第五章 Little Star 十
荒野の町の老婆は、老錬金術師と暮らし始めていた。老春と言うべきか。他人を信じられなかった彼女にとってこの恋は、恐らく最後になるのだろう。彼女は今、今までに騙した女達に心中謝りながら、幸福に身を委ねている。そしてほんの少しだけ、希望をくれたあの寡黙な男に、感謝している。
そこから少し離れた同じく荒野の街の女は、悩んだ末に夫の形見を売る事に決めた。母一人子一人で不自由な思いをさせるくらいなら、いっそこうした方がいいと思ったのだ。けれど査定の段階で涙が止まらなくなり、結局売れずに持ち帰った。その夜銀時計を息子に託し、彼女は安堵した。後悔する前に気付けて良かった、と。
父の形見を託された息子はそれから数年後、父の面影を追って街を守る仕事に就く事となる。仕事に出る度にこっそりと胸に忍ばせる彼の宝物は、もう動かない銀の時計だった。
そこからまた少し離れた荒野の街に住む研師の男は、見違える程の真人間へと変貌していた。どんなに高価な武器でも、もう盗もうとはしない。どんなに嫌な客の持ち物でも、これから先の旅路に幸あらん事を願いながら、大事に大事に研いだ。仲間にはバカにされたが、彼はやめなかった。いつかまた自分の研いだ剣が、誰かを救ってくれると信じていたから。
小さな村に住んでいた女錬金術師には、以前のような生活が戻ってきた。嬉しくはあったが不思議だったので、彼女はしばらくの内、村に何があったのか考えていた。やがて面倒になって、忘れた。平穏な生活に、感謝だけして。
港町の恋人達はタロットが消えてすぐに結婚した後、荒んだ町を出て島へ渡った。世話になった二人に、お礼と報告をしたかったのだ。その頃にはもうアルカナも出なくなっており、彼らは島の港町を終の住処とする事にした。ここにいれば、いつかはあの変な二人に会えると信じて。
アルカナの脅威を忘れかけていた行商の青年は、亡者を見る度喧しいほど騒ぎ立てるようになった。臆病者と笑われても、決してやめなかった。あれがどんなに恐ろしいものか死ななければ分からないのかと、その脅威を説こうとさえした。やがてアルカナがいなくなり、ランズエンド岬から逃げ帰ってきた人々は口々に言った。あれがいたから、帰れなかったのだと。あれがいなくなって、本当に良かったと。彼が正しかった事は、脅威がなくなってようやく証明されたのだ。
因みに彼は相変わらず、たくましい男が好きだった。
町から町を渡り歩いていた情報屋は、賞金稼ぎの一団に混じって戦うようになっていた。元々賞金稼ぎだった経験もあり、腕の立つ彼女は重宝がられ頼りにされ、久方ぶりに充足していた。だがやがてアルカナが現れなくなると、一団も解散した。彼女は食い扶持を稼げなくなったが、それでいいと思っていた。あの変わった二人連れが、大陸を救ってくれたに違いないのだから。
城下町の騎士は、混乱していた。目まぐるしく変わる周囲の状況に、ついて行けなかったのだ。教会は魔女狩りの首謀者は騎士団長だったのだと主張するし、何故か民衆は賛同するし、一介の下級騎士でしかない彼は混乱するばかりだ。けれど、決して揺るがなかった。愛しい人の住む街の為に奔走し、多忙を極める彼女を支え続けた。いつの日か、彼女に認めてもらう為に。
同じ街の少年は、彼にとっての英雄に手を振った次の日、錬金術師に弟子入りした。既に癖になっていた盗人稼業もすっかりやめ、真面目に勉強し続けた。いつの日か、困った誰かを救う為に。魔女の濡れ衣を着せられて刑に処された母のような、偉大な錬金術師になる為に。そして英雄が持つ砂時計を、いつかその目で見る為に。
旅人達を見送った次の日から、女騎士は毎朝毎晩祈りを捧げていた。神など信じない彼女だったが、何かせずにはいられなかったのだ。愛しい妹の為。初恋の人の為。彼女は飽きもせず、祈り続けた。日々変化して行く街の様子に、取り巻く環境に閉口しながらも、彼女は祈った。二人が無事であるように。自らが護るべきこの街に、戻ってきてくれるように。
けれどそんな事を、今の彼が知る由もない。
十
ヴォルフは地べたに座り込んで、ぼんやりと干し肉をかじっていた。気がついたら眠っていて、目が覚めたら朝だった。荷車は燃え残っていたから持ってきたが、今はどうしても火を起こす気になれない。火を見るのが、少し嫌だった。
空は嘘のように晴れ渡り、心なしか風もぬるくなったように感じられる。見上げれば、悩んでいた全ての事が馬鹿馬鹿しく思えるほど澄んだ青が広がっていた。
すぐ側に聞こえる潮騒も磯の香りも、今は心地好い。ここが「世界の果て」と呼ばれる場所とは、到底思えないほどに。
オルガからは、両親と一緒に旅をした仲なのだと聞いていた。恐らく、旅路を共にしていたのは事実だろう。違ったのは、彼女が魔女ではなくタロットだったという事だ。
オルガが自らを魔女と偽った気持ちは、分からなくもない。しかしそれというだけで差別するつもりもヴォルフにはなかったから、いささか複雑ではある。
両親が正位置に戻した「隠者」と共に旅をしていた理由にも、見当がついている。道を示すのが「隠者」の務めだ。彼女は両親に、道案内をしていたのだろう。正しい道を示すべき彼女が悔いたのはきっと、「魔術師」というタロットを消させようとしなかった事。
人の心から生まれた彼女は、人と同じ心を持っていた。だから、無理強いは出来なかったはずだ。
悔いていたからこそ、彼女は両親の力を喰った。助けに来なかった理由は不明瞭だが、祖父が何らか関係しているのではないかとヴォルフは睨んでいる。「隠者」は、晩年の祖父の面倒を見ていたのではないかと。
そしてきっと、「魔術師」に負けたのだ。だから祖父は食われ、傷付いた彼女も両親を助けられなかった。そう考えれば、彼女が両親の力を食ってまで「魔術師」に対抗しようとした理由も分かる。
そこまで考えて、どうでもいいかとヴォルフは思う。そんな昔の事はもう、どうでもいい事なのだ。
「……んー」
寝ぼけた声につられ、ヴォルフは腕の中に視線を落とす。あぐらをかいた彼の膝に座り、胸にもたれるような形で、ジゼラが眠っていた。青白かった頬は今、仄かに赤みを帯びている。破れたシャツを、かすかな吐息が揺らした。
一瞬眉間に皺を寄せた彼女は、ゆっくりと重たそうにその瞼を持ち上げた。垣間見えた目は、今朝の空のように澄んだ色をしている。濡れた睫毛は、薄い金色に見えた。
う、だかふ、だかと呻いて、ジゼラは忙しなく瞬きした。それからやっと視線を流し、まず自分がもたれているものが何なのかを確認する。
彼女はしばらくの間、そのままヴォルフの胸を見つめていた。しかし分からなかったようで、不思議そうに首を傾げる。ヴォルフは笑いを堪えきれず、鼻から噴き出す。
顔を上げたジゼラは、すぐそこにあったヴォルフの顔を見て目を丸くした。
「……あ」
今気付いたとでも言うように呟き、彼女は身を乗り出す。頭が顎にぶつかりそうになったので、ヴォルフは反対に身を引いた。まだ寝ぼけているのだろう。
「おはよう、ヴォルフ」
真顔で言われ、彼は眉間に皺を寄せた。ジゼラは渋い表情を浮かべる彼の額に手を伸ばし、そこについた傷のすぐ横をなぞる。忘れていた痛みがほんの少し蘇り、彼は眉をひそめた。
申し訳なさそうに眉尻を下げ、ジゼラは手を離す。不安げな表情を浮かべる彼女は戸惑ったように視線を流し、破れたシャツの下の包帯に気付くと、慌てて膝の上から退いた。長くこうしていたから、ヴォルフの足はとうに痺れている。
「すまぬ……痛いか?」
「足がな」
見上げたまま首を傾け、ジゼラは不思議そうに鼻を鳴らした。幼稚とも取れる仕草が、今は鬱陶しくは思わない。見慣れたというよりは、心境の変化なのだろう。
ゆっくりと辺りを見回した彼女は、地面に積もった灰を見て眉を曇らせた。それが何なのか、彼女に分かっただろうか。
「終わったのか?」
ようやく覚醒したようで、ジゼラは視線をどこへともなく流しながら問いかける。真っ赤に染まっていたはずの髪は、元の白に戻っていた。
「ああ……終わった」
おうむ返しに答えると、ジゼラはそうかと呟いてその場で膝を抱えた。片腕だけではバランスも取りづらいだろうに、彼女は地べたに座る時はいつもそうする。
真っ白な髪が肩にかかり、流れて滑り落ちる。潮風に煽られた髪は、揺れる度に太陽の光を反射して煌めいた。「死神」が最期に放った光に似て、ひどく眩しい。
「これから、どうするのだ?」
ジゼラの視線は、海に注がれていた。落ちろと言われると見るのも嫌がるのに、普通に見るのはいいようだ。海に落ちろと言われて、嫌がらない者もいないだろうが。
「決めていない」
「……そうか」
溜息混じりに呟き、ジゼラは眩しそうに目を細くした。或いはそれは、泣くのを堪えていたのかも知れない。
ヴォルフは悩んでいた。どうやって切り出せばいいのか、分からなかったのだ。一緒に来いと言えばそれでいいはずなのに、その一言を、どんな顔で口に出したらいいのか分からない。
黙り込んでいる内に、ジゼラが再び口を開く。
「たくさん、殺してしまった」
一瞬アルカナの事だろうかと、ヴォルフは思った。しかしすぐに違うと気付く。アルカナは倒す前から死んでいる。
「『戦車』は私を守った。私が生き残ったのは偶然ではない。忘れたふりをしていた」
災厄に巻かれて死んだ子供達の事を言っているのだろう。タロットが誰か特定の一人を守ったと聞くととても信じられないが、「魔術師」と「隠者」の台詞を反芻すれば合点が行く。
彼らは、祖父を主と呼んでいた。その割に「審判」は「魔術師」の事などどうでも良さそうだったから、彼らは作り出した者ではなく、魔力の供給元を主と認識するのだろう。知能はあるから、そのぐらいは分かるはずだ。
ジゼラの身の内に眠っていた魔力と怨みによって出来上がったタロットは、自らの炎から彼女を守った。彼女の怨恨によって生まれたのが復讐を意味するタロットだった理由は、察するに余りある。「戦車」を倒した後彼女の様子が変だったのは、思い出していたからなのかも知れない。
結局彼らの元になるものは、悪意でなくても良かったのだろう。負、あるいは邪でありさえすれば、なんでも良かったのだ。
「お前のせいではない」
出来る限り優しく返すと、ジゼラは抱えた膝に鼻先を埋めた。目元が赤い理由に、ヴォルフは気付いている。
「お前は何故、俺について来た?」
ジゼラは少し寂しそうに、ふふ、と笑った。
「前にも言ったが、あなたといれば食うに困らないだろうと思ったからだ。いい人そうだから、荒野に置いては行かないだろうとな」
そうだろうと、ヴォルフはやっと納得する。一目惚れしたと言われるより、よほど現実的だ。
「だがあなたがおじさんと呼ばれて悲しそうな顔をした時、本当に好きになった」
ヴォルフは噴き出した。本当はまともなのだと思っていたら、本当にただのバカだったようだ。そもそもそれは、出会って一週間も経っていない頃の話ではないか。
しかし自分も、大概にしてバカなのだ。夢見るような瞳で爪先を見つめるジゼラから目を逸らし、ヴォルフは心中独り言ちる。
しばらくブーツの先を見つめていたジゼラは、ゆっくりと足を下ろして肩の力を抜いた。地べたに曲げた足を着いて座り込むその姿は、まるきり子供だ。けれどそれでいて案外聡いのを、ヴォルフは知っている。
「あなたが妹御と会えればいいと思っていた。あなたの嬉しそうな顔が見たかった。それだけで良かった。だが、見られなかった」
独白めいた調子で呟く彼女は、寂しそうに見えた。けれどヴォルフはまだ、その肩に手を伸ばす事を躊躇う。
ジゼラはただ、きれいだった。どんなに騙されても、どんな目に遭っても、人を信じようとする事をやめなかった。そして半ば妄信的に、ヴォルフを信じていた。初めて見たものを親と思い込む、雛鳥のように。
そして共に、ここまで来た。今では後悔もない。けれど。
「何故お前は、俺のようなのを……」
もったいないだとか、そういう事は言わなかった。ただ独り言のように呟くと、ジゼラは微笑む。
「あなたのそういうところも好きだ」
どうしてこんなに臆面もなく、そんな事が言えるのだろう。
片膝を立てて身を乗り出すと、ジゼラは眉を上げて不思議そうな顔をした。構わず腕を伸ばしたヴォルフは、背中に手を添えて彼女の体を抱き寄せる。目を丸くしたジゼラは、声一つ出せないまま広い胸に身を預けていた。
髪に染み付いた潮の香りが体温に温められて立ちのぼり、鼻をくすぐる。彼女の体温がぬるく感じられるのは、自分の体温が高いからだろうか。ぼんやりと考えながら、ヴォルフは腕の中に収まった体を少し強く抱き締める。速い鼓動の音が、胸に響いた。
ジゼラはこんなに小さかっただろうか。自分が大きいだけなのは分かっているが、そう思わずにはいられなかった。こんなに小さな「星」なら、気付かなくて当然だ。
「愛している」
腕の中で、華奢な肩が跳ねた。細いだけとばかり思っていたが、その体は案外柔らかい。
そのまましばらく待ってみたが、ジゼラは硬直したまま何も言わなかった。さすがに気まずくなって体を離すと、彼女は呆然とあらぬ方向を見つめている。ヴォルフの胸を不安がよぎったが、次にジゼラの口から出たのは、思ってもみない言葉だった。
「私は死んだのか」
ヴォルフの背中が、一気に冷えた。死んではいない。だが確かに、彼女は一度死んだ。覚えていたのだろうか。
「ここは天国か何かか」
「違う」
「ならば夢だ、あなたがそんな事を言うはずがない!」
きっぱりと言い切ったが、ジゼラは大きく左右に首を振って否定した。今にも泣き出しそうに顔を歪めて、彼女は自分の胸に手を当てる。
「私が生きているはずもない! 胸に剣が刺さったのだ、あんなに痛かったのに跡も残っていないぞ。あんなに血が出たのに、どこも濡れていない」
震える声で、ジゼラは続ける。その声が痛々しくて、止めてやりたかったのに、声が出なかった。
「それにあなたはいつもうるさいとかやかましいとか、そんな事しか言わなかった。私を好きなわけが……」
「聞け」
少し怒気をこめて言うと、ジゼラは口をつぐんだ。こんな時でも素直に従う彼女が、痛々しくも見える。
「私は『死神』を返し、意を示させた。お前は『死神』の力で生き返った」
「……ならば、『魔術師』はどうした」
大きな目が、風に吹かれた湖面のように揺れている。ヴォルフは思わず黙り込んだ。
分かるはずがない。そう思っていた自分が、愚かだった。彼女が罪悪感に駆られないよう黙っているつもりだったが、気付いていたのだ。
「『魔術師』に砂時計を使わなかったのか? あっちは浄化しなかったのか?」
ヴォルフの腕を振り払うかのように、ジゼラは目一杯腕を伸ばした。しかし彼の腕は、背中に回されたまま離れない。ジゼラは構わず、怒鳴る。
「ここにはまだ、タロットの気配がある!」
近くにいるわけではない。けれど彼女の中に流れる魔女の血が、反応しているのだろう。思えば、今までも彼女は砂時計より先にタロットの存在に気付いているような節があった。
何も言えなかった。ヴォルフの中にはもう、今更後悔など浮かばない。それを冷たいと自覚してはいても、もう、全てが過ぎた事なのだ。
浅く息を吐き、ヴォルフは彼女を再び抱き寄せる。両腕で包み込むように抱きしめると、ジゼラはもう何も言わなかった。
「私はお前を選んでしまった。顔も知らん大勢を見捨てて、お前を選んだ。お前が自分の命より、俺を選んだようにな」
ジゼラが息を呑むのが分かった。伸ばされていた腕はもう、力なく下がっている。
「だって……だってそれは、私が」
「だから愛していると言った」
重ねて強く、そう言った。これで伝わらなかったらもう知らないと、半ば自棄になって。
ジゼラはしばらく沈黙した後掠れた声で呻き、目の前の胸に顔を押し付けた。シャツが濡れるのが分かる。ためらいながら背中に回された手は、やがてコートをきつく握り締めた。
「……あなたがそんなにバカだとは思わなかった」
「お前にだけは言われたくなかった」
気恥ずかしさから間髪容れずに返すと、ジゼラは鼻をすすってから顔を上げた。目は赤いが、もう涙は浮かんでいない。代わりに、すねたように唇を尖らせている。
嫌な予感がした。ジゼラがこういう顔をする時は、碌な事を言わないのだ。
「キスしてくれたら信じる」
そしてろくでもない事を言うのは、信じた証拠だ。
ヴォルフは黙って手を離し、傍らに置いてあった剣を持ってすっくと立ち上がった。ジゼラは座り込んだまま、彼を見上げて不服そうに眉をひそめる。ヴォルフの足の痺れは、もう取れていた。
ジゼラはしばらくその場で無言の訴えを続けていたが、ヴォルフが一歩離れると、脇に落ちていた剣を腰に差しつつ慌てて立ち上がった。さすがに床に転がって駄々をこねるような事はしないようだ。
「ヴォルフ待て、信じぬぞ! キスしてくれるまで信じぬ!」
ヴォルフはジゼラの駄々を無視した。黙り込んだまま手袋を外し、地面に降り積もった灰を片手で掬い上げる。燃えている間は黒いカスになっていたから何も残らないものと思っていたが、普通の紙とはやはり少し違うらしい。
掬い上げた灰の中には、何も残ってはいなかった。ヴォルフは少し落胆したが、その方が良いのだろうと思い直す。背後で騒ぐジゼラに対しては、無視を決め込む。
崖へ近付いて行くと、ジゼラは着いてこなかった。喧しい声もぴたりと止み、潮騒だけが耳朶をくすぐる。ヴォルフは片手に持った灰を、一思いに海へ撒いた。
タロット達の亡骸は風にさらわれ、一瞬にして崖下へと消えた。冬の海は限りなく透明で、何もかもを洗い流してくれそうな気さえする。彼らの罪も、己の後悔も。ヴォルフが選べなかった、苦いだけの選択肢も。
忘れてしまいたい。己の血統も、縁者の罪も、最後の最後にした許されざる選択も。けれど忘れられないから、彼はここに立っている。
「ヴォルフ……」
肩越しに振り向くと、ジゼラは俯いていた。眉尻を下げたその表情を見る限り、何か勘違いしているのだろう。
「すまぬ……怒ったか?」
顔を伏せたままの彼女の頭を子供を扱うような手付きで軽く叩き、ヴォルフは横をすり抜けて行く。ジゼラは弾かれたように顔を上げ、体ごと振り返った。
怒った訳ではない。ただ、気恥ずかしかったのだ。相変わらず逃げている事には変わりないが、このぐらいなら許されるだろうと、彼は思っている。
「ヴォルフ、もう言わない。もう言わないから」
子供が言い訳するような台詞だった。少しおかしくなって、ヴォルフは小さく噴き出す。
父の形見の両手剣を背負いながら振り返って見たジゼラは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。少し浮かれているのだと、ヴォルフは自覚している。目と目が合うと、ジゼラは不安げに瞳を揺らしてか細い声で問いかける。
「一緒にいて、いいか?」
荷車を掴んでから黙って左手を差し出すと、ジゼラはわずかに首を傾けた。相変わらず、妙なところで他人行儀だ。白い髪は潮風に煽られて舞い上がり、日光を受けてきらきらと輝いている。
「当たり前だ」
ジゼラの目が、驚いたように丸くなった。
未来も希望も、行くあてもない旅だった。どこかで力尽きて倒れ、そのまま死んでしまいたいと願っていた。或いは諦めて逃げ出して、どこか見知らぬ土地で、何も知らない振りをして静かに暮らしたいと。
けれどどちらも叶わないまま、ずるずると生きていた。旅する内に気付いた真実から逃げ、見て見ぬふりをして、結局闇の中を彷徨い続けていた。
ジゼラと出会った頃にはもう、本当は心のどこかでは諦めていた。妹を救う事など、出来るはずがないと。この広い大陸で、たった一体のタロットを探し出す事など、不可能なのだと。
ヴォルフは恐らく、疲れていた。行くあてのない旅にも、隣を歩く人のいない孤独にも。だがジゼラが無理に着いてきてしまったお陰で、彼は救われた。
最初はジゼラを一人にしたくなかったのではなく、自分が独りに戻りたくなかった。共に過ごす内、そんな事はどうでもよくなった。ただ、隣にいて欲しかった。他の誰でもない、彼女に。
「俺と生きてくれ」
目を丸くしていたジゼラは、その声が届いた瞬間弾かれたように駆け出した。数歩走ったところで飛び付き、ヴォルフの腕を取って胸に抱く。二の腕に押し付けられた頬は、かつてないほど緩んでいた。
「あなたといる」
小さな声は、涙で滲んでいた。ヴォルフが顔を覗き込むように屈むと、彼女は腕に胸を押し付けたまま顔を上げる。
目は合わさないまま、一瞬だけ唇が重なった。その温度も感触も分からないまま離れた顔は、少しの間の後、どちらも笑う。お互い今まで見せた事もないような、幸せそうな笑顔だった。
やがて二人は、また歩き出す。ジゼラは親の形見を腰に、想い続けてきた人の手を取って。ヴォルフは世界を憎んだ祖父の希望を背に、世界を救った両親の希望を懐に。そして妹と恩人との思い出を胸に、彼自身の星を左手に。お互い、この世に安寧をもたらせなかった事に、少しの罪悪感を抱いて。
持てる全てを携えて、彼らは行く。今度は進む道ではなく、戻る道を。少しだけ戻って、きっと帰りを待っている人に、ただいまと言うために。
ここまでお読みくださってありがとうございました。
細かいあとがきはサイト(PC専用)の方に掲載しております。
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何かを著しくそこなう恐れがありますので自己責任で。