第一章 Desert Rose 九
九
翌日、ジゼラは朝からご機嫌な様子だった。服を買ってもらったのが嬉しかったようだが、そこまで喜ぶ事だろうかとヴォルフは思う。彼女は昨日指摘した通りビスチェの下にハイネックのシャツを着ていたが、防寒にするには生地が薄かった。
一方ヴォルフは、情報屋が一週間ほど留守にしていると宿屋の主人から聞き、朝から意気消沈していた。これだけ大きな町に来て情報屋がいないとなれば、旅人なら誰でも落胆するだろう。
「魔術師」の情報は、ハナからあまり期待していない。それより次の町までの距離や、荒野を抜けるまでどれぐらい掛かるか聞いておきたかったから、不安にもなる。砂漠を抜けるまでは、植物や地面の状態からして一ヶ月程度だろうと予想している。せめて、次の町がどこにあるのかだけは知っておきたかった。
普通は地図を買えばいいのだが、荒野でそんなものは何の役にも立たない。町の方角さえ分かれば、あとはコンパスがあれば辿り着ける。これはヴォルフだけかも知れないが。
「ヴォルフ、本当に良かったのか?」
朝食を済ませて飯屋を出た所で、ジゼラはそう問いかけた。もう何度も聞かれた事だ。しつこいと言うよりは、不安なのだろう。彼は朝食でさえ人の数倍食うから、金の心配をされる理由は本人にも分かっている。
「だからいいと言った。何度も聞かんでいい」
「分かった、ありがとう」
やっと納得したようで、ジゼラは頷いてヴォルフの袖を掴む。昨日まではコートの腰辺りを掴んでいたはずだが、今日はずっと袖を握っていた。腕を取らないだけマシだろうか。
普段なら、何の情報もないならないですぐに町を出るのだが、今はジゼラがいる。せめて荷がこれで足りるかどうかだけでも確認しておきたかった。しかし手当たり次第通行人に話し掛けるのも憚られる。そもそもヴォルフが声を掛けると逃げられるから、聞いても無駄だ。今までも苦労した。
「情報屋がいない時は、どうするのだ?」
ジゼラは相変わらず忙しなく周囲に視線を巡らせつつ、そう聞いた。早足になっている彼女に合わせて大股で歩き、ヴォルフは何の気なしに視線を流す。たまたま目が合った通行人が、怯えた表情を浮かべた。
悲しくなってジゼラに視線を落とすと、彼女の目は真っ直ぐにヴォルフを見上げていた。陰りも淀んだものもない、綺麗な目だ。人攫いのようなヴォルフの顔に、怯える事もない。
「……飯屋で聞くか、そのまま町を出る」
「聞き忘れていたな。門にいた衛兵に聞こうか」
その手があった。そもそも店員以外に聞こうという頭がないから、今まで衛兵に聞こうとした事もなかったのだ。町の場所など最初から情報屋に聞かず自警団で聞いていれば、金がかかる事もなかっただろうに。
思わず黙り込むと、ジゼラは彼を見上げたまま首を傾げた。流れる髪が白い頬にかかり、肌との境目が分からなくなる。
「あなたはたまに抜けているのだな」
事実だったので否定も出来ず、ヴォルフは無言のまま門の方へ向かう。ジゼラは暫く待って返答がないと分かると、ヴォルフの横へぴったりと並んだ。
「安心してくれ、私はあなたのそういう所も好きだ」
「私はお前の頭が心配だ」
ジゼラは大きく瞬きして自分の頭に手を乗せ、そのまま撫で下ろした。それから髪を一房摘み、何かを確認するようにまじまじと見る。間違いなく、何か勘違いしている。
髪の事も最初は変だと思ったが、ヴォルフはもう見慣れた。真っ白だが艶があるので、光が当たると銀色にも見える。彼女の得物と、同じ色だ。
「確かに変かも知れないが、これはこれでいいだろう。人と一緒ではつまらぬ」
「俺が言ったのは中身の事だ」
ジゼラは勢いよく顔を上げ、驚いたように目を丸くする。怪訝に眉根を寄せると、彼女は左右に首を振った。
「なんでもない」
そうは言うものの、ジゼラはどこか嬉しそうに頬を緩めていた。余計気になるが、問い詰めるとまた下らない事を言い始めそうだったので、やめた。
人通りの多い大通りは、歩きづらかった。ヴォルフは黙っていても人が避けて行くからいいが、ジゼラは逐一誰かにぶつかっている。更にいちいち謝るから、彼女も案外律儀なものだ。
町が栄えすぎるのも困りものだと閉口しつつ、ヴォルフはジゼラに袖を掴まれた腕を後ろへ引く。察したのか彼女は背後へ回り、コートの背を掴み直した。
「あ!」
聞き覚えのある声がすると同時、人混みをかき分けて誰かが駆け寄ってくるのが視界に入る。目の前まで来てヴォルフを見上げた女性は、昨日の母親だった。
「昨日の……」
「はい。良かった、捜していたんです」
女性は安堵したように表情を緩め、ほっと息を吐いた。人ごみから頭一つ出たヴォルフは目立って見えたのだろう。彼は大柄な上に目立つ武器まで背負っているから、一度見たらなかなか忘れない。
ジゼラがヴォルフの背後から顔を出して、目を丸くした。そんな彼女を見て、女性は遠慮がちに笑みを浮かべる。
「礼はいらないとヴォルフが言ったはずだぞ」
「ええ。ですから、ご一緒にお茶でもと。そのぐらいは受け取って頂けませんか?」
ヴォルフはジゼラと顔を見合わせてから、女性に向かって曖昧に頷いた。無駄に使える時間はないが、せっかくの厚意を無碍にも出来ない。
女性はまた微笑んで、先導するように背を向けて歩き出した。ヴォルフはジゼラを引っ張るようにして彼女を追う。ジゼラより背の低い女性だったが、人混みに慣れているようで、器用に人を避けながら歩いて行く。
連れて行かれた先は、大通りからだいぶ離れた小さな家だった。辺りには密集して同じような家屋が並んでおり、人通りも少なく、静かなものだ。同じ町の中でもこれほどまでに違うのかと感心しつつ辺りを見回していたヴォルフは、扉の枠に頭をぶつけた。
「何もありませんが、座ってください」
道すがらエレナと名乗った女性が言う通り、家の中には小振りなダイニングセットしかなかった。テーブルの上には白い花瓶に入った花が飾られており、横に写真立てが置いてある。写真を撮れるということは、彼女の夫はそれなりの地位にあったのだろう。セピア色の写真の中には、幸せそうに微笑む親子の姿があった。
父と母と、赤ん坊。赤ん坊はあの少年だろうが、父親はもう、この家に帰る事はないのだろう。
写真の中の若い男は、柔和な顔立ちにそぐわない見事な甲冑を身に付けていた。肩に担いだ大きな剣を見る限り、騎士か自警団の団員だったと思われる。
「あの子は?」
ジゼラが聞くと、台所に立っていたエレナが振り向いて苦笑した。
「遊びに行ってしまったの。お礼を言いなさいと言ったのに……済みません」
父親はいなくなったが、この家にはまだ未来がある。ヴォルフは写真立てを眺めながら、エレナの謝罪に頷く。
「子供は遊び回って家にいないぐらいが丁度いい。あの位の子供は、遊びたい盛りだろう」
エレナの手元から、焼き菓子の甘い香りが漂ってくる。わざわざ菓子まで作ってくれていたようだが、会えなかったらどうするつもりだったのだろうと、ヴォルフは無用な心配をする。気を遣わせてしまった事が、申し訳なくもあった。
程なくしてエレナが持ってきたトレーの上には、パウンドケーキとティーセットが乗っていた。真っ白なティーポットは、蓋の縁が少しだけ欠けている。
「大したおもてなしも出来ないけど、どうぞ召し上がって」
「済まんな、気を遣わせて」
ケーキに手を伸ばしたのは、ヴォルフだけだった。怪訝に思って横を見ると、ジゼラは食い入るように写真立てを見つめている。彼女にも何か思う所があったのだろうかと考えながら、ヴォルフはティーカップを持ち上げた。
黙り込んだジゼラの視線の先に気付いたのか、エレナが椅子に腰を下ろしながら写真立てを取る。中から大事そうに写真を取り出す彼女を、ジゼラは無表情のまま見つめていた。
「夫は、騎士だったの。しがない下級騎士でしたが、あの銀時計は、領主様に褒章として頂いたもので」
「騎士……」
ジゼラはぽつりと呟いて、やっとティーカップを取った。感情の窺えない声だったが、彼女の無表情は何か考えているようにも見える。それきり黙りこんだジゼラの代わりに、ヴォルフが口を開いた。
「立派な方だったんだな」
「田舎騎士ですよ。殉職した事だけが、誇りの」
殉職したという事は、タロットかアルカナの襲撃に遭って亡くなったのだろう。寂しそうなエレナの表情に、ヴォルフは眉間に皺を寄せて視線を落とした。
彼女はまだ、ヴォルフより年下のように見える。それが夫を亡くし、女手一つで子供を育てて行こうとしているのだから、同情もする。それよりも夫を亡くした挙げ句、住んでいた町をタロットに襲われた彼女の不幸を哀れに思う。
「厳しいだろうに」
ジゼラは手にしたカップに視線を落としたまま、相変わらず無感動にそう呟いた。何の事かヴォルフには分からなかったが、エレナは察したようで、困ったように笑う。
「幸い、貯えがあったから。あの時計も」
「売る気なのか」
驚いて声を上げるとエレナは頷いて、エプロンのポケットから銀色の懐中時計を取り出した。すぐ少年に渡してしまったからよく見ていなかったが、蓋には細かな装飾が施されており、良い品なのであろう事が分かる。
それでも形見の品なら売るべきではないだろうと、ヴォルフは思う。こんな状況で綺麗事を言ってはいられない事も分かっているが、いずれは必ず後悔する事になる。
思い出とは、そういうものだ。手元にある時は煩わしくもあり、失くして構わないとも思う。けれどいざ失くしてみると、いとおしくて堪らなくなっている。
ヴォルフ自身幸福だった頃の事を、何度も忘れようとした。けれど思い出す度、やっぱり抱えていようと考え直す。そういうものだ。
「夫は、子供を遺して行ってくれたから。彼は、あの子が不自由なく大人になる事を、一番望んでいたから。だから、いいのよ」
その口振りは自分に言い聞かせるかのようで、胸が軋んだ。
他人が口を出していいような事ではない。しかしあの少年にとってはどうなのだろうと、ヴォルフは思う。
彼にとって、銀時計は死んだ父親の形見だったはずだ。だから一人捜しに出たのだろうし、あんなに必死になっていた。故人が望んだ事なら仕方ないのかも知れないが、手放していいものとは、到底思えない。
ヴォルフには何も言えなかった。彼は両親の形見の砂時計を、今でも持ち歩いている。ないとタロットに対抗できなくなるから、という理由もあるが、そうでなかったとしても手放したいとは思わないだろう。
「売れば必ず、後悔するぞ」
俯いて何事か考え込んでいたジゼラが唐突に顔を上げ、鋭く言った。エレナは目を見張って口をつぐみ、身を硬くする。
「何があっても、手元に残しておけ。あの子が、立派だった父親を忘れぬように」
静かな声が、違和感を覚える程に強く聞こえた。エレナは彼女の声に圧倒されたように、ゆっくりと大きく頷く。
ジゼラにも、忘れられない何かがあったのだろう。あんな町に一人で暮らしていたから、元々何もない事はないだろうとは考えていた。腕の事も含めて、あまり良い事ではないのだろうから、聞く事もしなかったが。
暫し、無言の間が落ちた。ジゼラは重い空気をものともせずパウンドケーキに手を伸ばし、一口食べておいしいと呟く。
「……あの、あなた方は何故旅を?」
ジゼラがケーキを片手に、ヴォルフを見上げた。
「この人の妹を探す為に」
「あら、お二人が兄妹だと思ってた」
どこをどう見たらそう見えるのか聞きたかったが、ヴォルフは何も言わなかった。心外そうにしかめられたジゼラの顔を、見てしまったからだ。
「違う、ふう」
「赤の他人だ」
ジゼラの言葉を遮るように、力強く断言した。赤の他人同士が二人で旅をするはずがないと自分でも思うが、事実だ。
案の定、エレナは訝しげに首を捻った。ジゼラは不満げに眉をひそめているが、それでも言い直さないよりはマシだろうか。最初から余計な事を言って欲しくはないが。
「……え、他人?」
パウンドケーキをかじりながら、ジゼラは左右に首を振る。
「照れているだけだ」
「違う」
ジゼラは真顔でヴォルフを見上げ、顔を覗き込む。ヴォルフは嫌そうな顔をした。
「私には照れているように見えるが」
「お前は頭だけでなく、目まで悪くなったのか」
「顔はいいぞ」
「あ、あの、妹さんはどうなさったんです?」
ヴォルフの表情が険しくなったのを見て、エレナが会話を遮るように問いかけた。怒ったと思ったのだろう。
しかしその問いに、ヴォルフは更に顔をしかめた。今にも人を食い殺しそうなその表情を見て、エレナが身を硬くする。
少し眉をひそめただけでこうして怯えられてしまうから、ヴォルフは滅多に表情を変えないようにしている。それなのにこの所、怖がられてばかりいた。ジゼラに会ってから災難続きだ。
「売られたのだったな。『魔術師』のところへだったか?」
黙りこんだヴォルフの代わりに、ジゼラが言った。軽々しく他人に話すような事ではないのだが、相変わらず彼女には常識がない。
しかもヴォルフは、「魔術師」の下に売られたとは一言も言っていない。事実として間違ってはいないが、彼女は物事を一つ一つ覚えていられないのかも知れなかった。
エレナは唐突に表情を曇らせて、視線を流した。不自然な仕草に、ジゼラが首を傾げる。
「魔術師というのは、地の果ての『魔術師』の事かしら?」
思わず目を見開くと、エレナがあらと呟いた。知っていると思っていたのだろうか。
「ランズ・エンド? 初耳だぞ」
「あら……ご存知ないの? 私の故郷では有名でしたよ。絶対に近付くなと」
この辺りの人の名前ではないから怪訝には思っていたが、それで納得した。彼女は、ここの生まれではないのだろう。
まさかこんな所で情報が手に入るとは思ってもみなかった。ランズ・エンドならそう遠い場所ではない。海を越える必要はあるが、既に目的地に肉迫していたという事だろう。
にも関わらず情報屋が何も知らないというのは不自然なように思われたが、海の向こうの事はこちらにはあまり伝わって来ないようでもある。情報を仕入れて売る事が生業の彼らでも、さすがにその為に高い金を出して渡航してはいられないからだ。
「そうか……道理で大陸では話を聞かん訳だ」
ヴォルフの声に被さるように、外から甲高い鐘の音が聞こえてきた。何度も繰り返し叩かれる鐘の音に、不安を煽られる。この音は何度か聞いた事があった。
一気に青ざめて、エレナが立ち上がった。ジゼラは鐘の意味が分からないようで不思議そうな顔をしていたが、ヴォルフは険しい表情を浮かべる。
「警鐘だな。何かあったか」
「私、見て来ます。ここで待っていて下さい」
言いながら、エレナは小走りでドアに近付く。しかし彼女がノブに手をかける前に、勢いよく扉が開いた。
「ママ、あいつだ! あいつが来た!」
慌てて飛び込んできたのは、少年だった。カルロスと言っただろうか。よほど急いでいたようで、息を切らしている。
エレナは両手を口元に当て、震え上がった。その反応であいつというのが何の事なのか、ヴォルフも察する。理解すると同時に立ち上がると、ジゼラが怪訝な表情を浮かべつつもそれに続いた。
扉に近付くと、少年が不思議そうな顔をして、こんにちはと呟いた。ヴォルフは微かに笑みを浮かべて見せ、ドアの前に立ち尽くしたエレナの肩をそっと叩く。
「邪魔をしたな。もう行かねばならん」
エレナは暫く呆然と口を開けたままヴォルフを見上げていたが、やがて我に返り、首を大きく横に振った。
「何言ってるの! あれはタロットが出たと報せる鐘なの、今外に出たら……」
しかしエレナは、そこで口ごもった。視線を逸らした彼女は、真顔のヴォルフが怖かったのかも知れない。
止められても、やらなければならない。タロットがどんなに危なくとも、彼には危機に晒される人々の為に出来る事がある。彼にだけは、あの災厄を止める術がある。
ヴォルフは黙ったまま、カルロスを避けて扉を開ける。その背後で、ジゼラがエレナに笑いかけた。
「ごちそうさま。お元気で」
「そんな、あなた……」
震える声が、背後で聞こえる。安心させてやる事も出来たがそうしないのは、英雄になる気など更々ないからだ。救世主と呼ばれ、憧憬と尊敬の念を一身に集めながらも、嫉妬の念に亡ぼされた両親のようになるのが、怖かった。
両親は、常人には対抗する事も出来ないタロットを根絶する為、旅をしていた。タロット達の本体がまだカードそのものだった頃の事だ。当時の事をヴォルフは知らないが、両親も彼と同じように、砂時計でタロットを無力化させていたのだと聞いている。
この世から災厄を祓い、魔術師を倒した英雄。そんな偉大な両親は、救ったはずの人の手で殺された。それでも人を恨む事が出来ないのは、人の嫉妬という感情が易々と抑制できないものである事を、分かっているからだ。
説明する気もなかったので、ヴォルフは視線を落とす。そのまま外へ出ようとして、扉の枠に頭をぶつけた。