第五章 Little Star 九
九
もう終わらせなくてはならない。否、終わらせる。ヴォルフは手にしたメイスをきつく握りしめ、荒くなった呼吸を整える。手に馴染んだ柄の感触が、彼を落ち着かせた。
扱いは丁寧と言えたものではないが、これももう長い旅の大半を共に歩んできた大事な相棒だ。今この時をこのメイスと迎えられた事を、彼は嬉しく思っている。
全て、忘れた訳ではない。諸悪の根源がオルガと睨み合っている「魔術師」である事も、自らの過去も。けれど今すべき事はもう、それらとは関係がなくなってしまった。
「消えるのか」
ヴォルフは「死神」を見据えたまま、そう問いかけた。直視する事すら嫌だったはずなのに、今は他のタロットと同じように、倒すべき相手なのだとしか思わない。
問いかけられたオルガは、ヴォルフに視線だけを遣って赤い唇で弧を描いた。反応はそれだけで口を開きもしなかったが、視界の端で表情の変化を捉えていたヴォルフには分かったのだろう。そうかと呟き、大きく息を吸い込む。
乱れていた呼吸は、もう落ち着いていた。張り詰めた糸のような緊張感が、場を支配している。
「……返してもらうぞ」
その独白が合図であったかのように、両者は同時に動いた。一瞬で互いとの距離を詰め、防御を全く考えない動きで得物を振る。メイスの鉄球が「死神」のローブをかすめ、大鎌の刃がヴォルフの髪を切って行く。間合いの一歩外を互いに見極め、両者はほぼ同時に体勢を立て直す。
間合いはほぼ同じ。しかし大鎌には刃渡りがあるし、重量がある分メイスの方が不利だろう。
先に間合いの内側へ入ったのは、「死神」の方だった。振った先から左肩を狙って下ろされる鎌を、ヴォルフはメイスを反対側へ振りながら横を向く事で避ける。その分次の動作への反応は遅れたが、幸いメイスの鉄球は「死神」の胸部をかすめて左腕を叩いた。衝撃を受けた事で「死神」の反応も遅れ、結果ほぼ同時に得物を構え直す。
大鎌は横から、メイスは下から。それぞれ相手を狙う。大鎌は盾にした左腕を削り、メイスもまた、身を乗り出すような体勢だった「死神」の顎を引っかけた。
刃の切っ先がコートの袖を破き、その下の腕にも抉り傷をつける。鉄球についたスパイクが「死神」の下顎にヒビを入れ、その頭を真上に向かせる。
今度はヴォルフが先に動いた。衝撃で少し浮き上がった「死神」に追い討ちをかけるように、持ち上がったメイスを振り下ろす。「死神」は退いて更に上昇する事で直撃を免れたが、ヴォルフの腕はそこで追撃をやめるほどヤワではない。
打ち下ろした勢いで地面に叩き付けられた得物はそのまま、ヴォルフは逃げた「死神」に一歩近付く。相手もそこがまだメイスの間合いの内だと気付いただろうが、逃げきるには遅かった。土くれを巻き上げながら振り上げられた巨大な鈍器が、ローブに隠れた骨だけの脚を直撃する。
痛みを感じないタロットの体を削っても、大した意味はない。けれど実体はある。体の一部が欠損すれば感覚が変わり、多少なりとも動きは鈍くなる。ヴォルフは最初から、足を止める事だけを狙っていた。
骨だけの足は半ばから折れたようで、脛から先が地面に転がり落ちた。しかし「死神」は足がなくなった事さえ些末な事であるかのように、再びヴォルフに迫る。
否、動きは少し遅くなった。見込み通りだった事に安堵を覚えつつ、ヴォルフは振り下ろされた鎌を紙一重で避ける。横から来れば逃げるのは難しいが、縦方向から来れば避けるのに造作もない。
しかし鎌はヴォルフの肩の横を通りすぎた辺りで、突然その向きを変えた。刃が煌めいた事でその動きを予測した彼は、即座に後ろへ飛び退く。が、わずかに間に合わない。
鎌の切っ先が、胸を掠める。分厚いコートのお陰で深く抉られる事はなかったものの、横一直線に裂けた胸から血が流れ、破れたシャツを赤く染めた。胸からじわりと広がった痛みが、肩を痺れさせる。
小さく舌打ちを漏らし、ヴォルフは右手側へ持って行ったメイスを左へ振った。痛みで動きが鈍ったか、「死神」は易々とそれを避ける。太い腕が逃げた異形を追い、更に得物を振る。鉄球は髑髏の鼻先を掠めたが、それだけだった。
流石に疲れを覚えて体勢を立て直そうとするヴォルフに、「死神」は無慈悲にもその大鎌を振り下ろした。脳天を狙った一撃を横へ跳んで避けようとしたが、これも間に合わず、鋭い切っ先が右の二の腕を抉る。焼けつくような痛みに呻き、ヴォルフは顔をしかめつつも咄嗟にその場から逃げた。
幸い骨にまでは達しなかったが、右腕をやられてはさしもの彼も焦りを覚える。鼓動に合わせてじんじんと痛む腕の傷から血が溢れ、茶色いコートの袖を黒く染めた。痛みの為か出血した為か指先が痺れるが、それを堪えるように、手元へ戻したメイスを握りしめる。
頭の回る化け物達を相手にして利き腕をやられる事など、何度もあった。何も今回が初めてではない。いつだって、耐えてきたではないか。
腕の痛みなど、胸の空虚を満たすほどもない。この胸が今までに感じた痛みよりは、遥かに軽い。
再び近付いてきた異形を迎え撃つべく、ヴォルフはメイスを握りしめた腕をゆっくりと持ち上げる。
大丈夫。まだ動く。そう自分を落ち着かせ、彼は眼光鋭く「死神」を睨み付ける。
その時ヴォルフの目には、頭蓋骨しかないはずの「死神」の顔が、笑ったように見えた。
両者の得物が同時に振り上げられ、同時に互いへ迫る。力任せに振ったメイスは、同じく渾身の力で振られた鎌の刃に止められた。拮抗する間もなく互いに得物を引き、間髪容れず繰り出された二撃目は、どちらも鼻先を掠めるだけ。
ヴォルフの頭から、もう腕の傷の事は抜けていた。体勢を立て直すでもなく彼は上から、「死神」は下から。一歩近付きながらの、三撃目。
鉄クズが目一杯入った籠の中身をぶちまけたような、凄まじい音がした。
大鎌の刃が真っ二つに折れて、回転しながら飛んで行く。同じくメイスの方も長年の酷使にここへ来て耐えられなくなったのか、鉄球部分が外れてごろりと地面に転がった。
しかしヴォルフの目は、未だ光を宿している。見開いたグレーの目は興奮のせいか疲労の為か、血走っていた。餓えた狼のそれにも似た、獰猛な光。
折れた鉄柄を投げ捨てると、「死神」も同様に大鎌を落とした。そして当たり前のように同時に繰り出されたのは、拳。
ヴォルフの額には、「死神」の骨だけの拳がめり込んでいた。脳が揺れるような鈍い頭痛が一瞬襲ってくるが、長引きはせずすぐに消える。硬い骨に殴り付けられた額から、一筋の血が流れた。左腕で庇わなかったのは、受け止められると確信していたからだ。
「死神」の左腕は胸の前に出されていたが、肘から先がなくなっていた。ヴォルフの拳の一撃に耐えきれず、肘から折れたのだ。
これにはさしもの異形も動揺したか、身を引こうとする。しかしヴォルフはそれを許さない。そもそもタロットとはいえ骨だけの身で、鍛え抜かれた生身の腕に敵うはずもなかった。
逃げようとする「死神」の肩を砂時計を親指に握り込んだ左手で掴み、ヴォルフは拳を振りかぶる。骨だけの右腕が顔の前にかざされるが、彼は構わず渾身の力をこめて、髑髏を殴りつけた。
太い枝が折れるような鈍い音がして、右腕までもが折られる。それでも拳の勢いは衰えず、衝撃でフードが外れ、真っ向から正拳を食らった髑髏が首からもげ落ちて吹っ飛んだ。
「……流石というか」
呟いたオルガの表情は、苦かった。今の彼女が何を思うのか、誰にも分からないだろう。
強いカビの臭いが、鼻を突く。首が落ちてもしばらくその場に浮かんでいた「死神」の体は、やがて糸の切れた操り人形の如く地に落ちた。ヴォルフは深く息を吐き、額から流れた血を拭う。
それから左手を開いて、彼は砂時計を見る。「死神」と「魔術師」が同時に見たせいなのか、砂はまだ完全に落ちていない。しかしその金色の光は慈しむように温かく、傷を癒そうとしてくれているかのようだった。
まだだ。まだ、終わってはいない。
砂時計を握り込んで振り返ると、「魔術師」は薄笑いを浮かべていた。力強い足取りでゆっくりと近付くヴォルフを眺めるその顔は、祖父と瓜二つだ。しかし浮かべる表情は、まるで別人だった。当然だろう。別人どころか、これは人ですらないのだから。
「分かっているのかァ? お前」
問いかけに答えず、ヴォルフはオルガに右手を差し出す。彼女は何も言われずとも意図する所が分かったようで、黙って手にしていた剣を渡した。
「『死神』を返しても、救われるのは一人だけだ。根本的な解決にはなりゃせん」
ヴォルフは答えない。ただ剣を手に取ってしげしげと眺め、それが確かにかつての自分の持ち物である事を確認する。
柄に巻かれた滑り止めの布にも、幅広の刃についた傷の位置にも、欠けにも、見覚えがある。これは確かに「審判」に折られた剣だ。父もヴォルフと同じく何本も剣を折っていたようだから、形見と呼ぶには物足りない代物ではあるが。
「お前の希望を捨てねば、タロットは永遠に発生し続ける。この大陸に、魔術師の血を引く者がいる限り」
そんな事は百も承知だ。だから今、ヴォルフはまた悩み始めている。
やり直せばいいという話ではない。今を逃したら、どちらを先にしても二度と返せなくなるだろう。「死神」は倒してしまったから、こちらに砂時計を使わなければ未だカードを媒体としているあれは確実に消滅する。「魔術師」はもう二度と、砂時計を逆さにするのを目視しないはずだ。
チャンスは一度きり。砂時計をどちらに使うべきなのかは、理性では分かっている。
けれどそれは恐らく自己満足にしかならないし、ヴォルフ自身が望む道とは違う。きっとどちらを選んでも、これから先の人生、ヴォルフは後悔し続ける事になる。
「私を返さねば、人間共は永遠に、自らの業を背負わされる事になるだろうよゥ。お前の大願は果たされない。それも楽しいもんだが」
言葉通りの、愉快そうな口振りだった。しかしヴォルフの表情は変わらない。
それどころか、彼は「魔術師」を真っ向から見据え、笑った。目だけは鋭いまま、口角をつり上げて。どこか挑戦的なその表情に、老爺は片目を細くする。
「貴様の御託には、もう揺るがん」
「魔術師」が手にした片手剣が、空中に銀色の線を描いた。しかし反応出来ないヴォルフでもなく、即座に剣を構えて受け止める。見た目からは想像もつかないような力だったが、彼の筋力があれば止めるには造作もない。
こんなものを、恐れていたのだろうか。こんな矮小なものを今までずっと追い求め、憎んできたのだろうか。
「俺はな、もうお前の事などどうでもいい」
そこで一旦言葉を止め、ヴォルフは「魔術師」の剣を弾き返す。力はあるが、「死神」と戦った後だと弱く感じた。
「なら、何故戦う」
「憎い者を叩き潰すのに、理由が必要なのか」
弾いた勢いのまま刃の向きを変えて叩きつけた剣は、相手の剣に止められた。姿勢を低くしないと届かない分、いささか足に負担がかかる。足を傷つけられなかった事を幸運と取るべきだろう。
元よりヴォルフの大願は、大陸を救う事ではなかった。そんな事はどうでもよくて、ただただ「魔術師」を恨んでいた。家族を根こそぎ奪い去った、怨敵として。
「乱暴なもんだァ、誰に似た? お前の妹はあんなに可愛かったのによゥ」
ヴォルフの眉間に皺が寄り、剣を押す力が更に強くなった。しかし「魔術師」の表情は変わらず、余裕を見せている。
これは、最愛の妹を食らった。それだけで充分ヴォルフが恨む理由にはなる。しかし恐れる理由には、なり得ただろうか。
信じたくなかったから、恐れていた。何が目的で連れ去ったのか分からなかったから、尚の事怖かったのだ。つまり恐怖心も、逃げだったのだろう。
思えば、なんと多くの事から逃げ続けていたのだろう。ヴォルフは自分が情けなくなり、自嘲の笑みをこぼす。
「人は仇の前なら非情になれる。その逆もな」
怪訝に眉をひそめた「魔術師」から一旦離れ、ヴォルフは間髪容れず横なぎに剣を振るう。メイスばかり握っていたせいで忘れていた感覚が、ようやく戻ってきた。「魔術師」は剣を立てて刃先に左手を添え、ヴォルフの一撃を受け止める。
しかしさすがに受けきらなかったか、ローブのゆったりとした袖に包まれた腕が揺れた。ヴォルフはすぐに腕を引いて、反対側から相手の腕を狙う。だがそちらも、止められた。
「所詮お前は、お前の主が捨てたかった感情の掃き溜めでしかなかった」
細い目を一気に見開き、「魔術師」はヴォルフの剣の下からすり抜ける。罵倒されて怒るという感情はあるのかと、ヴォルフは場違いにも感心した。
一旦逃げた「魔術師」は、追いかけようとするヴォルフに人差し指を向ける。目の前に凝固して行く冷気が見えた瞬間、ヴォルフは振り上げた剣でそれを叩き割った。「魔術師」は更に氷柱を作り出すが、そちらも避ける。
森の中でもこちらでもオルガと戦っていたから、もう力が残っていないのだろう。魔力さえなければ、「魔術師」とは無力なタロットなのだ。それこそ、ただの老人のように。
「だが哀れとは思わん。お前を倒して初めて、祖父の大望は果たされる」
果たして何が理由だったか。老爺の動きが、一瞬止まった。ヴォルフはその隙に一歩で距離を詰め、剣を振る。「魔術師」も剣での防御を図ったが、今の彼にヴォルフの渾身の一撃を受け止められようはずもなかった。
横なぎに払われた剣は、盾にされた剣ごと「魔術師」を弾き飛ばした。剣が折れる金属音ではなく、枝が折れる音がする。
後方へ吹き飛ばされた「魔術師」に、ヴォルフは更に追いすがる。倒れ込んだ「魔術師」をまたぐように仁王立ちになり、切っ先を下にして剣を持ちかえた。老爺は最早諦めたのか、苦い表情でヴォルフを見上げるばかりだ。
「お前の主が改心した理由を、知っているか?」
老爺は答えなかった。ただ感情の読めない目でヴォルフを見上げ、黙り込んでいる。
ヴォルフは少し待ったが、「魔術師」が何も言わないと分かると浅く息を吐いた。振り上げた剣の先は、「魔術師」の胸を狙っている。それでも、タロットは動かない。
知っていた。知っていたのに、気付かない振りをしていた。それがなんと、愚かな事だったろう。
「子供という希望がまだ残っていた事に、気付いたからだ」
勢いよく下ろされた切っ先が、「魔術師」の胸を貫いた。穿たれた胸から黒い体液が流れ、痩せた体が小さく跳ねる。けれど、それだけだった。
動かない「魔術師」をしばらく見ていたヴォルフは、やがてその上から退いた。人間ならば心臓のある辺りを貫いていたが、剣を引き抜いても体液が溢れるような事はない。あまりにも、呆気なかった。
何故だかひどく、むなしかった。達成感にも似た喪失感が、胸の風穴を吹き抜ける。こんなものの為に、十数年もの月日を無駄にしてしまった。
「燃やそう、ヴォルフ」
背後から聞こえた声に振り向くと、オルガがいた。右手首にはカンテラを提げ、「死神」の髑髏とジゼラの剣を持っている。左腕には、もう動かないジゼラを抱えていた。器用なものだ。
「燃やせば消滅する。儂もな」
「お前……」
事も無げに消えると口にするオルガに、ヴォルフは顔をしかめた。しかし呟いてから口をつぐみ、緩く左右に首を振る。
左手を出すと、彼女はその腕にジゼラを預けた。両手剣を持った右手にジゼラの剣を握らせ、オルガは髑髏を空いた手に持ちかえる。
ジゼラの目は見開いていたはずだが、オルガが閉じたのだろう。長い睫毛が、青白い顔に影を落としている。
紙のように白くなった頬が痛々しく、ヴォルフは眉間を皺を寄せる。元々白かったのに、まだ白くなれたのか。
思えば随分と、たくさんのものを持っていた。その全てが自分にとっての星だったのに、ヴォルフは気付かなかったのだ。愚者と罵られて、しかるべきだった。
「……お前は何故、私に手を貸していた」
ふ、と鼻で笑う音がした。
「主を殺すべきだったのを、殺してやれなかったからだ」
「父が拒んだのか?」
ああと呟いて、オルガは海へ視線を移す。懐かしむような、優しい目だった。
「お前の祖父は儂に、全て燃やしてくれと言った。だが、儂には出来んかった。お前にはすまないと思っておるよ」
何故そうなのかは、聞かなかった。聞いても彼らの事情はヴォルフには分からないし、聞くべきではないと思ったのだ。聞いたところで、彼女が救われるわけでもない。
何も聞かないヴォルフを、オルガは笑った。どことなく嬉しそうだったから、何も聞かなくて正解だったのだろう。
「さあ選べ、ヴォルフ」
突然真顔になって、オルガは「死神」の髑髏をヴォルフの眼前に突きつけた。もの言わぬ骨は、その二つの闇で彼を見つめている。
「『死神』を返して、己を救うか。『魔術師』を返して、世界を救うか」
彼は人を恨んでいた。魔術師の血が流れているというだけで彼らを救ったはずの夫妻を殺し、幼い兄妹をも迫害した人間達を。人の嫉妬の炎に焼かれ、両親は死んだ。人の僻見によって、妹はその幼い命を奪われた。
だからといって、復讐する気はなかった。積極的に復讐する気も、許す気にもなれない。人間すべてが悪い訳でない事も分かっている。
だからこそ、ヴォルフは人々を助けて回っていた。それが自分の為になると信じて。
けれど人間全てと腕の中にいるこの女とどちらを選ぶかと聞かれたら、答えは決まっている。タロットが残ろうと、人類が滅亡する訳ではない。だがタロットを根本から消滅させる道を選べば、ジゼラは二度と戻らない。
結局は自分も、身勝手な人間でしかないのだ。
「赦して、くれるか」
問いかけても、オルガは微笑むだけだった。ヴォルフはそっと左手を開き、砂時計を確認する。見るからにみすぼらしかったはずのそれは、もう金色の光を放っていた。黒い砂は、欠片も残っていない。
一つ息を吐いたヴォルフは、ふと顔を上げて「魔術師」の様子を確認した。そして、一気に青ざめる。
老爺が倒れていた場所には、何もいなかった。あるのは地面に広がった黒い染みだけだ。驚愕の表情を浮かべるヴォルフを見たオルガが目を見開き、空を仰ぎ見る。そこから、耳障りな高笑いが聞こえた。
「愚か者共が!」
老爺は、空中にいた。胸部に風穴を空けたまま、宙に浮かんでいる。
すっかり油断していた。魔力をすっかり失っていたから弱いのだと思い込んでいたが、あれはタロットなのだ。人など到底抗う事もかなわない、世界にとっての災厄。
「往生際の悪い……」
憎々しげに吐き捨てたオルガがカンテラをかざしたが、「魔術師」の指も同時に彼女を向いた。ガラスの瓶を落としたような音が鳴り響き、虚空に浮かんだ氷塊が炎に包まれて溶けて行く。
最早ヴォルフに、打つ手はなかった。オルガの炎は氷に阻まれ、「魔術師」に届かない。重い両手剣では、いくらヴォルフが投げたところであそこまで届かないだろう。かといってここであれに砂時計を使ってしまったら、ジゼラは。
安心しきっていた、自分の落ち度だ。一度動かなくなったとしても、タロットがすぐに復活する事など嫌と言うほど分かりきっていたのに。祖父に似ていても、あれは人間ではない。ただの醜悪な化け物なのだ。
もう、諦めるしかないのか。そんな思いが胸をよぎった矢先、右手が震えた。
驚いて見れば手ではなく、そこに握ったジゼラの剣が震えている。装飾を全て外されてかつての面影を失った剣は、自由意志でもあるかのようにひとりでに揺れていた。ここにいると、訴えかけるように。
使えと言うのか。死んで尚、お前は俺の心配しか出来ないのか。
心中語りかけ、ヴォルフは両手剣を置いた。そして一思いに、音を立てて震える剣を引き抜く。白銀の刃は彼女の髪に似て、鮮烈に輝いていた。
オルガに気を取られていた「魔術師」は、そこでやっとヴォルフに気付いて目の色を変えた。が、もう遅い。
「……魔女の血、か」
呟いたオルガの声が、何故か遠くに聞こえた。
振りかぶって投げつけた剣は真っ直ぐに飛び、正確に「魔術師」の首を貫いた。甲高い絶叫と共に地に落ちた「魔術師」に、オルガが駆け寄る。その姿に、ヴォルフはまた驚いた。
彼女の全身は、炎に包まれていた。狂気のような赤い炎ではなく、「審判」の中で見た光のような、温かな炎。
「オルガ!」
思わず叫んだ。尚も逃れようとする「魔術師」を羽交い締めにしたオルガは、ヴォルフに向かって左手を伸ばす。右手に持っていたカンテラはいつしか消えており、その左手の上には「死神」の頭部が乗っていた。
「隠者」の全身を包む炎が、「魔術師」に燃え移る。艶やかだった髪は確かに燃えているのに、漂ってくる臭いは紙が燃える時のそれだった。何故だか虚しくなって、ヴォルフは肩を落とす。
過去、一人の男の怨念から産まれた災厄が、今やっと消え去ろうとしている。最悪の禍と呼ばれたあの災厄の正体は、ただの紙切れだった。どんなにか、深い怨念だった事だろう。
「ヴォルフ」
くぐもった声と共に、「魔術師」の首から引き抜かれた剣がヴォルフに向かって投げ付けられた。難なく受け止めたそれは、変わらぬ銀色に光っている。二体のタロットを呑み込んで、燃え盛る炎に照らされて。
「選ぶがいい、ヴォルフ。お前はもう自由だ」
恩人の声は、ひどく潰れていた。その腕の中でもがいていた小さな老爺は、もう真っ黒に変色している。
「振り返るな。もう誰もお前を咎めない。お前の道を行け、今度こそ」
全ての罪を呑み込んだ橙色の炎から、黒煙が立ち上る。陰鬱な灰色をしていた空は、いつしか光を透かしていた。
ヴォルフは込み上げるものを堪え、左手の砂時計を炎にかざす。つき出された手の上の髑髏は、その漆黒の双眸に金色の光を映している。けれどもう、口も利かない。
「……ありがとう」
炎の中で、オルガは微笑んだ。
今度こそ、自分の為に。両親の、妹の、祖父の為に過ごした十数年を捨て、自分の道を。たとえ見知らぬ誰かを、犠牲にしたとしても。
酸い唾液を飲み込み、ヴォルフは大きく息を吸い込んだ。
「逆位置を向き、その意を示せ」
もう幾度となく放った言葉。それがこんなにも、喉を詰まらせる。
後悔と、ほんの少しの申し訳なさ。これから先への期待と不安。ここまで来た達成感と、その全てを無に帰す事への喪失感。それらが全て入り交じり、ヴォルフの目を覆う。
「『死神』よ!」
怒鳴るような声が「世界の果て」に響いた刹那、真っ白な光が辺りを包む。清廉にして純粋な、まばゆい光。
今まで助けた人の顔が、ヴォルフの脳裏をよぎっては消えていく。光があまりに眩しくて、その目にはもう何も映らない。出会った人々に心の中で謝りながら、彼は目を閉じる。
「俺の星を、返してくれ」
空を覆っていた雲が、晴れて行く。