第九話 ORANGE(前編)
自分は昔から運が悪い方だと思う。
だからジャンケンだって苦手だ。
今後半年間の自分の運命を決める勝負を前にして、私はそんな風に不安を感じていた。
数人でジャンケンをして勝った者から次々に抜けていく中、私は負け組に残り続け、とうとう残り四人になってしまった。
少しづつ不安は大きくなっていく。始める前は、こんな大人数の中からたった一人の敗者になるわけないと多少楽観していた部分もあった。
嫌な予感を感じながら次の手を繰り出す。私の手はパー、他の三人はチョキ。
勝負が決着した瞬間、私は絶望的な気持ちになった。
嫌だなあ。
黒板に私の名前が書き込まれていく。
飼育委員 方條蜜柑、と。
それはチーム・スプリングに入るより三年前。まだ小学生だった頃のことだ。
第九話 ORANGE(前編)
飼育委員会の集まる教室の前に立ち、憂鬱な気分で扉をノックする。
すぐに扉が開き、先輩と思しき男子生徒が顔を見せた。
「いらっしゃい。新しい委員の方ですか?」
彼は私が見惚れるような笑顔と丁寧な言葉遣いでそう出迎えてくれた。
綺麗な人だな。
長身の彼の顔を見上げながらそう思った。
男の人をそんな風に形容するのは適切でないかもしれないが、その時の私の気持ちを素直に表すならそうなる。
整った顔立ちに縁無しの楕円形眼鏡が彼を知的に見せている。
彼はこの委員会の委員長で、高原和希と名乗った。
それから委員会で集まっての会議が開催された。
議題は主に当番についてだった。
司会を務める和希先輩が、立候補者はいませんか?と訊く。
私は手を上げず、静かに周りを窺う。
他の人も似たような様子だったが、数秒の間を置き、じゃあ俺が当番やっていいですか、と活発そうな男子が挙手した。
じゃあその次の当番は私が、と元気そうな女子が挙手する。
私は当番なんてやりたくないので立候補者がいるのはありがたいことだった。
流れに乗って次々に立候補者が出る。
積極的に立候補する彼らを見てふと思う。
彼らは動物が好きでこの委員会に来たのかな?
そう思うと、ジャンケンで負けて嫌々入った自分が惨めだった。
それにしても、会議への発言を放棄しながらなんとなく私は和希先輩を眺める。
彼は本当に素敵だと思う。
柔らかい物腰と穏和な口調で委員を纏め会議を進行する彼は、この中では一際大人びて見えた。
周囲を纏める牽引力、リーダーシップ。私には無いものばかりだ。
当番はローテーションが決まっているわけではなく、会議が行われるたびに、次の会議までの間の当番を決めるという形式だった。
結局この日の会議では私が当番になることはなかった。
その後も一週間ごとに会議が開催されたが、委員会活動を真面目にやる気のない私としては、殆ど発言することもなく会議中は和希先輩を観賞することだけが楽しみになっていた。
当番に関しては毎回積極的な立候補者が出てる為、私にお鉢が回ってくることはなかった。
そんなある日、何度目かの会議で和希先輩はこう言った。
「では、この中でまだ当番をやったことのない人はどれくらいいますかね?」
どきりとした。想像もしなかった展開だ。
和希先輩の言葉に手を挙げる者はいなかった。
全てを憶えているわけではないが、もう私以外の全員が当番をやったであろうことはなんとなくわかっていた。
私はというと、しらばっくれる度胸もなかったので結局控え目に挙手する。
それを見て和希先輩はいつも通り温厚な笑みを浮かべて私に訊く。
「では次の当番は蜜柑さんに任せてよろしいでしょうか?」
困った。私は今までの会議を真面目に聞いていなかったから仕事のやり方もまるでわからなかった。
会議中に何度か先輩達が説明してくれたことがあったろうに。
えっとと私は言葉に詰まったあと、覚悟を決めて自分が仕事を覚えていないことを正直に白状する。
それに対して、和希先輩は怒った様子も見せず柔らかい笑顔でこう答えた。
「では明日は私と一緒に当番をしましょう。その時に仕事も教えますから」
意外な展開になってしまった。
飼育当番は元々二人一組でするものなのだからおかしいことではないのだが、それでも和希先輩と一緒なんて。
もとは私の怠慢に原因があるのだから喜んではいけないのだろう。和希先輩にも迷惑をかけてしまっている。
でも、少しだけ明日の仕事が楽しみになってしまった。
翌日の昼休み、私は飼育委員会が集まる教室の前で和希先輩を待っていた。
といっても今日は会議をするわけではないのでこの教室に用はない。あくまで待ち合わせ場所として都合がよかっただけだ。
数分の待ち時間は決して苦痛ではなかった。
和希先輩よりも早く着いて、少しでも彼の中の評価を回復したいという思いがあったので、彼よりも先に来れたことにわずかな満足感を感じていた。
しばらくして廊下のむこうから和希先輩が姿を現す。
彼はいつものように私に温かい笑顔を向ける。
「こんにちは蜜柑さん。お待たせしてしまいましたか?」
相変わらず品のある言葉遣い。同年代の知り合いの中にもこんな丁寧な言葉遣いをする人は男子はおろか女子にだっていない。
でも彼が言うと決して不自然には感じない。それだけの気品が彼にはあった。
大丈夫です。わたしも今来たばかりなんで、と言葉を返す。
和希先輩は大人だから態度には出さないけど、こんな時期まで仕事を覚えていない私に内心呆れているはずだ。
今さらではあるが、私を優秀な後輩だと思って欲しくて今日は頑張りたかった。
まず私達は職員室へ行って鍵を借りたあと、校舎を出て玄関のすぐ傍にあるウサギ小屋を目指す。
木製の小屋の前に着くと和希先輩は優しい笑顔とともに言う。
「それでは蜜柑さん。ドアを開けてください」
そう言って私に鍵を手渡してくれる。
なるほど、今日は私に仕事を教えるのだからこんな些細なことでも私にやらせてくれるのか。
両開きの扉を開き、二人並んで小屋の中に入る。
中ではおよそ二十羽ほどのウサギが思い思いに過ごしていた。
私達が入ってきても警戒する様子はなく人間に慣れているようだった。
可愛いな。あとでこの子達と遊んでみたい。
もちろん私もこの学校に通う生徒としてウサギを飼っている事は知っていたが、今まではあまり興味もなかった。
小屋は道に面した側のみ、ガラス張りの大きな窓になっているためそこから外の光が入ってくる。窓とは言っても開けることはできないだろうが。
当番の仕事はまず休み時間にウサギ小屋の扉を開放すること。そして小屋の掃除。掃除は休み時間にやっても放課後にやってもどっちでもいいらしい。
今回は休み時間中に掃除もするつもりだ。和希先輩と事前に相談した結果そうなった。
「まずはウサギさんを外に出しましょう」
そう言って和希先輩は一羽のウサギの胴を両手で掴んで抱き上げる。
あんな風に持っていいんだ。抵抗したり痛がったりしないんだ。
私も和希先輩を真似てウサギを持ち上げてみる。
驚くほど何の抵抗もされずウサギは抱き上げられた。
その子を抱えて外に出てたあと、ゆっくりと地面に下ろす。
そんな行為を何回か繰り返した。
自分から外に出て行くウサギもいたし、そうでない者は私達が運び出した。
そうして全てのウサギを外に出し終えた後は和希先輩に教えてもらいながら小屋の中を掃除した。
和希先輩の教え方は優し過ぎるくらいだった。そこまで丁寧に説明しなくてもいいのにと私は内心苦笑した。
でもそれを口には出さない。
一言でも多く和希先輩に言葉をかけて欲しい。一言でも多く和希先輩と話していたい。
私の胸の中はそんな想いで一杯だった。
私からも積極的に話しかけてみた。普段クラスの男子ともあまり話さない私にとっては頑張った方だと自分を褒めてあげたい。
和希先輩はやっぱり動物が好きでこの委員会に入ったんですか?と質問をぶつけてみる。
「ええ、低学年の頃からここのウサギさん達と大分遊んでましたから。
飼育委員の人達に憧れていたんです。高学年になったら自分も飼育委員をやろうとずっと思っていました」
そうだったんだ。こんな大人びた先輩が動物好きなんて、そのギャップがなんだか可愛かった。
家では何か飼ってるんですか?と訊いてみる。
「いえ、残念ながらなにも。金魚すくいでとった金魚を一時期飼ってたことがあるくらいです。蜜柑さんのおうちはどうです?」
私の家はマンションなんで基本的にペットは禁止されてるんです。
話の流れでマンションの場所を答えると和希先輩は驚いた様子を見せる。
「あそこの高級マンションですか。随分いいところに住んでますね。なるほど蜜柑さんはお金持ちのお嬢様だったんですね」
悪戯っぽい笑みを浮かべて和希先輩が言う。
私くらいの年頃で自分の家がお金持ちかどうかなんてわからなかったので私は曖昧な返事を苦笑とともに返す。でも和希先輩にお嬢様と言われるのは少し嬉しかった。
その後、餌の補充をして昼休みの終わりが近くなるとウサギ達を小屋に戻した。
ウサギ達と遊んでいた下級生達にも早く教室に戻るように促しながら全てのウサギを回収する。
充実した昼休みだった。
教室に戻ると、やけに幸せそうな顔をしてるねと友達にからかわれたがそれさえ嬉しかった。
放課後の私は忙しい。
一週間の大半は塾や習い事で放課後の予定が埋まっているからだ。
電車に乗って塾へ出かけ、夜遅くまで勉強してまた一人で電車に乗って帰ってくる。
両親は共働きで私が塾から帰ってきても家には誰もいない。
空いた時間で学校や塾の課題を終わらせられるかが自由時間をどれだけ残せるかに直結する。
学校にいるときのほうがむしろそんな時間との闘いを考えずに済むぶん気楽だった。
学校では友達にも会えるし楽しい。特に最近は和希先輩と会える時間が何よりも幸せだった。
人生というのは楽しい時間と楽しくない時間で構成されているのだと思う。
私にとって楽しくない時間は当然塾や習い事の時間。
和希先輩と出会ったことで私の楽しい時間はどんどん増えていった。
今日は英会話塾の日だ。
一旦家に帰って荷物を纏めて一番早い電車に乗れば一時間くらい予習の時間をとれるだろう。
そんなことを考えながら家への帰り道を歩いている途中、通りかかったグラウンドに野球をしている男の子達の姿があった。
その集団の中に和希先輩の姿を見つけて私は足を止める。
丁度和希先輩が打席に立つところだった。私は心の中で自分に言い訳する。
少しだけ、少し見るだけなら塾には遅れないから。
そして私が観戦する中、和希先輩は飛んできたボールを見事に弾き返し出塁する。
どうしよう。最初はこの打席が終わったら帰るつもりだったけど、和希先輩が塁に出た以上もうちょっと試合を観続けたい。
大丈夫、もうちょっとくらい見ていく時間はある。と私は自分に言い聞かせる。
相手の隙をついて盗塁を決める和希先輩はかっこよかった。塁上からバッターに声援を送る時も、彼らしい気の利いた言葉でチームの雰囲気を盛り上げていた。
結局バッターは内野ゴロに倒れ、和希先輩はホームに還ることなくことなくスリーアウトチェンジとなる。
攻守交替し和希先輩のチームメイトが守備の為にグラウンドに出てくる。
そのとき、その中の一人が私の姿を見て動きを止める。
「あれ? 蜜柑じゃん!」
ドキリとした。この男の子達の中に知り合いなんていないと思っていたから話しかけられるとは思っていなかった。
私は話しかけて来た相手をよく見てみる。
男の子の集団に混じっていて気付かなかったが、よく見るとそれは女の子だった。
ショートカットに白いTシャツと黒のショートパンツというボーイッシュな格好では男の子と見間違えたのも無理はなかった。
この子は確か同じクラスの、
「柚希さん」
彼女の名を呼ぶ。
彼女とは一緒のクラスではあるが話したことはあまり多くない。
クラスメイトをそれぞれの仲良しグループで分けるなら所属するグループが違うといったところか。
彼女は私の元に駆け寄って来て、人懐っこい笑みを浮かべながら言う。
「どうしたのこんなところで? あっ、ひょっとして野球に興味ある? だったらさ、一緒にやらない?」
私は一言も返事をしてないのに強引なテンションで話しかけてくる。
こうも嬉しそうに話しかけられると断わり辛い。しかし私はこのあと塾に行かなければならないのだ。
「どうしたんですか柚希」
そこへ和希先輩が近づいてくる。私の姿に気付くと、
「おや、蜜柑さんじゃないですか。奇遇ですね。それともここに何かご用が?」
そう言って、いつもの穏やかな笑みを浮かべてくれる。
私は二重の意味で自分の鼓動が早まるのを感じていた。
ど、どうしよう。まさか和希先輩が野球しているところを見入っていたなんて言えないし。
私が焦っているところで柚希さんが代わりにその問いに答える。
「あのねー、蜜柑はうちらと一緒に野球やりたいんだって」
無責任な答えを。
和希先輩は溜息とともに訊き返す。
「蜜柑さんがそう言ったのかい?」
柚希さんはそれに悪びれもせず答える。
「んーん、言ってないけど私は蜜柑の心の声を代弁してるの」
そう告げると彼女は私の方へ向き直る。
「ねっ? 蜜柑も一緒にうちらと野球やりたいよね?」
本当に強引な人だ。他人の都合なんてまるで考えてないに違いない。
私はアナタみたいに放課後も暢気に遊んでいられるほど暇ではないのだ。
それでも一瞬思った。
彼女の言葉に素直に頷くことができればどれだけ楽か。
塾も習い事も何もかも投げ出してここで和希先輩と遊ぶことができればそれは私にとって最高の幸せに違いない。
え、えーとそれは、などと私が返事に窮していると、それをどう受け取ったのか和希先輩が優しい笑みを浮かべる。
「柚希、あんまり蜜柑さんを困らせてはいけないよ」
そう言って次に私に言葉を向ける。
「蜜柑さんも、呼び止めてしまってすいませんでした。私達は試合に戻りますから蜜柑さんもご自分の予定を優先してください」
その言葉は別れを意味していた。
和希先輩はきっと私がどこかへ行く途中だったところを強引に柚希さんに呼び止られたと思っているのだろう。いやそれは八割方事実なのだけど。
和希先輩は柚希さんも試合へ戻るよう促す。だが彼女はまだ諦めきれない様子で、
「えー、行っちゃうのー? ねーねー、蜜柑も一緒に野球やろうよー」
と懇願してくる。
だから私は迷う。チャンスがあるからこそ揺れる。
今日行く英会話塾は複数人制だ。別にマンツーマンじゃないから私一人欠席したところで誰も気付かないだろう。
人生というのは楽しい時間と楽しくない時間で構成されていると思う。
そして楽しい時間の割合が多いほうがいい。誰だってそう思うだろう。
だから私は彼に声をかけていた。
「あの」
自分でも後悔するほど小さな声だった。和希先輩はよく聞き逃さなかったと思う。
試合に戻ろうとしていたところを振り向いてくれたのだから。
私は言葉を続ける。正直言って運動は得意な方じゃないし、野球なんてルールもよくわからない。
「私にも野球、できるでしょうか?」
だから自信がなくてこんな言い方になってしまった。
「もっちろん!」
柚希さんが嬉しそうに即答した。
彼女が私の腕を引く。
「じゃあさじゃあさ、蜜柑わたしの代わりにサードに入ってよ。わたしはセカンドやるから」
「それではセカンドの紫苑は」
和希先輩が困った顔で何か言いかけていたがその言葉は続けられることなく、柚希さんがチームメイトと思しき小柄な男の子に声をかけていた。
「勇くーん」
彼の肩をぱしぱし叩きながら柚希さんは言う。
「これから蜜柑がウチのチームに入るからさ、ちょっとの間抜けてくれる?」
えっ、と勇君と呼ばれた少年は表情を引き攣らせる。
やっぱり迷惑だろうな。
柚希さんは笑顔で言う。
「勇君は大人だから、こういうときは譲ってくれるよね?」
その言葉に少年は、仕方ないなと苦笑しながら了承してくれた。
あの子、柚希さんに気があるんじゃないだろうか。なんとなくそう思った。
柚希さんが勇君という少年から借りてきたグローブを私に差し出す。
「じゃっ、蜜柑はこのグラブを使って」
「えーと、私はどうしたら?」
私は訊いてみる。
彼女はそれに答える。
「飛んできたボールを捕る。そして一塁に投げる。カズ君の隣だから細かいことは教えてもらえばいいよ」
その言葉に私は和希先輩の方を見る。
彼は優しい表情で声をかけてくれる。
「そうですね、蜜柑さん。ではこちらへどうぞ」
和希先輩の示す方へついていく。
三塁ベースの近くが私の守備位置だと彼は教えてくれた。
そして和希先輩の守備位置はその隣、ショートというポジションらしい。
正直に言えば私はポジションの名前もよく知らなかった。
試合が再開され、味方チームのピッチャーがボールを投げる。
その球にバッターがバットを振り、ボテボテの打球がこちらに転がって来た。
「蜜柑さん」
和希先輩が私を呼ぶ、私はその意図を悟りボールを拾いに行く。
ボールの前でグラブを構え、こちらへ転がってくるのを待ってグラブに白球を収めるとそれを持って立ち上がる。
そして和希先輩の方を見る。
「と、捕りました」
私がそう告げると、和希先輩は優しい笑みを浮かべ、
「ナイスです。では一塁に投げてください」
そう言って私とは反対方向の塁を指差してくれる。
私はボールを右手に持ち替え、一塁の近くに居るチームメイトに向かって投げる。
ボールはやや二塁側に逸れ、それを追っていった一塁手は何とかキャッチしたものの一塁からは大きく離れてしまった。
ボールを一塁に投げただけではまだプレイは終わらないらしく、一塁手はベースを踏みに戻る。
バッターランナーが辿り着くより僅かに早く一塁手がベースを踏み、アウトが宣告される。
ほう、とわたしは安堵の息を吐く。
今の流れからバッターがベースにつくより早く、味方がボールを持って一塁を踏めばアウトになるらしいという感じのルールがわかった。
そして私もその役に立ててよかった。
そこに和希先輩の拍手が届く。
「お上手ですよ蜜柑さん」
あ、ありがとうございますと私は答える。
和希先輩の褒められたことが純粋に嬉しい。私は初心者だし、お世辞もあるのだろうがそれでも役に立てたことは事実だ。
「蜜柑、うっまーい。初めてとは思えないくらいいい動きだったよ」
遠くから柚希さんも称賛してくれる。
その後も試合は続く。
さっき私の所に転がってきたのとは比べ物にならないくらい速い打球が隣へ飛んでくる。
その球に和希先輩はグラブを伸ばしてキャッチする。
すごい、かっこいいな。
私だったらあんな速い球が来たら恐くて避けちゃうだろうな。
こちらの攻撃時には打席に立つ機会もあった。
ボテボテの内野ゴロだったが、バットにボールが当たるということが楽しかった。
試合が進む内に徐々に暗くなっていく空を見ながら思う。
もう、塾には間に合わないだろうな。
試合が終わり、家への帰り道を歩きながら今日のことを思い出す。
和希先輩は優しく野球を教えてくれた。また彼と一緒に野球をやりたいと思う。
柚希さんも、また試合があるときは蜜柑も誘ったげるからね、と言ってくれた。
彼女は私のことをとても歓迎してくれているようだった。もちろん私としてもそれは嬉しい。
家の扉の前で足を止める。
素敵な一日だったな。
そんな楽しい思い出で胸を一杯にしながら、私はノブを握って扉を開いた。
音楽室にクラスメイト達の歌声が響き渡る。
私はピアノの前に座り、鍵盤を叩きながら曲を奏でる。
今日の授業は合唱コンクールに向けての練習だった。
私がピアノ教室に通っているということで、クラスで一人だけ歌う側ではなくピアノを弾く役割を与えられた。
授業が終わって教室に戻る途中に柚希さんが話しかけてくる。
「ねえねえ、蜜柑ってすっごいピアノ上手いんだねー。今度教えてよ」
別に私がピアノを弾いているのを見るのは今日が初めてではないだろうが、先日野球をしたのをきっかけに彼女は積極的に私に声をかけるようになってきた。
「そうそう、昼休みは一緒に野球やんない?」
その誘いにより、私は半ば強引に校庭まで連れ出されることになる。
まあ野球が上手くなるなら断わる理由もない、と心を決める。
柚希さんがピッチャーをやり、私がその球を打つという単純な勝負だった。
勝負の合間に彼女は何度か私のバッティングフォームを指導してくれる。
それらをすぐに飲み込めたわけではないが、私が野球をやることを歓迎して半ば強引ではあるもののこうして指導までしてくれる彼女の親切は嬉しかった。
それから私は週に一二回、習い事をサボって和希先輩達と野球をやるのが密かな習慣となっていった。
「カーズ君、今日も一緒に二遊間を組も!」
ある日のことだ。いつものように柚希さんが和希先輩の腕に抱きついて言う。
和希さんはヤレヤレという顔で言葉を返す。
「セカンドは紫苑の定位置だったハズですよ。そろそろ返してあげたらどうです?」
その言葉に柚希さんは視線を近くに居た小柄な男の子に向ける。
その子は前に私がチームに入るとき、代わりに抜けてくれた子だった。あの子が紫苑君なのだろう。
私が入るようになってからはあの子は外野をやったり、控えに回ったりしてくれている。
子供の野球では上手い人は内野を守って、下手な人が外野を守るという認識が強い。
あの子は私なんかよりずっと上手くて、内野を守る資格は十分にあるだろうに。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
かといって私も和希さんの隣というポジションを自分から手放す気にはなれないが。
「んー、やっぱり勇君もセカンドに戻りたい?」
小首を傾げながらそう訊く柚希さんに紫苑君は苦笑を浮かべながら、まあねと返す。
彼は言葉を続ける。
「でも、無理にとは言わないよ。柚希ちゃんは新しく入った子の面倒を見たいんでしょ。だったら僕は我慢するからさ」
言葉だけ見ればそれは優しい。私は彼に感謝するべきなのかもしれない。けど、
「やったー、勇君やっさしー。大好きー」
そう言って柚希さんは喜色を浮かべながら紫苑君の腕に抱きつく。
紫苑君は顔を赤くする。
なんというか、このチームは全体的に柚希さんの言いなりに見える。
確かに柚希さんは可愛い。
その上誰彼構わず今のようなスキンシップをとる。
男の子ばかりのチームの中の紅一点。
チームの誰もが多かれ少なかれ柚希さんに対して甘いと思う。
あの子は和希先輩にもやたら馴れ馴れしく抱きつくし。
ああやって男の子に過剰にスキンシップをとったり、軽々しく大好きとか言って好意を得るのは違うと思う。
あんなの私には真似できないし、したいとも思わない。
柚希さんのような恩人にこんな感想を抱いていいものか迷うが、ハッキリ言って私は彼女のこんな場面を見るたびに不快に思っていた。
「あれー?」
ある日の授業前のことだ。柚希さんが机の中を漁りながら首を傾げていた。
どうしたんです?と私は訊いてみる。
彼女は答える。
「いや、次の授業で使うノートが見つかんなくて。家に置いてきたのかなー?」
困っている様子だったので私も探すのを手伝うことにする。
しかし結局見つからず、柚希さんは他の教科のノートを使って授業を受けることになった。
そしてその日の昼休み。
私はふと柚希さんがノートを失くした一件について一つの可能性を思いついた。
もし彼女が校内のどこかでノートを落としたり忘れたりしたのであれば、誰かがそれを拾って職員室に届けているかもしれない。
そう思い立つと、早速職員室に行ってみようと思った。
柚希さんを誘っても良かったのだが、空振りの可能性もあるだけに一人で行くことにした。
思えば、それが私と柚希さんの距離感だったのだろう。
ここで迷わず彼女と一緒に職員室に行けるような間柄だったなら、精神的にも物理的にもこの後の展開は違っていたはずだ。
教室を出て階段に向かう。職員室は一階だ。
廊下を歩いていると友達の女の子の後姿を見かけたので挨拶をしようと思った。
だが私が言葉を発する前に、彼女の姿は階段の方へ消えた。
私の進む方向も丁度階段の方だったので、なんとなしにその後を追ってみると階段を昇っていく彼女の後姿が見えた。
この上には屋上しかないのに。しかも屋上へ続く扉は鍵がかかっていて普段から出入りできないだけに私達生徒にとっては縁遠い場所だった。
その子はクラスの中でも親しい方だったのでなおさら気になった。
その子の後を追って私も階段を昇る。
上の方から何人かの話し声が聞こえた。
ここが内緒話をするのに最適な場所だということに今気付いた。
そのまま私は警戒することもなく声の方へ近づく。
「つかさ、アイツ全然気にしてなかったよね」
「ノート家に忘れてきたくらいにしか思ってないよ」
「鈍すぎるよねあの子。マジウザー」
屋上へ続く扉の前で座り込んで話している三人の女子生徒が私の視界に入った。
その中の一人が手に持って団扇のようにパタパタさせているノートが目に留まる。
どこにでもあるようなキャンパスノート。
でも名前欄に書かれた高原柚希という名に私の思考が凍りつく。
「あっ、やば!」
「蜜柑!」
三人も私の姿に気付きその表情に驚きと焦りを浮かべる。
お互いに言葉を失う。
しかしその沈黙は長くは続くことなく私の方からそれを破る。
「それ、柚希さんの?」
三人の女生徒の中の一人が持つノートを指差しながら私は慎重に言葉を選ぶ。
予想外の展開に私は内心相当動揺してる。
自分でもこの事態にどう反応するべきかわからなかった。
相手は三人とも同じクラスで私ともそこそこ仲が良かった女の子達だ。はっきり言って柚希さんより付き合いが長い。
私が次になんと言うべきか迷っていると先に女生徒の中の一人が口を開く。
「ねえねえ蜜柑、柚希ってなんかムカつかない」
それに同調するように後の二人も続く。
「そうそうしょっちゅう男子に媚売っててさあ」
「ああやって誰彼構わず気を持たしてんの」
その言葉を聞いて私の心に広がる感情は、安堵だった。
ああ、そう思っていたのは私だけじゃなかったんだ。
彼女らの言葉に私は苦笑とともに頷きを返す。
そしてしばらくの間、彼女達三人は柚希さんの悪口で盛り上がる。
それを聞いていて、私は日頃から胸の内へ仕舞い込んでいた柚希さんへの不満が肯定されたような気持ちになった。
私だけじゃなかった。みんなも同じようにあの子を不快に思っていたんだ。
こんな風に悪口を言っていいんだ。
柚希さんより付き合いの長い友達三人。今はこの子達に同調することがこの場の流れとして正しいように感じた。
「そーだ」
三人組の中のノートを持っていた少女がそれを掲げながら言う。
「このノート返してあげようよ」
その台詞に込められた感情が善意などではないことは、彼女の釣り上げられた口元を見れば誰でもわかる。
「そんで、ウチらみんなで寄せ書きしよ。いいアイディアでしょ」
その言葉に、面白そう、いいねー、などと言ってあとの二人も賛同する。
そして私に目を向けて、言う。
「蜜柑も書くでしょ?」
みんながシャーペンを走らせるたびに柚希さんのノートには辛辣な言葉が書き込まれていく。
それらは誇張表現とともに普段の彼女の行動の全てを悪意的に解釈したような内容だった。
これを読んだときの柚希さんの心境を想像すると、ゾクゾクする。
彼女はきっと惨めな気持ちになるだろう。日頃の自分の行いを見直すだろう。
そして自分の一挙手一投足が、また誰かの悪口の種にならないかと恐くて普段と同じように振舞えなくなるだろう。
あの能天気お気楽女にそんな思いをさせられると思ったらとても楽しくなってくる。
私が書く番がやってきた。
普段の柚希さんの行動を思い出す。彼女の悪口などいくらでも思いついた。
そしてさらさらとノートにペンを走らせる。
『男子達にベタベタ触ってんじゃねーよドブス。テメーみたいなブスに抱きつかれてみんな迷惑してんだよアホ』
放課後、下駄箱の前で立ち尽くしている柚希さんの姿を見つけた。
「柚希さん」
私がそう呼ぶと彼女はビクリと肩を震わせてこちらへ振り向く。
「どうしたの? 帰らないの」
何も知らないような顔で私がそう訊くと、彼女は苦笑を浮かべ持っていたノートを鞄にねじ込みながら答える。
「あはは、そうだね。帰ろうか」
そのノートには昼休みに私達が寄せ書きした内容が書かれている筈だった。
彼女はそれを読んだのだろうが、他人に弱みを見せたくない程度のプライドはあるらしい。
意地悪したくなって私は言う。
「そういえば、昼間なくなったノートってどうしたの? まだ見つかってないんなら職員室行ってみない? 誰かが拾って届けてるかもしれないし」
「あっ、いやいいの。もう見つかったから」
露骨に動揺しながら彼女は両手を振る。嘘が下手だと思った。
だからこそ楽しくなってくる。
内心傷つきながらもそれを必死に隠そうとする彼女の姿はとても滑稽だ。
その日も二人で野球に行った。
「ねえ柚希ちゃん、今日の打順だけどさ」
小柄な男の子――確か紫苑君と言ったか――彼が柚希さんの肩を叩きながら呼びかける。
それに彼女は過剰に驚いた様子で紫苑君から離れる。
一瞬の間を置き、二人の視線が交差する。
「えっ、あっ、と」
紫苑君が若干傷ついたような顔を見せたので、柚希さんは焦った様子で言葉を探す。
「ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって」
苦笑いとともにそう謝ると彼女は言葉を続ける。
「あっ、そうだ勇君。今日は久しぶりに勇君がセカンドやりなよ。私今日はちょっと疲れてるから控えでいいし」
そんなやりとりを見せられたときの私の感情をなんと言い表せばいいだろうか?
表面には微塵も出さないが、内心では笑いを堪えきれない。
自分から控えに回るなんて普段の彼女からは想像もできない台詞だ。
それほどまでに彼女はあのノートに書かれたことを気にしているのだ。
周りの男の子達も彼女が普段と違うことは薄々感じているだろう。
だがその原因がわかるのは私だけだ。
あのノートに寄せ書きをした私だけ。