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第十話 ORANGE(中編)

 それが私達の新しい遊びの始まりだった。

 何日か置きに、彼女の警戒心が緩んだ時を狙ってノートや教科書などを盗んでは寄せ書きをして返す。

 私は特に柚希さんと仲が良かったから、体育の着替えのときなどに彼女を早めに教室から連れ出す役だった。

 寄せ書きを読んだ後の柚希さんは面白いくらい周りの目に過敏になっている様子だった。

 ある日のことだ、休み時間の終わりに私が教室に戻ってくると柚希さんが自分の机に突っ伏していた。

 寝ているのかなと思って近くを通り過ぎようとする。

 そこで彼女は呟いた。

「蜜柑」

 突っ伏しながらも私のことは見えていたらしい。

 私は、なに?と返事をする。

 彼女は顔を上げる。疲れきったような表情だった。

「蜜柑は、私のこと嫌い?」

 どきりとした。あのノートに寄せ書きをしたのが私だとバレたのかと思った。

 だがそれは違うようだった。

 彼女は呟く。

「私ね、小さい頃からお兄ちゃんとその友達と、男の子ばかりと一緒に遊んでたから。女の子のコミュニティの中では常識知らずみたいで。

 なんていうかね、私が普通なつもりでやってることでも他の女子の目線から見ると悪く見えちゃうことが多いらしいの」

 だから最近友達になったばかりの私の視線が気になったというわけか。

 柚希さんの弱りきった姿を見て、私はなんとなく複雑な気持ちになった。

 私はどうしてこの子を苛めることをあんなに楽しんでいたんだろう?

 それはきっと柚希さんがいつも明るくて元気で悩みなんてなさそうだったから。

 そんな彼女に嫌がらせをして困ったところを見たくて。

 でも、彼女がここまで落ち込む姿なんて想像できなくて。

 そんな彼女に、慰めのつもりなのか私は声をかけていた。

「そういうことなら私もちょっと見てて嫌だなってところはあるよ」

「ホント!」

 彼女が驚きと怯えの混じったような目を私に向ける。

 私はそれに頷きを返す。

「うん、たとえば柚希さんよく男子の腕に抱きついたりとか、好きとか軽々しく言うじゃん。そういうの女子から見たらあんまり気分のいいものじゃないよ」

 そう言ってあげると、彼女は反省したように視線を落としながら言葉を返す。

「そ、そっか。うん、気をつけるよ」

 あ、あとそれからと私は前から気になっていた彼女の悪いところ挙げていく。

 彼女は真剣な顔で私からの指摘の一つ一つに頷く。

 不思議な気持ちだった。

 私は彼女の友達なのだから不満があればもっと気軽に言えばよかったんだ。

 柚希さんはそれを反発せず受け入れてくれるじゃないか。

 こんな簡単なことだったんだ。



「そろそろノートに落書きするってだけのは飽きてこない?」

 人気の無い空き教室にいつものいじめっ子メンバーが集まったところで、その中の一人がそう切り出した。

 他のメンバーがそれに言葉を返す。

「じゃあどうすんの?」

「そーねー、体操服に寄せ書きとかどーよ?」

「うわー、うけるー。落書きされまくった体操服着て授業受けるわけだー」

「いや、そうなったら普通に見学でしょ。体操着忘れたとかなんとか言って」

「じゃあそこで蜜柑が、柚希さん体操服あるじゃないですかーって指摘するわけよ」

「いいねー」

 いつもの調子でみんなが盛り上がっている中、私は勇気を振り絞って口を挟む。

「あの」

 その一言で他の三人の視線が私に集まる。

 その目は、私にも柚希さんへの新しい嫌がらせ手法の案を期待している目だが私が言おうとしているのはその真逆のことだった。

「もうこういうの終わりにしない?」

 私のその言葉に三人が訝しげな目をしているのがわかる。

 なんで?とその目が言っている。

 私は言う。

「ほら、先生とかにチクられると面倒だし。最近あの子もガード固いからなかなかノートとかパクれないし」

 柚希さんが可哀想だからという正直な理由は言えなかった。

「蜜柑ってさー」

 友達の一人が口を開く。

「柚希の味方なわけ」

 冷めた表情でそう問われ、私はドキリとした。

 それを肯定すれば今度は私がハブられることを本能的に理解していたから。

 怪しまれている。

 私の本音が見抜かれかけている。

 私は苦笑を浮かべながら言葉を返す。

「まさか、そんなことないよ。だって私あの子のこと大嫌いだもん。和樹先輩と野球したいから仕方なく仲良くしてやってるだけで」

 言ってて胸が痛んだ。

 私の言葉を聞いて、その友達も笑う。

「だよねー、あいつムカつくっしょ。和希先輩にもやたらと馴れ馴れしいもんね」

 そうそうと私は頷く。

 結局この日は柚希さんの悪口で盛り上がりこそしたものの、新たな嫌がらせの方法に関しての意見は出なかった。

 一応この苛めを終わらせるために前進したのだと信じたい。



 それは何の因果だったのだろう。

 学期末が近づいた全校清掃の日。

 私と柚希さんと彼女を苛めていた三人組は工作室の掃除を割り当てられた。

 メンバーはこの五人きっかり、こんな偶然があるだろうか。

 柚希さんを除く私達四人は普段クラスでも仲良しグループとなっているが、柚希さんの方は私以外の三人とあまり話したことはない。

 当然、今までの嫌がらせの犯人が彼女らだとも知らない。

 それでも柚希さんはあまり知らないメンバーにも積極的に話しかけて仲良く掃除をしようと努めた。

 それに対する彼女達の反応は冷ややかだった。

 ああとかうんとか何を言われても生返事のような言葉しか返さず、柚希さんを除け者にして私を含めた四人のお喋りで盛り上がっている。

 それが意図的なものだとわかっているから私も柚希さんに助け舟を出すようなことはできなかった。

 それをすれば柚希さんより付き合いの長い友人三人を敵に回してしまう。

 柚希さん以外のメンバーがお喋りに盛り上がっているとき、それは起きた。

「えー、マジでー?」

「で、その後どうなったの中西君と」

「やだー、それ訊くー? 恥ずかしいじゃん」

「教えなってー」

 友達の一人が他の子の肩を強めに叩いた。

 それ自体は会話がヒートアップした末の悪ふざけの一環だったのだろうが、突き飛ばされた相手はバランスを崩し後ろによろける。

 そして持っていた箒の柄が後ろの棚の上にあった花瓶を横薙ぎに叩いた。

 次の瞬間、花瓶はグラリと揺れ棚から落ちる。

 大きな音とともに陶器はいくつのもの破片に別れ、中に入っていた花と水が床に広がる。

 突然の出来事に、五人とも言葉を失った。

 しかしそれも長くは続かなかった、何の音だ!と驚いた声と共に男性教諭が教室のドアを開ける。

 そして床に散らばる花瓶の残骸を見た。

 即座に花瓶を倒した彼女が口を開く。

「すいません先生、柚希ちゃんが花瓶を割っちゃって」

 え?と驚いた顔を柚希さんが見せる。気持ちは私も同じだった。

「大丈夫か柚希、怪我は無いか」

 先生はすぐに心配そうな顔で彼女に言葉をかける。

 対する柚希さんは戸惑いながら言葉を返す。

「ち、違います。私じゃなくて」

 言いかけた彼女の言葉を、花瓶を倒した子以外の二人が遮る。

「大丈夫柚希ちゃん? ちゃんと周りに注意しないと駄目だよー」

「そーそー、お喋りに夢中になるのもいいけどさー」

 なっ、と柚希さんが表情を歪める。

 状況の悪さを悟ったのだろう目を潤ませながら彼女は反論する。

「違うよ。私じゃなくて花瓶を倒したのその子でしょ! その前に突き飛ばしたのはアンタ」

 彼女達の言い争いが始まる。

 一対三の罪の擦り付けあい。

 先生はそれを見て困惑した顔を私の方へ向けてくる。

 そうだった。この場には私もいたんだ。

 他人事ではない。どちらの言い分が正しいのか私にも証言する権利、いや義務がある。

 それは単純な推理パズルのようなものだと思った。

 各人の証言の矛盾を突き、嘘を言っている一人が犯人だと見抜くゲーム。

 そう普通の推理ゲームなら犯人は一人。共犯が居たとしてもそれほど大人数にはなりはしない。

 一対多なら普通は多が正しくて、一が嘘を言っているのだ。大半の人はそう考える。

 だがもし私が柚希さんを擁護し、真犯人を告げれば多対多となり戦力は拮抗する。

 正直言ってこんな選択肢を提示されても選びたくなかった。

 どちらも私の友人だ。しかしかたや苛めっ子、かたや苛められっ子。その溝は永遠に埋まることはない。

 柚希さんが私の方へ凄い剣幕で言葉を向けてくる。

「ねえ蜜柑。蜜柑も見てたでしょ。花瓶を倒したのは私じゃないって」

 顔を真っ赤にして、涙目で。その必死さがかえってこの子の方がやましい部分があるように見える。

 一方、花瓶を落とした方の子もは涼しげな様子で私に言葉を向ける。

「蜜柑、この子ウザイんだけど。自分が怒られるの嫌だからって人に責任の押し付けてくんの。アンタからもなんか言ってやってよ」

 その余裕のある態度はとても嘘をついているようには見えない。

 悩む時間はそう長く与えてもらえなかった。

 ただ、ひとつ。苛められっ子の味方をしたら私も苛められっ子の仲間入りになることだけはわかっていた。

 私はゆっくりと吐き出す。

「柚希さんが、割りました」

 先生の目をまっすぐ見て告げる。いやそれは柚希さんから目を逸らしたかっただけかもしれない。

「み、蜜柑?」

 柚希さんが、信じられないといった声を出すのがわかった。

 その後先生の柚希さんへのお説教が始まる。

 誰だってうっかり物を壊してしまうことはある。先生だってそうだ。お前が素直に謝ってくれれば先生だって怒ったりしない。だが友達に罪を押し付けようなんて態度はいけない云々かんぬん。



 その日、帰るまで私と柚希さんは口を利かなった。

 私から話しかけることは恐くてできなかったし、むこうも消沈した様子でクラスの誰とも言葉を交わさなかった。もともと同性の友達が少ない子だというのもある。

 放課後、私はいつものグラウンドへまた野球に混ぜてもらいに行った。

 柚希さんと顔を合わせるかもしれないという杞憂はあったが、それを理由に和希先輩と会える貴重な機会を失うわけにはいかない。

 学校での様子を見る限りあちらから何か問い詰めてくることはなさそうだし、周りの男子達は喧嘩でもしたのかな?くらいにしか思わないだろう。

 しかしグラウンドに着いた私は肩透かしを食らった。

 グラウンドのどこをみても彼女の姿は見当たらなかったからだ。

「蜜柑さん」

 和希さんが私の姿を見て駆け寄ってくる。

 彼は言う。

「よかった聞きたい事があったんです」

 胸騒ぎがした。カッコいい先輩と話せることへの胸の高鳴りとは違う。

 柚希さん絡みの事かと直感した。だが私もこの場に彼女が居ない理由に関しては聞きたかったところだ。

 和希先輩は話を切り出す。

「実は柚希のことなんですが、学校から帰ってきてからずっと落ち込んだ様子で。野球にも行かないと言って部屋に篭ったきりで。

 学校で何かあったんでしょうか。蜜柑さんは何かご存知ないですか?」

 その話を聞いて、違和感を覚える。

 私は訊く。

「あの、和樹先輩は柚希さんと一緒に住んでるんですか?」

 なんというか今の話はそういう前提に基づくようにしか聞こえなかった。

 彼は当たり前のような顔をして答える。

「ええ、柚希とは兄妹ですから。言ってませんでしたっけ?」

 一瞬、頭の中が空っぽになった。

 まったくの初耳だ。

 じゃあ、今まで柚希さんが彼に馴れ馴れしかったのは兄妹だったから?

 いや、だからと言って他の男子にもやたらべたべたしてたことへの免罪符にはならないが、それでも。

 和希先輩絡みのことで今まで彼女に嫉妬していた私は、その、なんていうか、恥ずかしい。

 すごい、恥ずかしい。

 普段あまり意識しなかった柚希さんの苗字を思い出してみる。

 同じだった。和樹先輩の苗字と。

「すいません。ここで野球をしているメンバーは皆知ってるとばかり、ご存知なかったのなら申し訳ない」

 こんな小さなことでも一々真摯に謝る和希さんはやっぱり素敵だなという場違いな考えはすぐに頭から追い払う。

 今考えなければいけないのは柚希さんのことだ。

 彼女は想像以上に落ち込んでいる。励ましてあげられないだろうか。

 そう思ってすぐに私にはそんな資格も力も無いことを思い出す。

 私は彼女と他の友達を天秤にかけて、他の友達をとったのだ。

 彼女を慰めに行くには、少なくともあの苛めっ子仲間達から離れて柚希さん側につく覚悟がなければいけない。

 和希さんは口を開く。

「それで話を戻しますが、蜜柑さんは柚希が落ち込んでる原因に何か心当たりはありませんか?」

 その問いに私はなんと答えるか迷った末に、

「その、掃除の時間にちょっとトラブルがあって」

 そう言って言葉を濁した。

 詳しくは話したくないという意思を和希さんは読み取ってくれたようでそれ以上は聞かないでくれた。

 代わりに彼は言う。

「私では柚希の力になれないのかもしれません。女の子同士でしかわからないこともありますから。

 昔からあの子は私や他の男子と一緒にスポーツばかりやってたせいか女の子の友達ができ難いみたいで。だから蜜柑さんが一緒に野球してくれるようになったときはすごい喜んでたんですよ。

 やっぱりあの子も同性の友達が欲しかったんでしょうね」

 そこで和希先輩は言葉を区切り、優しげな眼差しをこちらに向ける。

「蜜柑さん、これからもあの子と仲良くしてあげてください」

 その言葉に私の罪悪感が悲鳴を上げた。

 ごめんなさい。柚希さんが落ち込んでる原因は私なんです。

 柚希さんはいい人だ。ときどき見てて不快なところはあるけどそれを言ったらちゃんと改善する努力を見せてくれた。

 私が今野球ができるのも彼女のお陰ではないだろうか?

 初心者である私がチームに入ることを歓迎してくれて丁寧に教えてくれた。

 もし彼女が居なかったら、男の子ばかりのチームに私は入っていけただろうか?

 和希先輩は優しい笑みを浮かべて言う。

「さあ今日も試合です。蜜柑さん、まずは一緒にキャッチボールでもいかがです?」

 キャッチボールか。

 今の私には、たとえ相手が和希先輩であっても野球をする気にはなれなかった。

「和希先輩」

 だから私は言う。

「これから先輩の家に行ってもいいですか?」



 和樹先輩の家に上がり、柚希さんの部屋の前まで案内されたところで彼にはグラウンドに戻ってもらうよう告げた。

 私の為に和希先輩まで試合に出れなくなったら申し訳ないし、これからする話を彼に聞かれたくないというのもあった。

 すーっと深呼吸をした後、扉をノックする。

「柚希さん。私、蜜柑です」

 ドキドキしながら返事を待つ。

 返事が無かったら部屋に入って彼女がいるか確かめるところだったが、幸いにもすぐに言葉が返ってきた。

「何しに来たの?」

 弱々しい声だった。

 私は扉に手を当てる。それを開ける勇気はなかった。彼女も私と顔を合わせるのは恐いだろうと思って扉越しに言葉を投げかける。

「今日は本当にごめんね。私、懺悔しに来たの」

 彼女からの返事は無い。私は構わず言葉を続ける。

「今日のことだけじゃない。今まで柚希さんのノートに落書きしたりしたことが何度かあったよね。あれ、全部私と今日一緒に掃除した子達が犯人なの」

 彼女が息を呑むのが気配でわかった。今ので本格的に嫌われたかもしれない。

「正直言うとね、わたし柚希さんのこと見ててときどきムカついてた。

 私は和希先輩のことが好きだから。和希先輩にベタベタ抱きついたりしてる女の子とか見ると流石に、ね。

 実は妹だったなんて知らなかったし」

 扉のむこうから弱々しい声が返ってくる。

「そんな理由で」

 泣きそうな声だった。いや、泣いてるのかもしれない。

 私は懺悔を続ける。

「私と同じように柚希さんに不満を持ってる友達がいた。彼女達と柚希さんの悪口で盛り上がってる内に、私の中でどんどん柚希さんが悪者になっていって、ああいう陰湿なことをするのにも抵抗がなくなっていった」

 気付けば、私も涙声になっていた。

「私はね、こんな心の弱い自分が許せない。長いものに巻かれて敵を作ることを恐れて、周りに同調してどんどん柚希さんのイメージを悪くしていた」

 陰口なんて叩けばどんどん相手への悪感情を増幅させていくだけだ。それにより相手の本来の人格を見失い、柚希さんは悪者だからこんな風に嫌がらせされても仕方ないと自分を正当化していた。

 自分と同じ気持ちを持つ友達が沢山いたから自分は正しいのだと思い込んでいた。

 一対多は多が必ず正しいのか? そんなはずは無い。

 私は続ける。

「でもそんなことたいした問題じゃなかった。柚希さんは私が注意したらすぐそれを直そうとしてくれた。こんな簡単に解決する話だったのに

 私、柚希さんに野球を教えてもらった恩も忘れて、最低だよね。本当にごめん」

 扉のむこうから言葉が返ってくる。

「そんなの、蜜柑に野球やらせたのは私の我が儘じゃん。そんなの恩の内に入らないよ」

 私は首を振る。

「違う、私はあの時強引にでも野球に誘ってもらえて本当に良かったと思ってる。

 野球は楽しいし、野球を通じて柚希さんや和希先輩と親しくなれたのも嬉しかった。

 信じてもらえないかもしれないけど、私は柚希さんと仲直りしたくてここに来たの」

 私は鼻をすする。

「今日もね、和希先輩と野球がしたくてグラウンドに行ったの。でもできなかった。柚希さんのことを放っておいて野球なんてできなかった。私が今野球ができるのは柚希さんのお陰だったから。柚希さんは私にとって大切な恩人だから」

 言いたいことを全て言い終え、静寂が戻る。

 ドアの向こうから、返事が返ってくる。

「ごめん蜜柑、ちょっと一人にして」



 結局柚希さんとは顔を合わせられないまま、私は高原家の門を出た。

 私の言葉は彼女に届いただろうか?

 いや、きっと無理だ。私は自分の都合しか話さなかった。

 一方的に苛められていた彼女にとって犯人の動機を聞いたからといって犯人を許せるはずも無い。



 その夜、普段私が寝た後に帰ってくる筈の母親がやけに早く帰宅した。

 平日は滅多に顔を合わせることの無い親子の再会の挨拶は、私の頬を平手で打つというものだった。

「今日先生から電話があったわ! アンタ最近ちょくちょく塾サボってたんだって?」

 母は怒気を滲ませた声を私にぶつけてくる。

「アンタどういうつもりよ! こっちはね、アンタの為を思って高いお金払って塾に通わせてやってんのよ。それを!」

「ごめん、なさい」

 母の剣幕にただただ私は涙を零しながら謝るだけだった。

「どういうつもりかって訊いてんの! 塾サボって何やってたの?」

 野球をやってた。

「友達と、野球をしてました」

 正直に答えたらまた平手で打たれた。

 私は、そんなに悪いことをしただろうか?

 放課後に友達と遊ぶこともしてはいけないのだろうか。

 そのとき、インターホンが鳴った。

 母が平静を取り戻す。

 思えば私は玄関から入ってすぐの廊下で叱られていた。母の怒鳴り声は外にいた人にも聞こえただろう。

 母が玄関に向かおうとしたとき、勝手に扉が開いた。

「蜜柑を叱らないでください」

 そこに居たのは柚希さんだった。

 なんで、彼女がここに?

「誰、あなた? 蜜柑のお友達かしら?」

 母の問いに、柚希さんは毅然とした表情で答える。

「はい、蜜柑は私が強引に誘って野球をやらせてたんです。塾があるって言ってても私が無理矢理引き止めたんです。蜜柑は悪くないんです。怒るなら私に怒ってください」

 母は毒気を抜かれたような顔をして私の方を見る。

「そうなの? 蜜柑」

 なるほど、この場は柚希さんを悪者にすれば丸く収まりそうだ。

 私はこれ以上叱られないだろうし、母だって他所の子には厳しくできない。

 けど、本当にそれでいいのだろうか?

 私は。

 私はもう、本当に大事なものを間違えたくない。

「違う」

 私は言う。

「柚希さんは塾のことなんて知らなかった。私が塾をサボったのは自分の意思。私は柚希さん達と野球する時間が楽しかったから塾をサボったの!」

 母の目を見て、まっすぐ告げる。

「私もう塾なんて行きたくない! もっと放課後みんなと遊べる時間が欲しい。柚希さん達と野球がやりたい」

 そう告げるとまた平手で頬を(はた)かれた。

 交渉決裂。そんな言葉が私の脳裏をよぎった。

 すぐさま私は柚希さんの腕を掴んで玄関から逃げ出す。靴を履く時間も惜しかったので(のち)に足の裏の痛みに苦しむことになる。

「待ちなさい蜜柑」

 母が追ってきたが、エレベーターにタイミングよく乗れた事で彼女の追跡を振り切ることができた。



「ありがとう、柚希さん。庇ってくれて」

 家を出た後、私がどこへ行くかまでは流石の母も予測がつかないだろう。

 人気の無い夜道を、私は柚希さんとゆっくりと歩いていた。

「えーっと、いいの蜜柑? お母さんあんなに怒らせちゃって」

 彼女が頬をかく。その件に関しては彼女の心遣いを無駄にしてしまったところところでもある。

 だが私に迷いは無かった。

「いいの。なんでお母さんのご機嫌とらなきゃいけないの? 野球なんかしないで塾にちゃんと行って、そうすれば怒りを鎮めてくれるかもしれない。けど私はそんなのヤダ」

 柚希さんの目をまっすぐ見る。

「私は、柚希さんと野球をやりたい。どんなに敵を作ろうが、周りに逆らおうが、百人が私のことを間違ってると言おうが私は自分のやりたいことを貫く」

 蜜柑、と彼女は呟く。

 そして私に抱きつく。

「蜜柑、ごめんね」

「なんで柚希さんが謝るの?」

「だって私、蜜柑に塾があるなんて知らなかったから。私が誘ったせいだと思って」

 彼女は涙声になっていた。

 私はそんな彼女の体を抱きしめながら、言葉を返す。

「違うって、柚希さんのせいじゃない。私だって断ることはできたんだから。これは私の責任」

 言って彼女の抱擁を解き、正面から向かい合う。

「とりあえず、今夜は柚希さんの家に泊めてもらっていい?」

 そう問われて柚希さんは目を丸くする。

 しかしすぐにその顔に笑みを宿す。

「あはは、いいよ。おっけーおっけー。いやー、しかし蜜柑も大胆だね。カズ君と一つ屋根の下で一夜を明かしたいなんて」

「ちょっとー、そういう意地悪言うー? せっかく意識しないようにしてたのにー」

 後日、私が塾をやめて野球をやりたいと言ったらお父さんは大賛成してバットやグローブを用意してお母さんを説得してくれた。

 塾と習い事は週二日に減り、友達と野球をする時間も増えた。

 その後、私は中学に上がる。

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