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第五章 Little Star 八

 八


 長い悪夢を見ていた。失ったものと逃げて来たもの、置いてきたものと忘れたもの。その全てがせめぎ合い、奔流となって胸をかき乱す。けれど彼は、逃げなかった。今度こそ逃げずに立ち向かうと、心に決めた。

 夢うつつに見たものは、残酷な現実だった。過去として切り捨てたはずの、いとおしい思い出だった。そうして忘れたふりをした記憶で、「審判」というタロットは彼を揺さぶったのだ。

 けれど今は、過去よりもっと後悔している。だから忘れた過去を突きつけられてもヴォルフが揺るがなかったのは、偏にジゼラのお陰だと言っても過言ではないだろう。けれどもう、謝る事も、感謝の意を示す事も出来ない。

 ならばもう、戦う事しか出来ないのだ。救われた命を無駄に使う事がないよう。最初の目的を、果たすために。

 そして彼は、呟く。

「……『審判ジャッジメント』よ」

 左手に握り締めた砂時計は、金色に光っている。急速に戻ってきた視界に映るのは、代わり映えしない曇天とひび割れた仮面。その奥から見ていた視線は、いつしか消えている。

 過去は取り戻せない。いくら悔いても今の自分に出来る事はない。逃げてきた全てと向き合って、ヴォルフはようやくその結論に達した。あまつさえ求めていた希望がすぐそばにあった事に今更気付くとは、滑稽にも程がある。失くしてからでは、意味がないというのに。

 濃い血の臭いが、ヴォルフの顔をしかめさせる。耳に残る潮騒に、もう郷愁は抱かない。

「正位置へ直り、その意を取り戻せ」

 今にも泣き出しそうな鉛色の空に、絶叫が響き渡る。少し離れた場所からその様子を見守っていたオルガが、安堵の息を吐いた。

 一つ息を吐いて吸い込んだヴォルフの鼻に、カビの臭いが届く。目を見開いて振り返った彼の目に入ったのは、抗いようのない現実だった。地に伏したジゼラの胸に刺さっていた宝剣は「審判」の消滅と共に消えていたが、だからと言って生き返るわけでもない。

 そして彼女の上には、漆黒の影が見えた。見えるはずのなかったその姿に、ヴォルフは硬直する。

 すりきれてぼろぼろになった漆黒のローブを纏い、そのタロットは空中に佇んでいた。骨だけの手には巨大な鎌を持ち、じっとジゼラを見下ろしている。目深に被ったフードの奥にあるのは、真っ白な髑髏。

「『死神デス』!」

 叫んだヴォルフの声に反応し、「死神」は彼にその顔を向けた。二つの空虚に見据えられ、彼は震え上がる。

 命ある者なら誰もが恐れる、死。それが実体となって目の前にいるのだ。ヴォルフが立ち竦んだのも、当然の事だろう。

「死に直面した時だけ、『死神』の姿はその目に映る」

 声のした方を見ると、オルガは厳しい表情で「死神」を見つめていた。すぐ傍では、「魔術師」が苦々しく唇を歪ませている。

 見えたところで、こんなものをどうにか出来るはずもない。「死神」とはつまり死、自然現象だ。どう抗おうとも必然としてやってくる、逃れようのない終わり。

 ヴォルフはゆっくりとオルガから視線を外し、「死神」を見る。少し離れたところにいても、その威圧感がひしひしと伝わってくる。喉元に刃を突きつけられたように、動けなかった。

 自分は、怯えているのだろうか。そうは思いたくない。恐れているだけなのだ。

 万人に等しく訪れる、死という災厄。何人たりとも逃れる事の叶わない、最悪の事象。それを恐れずして、何を恐れるというのだろうか。

 そもそも「死神」とは、終わった命を死後の世界とやらへ連れて行くだけだ。危害を加えなければこちらには何もしてこない。黙ってやり過ごせばそれでいい。今は「魔術師」だけ、相手にすればいい。

「諦めるのか、ヴォルフ」

 厳しいオルガの声に、彼の心臓が跳ね上がった。諦めたつもりはない。けれど何故だか、核心を突かれたような気分だった。

 これは逃げだ。そんな事ぐらい分かっていた。けれどあの「死神」に立ち向かえる気が、どうしてもしない。直視するだけで寒気がして、この場にいる事すら嫌になるのだ。

 けれど彼は見たくもない「死神」に、その目を向けた。死そのものの骨だけの両腕が、ゆっくりと大鎌を握る。もう死んでいるのに、あれは一体何をするつもりなのだろう。これ以上、傷つけるというのか。

「その砂時計は何の為にある? お前の希望はどこだ?」

 死から逃げるように、ヴォルフはゆっくりと後ずさりする。その足が何かにぶつかり、彼は視線を落とした。

 落ちていたのはジゼラの剣だった。曇天の下でも僅かな光を受けて、鈍く銀色に輝いている。その光が、持ち主を失って泣いているように見えた。

 泣きたいのは、こっちだ。

「死神」がジゼラの頭上に鎌を振りかぶった瞬間、ヴォルフは咄嗟に左手で剣を取った。そこに意図はない。ただ無性に腹が立って、仕方がなかった。

「無駄だ! 死に逆らうのか!」

 叫ぶ「魔術師」の声も、今のヴォルフの耳には入らない。込み上げる怒りと衝動に任せ、彼は持ち主をなくした剣を振り上げる。そして今まさに鎌を振り下ろさんとする「死神」めがけ、手にした剣を投げつけた。

 真っ直ぐに飛んだ銀色の刃は「死神」の鎌に当たり、甲高い音を立てた。弾き飛ばす事こそ出来なかったものの、湾曲した刃の向きが変わる。

 その動きを止めた「死神」は緩慢な動作で鎌を下ろし、ヴォルフを見た。何の感情も見出せない虚無と向き合っても、彼はもう恐れない。元々死ぬつもりの旅だったのだ。恐れる方がおかしいではないか。

「それは連れては行かせんぞ」

 潮風にあおられ、「死神」のローブの裾がはためいた。ヴォルフの髪も、同じく揺れる。

 まだ希望はある。命もある。諦めるには、早すぎる。

「愚者……か」

 地の底から響くような声は、頭の中に直接響いた。それが彼ら特有の比喩だと気付いたのは、つい最近の事だ。

 がむしゃらに進むがあまり、足下の崖にも気付かない愚か者。そういう意味で、タロット達はヴォルフを愚者と呼んでいた。けれど彼は知っている。

 愚者には、未来きぼうがある事を。

 剣を投げた手に握りこんでいた砂時計を、ヴォルフは「死神」に見えるように逆さにする。左手で剣を投げたのはこの為だった。本人に意図はなかったはずなのに、無意識は己がすべき事を知っていた。

 その様を見て、「魔術師」が舌打ちを漏らす。彼も見てしまったのだろう。けれど、動く気配もない。

 成り行きを見守っていたオルガは、口元に冷笑を浮かべた。明らかに狼狽する「魔術師」を、蔑むように。

「『魔術師』を返せば、この世に蔓延するタロット共は皆消えよう。『死神』を返せば……分かるな」

 音もなく流れる砂は、ほんの少しずつ金色に変わって行く。これは時間がかかるだろう。

 だが、迷わない。どんなに歩みが遅くとも、今までずっと耐えてきたではないか。耐えて耐えて進み続けて、やっとここまで来たはずだ。今更迷う事などありはしない。

 右手に鎌をぶら下げたまま、「死神」は沈黙していた。何を思うのか、その二つの眼窩は砂時計を見つめている。ヴォルフはメイスを握り締め、骨だけの異形を睨みつけた。

「オルガ、すまんがそちらは任せる。先にする事が出来た」

 瞬間、「死神」が動く。ぞっとするほどの速さでヴォルフの眼前へ迫るが、彼は予期していた。鎌の刃が到達する前にメイスを体の横に構え、盾にする。

 冷えた空気に甲高い音が響き渡り、長くこだました。メイスの柄と鎌の刃がぶつかり合い、歯ぎしりのような音を立てる。どちらの得物も長柄の武器だ。打ち合いは出来ない。

 目の前に迫った髑髏にも、肺を圧迫するようなカビの臭いにも、ヴォルフは動じなかった。死を見つめてそれを受け入れ、彼は乗り越えた。けれど、諦める事もしていない。

 希望はまだある。すぐそばにある。自分の何と引き換えにしても、この旅の意味を失っても、大願を捨ててまでも、取り戻さなくてはならない。

 そうしなければこれから先、自分が生き残ったとしても。タロットの脅威を退けたとしても、ヴォルフが生きる意味はなくなってしまう。初めて「死神」に出会った少し前、投げかけられた問いへの答えが、本当に分からなくなってしまう。

 大鎌とメイスが交差し、軋む音を立てる。わずかに身を乗り出して刃を押し返すと、「死神」はすぐさま後ろへ逃げ、そこから横薙ぎに鎌を振った。風を切る軽い音と共に迫る刃を、ヴォルフは受け止めずにメイスの柄で弾く。一度外側へ軽く振った腕を止め、彼は大きく一歩踏み出して「死神」との距離を詰める。

 大きく振ったメイスは、鎌をその場に残したまま後ろへ退避した「死神」の、ローブだけを引っ掛けた。生地は破れたが元々すりきれており、最初と大差ない。

 ヴォルフは得物を振る為に首の前に持って行った腕をそこで止め、更に一歩踏み出してから反対側へ振る。同じく「死神」も、斜め下に残していた鎌を振り上げる。メイスの方が空気抵抗が大きい為に鎌の方が速く、振りきる前に両者がぶつかって止まる。互いの体の横で十字を描くように止まった得物は、押しも押されもせずに、苦しげな音を立てた。

 拮抗状態を破ったのは、「死神」だった。鎌を引くと同時に後方へ逃げ、そのまま飛んで行く。ヴォルフは追おうとしたが、すぐに踏みとどまった。単純に逃げただけとは思えなかったからだ。

 踏み出したヴォルフが逡巡して足を止める間にも、「死神」は彼から距離を取っていた。そして体勢を整えきらない内に、大鎌を投げる。

 湾曲した刃のせいか、回転しながら鎌が迫る。ヴォルフは苦い表情を浮かべて鉄球部分を下にし、得物を縦に構えた。

 タイミングを見計らって柄部分を右へ弾いて返すと、鎌は来た方向へ飛んで行く。ヴォルフはこもった息を吐こうとしたが、一瞬にして迫ってきた「死神」に驚き、その息を呑む。

 滑空して戻って来る鎌の柄を間合いの内ギリギリで掴み、「死神」はそのまま得物を振った。流石に反応しきれず、ヴォルフは一拍遅れてメイスの柄を腕のすぐ横へつける。間合いすれすれだった為か大きく傷つけられる事はなかったものの、僅かに止めきれず鎌の先端が肩に刺さった。鋭い痛みに、ヴォルフは顔をしかめる。

「死神」はそのまま得物を振り切ろうとしたが、ヴォルフの力はそれを許さない。盾にしたメイスの柄を傾けて鎌を押し返し、左手で長柄を掴む。さすがに不利と判断したか、「死神」は鎌を反対側へ振ってヴォルフの手を払い、一旦退いた。

 けれど、そこで易々と逃がしてやるほど甘くない。傾けたメイスの柄を握り直し、踏み出すと同時に地面を抉るように振り上げる。ヴォルフの手を振り払った事で鎌での防御が間に合わず、「死神」は左腕を顔の前にかざす。

 左腕側から右上へ振り上げられたメイスは、「死神」の腕を弾き飛ばした。骨同士がどのようにして繋がっているのか不明だがその衝撃には耐えられなかったようで、指先の骨が数本、鉄球のスパイクに砕かれて粉々になる。骨であるせいか、その体は体液を流さなかった。

 或いは、このタロット自体が「死」であるせいなのか。

「さて、どうする?」

 吹っ切れたように「死神」と戦うヴォルフを横目に、オルガはそう問いかけた。向き合う「魔術師」は、見るからに渋い表情を浮かべている。

「折角希望が潰えたと思ったのになァ……しぶといもんだ」

 苦い表情ではあるものの、「魔術師」の態度にはまだ余裕があった。タロットとて消える事は恐ろしく感じるものなのだが、彼は未だ、自分が消えるとは思っていないのだ。

 それもそうだろう。ヴォルフが「死神」と戦って消耗すれば、恐らく「魔術師」とは戦い辛くなる。つまり彼が向こうに気を取られているお陰で保っていられる余裕だ。果たしてそれに、本人は気付いているだろうか。

「お前自身にはもう、大した力もなかろう。腹をくくった人間には敵うまい」

「それはお前もそうだろうよゥ。……流石に狡賢くはあるがな」

 地面に置かれたままのカンテラをちらりと見て、「魔術師」は吐き捨てた。

「『隠者ハーミット』はしるべ……呼びよったんだろ」

「儂もあれは恐ろしい」

 言葉の割には臆面もなく、オルガはそう言った。巨大な両手剣を片手で握り直しながら潮風に揺れる黒髪をかき上げ、彼女は目を細くする。

「だがね。最後の『星』がなくなる事の方が、儂にとっては恐ろしいのだよ」

 ヴォルフの背が、彼女の目に映る。あの小さな子供がこうまで逞しくなるとは、あの頃の誰が予想しただろう。彼の父親も、そうだった。

「隠者」は知っている。彼と出会って死ぬまでの全てを。だから、殺す事は出来なかった。全てを知っていたから。彼が「オルガ」という女を心底愛していた事も、全て。

「人には己が死より恐れる事がある。お前は忘れたようだがの」

 何が合図だったのか、傍目には分からなかった。両者は全く唐突に、同時に得物を相手に打ち付ける。剣と杖は互いの体の正面で交差し、歯軋りのような音を立てた。黒檀の杖がわずかに削れ、木屑が落ちる。

 ヴォルフと「死神」の動作は大仰だったが、こちらは速かった。どちらが打っても止められ、得物同士が何度も交差する。弾き返すこともかなわないほど、力が拮抗しているらしい。

 老人とは思えないような速さで杖を振るっていた「魔術師」は、その内飽きたのか疲れたのか、交差した得物に力をこめて一旦押し留め、大きく後方へ退いた。すぐさま地を蹴って高く跳んだオルガが追いつく前に、彼は杖を虚空で振る。杖自体には何のモーションもないまま、片手剣に変化した。

 オルガがその様子を見て、鼻で笑った。彼女自身、その馬鹿馬鹿しさに気付いていたのだろう。

「魔術師同士が剣戟の真似事とは……」

 両手で剣を握り、上空から降下する勢いのまま、オルガは「魔術師」に斬りかかる。剣を横に構えて迎えうった「魔術師」の腕は激突の際一瞬震えたが、押し戻される事はなかった。

「お前もこだわりよる。意味なんぞなかろうよ、剣での遊びなんかにゃ」

「意味のない事なら、最初から最後までないままの方が良い。楽しかろう?」

 そう、意味はない。オルガが「魔術師」と戦う事にも、その逆も。オルガはただヴォルフに任されたから戦っているだけだし、「魔術師」は彼女が仕掛けてくるから迎えうっているだけだ。消耗するだけ無駄なのだ。

 本当に「魔術師」と戦わなければならないのは、ヴォルフだ。また「魔術師」が戦うべきも、彼のほうだ。だが彼は今、彼自身の為に戦っている。

 彼が本当の意味で自分の為に行った事が、今までにいくつあっただろう。自分の為と言いながら行ってきた全ては誰かの為であり、彼が戦ってきたのも両親の悲願を果たすため。祖父の間違いを、正す為だった。

 結局ここまで来てしまったが、今やっと、彼は自分の為に戦っている。自分自身が持っていた希望の為。自分の間違いを、正す為に。それならば、オルガがしなければならない事は決まっている。

「お前も儂も、もう消えるべきなのだよ」

 剣同士を交差させたままオルガの左手が剣から離れたが、そこにこめられていた力が変わる事はない。元々、剣を片手で持とうが両手で持とうが同じ事なのだ。彼らの勝敗を決するのは、筋力ではないのだから。

 白い指先が自分を向いた瞬間、「魔術師」は勢いよく飛び退いた。しかしオルガは見越していたようで、彼の動きを人差し指で追う。「魔術師」が舌打ちして、剣先を彼女に向けた。

 二人の間、丁度真ん中。何もない空中で、突如として炎が燃え上がる。オルガの炎を止めて「魔術師」を庇ったのは、これも突然現れた氷の塊。業火に晒された氷塊は見る見るうちに溶けたが、炎もまた、水に触れてその勢いをなくす。

「お前は儂には敵うまいよ。お前が作ったタロットと違い、お前は紙のままなのだから」

 森を焼いていた炎は、いつしか消えていた。オルガの目に宿っていた「魔術師」への憎悪も、姿を消している。どこか悲愴感を漂わせた彼女の様子に、「魔術師」は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「だがなァ、私を消すべきはお前じゃないんじゃないのか」

「いいや、儂だ」

 投げやりに吐き捨てて、オルガは視線だけでヴォルフを見る。幾度となく「死神」と打ち合っているが、状況が大きく変わる事はない。一定の緊張感を保ったまま、あの不恰好なメイスで大鎌相手によく戦っている。

 いい状態だ。あれならヴォルフが動揺しない限り、押される事はないだろう。

 オルガの心にあるのは、罪悪感だった。それはヴォルフに対してのものだし、彼の両親に対してのものでもある。いつかヴォルフが「魔術師」と対峙するその時の為にした、非情な決断だった。

「……儂はあの夫妻を、喰ろうたのだからな」

 オルガの独白に、「魔術師」は口角をつり上げた。その表情を見て、彼女は目を見開く。

 今まで彼が何も言わなかったから、つい口に出してしまった。だが、違ったのだ。このタロットは、オルガが罪悪感に耐えられずに自分から言い出すのを待っていた。

「聞けヴォルフ!」

 オルガは咄嗟に、黙らせようと「魔術師」に切りかかった。しかし容易に受け止められ、そのまま押し留められる。

 ヴォルフと「死神」の間から、金属音が響いた。幾度となく交差した得物同士は、それ自体が疲弊して震えている。反対に持ち主の方は、変わらぬ気魄を宿していた。

「知っていたか、この『隠者』が何をしたか」

 交差した剣に力をこめ、オルガは歯噛みする。今の状況で、ヴォルフを動揺させたくなかった。

 一方ヴォルフは聞いているのかいないのか、渾身の力で「死神」の大鎌を押し返す。異形は一瞬よろけたかに見えたが、ヴォルフが追撃の構えを取る前に体勢を立て直し、胴を狙って振られたメイスを鎌の柄で受け止めた。

 巨大なメイスを細い柄で受け止めるには頼りないように見えたが、その分刃は自由だった。押し付けられる鉄球を止めたまま、「死神」は得物を徐々に傾けて行く。前方へ傾けられた鎌の刃は、ヴォルフの頭上へと迫る。

「お前は両親が死んだ後、遺体を見たか? 棺は妙に軽くはなかったか?」

「やめろ!」

 奇妙に甲高くよく通る声を遮るように叫び、オルガは一旦退いて再び頭上から剣を打ち付ける。しかしそれも相手の剣に止められ、憎々しげに顔をしかめた。

 鎌の横からメイスを押し付ける形になってしまっては、力をこめようにも限界がある。どんなに押そうとしても、体の正面から動かない。横向きよりも正面へ押す方が力は入るものだから、僅かばかり力が足りないのだ。

 湾曲した刃の先端が、とうとう首の後ろに当たる。ひんやりとした硬質な感触が、ヴォルフを焦らせた。左手を添えてみるものの、砂時計を握りこんでいるせいで拳の裏で押す事しか出来ない。たったそれだけで、「死神」との力の差が変わるはずもなかった。

 ここで死ぬ訳には行かない。そう思うと益々焦り、ヴォルフの手が震える。

「この『隠者』はな、お前の両親を……」

「喧しい!」

 無性に腹が立って、ヴォルフは「魔術師」の言葉を遮った。怒鳴ったことで余計な力が抜け、頭も冴えてくる。

 気付いていた。オルガが何なのかも、棺が異常に軽かったのも。だからこそ、彼はタロットが人間を食う理由に気付きたくなかったのだ。

 ヴォルフは左腕を頭上に持って行き、鎌の柄に添えた。既にうなじに痛みが走っていたが、構わず拳を握り締める。少し姿勢を低くし、切っ先が刺さった皮膚が破れるのも構わず、彼は鎌を思い切り左側へ押し返した。

 さすがの「死神」も敵わず、大鎌を持って行かれる。すぐに体勢を立て直そうとしたが、ヴォルフの得物が方向転換する方が早かった。

 ごうと重い風切り音が立ち、鉄球が「死神」の腹を直撃する。太い枝が折れたような鈍い音がした。後方へ吹っ飛ぶ異形のローブの裾から、砕けた骨がこぼれ落ちる。太い骨の欠片は、アバラだろうか。

 荒い息を吐きながら、ヴォルフは「魔術師」にその顔を向ける。太い眉をつり上げて眉間に皺を寄せた彼は、怒りも露にその鋭い双眸で老爺を睨みつけた。

「そんな事は知っている!」

 オルガが目を見開き、蒼白になった。「魔術師」は厳しい表情を浮かべ、彼を睨み返す。

「知っている? 許すのかよゥ、お前。そんな事を。した事は私と一緒だろう」

「貴様と一緒にするな」

 ヴォルフの低い声は「魔術師」の甲高いそれと同じく、よく通った。

「両親は元々死んでいた。問題は喰った事ではない、手に入れた力を何に使うかだ」

 彼はとっくに、乗り越えていた。悔やみ続けてきた死も、気付かないふりをしていた事も。事実を事実として受け止め、受け入れるに甘んじる事なく乗り越えた。

 なればこそ、オルガは消える道を選ばなければならない。最早この世に、魔術師や魔女がいた形跡など一片たりとも残してはならないのだ。「隠者」とは、道を示すもの。示す道がなくなれば、静かに消えゆく定めだ。

 ヴォルフはゆっくりと起き上がる「死神」に向き直り、ちらりと横目で砂時計を確認する。中の砂は、半分も落ちてはいなかった。これは耐えるだけでは駄目なのだと、彼は再認識する。

 だが、揺るがない。大丈夫。よく彼女がそう言ってくれたように、口の中で呟く。

 幽鬼の如くゆらりと起き上がった「死神」は、ここにきて初めてその口を開けた。口を開けたというよりは、下顎の骨を外したと言った方が正しいだろうか。

「『死』に逆らうのか、愚者よ!」

 いかにも愉快そうに、「死神」は呵々と笑った。その声にはオルガも「魔術師」も眉をひそめたが、ヴォルフだけはその狼のような目に光を宿し、真っ直ぐに見つめていた。目前の絶望に、抗おうとするように。

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