第一話 雑草魂
自分の右肩を強く握り締める。
もう一生、ボールを投げられなくなってしまったという重い事実がその肩にズシリと響く。
診察を終えると臣事さんが慰めの言葉をいくつか投げかけてくれたが、それを聞く余裕は今の自分にはなかった。
今は、同情なんかされたくない。
泣き虫なエース
「いい加減起きろ、ネボスケ」
今日という記念すべき日の朝であっても、相も変わらず掛け布団に包まれてすやすやと寝息を立てているチビッ子に俺は声をかける。
「俺は学校に行くけど、お前は寝てるか?」
正直に言えば、こいつを置いて行くという選択肢もありだ。もともと生徒でもないし、学校には全く無関係なのだから。
でもこいつの性格を考えればそんなことを放っておかないのもわかっていた。
『行きますー。こーへーさんと一緒にがっこー行きますー』
眠そうに瞼を擦りながら、彼女はベッドから起き上がる。
「二度寝すんなよ、サンタクロース」
俺は気だるい体を起こし、雨戸を開けにいく。朝日を取り込めば二度寝の危険は防げるだろう。
その後、顔を洗う。髭を剃る。朝飯を食う。歯を磨く。制服に着替えて出かける準備をして、玄関を出る。
俺がドアに鍵をかけている間、サンタクロースはとっとと門の外に駆け出していって大はしゃぎしていた。
『こーへーさん、こーへーさん! 見てください! 桜が綺麗ですよ!』
寝起きのローテンションはどこ行ったんだとツッコミたくなるはしゃぎようだった。子供っぽいというかなんというか。実際幼女だけどな。
俺も彼女の後を追って道に出る。
「ああ、お前よりよっぽど綺麗だな」
『そ、そこは仮にも女の子が相手なんですから「キミの方が綺麗だよ」とか言いましょうよ』
慌てながら反論してきた彼女から視線を外して、俺は答える。
「今日のところは桜に花を持たせておいてやれよ。数年後のお前の方がずっと綺麗になるんだから」
そう言って俺は隣家の門を目指す。
俺の言葉を聞いてちょっとの間ポカンとしていたサンタクロースが口を開く。
『今、褒められました?』
「さあね」
待ち人がまだ出てきてないことを確認して、俺は門に背を預ける。
視線を下げると俺の半分程度の身長しかないサンタクロースと目が合った。
『こ、こーへーさんも素敵ですよ。毛先がハネ気味のふわふわした感じの髪型とか。四角い黒縁眼鏡も知的ですし』
やばい、コイツいい奴だ。
褒められた分、褒め返そうというつもりらしい。知的とかいう褒め言葉、生まれて初めて言われたんですけど。
コイツがこのまま成長してちゃんと小学校に入れたら、周りから好かれる素敵な少女へと成長したんだろうな。と、ありえない未来を夢想してしまう。
俺は自然と彼女の頭に手を置いていた。
「ありがとう。お前のさらさらのロングヘアも可愛いよ。赤を基調とした花柄のワンピースと、白のボレロも似合ってるし」
俺に頭を撫でられてサンタクロースを嬉しそうに目を細める。
そういえば彼女の衣服には赤や白の色使いが多い。
前にそのことを彼女に訊いてみたところ。曰く、私はサンタクロース見習いですから、服装もできるだけサンタさんに近いものを選ばなければならないんです、と胸を張って言われてしまった。
そんなことを思い出していると、ガチャリと音を立てて背後の扉が開く。
俺が振り向くと扉から出てきた少女と視線がぶつかった。
無邪気で元気の良さそうな爛々と輝く瞳。外にハネ気味の癖のあるセミロングの髪。
体のラインのわかりにくい紺のブレザーと膝上丈のスカート、ブレザーの下に着ている白いYシャツの首元には朱色の紐状のリボンが蝶結びになっている。
数ヶ月ぶりに袖を通すであろうウチの中学の冬服に身を包んだ少女がそこに立っていた。
彼女は俺の姿を認めるとニッと微笑んで言葉を紡ぐ。
「おっはよ。こーちん!」
俺も片手をあげて応える。
「おはよーな。とっとと行こうぜ」
彼女は「イェイ」と俺の掌に拳をぶつけてくる。
『おはようございます。春火さん』
サンタクロースも挨拶をするが、少女はそれには応えない。まあわかりきったことではある。サンタクロースは俺にしか見えないのだから。
だから学校に連れて行っても誰にも咎められない。
サンタクロース自身、俺達の会話に参加することはあまりない。
「ひょっとして結構待ったかな?」
並木道を肩を並べて歩き出すと、少女はそう切り出してきた。
「待った待った。待ちくたびれたぜ」
俺は答える。自然と心に浮かんだ回答を。
「もう! そういうときは『今来たばかりだよ。キラリーン』とか答えるのがセオリーですよ」
彼女は口を尖らせた。キラリーンという謎の擬音に関してはスルーしておく。
ついでに足元でチビッこいのが『そうですそうです! こーへーさんは女の子の扱いがなってないんです。春火さんからも言ってあげてください』とか騒いでいたがこっちも無視。
俺は切なげな眼差しで彼女の瞳を覗き込みながら言葉を返す。
「そんなことないさ。大分長いこと待たされたんだぜ、お前とこうしてまた一緒に登校できる日を、何ヶ月も何ヶ月もずっと待ってたんだ」
俺のその言葉に、少女は数秒間呆けたツラで固まっていたあと、俺から距離を置こうと後退り、顔の前でワタワタと手を振る。
「う、うわ! ク、クサイっすよ旦那ぁ」
「またお前と一緒に登校できるのが嬉しくてな。ほんの数分の待ち時間なんか苦痛でもなんでもなかったさ」
「やめてー! その手には乗らないんだから、この女誑し!」
まったく。この俺を女誑し呼ばわりなんて失礼極まりないヤツだ。
『いえ、おんなたらしですよ。こーへーさんは』
と、幼女にまで言われる俺。
おい春火! お前のせいでまた俺の守護霊がおしゃまな言葉を覚えてしまったじゃないか。どうしてくれる。
さて、このやたらテンションの高いアホの名前は近江春火。
俺の幼馴染で、毎朝登校を共にするようになって早七年。その間も中学二年になる今年までずっと同じクラスだったりする。
俺は彼女が右肩から襷掛けにしているスポーツバッグのバンドが、胸の間を通って制服の布地を体に押し付けることによって強調された春火の豊かな膨らみに視線を固定しないように気を付けながら(つまり時折チラチラとは見る)足を動かす。
「そういえば今日はこーちんに言うことがあったんだ」
春火の言葉に俺は意識から煩悩を追い払い、視線も彼女の目に固定する。
ちなみにこーちんと言うのは俺の渾名である。
相馬幸平、愛称はこーちん。こんな呼び名、春火ぐらいしか使わないけど。
「あのね、えーっと」
彼女は言いづらそうに頬を掻きながら視線を彷徨わせたあと、意を決したように俺の目を見つめ言葉を吐き出す。
「着替えるときはカーテンとか閉めたほうがいいと思うよ」
「覗いたのか貴様! この痴女! 変質者! 外ハネ!」
「わ、わざとじゃないやい! むしろ窓の近くで着替えてるこーちんが悪いんでしょ! この露出狂! ボディービルダー! 眼鏡!」
くっ、不覚だった。
俺のプライバシーが春火に筒抜けだったなんてちょっと悔しい。
俺の部屋の窓と隣接する近江家の部屋ってどこだっけ?
あの時間は殆ど人の姿を見たことのない部屋だったので油断していた。
今日は退院後、初登校ということもあって何か必要なものがあったのかもしれない。
くそっ、逆の立場なら笑い話では済まないハズなのに、世の中は理不尽だ。
俺だって是非とも春火の着替えを覗いてみたい!
「で、思ったんだけど」
春火の話はまだ続いていた。
「ウチがプレゼントしたパジャマ、やっぱり着てるんだね」
彼女は苦笑いとともにそう吐き出す。
『あの可愛いパジャマのことですね。私も着たいです』
とサンタクロースが主張する。
あれは去年のクリスマスだったか、どこで買ってきたんだかピンクの布地にテディベア柄のパジャマ(メンズサイズ)をコイツは俺にプレゼントしてくださりやがったのだ。
どう考えても嫌がらせというか、ネタ半分だったが流石に一度も着ずに箪笥の奥に封印しておくのも失礼に思えて、現在も毎晩着用している俺の相棒だ。
俺は基本、プレゼントという物を大事にする主義である。クリスマスプレゼントとなればなおさらな。
ぶっちゃけこんな可愛らしいパジャマを毎晩着ているなんてことが友人・知人に知られたら男の子として沽券に関わるんだが、なんだかんだで今も着ていたりする。
これから暑くなってきたら夏物のパジャマと選手交代してもいいよね?
俺は瞼を閉じ、嫌味を感じさせない爽やかな声で言葉を返す。
「お前の愛情が一杯詰まったプレゼントだからな。大切にしてるぜ」
とは言えそれが皮肉であることはお互いに確認するまでもないだろう。
「愛情云々はこーちんの妄想だと思うなぁ」
春火は苦笑いとともに吐き出すと、言葉を続ける。
「でも、着てくれてありがとう」
心からの嬉しそうな笑顔で。
むっ、そんな風に礼を言われるともっとあのパジャマを大事にしてやりたくなるじゃないか!
「あれはもう俺の一生の宝物だ。着れなくなってもずっと大事に持ってるし、棺桶にも入れてくれよな」
「ううぇえ! ちょっと待ってよ! 重い! そんなに大事にされるならもっとちゃんとしたプレゼントあげるから待って! 仕切り直しを要求しまっす!」
本気で慌ててる様を見て俺は笑いを零す。
「で、パジャマがどうかしたって?」
「ああ、うん。論点はパジャマじゃないんだよ。パジャマを脱いだこーちんの体がガリガリだったってことで」
春火は眉根を寄せて困ったような笑みで俺を見つめる。
そんなところまで見ていたのかこいつは!
そーだよ。どうせ俺は部活にも入ってなくて筋肉もないよ。悪いか!
だからこそ――
「だからさ、野球をしよう!」
彼女のその言葉に一瞬ドキリとした。
俺の思考は、拳を握りしめて力強く宣言する彼女に遮られてしまった。
俺はその動揺を表に出さないようになんとかいつもの調子で会話を試みる。
「今の話の流れからして『だからさ』という接続詞では接続しきれてないんだが、お前の頭の中は一体どうなってんだ」
「頭蓋骨とか目ん玉とか入ってる!」
春火は元気一杯に拳を天にかざすというアホっぽい動作とともにそう答えた。
「脳味噌は? 入ってるか?」
と俺は訊いてやる。
その言葉に、彼女は一瞬言葉に詰まったあと、視線を地面に落とし、苦々しく歯を食いしばりながら呟いた。
「くっ、痛いところを突いてきやがる」
痛いところだったらしい。
「つってもよ、俺は小学生のときに故障して以来、ピッチャーができないのはお前も知ってるよな」
自然と俺は右腕を押さえていた。
わかってるとは思うが念のため確認しておく。
すると春火は瞳を閉じて自信ありげな笑みを浮かべるとともに人差し指を一本立てながら言葉を紡ぐ。
「あのねこーちん。野球はピッチャーが投げるだけじゃないんですよ? ドカーンと打ったり! ズガーンと走ったり! ドンビシャボキガキブチュブチュミギャーと守ったり! 色々あるんだから」
そんな効果音出しながら野球したくないなぁと俺は引いた。
「最近ね、はるちんは頑張ってたのですよ!」
春火は腕を組んで瞳を閉じながら語りだす。
俺は最近のコイツの行動を思い出してみる。
退院してからの一週間、チナと一緒にあっちこっち出掛けてたみたいだよな。
「そういや、お前最近なんかしてたみたいだな。悪巧みか?」
相槌を打つ意味で訊ねてやる。
『なんで悪巧みになるんですか。春火さんに失礼じゃないですか』とサンタクロースが反論してくる。
俺の言葉に春火は大仰に反応する。
「ノー! ちっがーう! これは悪巧みなんかじゃアーリマセン! むしろ正義! 世界救っちゃうよ!」
「ほぅ、ならこの地球を温暖化の危機から救ってみせてくれ」
俺がそう要求すると、春火は迷うことなく解決策を提示してくれた。
「地球の温暖化を防ぐ為には、エネルギーの消費を抑えることだね! その為にはこーちんの家の電気を止めて、電化製品を一切使わず野宿でもしてればいいと思うよ」
「そっか、今日から俺は野宿か。辛いな」
ちょっとブルーになった。
よく考えれば電化製品使わないだけで野宿する必要はないけどな。
「そんでね! はるちんは人脈を駆使して同じ学校の生徒から人を集めて草野球チームを作ってるのですよ!」
いや、だから『そんでね』という接続詞では話題を接続しきれてないんだって。
俺は腕を組みながら口を開く。
「話を整理しよう。つまりお前は草野球チームを作っていて俺にもそのチームに入れと、年棒十三億円の四年契約でフルシーズン一軍・DH専門・コーチ転進保証の条件で俺を迎え入れると、そう言うわけだな」
「うわー、こーちんすっごーい! 頭いいー!」
春火が純真な瞳をキラキラに輝かせながら拍手してくれる。
ありがとう。ありがとう。
できればお兄さん、ツッコミが欲しかったな。
と、思っていたら次の瞬間には春火が爪先立ちで俺の頭を叩いてきた。
「ってなんでやねん! 十三とか四とか縁起悪いんだよ!」
おおっ、ノリツッコミ!
しかもツッコミどころがまた妙に局所的だ。
「お前にツッコミの才能はないな」
俺は断言した。
その言葉を聞いて春火の表情から血の気が失せていく。
そして一言、
「や、野球の才能は?」
と、不安げに訊いてきた。
俺はその質問を受けて彼女から視線を外す。
そしてふーっ、とゆっくり、深く、数秒をかけて息を吐き出しながら告げる。
「僕の口からはそんな残酷なこと言えない」
春火の表情に戦慄が走った。
「そ、そんな! 先生! 助かる見込みはないんですか! なんとかと煙は死ななきゃ治らないってヤツですか!」
悲壮な表情で俺の腕を掴んでガクガク揺さぶってくる。
演戯だとわかっているけど、ちょっと悪い事を言ったかもしれない。
隣の家のお父さんはプロ野球選手。それが小学生当時の俺の世界だった。
小さい頃はよく春火と一緒にテレビであの人の活躍を観ては盛り上がっていたものだ。
あの人への憧れが俺と春火が野球を始めた原点と言ってもいい。
今でこそ引退してしまったが、現役時代には本塁打記録、打点記録など数々の記録を塗り替えた伝説の大打者。そんな人の娘に生まれた春火が今日まで野球を続けてくるのにどれだけ周りから特別な目で見られてきたか、彼女の気持ちは察して余りある。
有名な父親と比べると春火の能力は平凡という他なかったからなおさらだ。
あれはいつだったか、草野球で違う学年のチームに混ぜてもらった日の試合後のことだったと思う。
あの日の彼女の言葉は未だに忘れられない。
「みんな、がっかりしてたね」
帰り道、溜息とともに彼女は呟いた。
「私がプロ野球選手の娘だからもっと凄いことができるって期待してたみたい」
俺達のいたチームが勝ったとはいえ、春火が勝利に貢献できたかと言えば、答えはノーである。一度も打てなかったし。併殺も二回ほどあったか。
春火は普通の子なのだ。もっと普通に野球を楽しめたらいいのに。
そのときの俺は、彼女が偉大な父親を持っていることが逆に不憫に思えてしまった。
そのとき俺がなんと言って慰めたかはよく覚えていない。
多分、親なんて関係ないじゃんお前はお前だよ、とかそんな感じのことを言ったと思う。
でも彼女の答えは違った。
「もっと上手くなりたいな。私、お父さんの娘に生まれて本当に良かったと思うから。お父さんの名に恥じないプレイヤーになりたい」
それが彼女の本心。
いや、それさえも建前かもしれない。
俺は覚えている。彼女が遠い昔、一度だけ話してくれた本当の夢を。
将来はプロ野球選手になってお父さんの記録を塗り替えたい、と、そう言っていた。
だから彼女は誰の代わりでもない近江春火という一人のプレイヤーになる資格がある。
春火はヘタクソでも、ハンデを背負っていても決して挫けず必死に野球に取り組んできた。
ずっと一緒にプレイしていた俺はその姿をよく覚えている。
俺は春火の手首を掴み引き寄せるとその掌を両手で包む。
「大丈夫、お前には素晴らしい才能があるよ。野球に対して誰よりも真っ直ぐで、誰よりも真剣だっていう才能が」
「ほ、ほえ!」
突然褒められて、春火はなにがなんだかわからないという顔をしている。
彼女は顔を朱色に染めながら俺の手を振りほどき、素早く俺から距離をとる。
「うぁー、もう! 痒いんだっつの! 背中がむず痒いんじゃ、この眼鏡野郎め!」
そう言って地団駄を踏む。あっはっは、面白い奴だなぁ。
少し離れたところでサンタクロースが『相変わらず仲良しですねー』と温かい笑顔でこちらを見守っていた。
しばらくして落ち着いた春火は、「はぁ」と溜息を吐いて話を元に戻す。
「で、あのぅ、本題ですが。どうかな? こーちんはウチのチームに入ってくれる?」
しおらしい態度で訊いてくる。
「年棒十三億円は用意できないけどさ」
苦笑いとともにそう付け足して。
相変わらず変なところで弱気な奴だな。俺が断わるわけないのに。
あの日の約束を守れなかった俺に償いの機会を与えてくれるのだから、むしろこっちからお願いしたいぐらいだ。
俺は穏やかな笑みとともに優しい声音で答える。
「金なんていらねぇよ。お前の笑顔はどんな大金にも換えられない価値があるだろ? 俺はそれさえあればいくらでも頑張れるんだ」
その台詞に、春火は俺からさらに距離を置こうと後退り、道端の自販機に背中をぶつける。
「いや、だからそういう口説き文句はウチには効かない! 効かないよ! 効かないっつーの! 効いてたまるか! そ、その返事はオッケーってこと? オッケーってことで解釈するよ!」
半ば意地になりながら強引なテンションで確認してくる春火が面白くて、俺がさらに追い討ちをかけたくなっても誰が責められるだろう?
「ああ、お前の笑顔の為に俺は野球をする。俺は春火、お前の中の一軍にずっと居続ける。お前だけの指名打者でいてやる」
「い、言ってる意味はよくわかんないけど、なんかエロイ!」
全くだ。もう俺自身も自分がなにを言ってるのかわかんねーよ。
『いっちばんのりー』
開けっ放しのドアから、慣れ親しんだ教室へとサンタクロースが足を踏み入れる。
慣れ親しんだとは言ったものの、まだ新年度が始まったばかりで半月にも満たない付き合いだが。
サンタクロースの後に俺も続いて室内に入ると、入り口近くに居た短髪の女子が挨拶をしてくる。
「おはよー王子様!」
俺も「おう、おはよう」と返すものの、相手はこの春から一緒のクラスになったばかりの新顔で、申し訳ないことに俺は彼女の名前さえ覚えていなかった。
にもかかわらず彼女が俺のことを「王子様」という二つ名で呼び挨拶してきたのは俺とアイツが校内ではちょっとした有名人だからだろう。
まあ、俺の国宝級の美貌を前にしては「王子様」などという通り名がついてしまうのも無理のないことだ。
まあ嘘だが。そもそもこんな称号で呼ばれているのにはまったく別の理由があるんだが。
「ねえねえ、今日からお姫様が来るんでしょ。どこにいんの?」
彼女はプレゼントを待ちわびた子供のように期待に満ちた目で俺に訊いてくる。
あんまり王子様だのお姫様だの言わないほうがいいぜ。不機嫌になる奴がいるから。
「お姫様って言うな」
俺の後ろから入ってきた春火がむっとした表情でそう釘を刺す。
そして俺に話しかけてきた短髪の少女の姿を認めると、申し訳なさそうに眉を八の字にして告げた。
「ごめん。私、実はその呼び名あんまり好きじゃないから。できれば使わないで」
少女も「えっ、あっ、うん。ごめん」とバツが悪そうにするのだった。
彼女はすぐに気まずい空気を払拭しようと春火に話しかける。
「近江さんの席はここね。休んでる間に決まったから。それでね、アタシは隣の席の永瀬っていうの。よろしくね」
「うん、よろしく!」
春火の顔にもぎこちないながら笑顔が戻る。
その後、二人の少女の間には「勉強遅れてない? 大丈夫?」などの当たり障りのない話題から会話が弾みだす。
『王子様』と『お姫様』。俺と春火をワンセットで扱うかのような渾名。
思い起こしてみれば不謹慎な理由からついた渾名ではあるが、俺はそれほどこの呼び名が嫌いではない。むしろ周囲からそう評価されていることに多少の優越感を感じるくらいだ。
だが春火にとってはそうでもないんだよな。
春火と永瀬さんが話しているところにクラスの他の女子達も次第に集まり人垣ができる。
一人だけ数日遅れで新しいクラスに加わった春火は転校生のようにチヤホヤされていた。
人気者だな春火。
俺はそんな微笑ましい光景を視界の端に収めながら自分の席に鞄を置く。
「おはよ遥介。それ、今日提出の数学のヤツ?」
そして隣の席で教科書を睨みつけている男に話しかける。
「おう、幸平」
首肯とも挨拶ともとれる「おう」だった。
真面目で温厚そうなタレ目気味の少年、彼の名は岡崎遥介。
頭髪や服装の乱れなど微塵も感じさせない、襟のホックまで締めた学ラン姿の彼は何を隠そうクラスで一、二を争うガリ勉と名高い男で、このクラスの委員長でもある。
そんな彼が俺に訊いてくる。
「昨日の宿題やってきたか? 問5の文章題ムズくね?」
「ああ、アレな。俺もアレは悩んだわ。けど解き方が閃いたらすぐだった」
「マジ? 教えてくれよ。クラスで一、二を争うガリ勉と名高い幸平くん」
いやまあ、彼の言うとおり俺と遥介で争っている感じなんだが。
これも眼鏡をかけている者の宿命か。
俺は試しに、いつもかけているフルリムの黒縁眼鏡を外してみる。
ノートの字が見えづらいだけだと気付いてすぐ元に戻した。
『こーへーさん、こーへーさん。お外に遊びに行きましょう』
その日の昼休みのことだった。
給食を食べ終えると早速大はしゃぎで俺の袖を引っ張ってくるサンタクロース。
「つってもお前、ボールとか触れないじゃん」
俺は彼女にだけ聞こえる声で言葉を返す。
『いいんです。こーへーさんが活躍している姿を見てるだけで私は十分楽しいんです』
こいつも相変わらず甘えん坊さんだなぁ。
俺が昼休みに校庭に遊びに行くのが当たり前に思われているみたいなので少し意地悪をしてみたくなった。
「さて、宿題でもするか」
彼女にそう言って、俺は机の中に手を突っ込むフリをしてみせる。
すると彼女はあからさまに驚きの表情を浮かべた後、それを取り繕うように力ない笑みを見せる。
『そ、そうですよね。こーへーさんはしょーらいのためにべんがくにいそしんでいるんですよね。私のワガママなんかでこーへーさんの貴重な時間を奪ってはいきませんよね』
「ごめんな」
『い、いいんです。私、全然落ち込んでませんから。私のことは気にせずに頑張ってお勉強してください』
めっちゃ落ち込んでます。全然隠しきれてません。
俺は机の中から手を出す。
「と、思ったけどよく考えたら今日の午前の授業じゃ、まだ宿題なんか出てなかったわ。よし、校庭に行くか」
その言葉を聞いてサンタクロースの表情がぱぁっと明るくなる。
『い、いいんですか?』
嬉しさを抑えきれない様子で訊いてくる彼女に俺は答えてやる。
「ああいいんだ、他にやることもないしな。遊びに行こうぜ」
『やったー。こーへーさん大好きです!』
そうと決まれば早く行きましょ! 行きましょうよー!と両手で俺の袖をぐいぐい引っ張るサンタ見習い。
俺は視線を窓の外に向ける。校庭ではあちこちのクラスの男子が集まってサッカーを始めていた。
あれに混ぜてもらおう。そう思って俺はクラスの友達を誘ってみる。
「遥介、遊びに行こうぜ」
と、声をかけてから気付いたが遥介のヤツは携帯を耳にあててなにやら通話中のようだった。ごめん、今気付いた。だからごめんって、そんな不機嫌そうな目で見ないでお願い。
携帯を耳にあてながら俺を見つめ返した遥介――その視線が『電話中だよ、話しかけんな』と語っている――は俺の言葉に特に返事をすることもなく通話を続ける。
「迷ったんだなお前」
どうやら遥介の電話の相手は道に迷っているらしい。ひょっとして校内でだろうか? 電話の相手は同じ学校の生徒かな?と推測してみる。
「泣くなって。わかったよ、探しにいくよ」
これから探しに行くらしい。どうやら俺のお誘いは蹴られそうな雰囲気だ。
遥介は通話を切ると俺の方を向く。
「ワリ、ちょっと用事ができたから先行っててくれ」
「その用事とやらは昼休み中に解決しそうなのか」
「わかんね。どんだけ手間取るか。俺がいけなかったときは一人で楽しんでてくれ」
いや、他の男子とかも一緒なんだから『一人で楽しむ』と言うのは語弊があるぞ。
「用事ってのは迷子探しか?」
さっきの通話中の台詞からそう推理して訊いてみる。
「おう」
遥介も会話を聞かれていたことには特になんの反応も見せず肯定してくれる。
「一年に知り合いがいたなんて初耳だな」
俺はさらに推理を進めてそう口にする。
『この学校の中って道が複雑ですからね。私達も去年は苦労しました』
サンタクロースが去年のことを思い出して疲れた顔をする。
確かにそうだった。チナが言うにはウチの学校は毎年新入生が道に迷うのは恒例らしい。嫌な学校である。
そんなこんなで遥介の電話の相手が校内で迷子になっているならほぼ間違いなく一年生だろうと推理した。
だが遥介は俺と同じ帰宅部だし、まだ新年度が始まったばかりなのに新入生と接点があるというのは意外だった。
俺が辿り着く推理など、この学校に通っている者なら誰でも思い至るものなので彼は特に驚きもせず答えてくれる。
「近所に住んでる子だよ。小さい頃からの腐れ縁でな。話したことなかったっけ?」
人それを『幼馴染』と言うのではないでしょうか?
『私とこーへーさんみたいですね』
別にそこに共感しなくてもいいよ。
「あー、前に聞いたような気がするその話」
確か一コ上と一コ下に仲のいい幼馴染の女の子がいるって話だったな。俺は会ったことはないが。
「で、遥介はどっちを狙ってるんだっけ?」
そして以前この話を聞いたときも、二股だのハーレムだのと言って冷やかしたことを思い出した。
遥介は俺の問いに、閉じた口の端を僅かに釣り上げながら一瞬間を置き、
「幼馴染だからって無条件にカップル確定にされちゃたまらねえよ。なっ? 近江さん」
と、近くを通りかかった春火に同意を求めた。
突然話を振られた春火は当然驚く。
「うううぇえ? そ、そうだね!」
それでもなんとか直前の話題を理解して賛同する。
それはつまり俺の今の冷やかしが、普段春火が『お姫様』と呼ばれて嫌な思いをしているのと同じものだという意味だ。
こんな風に皮肉で返されるとこれ以上からかえない。俺は反省した。
ついでに気まずそうにこっちを見ている春火の視線が痛い。
そうだよな。春火がお姫様扱いを嫌がるのは、つまり俺のことが嫌いとまではいかないまでも、恋人としてはありえないって思ってるってことだもんな。
ちょっと傷つく。
俺だって別に春火に恋愛感情持ってるワケじゃないけどさ。
「じゃあな、俺は行くぜ」
そう言うと遥介は教室を出て行く。
その背中に春火の、
「ま、待て! 早まっちゃいかん! キミはまだ若いんだ!」
という声がかかるが、なんのリアクションもなく遥介は去っていった。
春火と遥介は草野球仲間らしい。
俺も含めて三人は一年の頃から同じクラスだが、春火と遥介の相性は実はあまりよくなさそうに思える。
基本的に春火はボケキャラなのに遥介はツッコンでくれないことが多いからだ。今のように。
春火は遥介が出て行った扉を見ながら立ち尽くしていた。
誰かがリアクションをしてくれないと恥ずかしいのだろう。
それを察して俺は彼女の肩に手を置く。
そして振り向いた彼女に優しく、言い聞かせるように告げる。
「彼は自殺しに行ったんじゃないよ。きっとこの広い世界のどこかで生きているハズさ」
「そんなに捜索範囲を広げないでもこの狭い学校敷地内のどこかにいると思いまっす!」
今日も世界は平和だった。
俺は当初の目的通り、教室を出てグラウンドを目指すことにした。
廊下の角を曲がり、階段を降りる。
そういえばいつからだろう? 俺がこの校舎内を迷いなく歩けるようになったのは。
入学したばかりの頃は、時に教室と玄関の間でさえ何度も迷うことがあった。
『あの頃は大変でしたね。知っている道に出たーっと思ったら全然知らない場所についちゃったり』
そうだよな。違う階、違う棟に似たような廊下があるだけに自分の知っている道だと思って進んでいくと、記憶と全然違うところに行きついたり、ということがよくあったよな。
そういう道の見分け方や、迷わない道順なども教えてもらったんだっけ。
『思い出しました、思い出しました。あの眼帯のお姉さんに助けられてから、殆ど道に迷わなくなったんですよね』
そうそう、入学したばかりの頃、下校時に玄関への道がわからなくて校舎内を迷走していた俺を助けてくれた女の子がいたんだよな。
名前も訊かなかったが、彼女の右目を覆う白い眼帯は印象に残っている。
怪我をしているのかと訊いてみたが、彼女はそれをファッションだと頑なに言い張った。
眼帯をとると、左右で目の色が違うとか言ってた。目からビームが出るとか、力を制御できないとか、魔物が封印されているとかも言ってた気がする。絶対嘘だよなアレ。
それだけ目の怪我については触れて欲しくないということなのだろうか? 女の子は不思議が一杯である。
彼女には一つ上のお兄さんがいるらしく、彼の教えにより校舎内で迷わないコツを会得しているらしい。
そして俺も彼女からそれを伝授されたのだ。
彼女には感謝してもし足りないな。もし再会することがあれば、なんらかの恩返しをしたいなとぼんやり考えている。
『恩返しの方法ならあるじゃないですか。一緒に喧嘩を売ろうとかなんとか誘われてませんでしたっけ?』
あー、そうなことも言われたような記憶があるな。
彼女とは合同授業などで会う機会はあるかもしれないが、ここ数ヶ月その顔を見た記憶はない。
ひょっとして彼女はもう怪我が治って眼帯を外していて、それで眼帯をしていたときの顔しか知らない俺にはわからなくなっているのではないか?
『それは、ありえますね』
だとしたら俺ってすげー恩知らずだよなぁーと思いながら歩いていると廊下の途中で、窓の外に面白いものを見つけて足を止める。
校庭の隅に二人の女生徒がいた。俺が目を引かれたのは彼女達が手に持っているものである。
片方の女生徒は右手にグローブを嵌め、野球部が使うマウンドに立っている。もう片方の少女は右打席で金属バットを持って構えている。
ううむ、制服で野球をするとは逞しい女の子達だなあ。スカートの下には短パンでも穿いているのだろうか?
しかしこういうものに目を引かれるとは、一年以上も離れていたのに俺はまだ野球が好きらしい。
あと純粋に珍しいしね。昼休みに女子がスポーツをするといったら体育館でバドミントンあたりがメジャーだと思ってたからな。
俺は彼女達の勝負を少しでも近くで見たいと思って、窓を開けてちょっと身を乗り出してみる。
そして下を見る。
ヤバイ、高い。ここ三階じゃん。
自慢じゃないが俺は三度の飯よりも高いところが苦手なのだ。
あっ、三度の飯は大好きです。比較対象を間違えました。
とにかく高いところは恐いので、身を引いて窓を閉じる。
よし、こうなったら自分の足でグラウンドまで下りていってあの子達の勝負を観戦しよう。
俺はもともと閉まってなかった窓の鍵を閉めて、一人グラウンドを目指すことにした。
ウチの校舎は、正面玄関を出て少し行ったところに一階分の階段があり、それを降りたところが校庭になっている。
玄関を出た俺は、すぐに先程野球少女達を見つけた校庭の一角を確認してみる。
俺の視線の数百メートル先に彼女達の姿を発見することができた。
丁度ピッチャーの少女が振りかぶってボールを投げるところだった。
その左腕から放たれた白球を、バッターの少女は打ち返す。
それを見て俺の背筋が震えた。
彼女のメチャクチャ速いスイングを俺は殆ど視認できなかったからだ。
『ええっ! い、今バット振りましたか?』
俺の隣でサンタクロースが驚いている。それも無理はない。
俺は打球の行方を探してみるも見つからない、そう思っていたとき凄まじい勢いで近くの木に何かが衝突した。
まさか、と思い恐る恐るその方向を確認してみる。
そこに転がっていたは体育倉庫でよく見かける野球の軟球だった。
マジかよ。この距離を殆ど失速することなく飛んできたっていうのか?
『こ、こーへーさん顔色が悪いですよ』
サンタクロースが表情を引きつらせながら心配してくれる。
いや、ごめん。怪物を目撃した人間の顔が青ざめるのは仕方ないことなんだ。
その後何度か、彼女のバッティングを見せてもらうことにする。
彼女は全ての球を右へ左へ特大ホームランにしてみせた。中にはファールもあったか。
『凄いですね、あの子。これが試合だったら全打席ホームランですよ』
「ん? あ、ああ」
素人のサンタクロースから見れば純粋にバッターが凄いという感想しか出てこないのだろう。
けど、俺から見るとピッチャーの少女にも問題があるように思えた。
とにかく彼女の投げる球は全球ストライクなのだ。
遠くてよくわからないが多少コースを散らしながら、全てストライクゾーンに投げているということはそれだけコントロールがいいのだろうし、球も同年代じゃ滅多にお目にかかれない速さがある。
だからこそ余計に惜しい、もっとボール球を織り交ぜるとか、考えて配球すれば違うだろうに。
ブランクのある俺に彼女のような速球は投げられない。
それでも、もし俺があんな球を投げられて、配球を考えるとすれば。
そうだな追い込んだあとの決め球はインにするとして、まず追い込むまでどうやってカウントをとるか。
あのバッターの子はバットを長く持ってベース寄りに立っているから――――
そんなことを考えていると何度目かわからない弾丸ライナーがこっちの方向に飛んできた。
あのまま飛んでくとどこにぶつかるんだろうなー、と思いながら視線を巡らせると、その先に一人の女生徒が歩いていた。
「って危ねぇ!」
俺がそう叫ぶと女生徒は驚いたように顔を上げる。が、飛んでくるボールに気付く様子はない。
ダメだ、俺がなんとかしなきゃ。
そこからは頭で考えている暇はなかった。
俺は彼女の立ち位置を移動させようとしたのだろうか? 無論そんな暇はなかった。打球が到達するまでの僅かな時間では俺が彼女の元に辿り着くだけで精一杯である。
結果として俺は彼女に覆いかぶさって、殺人ライナーの盾となってしまった。それが自分の意思だったのかどうかもよくわからない。
そして後頭部に激痛が走り、前のめりに倒れてしまう。
ああ、この痛みの正体は見なくてもわかるぜ。さっきのボールが俺の頭に直撃したんだろう?
このまま俺が倒れても彼女がクッションとなり俺自身が傷つくことはない。
しかし俺の紳士としての誇りに一生消えない傷がつく!
俺はなんとか地面に両手をついて、彼女を下敷きにしてしまう事態から逃れる。
それでも押し倒すような格好になってしまったのは勘弁していただきたい。
「いってぇー」
ああ、神様仏様お許しを。
こういう事態になったら、真っ先に女の子の方を心配するのが筋なんでしょうが、俺は自分の後頭部の痛みで手一杯です。
痛みが多少治まってきたところで俺は、先ほどの女生徒に視線を転じる。
やや茶色がかったストレートロングの髪の両サイドに赤い紐状のリボンが蝶結びで結わえられ、ってそんなファッションチェックはどうでもいい! 問題はそこじゃない!
大人しそうな、あるいは気弱そうな彼女の瞳、その目尻に浮かぶ涙、頬を照らす涙の跡。それが問題だ!
やっべぇ、俺のせい? 俺が泣かせちゃった?
「だ、大丈夫か! どこか怪我したのか? 待ってろ、今保健室に連れてってやるから」
「あっ! ち、違うんです!」
と、そこで初めて彼女が口を開いた。
彼女の視線が脇を転がっているボールを捉える。
それで状況を把握したのか、
「助けていただいたんですね。ありがとうございます」
そう言って、片手を地面について彼女は立ち上がる。
「でも、これは違うんです。その、気にしないでください」
言いながら自分の指で涙を拭う。
それでも涙の跡は消しきれないと悟ったのか、俺から顔を背ける。
つまり、彼女の涙の原因はこの一件と無関係だということらしい。
だからといって俺の心が晴れるわけもない。
「やっぱり保健室に連れてこうか?」
心配になって俺はそう告げる。
それが意外だったのか彼女は、えっ?と驚いた声を出す。表情はわからない。
ひょっとして俺って今、結構ウザイ奴?
たしかに泣いている原因がなんにしても初対面の他人に話せるようなことではないだろう。
俺だって、自分が落ち込んでいるときに知らない人から心配されても、事情を話す気になんかならないし追及されるだけ正直ウザったい。
彼女の事情はわからないが、俺はじっとしてられずわからないなりに励ましの言葉を何度かかけてみる。
それでも彼女の反応は鈍く、社交儀礼的にお礼の言葉を残してその場から去っていった。
その姿が校舎の玄関に入って消えていくまで、俺はその場を動くことが出来なかった。
そして冷静になって先ほどの自分の言葉を思い出すと、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。
さっきの場面を誰かに見られてないだろうな、と俺は周りを確認する。
右よし、左よし、前後にも不審な人影は見られず。
「相変わらずの女誑しねぇ、幸平は」
安堵しかけた俺を嘲笑うかのような声が、頭上から降ってきた。
声の方向に顔を向けると、四階のベランダの手摺りに一人の女生徒が腰掛けていた。
言うまでもなく危ない。少なくとも高所恐怖症の俺には絶対真似できないクレイジーな行為である。
「いつから見てやがった、チナ」
俺は彼女に言葉を返す。
「地球が誕生したあたりから」
「一体何億年前からそこにいたんだよ!」
俺の言葉に、くっくっくと彼女は満足そうに笑う。
その笑いが治まると、少しだけ残念そうに彼女は言う。
「まっ、ホント言うと今ここに来たばっかなんだけどね。アタシが見たときにはもう事を終えて二人とも服を着てたし」
「最初から服も脱いでねえし、事も起こしてないよ!」
酷い濡れ衣をかけられました。
善意で人助けしたのに、それを悪意で曲解されました。泣いていい?
彼女は俺の反応にニヤリと意地悪な笑みを浮かべると、壁を蹴ってそこから飛び降りた。
落下しながら三階のベランダの手摺りに手をかけて、一旦減速したあと二階のベランダの手摺りを踏んで跳躍し、宙返りしながら地面に着地する。
相変わらず出鱈目な運動神経だなコイツ。
コイツにとってはいつものことだとわかっているが、俺から見ると毎度心臓に悪い。
さっきまで上を見上げていた俺の目線は、今度は自分より低い位置に向けなければならなくなった。
それほどまでに彼女は小柄で華奢だ。だからこそのあの忍者のような身軽さがあるのだろうか?
「パンツ見えたぞ」
俺は注意してやる。
「大丈夫、スパッツ穿いてるから」
「スパッツ見えたぞ」
「大丈夫、スカート穿いてるから」
「スカート見えたぞ」
「大丈夫、バリア張ってるから」
「バリア見えたぞ」
見えないけど。
「心の汚い人には見えないわよ」
なにその裸の王様。
「大体なんであんなところに座ってんだよ? あぶねーだろ」
俺は一応彼女の為を思って警告しておく。こいつには馬の耳にモーツァルトだとわかっているが。
彼女は悪びれもせず答える。
「結構いい眺めよ。野球部のキャプテンが校舎裏で彼女といちゃついているとことかも見えるし」
マジで! 俺も見たい!
彼女は腰に手を当てて、やれやれという様子で言葉を吐き出す。
「だいたい、幸平はアタシが四階ぐらいから落ちて死ぬと思ってんの?」
「まあ首と胴体が切り離されても生きてそうではあるが」
「流石にそれはウチでもヤバイわ。すぐくっつければセーフだけど。三秒ルールってヤツ」
三秒ルールすげぇ!
彼女は三年の天草千夏。
春火の小学校時代からの友人で、俺とも少なからず縁がある。
長く伸ばされた髪の両サイドに細い三つ編みが混ざっているのがチャームポイントらしい。
釣り目がちの瞳は現在悪戯っ子のように輝いていて、俺をどうやってからかおうか考えてる目だあれは。
「で、幸平はまた行きずりの女の子をナンパしてるの?」
「違う、俺は純粋に野球観戦に来ただけだ」
そう言って、俺は落ちていたボールを拾って見せる。
それを見てチナが不思議そうな顔をする。
「なにそれ、ホームランボールでもキャッチしたの?」
その反応に俺は口元をニヤリと切れ込ませる。
「キャッチどころか、弾丸ライナーをガツーンとぶつけられたぜ」
そう言って俺は自分の後頭部を軽く叩くと、校庭で野球をしている少女二名を親指で指差す。
チナの表情から笑みが消える。
「冗談でしょ。この距離よ?」
ふっふっふ、やはりそういう反応か。そりゃあ実際に自分の目で見なきゃ信じられないよなぁ。
『ホントなんです千夏さん! あの子凄いスイングが速くて、凄い速い打球が飛んできたんです』
サンタクロースが興奮気味に両手を握りしめる。
俺はチナに向かって答えてやる。
「冗談なんかにするのは勿体ないぜ。未来の女子野球界を引っ張る金の卵と出会えたんだ。是非とも今のうちにサインのひとつも貰っておこうぜ」
これ以上は時間が惜しいので俺はチナを置いて校庭に下りる。
肩越しに軽く後ろを確認するとチナは階段のところに腰掛けていた。どうやら様子見を決め込むようだ。
俺は野球少女達のところに歩いていく。
近くまで来ると彼女達の顔がわかるようになる。
二人とも見覚えのない顔だ。背丈もチナ以上に小さいし、新一年生だろうか?
「ねえ静佳、そろそろボールを探しに行かないと昼休みが終わっちゃう」
バッターの少女が困った様子でマウンドにいるもう一人の少女に話しかけている。
それに対し、ピッチャーの少女は苛立った様子で言葉を返す。
「まだ勝負は終わってないでしょ。球拾いはそのあとでも十分です」
「でもこれ以上探すボールが増えると――」
「ご心配なく。もう一球たりとも打たせないから」
完全に二人だけの世界だな、さて第一声はなんて言って声をかけよう?
まあ昼休みに友達同士でスポーツをしているところに水を差すんだから、話題はそのスポーツのことがいいな。
そう思って俺は声をかける。
「その球拾い、俺も手伝おうか?」
唐突に割り込んだ俺の声に、二人の少女が驚いて振り向く。
鳩が豆鉄砲くらったような顔をして固まっている二人の少女を観察してみる。
バッターの少女は色白の肌と気の弱そうな瞳、肩ほどまで伸ばされた緩くウェーブのかかった栗色の髪が西洋人形のような印象を受ける。
対照的にピッチャーの少女は、背中まで伸ばされた黒髪は前も後ろも綺麗に切り揃えられており精巧な日本人形のような雰囲気を持っていた。他の女子と違い、スカートの下から生える足は黒いストッキングに包まれている。
お人形さんのような可愛い女の子という表現はありきたりだが、まさにその通りの少女達だなと感じた。
「ほら、まずは一個目」
そう言って俺は持っていた軟球を、静佳と呼ばれたピッチャーの少女のグラブに納める。
「あ、ありがとうございます」
ピッチャーの少女が未だ状況を把握できない様子ながらそれを受け取ると、
「で、あなたは」
俺の顔を見上げて訊いてくる。
俺は答える。
「俺は野球の神様だ。常日頃から野球を愛してくれる少女達に今日はプレゼントを持ってきたぞ」
『私はサンタクロース見習いです。いい子にはプレゼントをあげちゃいますよ〜』
二人の野球少女は再び固まる。反応に困っているご様子だ。
むこうからしたらこっちの目的が全く見えないのだから当然の反応だろうな。
「さっきから観てたけどさ。キミ、バッターの子すごくない? ガンガンホームラン打ってるじゃん」
俺はバッターの少女の肩を軽く叩きながら話しかける。
彼女はどう反応したらいいかわからない様子で、
「あ、ありがとう」
と恥ずかしそうに答える。
初対面の相手と話すのが苦手なタイプなのかもしれない。
俺はそのまま褒めちぎることにする。
「すげーよホント。俺も野球やってたからわかるけど、どんなコースに散らされても全部ミートしてたじゃん。しかもあのフルスイングで! キミくらいの歳であんなバッティングできる奴いないって!」
俺のべた褒めトークで、バッターの少女はさらに恥ずかしそう縮こまる。
「十年に一人の天才だよホント! キミもそう思うでしょ?」
そこで俺はピッチャーの少女に話を振る。
彼女は「え、ええ」とぎこちなく頷いてくれた。
よしそろそろいいだろう。
俺は今までの褒めまくりテンションを一旦やめて、はっきりと言う。
「けど、この子を打ち取る方法がひとつだけある」
その言葉にびっくりした様子の二人の視線が俺に集まる。
俺は得意気な笑みを浮かべながら、ピッチャーの少女の目を見据えて言う。
「訊きたいか? 俺の作戦通りに投げればこの子からアウトをとれるぜ」
ピッチャーの少女は訝しげな視線を俺に向けながら、
「本当ですか?」
訊いてくる。
よし、乗ってきた。
俺は自信満々に答えてやる。
「ああ、残り十分ちょいの昼休みでそれを証明してやる」
ピッチャーの少女はしばらく俺の目を見つめたあと、
「じゃあ、教えてください」
と答えてくれた。
俺はその答えに満足してパンパンと手を叩く。
「じゃあ自己紹介から始めようか。俺は二年の相馬幸平」
「私は一年の深山静佳です」
ピッチャーの日本人形が礼儀正しく自己紹介をしてくれる。
「こっちは同じ一年の水無月麻白ちゃん」
そして隣の西洋人形を示しながらそちらも紹介してくれる。
「よろしく」
と西洋人形の少女――水無月も挨拶してくれる。
「よし、じゃあ深山。早速作戦会議だ! ちょっとこっちこい」
俺はそう宣言すると彼女を手招きして体育倉庫に呼び寄せる。
昼休みだからか、体育倉庫の木製ドアは開きっ放しだった。
中に入ってすぐの鉄籠に野球の道具が色々入っている。
全校生徒が休み時間や体育の授業で使っているものだから、どれも大分くたびれていた。
俺はその中から探し物をしながら深山に言葉を投げかける。
「深山はさ、水無月とは付き合い長いの?」
「そうですね。小学校の頃から友達ですから」
落ち着いた声で彼女は答えてくれる。俺は探し物に集中しているので彼女の表情は見えない。
「ふ〜ん、仲いいんだね。じゃあ、あの子の苦手なコースとかもわかる?」
「苦手なコース、ですか?」
そう言うと、彼女は言葉に詰まる。
そしてしばらく考えたあと、苦々しい声で答えた。
「どこに投げても打たれます」
ふっ、なるほど。
どうやらさっき見た通りみたいだ。
深山は水無月と昔からの付き合いで、野球で勝負しては負け続けている、というのがこの二人の力関係らしい。
俺は言葉を続ける。
「だよなー、やっぱ水無月はすごいバッターだよなー」
深山の表情は見えない。それに返事もない。
けど、多分不機嫌なんだろうなとわかる。
俺は声のトーンを落として続ける。
「ホント、十年に一人の天才だよ。そういう奴がいたんだ」
俺の台詞に、深山は「何の話ですか?」と怪訝そうに聞き返す。
俺は一息ついてから話を始める。
「俺さ、小学生の頃ピッチャーやってたんだわ。そんでリトルリーグで同い年でエース争いしてたライバルがいてさ。そいつがメチャクチャ速い球投げるわけよ」
深山が息を呑んだのが気配でわかった。
「周りのヤツラは大人も子供もみんな口を揃えてこう言うんだ。『アイツは別格だ。天才だ』ってな。だから――」
深山がこくりと喉を鳴らす。もう、俺が何を言いたいのかわかったのかもしれない。
「だから、俺がそいつに敵わないのも仕方ないって言外に言ってるんだ。俺にはそれが納得できなかった」
深山は答えない。
俺の言葉を、遮らないでいてくれる。
「そりゃ、俺はあんな速い球投げられないし、実力で負けてたことは認める。それでも俺はいつかそいつを越えてやるって決意して野球やってたんだ。自分が負けてて当然だなんて絶対思わない」
俺はようやく探し物が見つかって手を止める。
そして深山のほうへ顔を向ける。
「お前だって同じだろ?」
さっきの深山達の会話を思い出す。
――ねえ静佳、そろそろボールを探しに行かないと昼休みが終わっちゃう。
――まだ勝負は終わってないでしょ。球拾いはそのあとでも十分です。
――でもこれ以上探すボールが増えると、
――ご心配なく。もう一球たりとも打たせないから。
こいつは、自分が勝つまでやめないタイプだ。
相手がどんな天才だろうと怪物だろうと、自分が負けて当たり前だなんて絶対に思わない奴だ。
だからだろうか? 俺はこいつの味方をしたいと思った。
「それは――」
深山が俺の手に持っているものを指差す。
「なんだよ、これがなんだか知らないのか?」
俺は意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
深山はむっとした表情を見せたあと、もちろん知ってますよ、と言う。
「それは、キャッチャーミットじゃないですか。なんで――」
なんでって? それこそ愚問だな。俺は言う。
「野球はピッチャー一人でやるもんじゃないんだぜ」
俺はミットを左手に嵌める。これで準備は整った。
「ピッチャーとキャッチャーが力を合わせて戦うもんなんだ」
第一話 雑草魂
キャッチャーズボックスに座って、マウンドに立つ深山の姿を見る。
二、三度素振りをした後、水無月が右打席に立つ。
キャッチャーマスクは結局見つからなかった。
ファウルチップが飛んできたらどうしよう? 正直言って恐い。
俺は先程の深山との作戦会議を思い出す。
「深山も水無月も華奢で細身だよな。俺が見たところ、水無月はあの細腕であれだけの飛距離を出す為に、バットを最大まで長く持って遠心力を使ってボールを飛ばしているんだ。そのバッティングの性質上、外角の球が得意だ」
そ、そうなんですか、と深山が圧倒されている。長い付き合いの自分よりも水無月の特徴を把握していること驚きを隠せないようだ。
「でも相馬先輩。さっきは麻白ちゃんの苦手なコースを訊いてきましたよね? 得意なコースを知っても何にもならないんじゃ」
そんな深山の問いに、俺は口の端を釣り上げて人差し指を一本立てる。
「そうとも限らないぜ、バッターってのは得意なコースならボール球にも反応して打ち損じちまうこともあるし、得意なコースを待ってる内は他のコースはストライクでも見送ることもある」
そこまで言って俺は腕を組む。
「水無月はライト方向にも逆らわず流し打つ技術を持ってる。しかもそれでも十分な飛距離を出してくる」
「確かに、私じゃライト方向の打球はあんなに伸びません」
俺の呟きに深山も頷く。
「俺が考えたところ、外角の球でカウントを稼いだあと、内角を決め球にするのを基本形に配球を組み立てるのがベストだと思う。アウトコースに対応する為にはホームベース寄りに立たなければならない。そうして外角球に慣れきったところを内角を攻めれば、水無月は腕を畳んで内角球を捌くしかなくなる。水無月のバッティングスタイルを考えれば、腕を畳めばあの長打力を封じることができる。もちろんお前の制球力あってこそ作戦だが」
「ほ、本当に野球に詳しいんですね」
なんか深山が感心している。
カッコイイだろう? 惚れていいぞ。
俺は彼女に、ニッと笑みを見せてやる。
「言ったろ俺は野球の神様だって」
お前に最高の勝利をプレゼントしてやるぜ。
かくして勝負は開始される。
シンプルな一打席勝負。
作戦の第一段階はアウトコースでカウントをとること。
しかしもちろんアウトコースは水無月の得意なコース。
得意なコースに投げつつも、ヒットにさせない方法を考えなければならない。
水無月の立ち位置を確認する。
やはり、ホームベース寄りに立っている。
まずこの腰を引かせてやろう。
俺はミットをインコース、つまり水無月の体の近くに構える。
深山が頷いて振りかぶる。
そしてオーバーハンドから投じられる第一球。
胸元に来たボール球を水無月は上半身を反らせて避ける。
そして白球は俺のミットに突き刺さる。
うーん、避け方ひとつとっても本当に洗練されてるなコイツ。
それにしても女の子だから、友達にぶつけるかもしれない危険球は遠慮してしまうかもしれないという懸念があったが深山に関しては全然そんな心配はいらなかった。
今のボールだって、水無月が避けなければ当たっていたのに、謝りもせず平然としている。
こいつはこいつで大物だな。
とにかくこれでワンボール。
しかし今のボールは伏線になる。これで上半身を反らせたことにより、次にアウトコースに来たとき反応が遅れる。
だがこれだけでこのレベルのバッターを打ち取れるとは思わない。アウトコースに対応しづらくなる仕掛けがもう一つ欲しい。
「水無月、水無月」
俺は深山にボールを投げ返しながら、打席に立つバッターに話しかける。
水無月は、なんだろう?という顔で俺に振り向く。
「よく考えたらさ、深山にだけ作戦を授けるのも不公平だよな。俺は野球の神様だし、野球を愛する全ての少年少女に平等でなきゃいけない。だからさ、お前にもアドバイスをしてやるよ」
彼女はキョトンとした顔で俺を見つめる。
とてもやさしい俺は水無月にアドバイスを贈ることにする。
「ピッチャーが投げる前にさ、キャッチャーがどこに構えてるか見とくといいぞ。ピッチャーのコントロールが多少狂う可能性もあるけど、どこにボールが来るか大体のコースがわかるだろ?」
水無月は小さな声で、なるほど、と感心したように吐き出す。
俺のミットはさっきと同じコースに構えられている。つまり胸元へのボール球だ。
「ありがとう、先輩」
そしてちょっと嬉しそうな顔でお礼を言ってきた。やばい。
「お、ほら。深山が投げるぞ、もうピッチャーの方へ向いてろ」
俺はそう言って彼女との会話を打ち切る。
彼女は素直に、はい、と返事をして投手を見据える。
深山は俺が構えたミットの位置を見て、頷いたあとワインドアップから第二球を投じる。
そしてそれは、外角低めに決まる。
「え! ええ?」
バットを振ることすら出来なかった水無月は驚きの声を上げながらこっちに振り返る。
「ストライクだぞ」
と俺は答える。
『こ、こーへーさんずるいです。麻白さんが静佳さんの方を向いた後で外側に構え直しましたね』
幼女に非難されてしまう俺。
ち、違う! 読みあい、騙しあいは勝負事の常だろう! これは立派な作戦なんだ!
いいか、こういう騙されやすい人間ってのは社会に出たとき色々損をするものなんだ。野球ってのはそういう弱点も克服できる素晴らしいスポーツであってだな、だからな、その、な、えーと、ごめんなさい。
白状します。水無月にお礼を言われたときにすんごく罪悪感を感じました。
この子、純粋すぎるんだもん。人を疑うことを知らなすぎるの。お兄さんはこの子の将来がとても心配です。
「次もアウトコースに投げるぞー」
俺はそう言って外角低めにミットを構える。
それを見る水無月は泣きそうな顔で、
「もう、先輩のこと信じられない」
と、寂しげに言い残して深山の方を向く。
ごめんなさい。一人の純粋な少女を人間不信にしてしまいました。僕は悪い男です。
深山の左手から放たれる第三球、今回は俺の宣言通りアウトコースに来る。
しかし得意のアウトコースに二球連続で投げれば、彼女が打たないはずはなかった。
一瞬の閃光、こんなに近くにいてもスイングが見えないのかと俺の背筋が震えた。
そして彼女のバットに完全に捉えられた軟球は流し打ちでライト方向のフェンスの外へ消えていく。
相変わらずとんでもない飛距離だった。
もはや感服する他ない。これがライン内だったら完璧にホームランだっただろう。
俺はニヤリと笑みを浮かべながら告げる。
「ファールボール。これでツーワンな」
水無月は悔しそうに自分のバットを見つめながら呟く。
「ボール球だったのに、釣られた」
そりゃあ得意なコースだもん。釣られるよなぁ。
でも残念でした。このコースのボール球はどう打ってもファールにしかなりません。
さて、もう一球外角に外そうか。
ここでコントロールミスして中に入ってきたら洒落になんねぇ。今度は大きめに外せ。
手を出して三振すれば儲け物。だが多分振らないだろう、それでも彼女の打ち気を逸らせればこの一球の役割は十分だ。
深山が振りかぶって、第四球を投じる。
ボールは俺のほぼ構えた通り、外角低めに大きく外れる。
追い込まれてるとはいえ、ここまで大きく外れたら流石に水無月も手を出さない。
これでカウントはツーエンドツー。
さあ、最後の仕上げだ。
一球目で水無月の上体を反らせたものの、その後三球続けての外角攻めで彼女の意識はアウトコースにいってるだろう。
打席内の立ち位置がホームベース寄りに戻っているのが何よりの証拠。
ここで要求するのは一つ。俺はインコース高めにキャッチャーミットを構える。
深山の表情に僅かに笑みが浮かぶ。さっき立てた作戦通り、これが決め球であることがわかっているのだろう。
さあ、こい!
深山の左腕から白球が吐き出される。
インハイへの速球に水無月が反応して腕を畳んでバットを振る。
そしてボールは俺の要求どおりインコース高めのボールゾーン、水無月の振ったバットの上を通過し、俺のミットに収まる。
「三振! バッターアウト!」
俺が拳を握りしめそう叫ぶと、深山も左手でガッツポーズを作った。