くボールが入ってくる。
春火がバットを引くと、その球は外へと滑り落ちていく。
スライダーでワンストライク。
ひゅーと春火は口笛を吹く。
「やっるー。いい変化球だね」
立ち上がりの悪かった源だが、コントロールも定まってきていよいよ本領発揮だった。
打つ気は無さそうだな。
これまでの春火の様子を見て西園はそう判断する。
そしてピッチャーにサインを送る。
四球目、相も変わらずバントの構えをしている春火に、源が体を捻り白球を投じる。
ボールはど真ん中、ストレートが飛んでくる。
それを見て、春火はバットを引いてヒッティングに構え直した。
バスターだと!
西園はヒヤリとする。てっきり打つ気がないと思ってカウントを取る為にど真ん中に要求してしまった。これを打たれたら。
春火のバットが振り抜かれる。空気を切り裂く鋭い音。
そして西園のミットにボールが入ってくる。
「ストラック、ツー」
大空振りをした春火に、球審がそうコールする。
そうだった。こいつはバッティングが駄目なただの守備職人だった。バスターなんて高等技術をやってもまともにバットに当たるわけもない。
「やるやないか自分。このワイが掠りもしないとはいいストレートや。こんな球を投げられるピッチャーは日本中探しても六十億人くらいしかおらんで」
春火がエセ関西弁で源に賞賛の言葉を送っているのを聞き流しながら西園は考える。
これでツーエンドツー。
結局スクイズはしなかったな。次にやろうとすればスリーバントになる。まさかやるわけが。
そこまで考えて西園は、待てよと思い直す。
だからこそ警戒心の薄れたこのタイミングで仕掛けてくるんじゃないか?
最初の三球は明らかな見送り。四球目は当たるはずのないバスター。
チャンスの場面なのに、明らかにスクイズもヒッティングもやる気がない。
いや、この場面でこんな消極的なのはおかしい。次こそ何かを仕掛けてくるんじゃないか?
右打席に立つ春火を見る。相変わらずバントの構えをしている。
今の完全に振り遅れたバスターを見る限り、この構えからヒッティングに切り替えても絶対打てない。なら今度こそスクイズじゃないか?
西園はチラリと一塁を見る。
塁は空いてる。四球になったとしてもリスクは少ない。むしろ守りやすくなる。
西園がサインを送り、それを見た源が頷くと投球体勢に入る。
五球目、源の右手からボールが放たれる。
ストレートが外に大きく外れる。それを西園は立ち上がって受け止める。
春火はバットを引き、ランナーも動かない。
仕掛けてこなかった。追い込まれてるにもかかわらず。
これでフルカウント。
西園は改めて考えを纏める。
考えるべき可能性はたったの二つ。スクイズを仕掛けてくるか、こないか。
春火はまたもバントの構えを見せる。
スクイズを仕掛けてくるなら、ストライクを投げれば一点を獲られるだろう。しかしボールに外せばランナーを殺せる。
仕掛けてこなかったとすれば?
ストライクを投げれば、春火の腕じゃバントからヒッティングに構え直してもまずまともに打てない。
つまりヒッティングはほぼない。
そしてツーストライクなのだから、ヒッティングもスクイズも何も仕掛けてこないのはもっとありえない。
ありえない筈なのに、さっきは何も仕掛けてこなかった。
ちっ、思った以上に深読みさせられている。
相馬幸平という男は道化を振舞ってはいるが実はとんでもない策士かもしれない。
打席に入る前の春火との小芝居もちゃんと意味があった。
あれのお陰で彼女は自然な流れでバントの構えのまま投手の投球を待てる。
普通スクイズをやるなら、何球目で仕掛けるのか相手に悟らせない為にヒッティングの構えからピッチャーが投げた後でバントに切り替えるものだ。
あえて最初からバントの構えをしているのなら、その場合のメリットは二つある。
一つはスクイズだと思わせてヒッティングに切り替えて打ち相手守備の意表を突くこと。
もう一つはバント失敗の確率を下げる為。
前者はない。春火の打撃能力ではバスターなどという芸当は出来ないのはすでに明らかだ。
ならばやはり狙いは後者。スクイズを狙っていることはほぼ間違いない。
はあ、もういっか。
どうせ一塁は空いているのだ。四球でも構いはしない。
西園はサインを送る。
源は頷いて六球目を投げる。
ボールは外側に大きく外れるウェストボール。
春火はバットを引いてそれを見送った。
「ボール。フォアボール」
球審の宣告を受けて、春火は一塁に歩いていく。
「臆したか貴様。この私との勝負を避けたのか」
源に向けて減らず口を叩きながら。
あいつは常に喋り続けていないと死んでしまう病気か何かなのだろうか、と西園は呆れる。
「そーそ、西園の性格ならここは疑いに疑った末、安全に満塁策を選ぶよな」
ネクストサークルでそう呟きながら俺は立ち上がる。
『こーへーさん、頑張ってください』
ああ。まっ、行って来るよ。
ワンナウト満塁。さて、主人公の見せ場だぜ。
狸のヘルメットを被り、俺は右打席に入る。
そして源の方へバットを向ける。
「さっ、どっからでもかかってきな」