第一章 Desert Rose 五
五
ベッドを借りたはいいものの、昨夜は一睡も出来なかった。その日の内に町を出るつもりだったというのに、案外長居してしまったものだ。それというのも、置いて行かないからと宥めても、ジゼラが腕を放してくれなかったせいだ。結局夕食を振る舞われ、恩を売られてしまった。
挙げ句、宿に行くと言っても放してくれず、ジゼラの家に一泊した。一つしかないベッドを客に寄越してさっさと床で寝てしまった彼女が、ヴォルフには理解出来ない。
結局朝から二人で道中の食糧を買い足してから、北の入り口へ向かう。北西の町までは三日程だろうと考えていたが、今は女の足がある。倍はかかってしまうだろう。
「……好きな町ではなかったが」
市壁の門を抜けると、ジゼラが町を振り返って呟いた。相変わらず袖のない外套を被った彼女は、僅かにフードをずらして町を見つめている。その表情から感情らしい感情は窺えないものの、眼差しはどこか眩しそうに見えた。
「いざ出るとなると、寂しいものだな」
この町でどれほどの時間を過ごしたのか聞いてはいないが、それなりに感慨も湧くのだろう。一方ここに何の愛着もないヴォルフは、あっさりと門に背を向ける。
「ならば残れば良かろう」
ヴォルフに向き直ったジゼラは、真顔だった。何故彼女が寝ている間に出て行かなかったのだろうと、自分でも思う。しかしもう後の祭りだ。
「一度決めた事は曲げてはならぬ。さあ、行こう」
ヴォルフはもう諦めていた。ジゼラには何を言っても無駄だと、昨日の時点で理解してしまったのだ。彼女とはそもそも全く会話が噛み合わない。
ジゼラは、荒野で野宿した事があるのだろうか。砂と岩以外には何もない灼熱のこの地が、夜には凍てつく程に冷え込む事を知っているのだろうか。町中、しかも家の中と野天では雲泥の差だ。ヴォルフは慣れているが、彼女があの寒暖差に耐えられるとは到底思えなかった。
ブーツの底が砂を噛む音と吹き抜ける風の泣き声だけが、ストール越しに耳へ届く。彼女はこの沈黙をどう思っているのだろう。ヴォルフは雑談が苦手で、やかましいのも好かない。だが、無言の間が気になる。他人と歩くことに慣れていないのだ。
誰かに同行を頼む予定などなかった。お節介な誰かに同行者を募れと言われても、頑なに一人を貫いてきた。それなのに何故若い女と二人、連れ立って行かなければならないのだろう。
「風が強いな。顔が痛い」
背後でジゼラが呟く声が聞こえた。確かに今日の風は少し、いつもより強い。
肩越しに振り返ると、ジゼラはフードを引っ張って風避けにしていた。暑さの為か乾燥のせいか、彼女の頬はわずかに赤くなっている。元々色が白いから、やけに際立って見えた。
ヴォルフは黙り込んだまま、ジゼラの正面へ移動した。横からの風はどうにもならないが、正面からの風避けにはなるだろう。そんな気遣いを知ってか知らずか、ジゼラは大きな背中を見上げて驚いたように目を丸くする。
「あなたは大きいな」
何を今更と思ったが、何も言わなかった。それでも彼女は続ける。
「男は皆物取りだと思っていたが、あなたのような人もいるのだな」
ジゼラの声は、少し遠くに聞こえた。気恥ずかしくなって俯き、ヴォルフは黙り込む。しかし彼女の見解は、極端すぎるような気がした。
物取りに男も女もない。貧しければ誰もがそうなる可能性はあるし、自分も彼女もまた例外ではないのだ。
ヴォルフも疑り深い性質ではあるものの、無闇に人を疑う訳ではない。しかし一度助けられただけで頭から信用するのは、いかがなものかと思う。
「毎晩誰かしら訪ねてきてな。何故だか私の外套を剥がして、こりゃいいと言う。女だからと見くびられるのも困り物だな」
「……お前は何か勘違いしていたようだな」
振り返らずに呟く。思案しているのか、数秒の間があった。
「何を?」
声が遠いのを訝しく思って振り返ると、ジゼラは少し離れたところを歩いていた。そこでやっと、ヴォルフは歩幅が全く違う事に気付く。
配慮が足りなかったと後悔しつつ歩く速度を緩めると、ジゼラは小走りに駆け寄ってきた。ヴォルフに追い付くと、彼女は外套の合わせ目から手を出して、コートの腰辺りを握る。離されまいとしているようだが、歩きづらかった。
「何を、じゃない」
「勘違いではないぞ。家に押し入ってきて服を取るのだ、物取りだろう」
「それは物取りではない。……お前はそれでよく平気だったな」
大きな目が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。何を言っているのかとでも言いたげな仕草だったが、こちらが言いたい台詞だ。
「平気ではない。男だと偽っている内は良かったが、こちらが信用して顔を見せると、途端に襲いかかってくる」
「そういう意味ではない」
「大変だったのだぞ、女だと分かった途端、掌を返したように馴れ馴れしくなってべたべたと触ってくる。失礼だ」
相変わらず会話が噛み合っていなかった。何かを訴えるようにコートを引く彼女を、子供のようだと思う。
「私と会話する気があるのかお前は」
「私はいつでもあなたと話していたいのだが」
言葉に詰まり、ヴォルフは身を引いた。しかしコートを掴まれているせいで、それ以上離れられない。
一気に疲れきって肩を落とすと、ジゼラが袖を引いた。足下に落としていた視線を上げて見た彼女は、かすかに笑っている。何を考えているのかよく分からないが、綺麗な笑顔だった。
最初から助けなければ良かったのだろうか。昨日も一晩中後悔していたが、懲りずにまだ思い悩む。助けてやらなければあのまま手込めにされていただろうが、少なくともついて来られる羽目にはなっていなかった。
荒野の風は熱く、容赦なく全身を蝕む。間の悪い事に、乾季にここを通る事になったのがヴォルフにとっての不幸だろう。この熱気に、ジゼラは耐えられるのだろうか。後悔しているくせに彼女の心配をする自分が、少し可笑しかった。
二人旅というのが嫌な訳ではない。ただ、心配だった。混乱するこの大陸を旅するということ自体が危険だし、ヴォルフの目的は他の旅人とは違う。この先どうなるか、彼本人にも分からないのだ。そんな旅に、誰が他人を同行させようと思うだろう。
「あの家は、手放して良かったのか?」
無言の間が落ちたので問い掛けると、ジゼラはフードを摘んだまま顔を上げた。頭二つ分は身長が違うから、逐一見上げていては首が痛くなるのではないか。ヴォルフはぼんやりとそんな心配をする。彼は他人が苦手な割に世話焼きだ。
「空き家だったのを、勝手に使っていただけだ。女だと誰かに知られる度に町を移動していたが、あそこには二年ほど居た」
話したいのは本当のようだが、聞きたかったのはそんな事ではなかった。惜しくないのかと聞いたつもりだったが、何にせよ空き家を勝手に使っていたなら惜しい事もないだろう。
「どこの町も一緒だった。着いて二三日は客として丁重に扱ってくれたが、出て行く気配がないと分かると態度が冷たくなる」
「定住者が増えると、働き口が減るからな。そういうものだ」
放浪していたという事は、彼女も荒野がどんな場所なのか知ってはいるのだろう。それでも不安は拭えない。ヴォルフの旅は、荒野を乗り越えるだけで済むものではないのだ。
いつ終わるのか知れない。目的地さえ、分からない。そんな先の見えない旅に若い女を、たとえ若い女でなく屈強な賞金稼ぎであったとしても、付き合わせる方が申し訳ないと思う。
なんとか説明して分かってはもらえないかと思うのだが、彼女に常識は通用しない。恐らく言っても無駄だ。どこかで諦めてくれる事を祈るばかりだった。
巻き上げられた熱砂で霞んだ行く手に、ぽっかりと空いた穴が見えた。アルカナが出た後か、掘り起こされた後か。考えながら、ヴォルフは墓穴へ近付く。
何もない荒野を地図も持たずコンパスだけで歩いて行けるのは、ヴォルフの目がいい為もあるが、所々に墓があるお陰だ。掘り返されていなくともそこだけ土の色が違ったり、墓碑代わりの板が立ててあったりするので、遠目にもすぐ分かる。
人々は概ね目印のあるような場所に墓を作る。当然ながら、こんな荒野まで訪れて祈りを捧げてくれるような聖職者もいない。場所が分かっても意味はない。
こういった荒野に住む人々が目印になるようなものの近くに墓を作るのは、穴を掘った後、自分達が帰れるようにする為だ。分かりやすい場所にあれば、墓の下にいたものが起きてきていないか、確認するのも容易となる。
タロットの災厄に見舞われた事のない人々にとって、一番の脅威となるのはアルカナ逹だ。生き物に襲いかかるだけの彼らだが、近くに何もいないと分かると、生命の多い場所を探して彷徨う。町を見つければ生者の血肉を求めて襲撃するから、どんなに離れた場所に死者を埋めても、町が襲われる可能性は充分にある。
だから人々は自警団や賞金稼ぎ逹と共に、定期的に墓へ足を向ける。死者が復活していないかどうか確認し、ひと時の安心を得るために。墓へ向かう道中で襲われたら元も子もないと、ヴォルフは思うのだが。
旅をする者としては、助かっているのは確かだ。墓の近くには必ず目印があるし、町までの道標にもなる。こちらも脅威に晒される事にはなるが、アルカナ程度、彼の敵ではない。
真に恐ろしいのは、タロットの方だ。あれらは思念体だから物理的に倒す術がないし、正に災厄と言って差し支えない程の力を持つ。時には人心を操り、町ひとつを丸々その支配下に置く事もある。アルカナと同じように頭を潰せば動きは止められるが、人の邪心を吸収してすぐに復活してしまうから、その場凌ぎにしかならない。
「あれは巣か?」
ジゼラの問い掛けに、ヴォルフは頷いた。彼女に限らず、賞金稼ぎ逹は墓を巣と呼ぶ。アルカナの巣という意味合いだが、亡者逹は別段墓穴に戻る訳ではないので、厳密に言えば巣とは違う。
だからその呼び名には違和感もあるが、墓と呼ぶよりは心理的に仕事がしやすいのだろう。ヴォルフ自身も、アルカナが出た墓穴の事に限っては巣と呼ぶ。
「掘り起こされているな。墓荒らしに遭った後だろう」
返答しながら肩越しに見たジゼラは、複雑な表情を浮かべていた。生きて行く為とは言え、彼女にも、墓を暴く事に対する罪悪感はあったのだろう。
穴に近付くにつれ、嗅ぎ知った悪臭が濃くなって行く。もう慣れているとはいえ、不快な臭いだった。煩わしい虫の羽音を聞く限り、遺体はまだ穴の中にあるのだろう。こんな灼熱の荒野でも、蝿は逞しく飛び回っている。
掘り返されているなら、中にはもう金目のものはないはずだ。わざわざ覗くのも嫌で、ヴォルフは墓穴を無視して通り過ぎる。
ふと気になって振り返ると、ジゼラは穴を見つめたまま黙って着いてきていた。この臭気に晒されても眉ひとつ動かさない彼女を、不気味にも思う。
「死者も静かに眠らせてやれぬとは、嫌な世だな。あの中の遺体がアルカナと化したら、また殺されるのか」
呟きながら、ジゼラは墓穴から顔を逸らして前を向く。その右手は、相変わらずヴォルフのコートを掴んでいた。置いて行かれる事を懸念しているのだろう。
「こちらも、生きて行かねばならん。仕方のない事だ」
前を向いたままそう返し、ヴォルフは目を細めて周囲を注視する。ここに墓があったのだから、必ず近くに目印になるようなものがあるはずだ。
舞い上がる砂に霞んではっきりとは確認出来ないが、遠くにぼんやりと何かの陰が見えた。この辺りに自生しているサボテンは美味いので、そうであって欲しいと思う。美味いといっても、他と比べてという程度ではあるが。
何にせよ食えそうな動物もいないから、蓄えは出来る限り温存しておきたい。町を出てから二時間ほどしか経っていないが、既に腹が減っていた。
「突然アルカナになったりするのだな」
ヴォルフにはその発言の方が唐突なように思えたが、言わなかった。未だ遠くを見つめたまま、彼は代わりに問い返す。
「あれが蘇ったら、お前は戦えるのか?」
「腕には覚えがあると言っただろう」
「その腕でか」
ジゼラは一瞬、黙り込んだ。気付かれていないとでも思っていたのだろうか。ずっと外套で全身を隠していたから、確かに最初は分からなかった。しかしその動作を見ていれば嫌でも気付く。
振り返って見た彼女は、目を丸くしていた。フードの影が落ちたその顔は、やけに暗く見える。
「……気付いていたのか」
「何をするにも右手しか使わん人間がどこにいる。当たり前だ」
一気に顔をしかめたジゼラは、何も言わずに俯いた。気付かれずに済むと思っていたのだろうか。無理に決まっている。
見ていないから明言は出来ないが、ジゼラには恐らく左腕がない。動かないだけなら外套越しに腕の膨らみは見えるだろうが、彼女にはそれがなかった。だから余計に、旅には同行させられないだろうと思ったのだ。
腕が立つというのも、自分でならどうとでも言える。そこまでして着いて来たがる理由はよく分からないが、考えたくもなかった。好かれるのはいいが、実際の所どうなのかは疑わしい。
「今ならまだ戻れる。引き返すなら今の内……」
言いかけて、ヴォルフは勢いよく振り返った。しかし彼がメイスを握るより先に、ジゼラが動く。
背後には、十体ばかりのアルカナがいた。乾いたものの方が多かったが、溶けた皮膚から茶色く変色した筋肉を晒すものもいる。
臭わなかった訳ではない。彼らも本能で分かっているのか、風下になる方向から近付いてきていたのだ。前方に気を取られていて気付けなかった事を後悔したが、それよりも、ヴォルフは驚愕した。
ジゼラの外套が翻り、その下から白銀の光が閃く。走った閃光は、数体のアルカナの首を正確に胴体から切り離す。星の光のようにも見えたそれは、長剣の刃だった。
見事な剣身だった。熱い太陽の光を受けて尚、冴え冴えと冷たい光を跳ね返し、鋭く輝いている。鎧を着ている事もあるアルカナの脅威に見舞われる昨今、広く使われているのは鈍器としての重たい剣だが、ジゼラの剣はそうではなかった。
主流の刃が厚い両手剣とは違い、あれは昔流行ったブロードソードに似ている。それよりは少し薄く、長年大陸を旅してきたヴォルフでも見た事がないような、白銀色をしていた。
ジゼラの剣は、しなやかだった。アルカナが手にした棍棒が振られれば身のこなしも軽やかにひらりと避け、振りかぶった腕の下から隙間を縫うように懐へ飛び込む。かと思えば相手が再び棍棒を振り上げる隙も与えず、首を狙い済まして刃を翻す。
腕に力を込めているから、そこまで切れ味が良い訳でもないのだろう。それでも普通の女の力で、死体とはいえ人の首が跳ねられるものではない。剣自体の出来もそうだが、使い手の手腕も見惚れる程だった。それにしても彼女の若さであそこまで剣を使い慣れるほど、鍛錬出来るものだろうか。
ジゼラが振った刃を避けたアルカナが、ヴォルフに向かって棍棒を振る。虚を突かれて一瞬メイスを握ったまま硬直したが、すぐ我に返り、柄から手を離して目前に迫った鉄棍を掴んだ。アルカナはそのまま両手で振り切ろうとするが、ヴォルフの片手に止められ、微動も出来ない。
亡者の手から棍棒を取り上げ、ヴォルフは灰褐色の頭を殴りつける。太い枝が折れたような鈍い音がして、アルカナがよろめく。体勢を崩した隙に、鉄球を下にして背負ったメイスを握り、持ち上げるついでに亡者の頭へ叩き付けた。その全身が地面に崩れ落ち、衝撃で死体の穴という穴から白い蛆虫が零れる。
「あなたは強いな」
掛けられた声の主は、剣を大きく振って腐汁を飛ばした。柄が十字になるようにつけられた鍔を見て、ヴォルフは怪訝に思う。ああいう剣には大体、敵の刃から手を守る為の護拳がついているのに、それがなかった。普通の武器屋にはなかなか置いていない代物だ。
彼女の足下には、死体の首と胴体がバラバラに落ちていた。もう終わったのかと、ヴォルフは感嘆する。
アルカナ達を止めるには、首を落とすか頭を破壊するか、どちらかしか手がない。だからこそ、ヴォルフは相棒にメイスを選んだのだ。彼女があの珍しい長剣を使っているのも、賞金稼ぎだったからなのだろう。
「お前はその腕で、よく戦えるな」
「慣れているからな。心配せずとも、あなたの背中は私が守ろう。大丈夫だ」
危ないから着いてくるなとも、言えなくなってしまった。ヴォルフは真っ直ぐに見上げてくるジゼラから顔を逸らし、溜息を吐いた。