第五章 Little Star 七
言えなかった。彼女の言葉が真実だと思い知れば知るほど、言えなくなった。本当は早くから気付いていたのに、伝えられなかった。
最後まで逃げ続けて向き合えなかったのは、結局、自分自身に対してだった。ジゼラはあれほど真っ直ぐに見ていてくれたのに。何があっても、何を知っても、決して逃げたりはしなかったのに。
それに比べて、自分はどうだった。
自覚すればするほど逃げ腰になって行った。募れば募るほど言えなくなった。短い言葉がひたすらに重く、どうしても、伝えられなかった。
ただ一言、伝えてやれば良かったのに。
七
「……バカな」
呆然と呟いたオルガの肩は、微かに震えていた。ヴォルフは紅に染まった髪から目を逸らし、ゆっくりと「審判」に視線を移す。
仮面のひび割れの向こうから、避けてきた全てが覗いている。責めるような、蔑むような視線。蔑まれて当然だと、彼は思う。何一つ自分からは口に出せないまま、やっと伝えた言葉さえ守れなかったのだから。
置いてきてしまえば良かったのに。そうすれば、きっとこんな事にはならなかった。孤独など忘れたまま、惰性でここまで来ていたはずだ。
そしてきっと、自分が死んでいた。その方が、どんなにかマシだっただろう。
「ヴォルフ!」
オルガの声が、途方もなく遠くに聞こえる。無力感に苛まれ、彼は脱力した。久方ぶりに味わう喪失は冷たい闇となり、彼の爪先から潜り込む。
足が冷え、腰が凍り、腹が冷たくなって行く。真っ黒な氷水に浸けられたような、奇妙な感覚だった。不愉快な感覚だというのに、今は抗う気にもならない。このまま冷えきって、影になって消え失せてしまいたかった。
結局、逃げている。分かってはいたが、今は甘んじていたかった。後悔だけの人生ならいっそ、終わって欲しかった。
「ヴォルフ待て、呑まれるな!」
悲痛な声も、今の彼には届かない。オルガは悔しげに歯噛みし、黒檀の杖は彼女を嘲笑うかのように、空中でゆらゆらと揺れている。
足元から這い上がる影に喉まで浸かり、ヴォルフは「審判」を見つめる。宝剣を携えたタロットは、泰然と佇んでいた。
逃げた事が罪ならば、裁かれてしかるべきなのだろう。ぼんやりとした頭の片隅で、ヴォルフはそう考える。這い上がる影がとうとう頭を覆った時、彼の意識は闇に落ちた。
「愚かな」
呟いたのは、ようやく森から出てきた「魔術師」だった。薄汚れた老爺は両手を腰に当ててゆっくりと歩きながら、地面に伏したジゼラを見て笑う。奇妙に高いその笑い声は、当然だとでも言いたげだった。
ゆらゆらと揺れていた杖が、不意に動いた。髑髏に引っ張られるようにゆっくりと空中を滑る杖を睨み付け、オルガは「審判」の剣が突き刺さったままの遺体に近付く。
「無駄だ。蘇らんぞ」
楽しそうな声だった。小ばかにしたように鼻を鳴らし、オルガは遺体の傍らにしゃがみこむ。
「当然だ」
最早誰の目から見ても、完全に事切れている事は明白だった。このままにしておくのも申し訳ないような気がしたが、今は動かしている余裕もない。
オルガはカンテラを遺体の傍らに置き、今度は立ち尽くすヴォルフを睨んだ。彼は最早微動もせず、呼吸すらしているかどうか分からない。潮風にコートがはためくばかりだ。
もう少し骨があると思っていたが、見込み違いだったか。考えながら、彼女はゆっくりと立ち上がる。
「お前にこの娘は食わせんぞ」
手元に戻ってきた杖を握った「魔術師」は、ふうんと興味なさそうに呟いた。
「これ以上はキャパシティが足りんなァ。食った方がいいのは、お前の方じゃないのかァ?」
「誰が食うか」
オルガの口調は普段通りの軽口のようでもあったが、表情はあからさまに嫌悪感を示していた。そんな彼女を、「魔術師」は嘲笑う。
このままヴォルフが戻らなければ、オルガが「魔術師」と戦う意味はない。彼女が戦う理由は彼にしかないからだ。けれどそれでは気が治まらない。
果たしてやりたかった。あの夫妻の悲願を、代わり受けた贖罪を。彼らの希望を守り、助けてやりたかった。それこそが自分が、ひいては彼が犯した罪の、贖いだ。
「示すだけで良かったものをよゥ……手を出すからこうなる」
相手が旧知の間柄であるかのように懐かしそうな口ぶりで、「魔術師」は呟く。オルガも肩の力を抜き、「審判」へ視線を移した。ひび割れた仮面からは、何の感情も見えない。しかしあれに自分に対しての害意はない事が、オルガには分かる。
「最初から許さざるべきだっただけであろう」
「過去には戻れんぞ。お前の罪は『主』を見逃した事だ」
分かりきった事を諭すように言われ、オルガは鼻で笑った。それを悔いているから、ここにいるというのに。
贖罪の為に罪を重ね、更に今、新たな罪を犯そうとしている。ヴォルフがこのまま戻らなかったら、それは自分の責任だと彼女は考える。彼はみすみすジゼラを死なせた事を悔いているだろうが、それよりも遥かに重い罪を犯した。こうなったのも全て、自分が。
そう、自分たちが生まれてしまったから。
「分かっているなら、貴様は消えるべきだ」
両者の間に漂う空気が、一瞬にして冷えた。「魔術師」の顔に浮かんでいた薄ら笑いが消え、手にした杖の髑髏が光る。オルガは剣を握り直し、正面から「魔術師」と向き合う。
もう消えるべきなのだ。そもそもあの魔術師が改心した時点で、タロット達は消えるべきだった。それを、この愚か者は。
「お前とは永遠に相容れんだろうなァ、『隠者』よゥ」
枯れ葉にも似た唇には笑みが浮かんでいたが、陰鬱な光を宿す目には表情らしい表情がない。オルガは彼の表情よりも呼ばれたくない名で呼ばれた事に嫌悪感を覚え、獣のように鼻の頭に皺を寄せた。
「貴様と同じ意見など持ちたくもないわ。虫酸が走る」
魔術師がこめた憎悪は人の悪意を吸って肥大し続け、新たなタロットを産み出すまでに成長した。本当なら、こうなる前に諸共消滅させておくべきだったのだ。
でも、出来なかった。やろうと思えば出来る事だった。でも、そんな事はしたくなかった。彼女には、心があったから。同胞の中で唯一、それを持って生まれてしまったから。
「同じだろうが。お前も二人喰ったんだろう」
その時のオルガの動きは、常人には見えなかっただろう。けれど当然、人間でない「魔術師」には見えていた。
風を切る音だけを立てて一瞬で距離を詰めた彼女は、いつの間にか振り上げていた大剣を「魔術師」の頭上に打ち下ろした。しかし厚い刃は彼が掲げた黒檀の杖に止められ、それ以上動かない。杖と剣にこめられた力はほぼ互角のようで、押しも押されもしなかった。
女の力で両手剣を振り回せるはずがないし、痩せこけた老人の力が若い女のそれに敵うはずもない。彼らの戦いに影響するのは、単純な腕力ではないのだ。
両手で水平に杖を構えたまま、「魔術師」は長身のオルガを視線だけで見上げた。憎悪のこもった鳶色の目と目が合うと、老爺は余裕ぶった笑みを浮かべる。なるべく、彼女の神経を逆撫でするように。
「孫娘だったなァ。あの娘は、旨かった」
オルガはいとも簡単に、挑発に乗った。優美なラインを描いていた眉を限界までつり上げ、腕を引く。すぐさま横なぎに剣を振ったが、これも杖を盾にして止められた。いずれも、人間ならば到底反応出来る速度ではない。
「特に頬の肉がな、柔らかくてよゥ」
「黙れ!」
獣が吠えるような声だった。杖との接点をねじるようにして剣を傾け、オルガは拮抗を解く。今度は斜め上から打ち下ろしたがそれも止められ、どちらからともなく鈍い音がした。しかし意に介さず、彼女は更に剣を振るう。
腕を狙えば防がれ、足を狙えば蹴り返される。角度を変え位置を変え、何度打ち付けても、その度に黒檀の杖が刃を止める。それでも責め立てると流石に「魔術師」の表情もわずかに曇り、じりじりと後退し始めた。
タロットに疲労という感覚はない。痛みもないがこれだけ打ち合えば、有限である魔力の消耗は免れない。それはオルガも同じ事だが、彼女は構わず剣を振る。
「愚かな……無駄に消耗する気か!」
焦ったような声だった。当然だろう。新たなタロットを産み出す事で、「魔術師」は喰った力を殆ど使い果たしたのだから。
彼がそうまでして、そこまでせざるを得ないほど人を憎んだ理由を、オルガは知っている。だからこそ彼女は今、無意味と分かっていても戦うしかなかった。彼の憎しみは全て、断ち切らなければならない。
一際高い音が、両者の間から響いた。首を狙った一撃は喉元ぎりぎりで止められている。
しかしオルガは、笑った。赤い唇と柳眉に、艶美な弧を描いて。モノクルの奥では、切れ長の目がゆっくりと細められる。
「儂はな、ヴォルフは戻ると見ておる」
老爺の表情が、明らかに変わった。目を見開いて驚いたような焦ったような表情を浮かべた彼は、いつしか遠ざかっていた「審判」を仰ぎ見る。仮面の異形は沈黙したまま、その空虚の視線をジゼラに注いでいた。
「審判」というタロットは、裁きこそすれ滅多に人を殺める事がない。責め立てて人が消耗すれば、疲労につけこんで精神世界に呑み込み、そこで生まれる悔恨や迷いを食らうのだ。
魔術師が作り出したタロットの糧は人間そのものだったが、「魔術師」が作ったタロットは違う。体を動かすのに魔力が必要という性質上、彼らは感情を絞り出して食事をする。魔力というのはそもそも人が言う感情に近いもので、想いのこもった物品を取り込むのもそのためだ。感情がこもったものには、それと等しい力が備わっている。
一人取り込んでしまえば、「審判」は比較的大人しいタロットと言えよう。今、あれはヴォルフの後悔の念を取り込んでいる。だからオルガがカンテラを置いて、既に死んだジゼラを守る必要はない。あのカンテラには魔除けの効果があり、悪いものが近寄るとたちどころに燃え上がるようになっている。また、本来の「隠者」の道標としての役割も。
「まさか……だからあの娘から引き離したのか」
呟いた「魔術師」の顔は、心なしか青ざめていた。今までの余裕が虚勢であったかのような、怯えた表情だ。
タロットとはそもそも人の心であるから、恐れるものも存在する。万人が心の底から恐れるものは、異形達も等しく恐れる。彼らが砂時計を恐れ、怒るのはその為だ。
「そのまさかだ。そら、来たぞ」
同胞達でさえ厭う、異端のタロット。その気配が、じわりと岬に広がって行く。
ヴォルフの意識は、闇の中にあった。自分が立っているのか座っているのか、目を開けているのか閉じているのか、それすら分からないでいる。自分の手がどこにあるのか、足がついているのさえ分からなかった。
肉体が存在する感覚がない。手を動かそうと試みても、手がどこにあるのか分からないから動かしようもない。ただ自分という意識だけが、ぽっかりと闇の中にある。
けれど不安はなく、恐ろしくもなかった。死とはこういう感覚なのだろうかと、彼は思う。つまり死んだのだと考えたのだが、その結論に達した矢先、光が見えた。
深い海のように青く、淡い光だった。あまりに淡くて、常にそこへ意識を向けていなければ分からないほどだ。
何の感覚もないのにそんなものを意識し続けていたら、自分が消えてしまうような気がした。そんな漠然とした不安を抱きつつも、彼は光を追う。自分を失ってでも、そうしなければならないような気がしたのだ。そもそもこうなる前に自分が何をしていたかも思い出せないから、そうするしかなかった。
光を追う内、その青が段々と濃くなって行く。点滅するでも消えるでもなく、真綿に染み込む水のようにじんわりと、闇の中でただ光っている。
これ以上追ったら、自分は消えるのではないだろうか。ふとそんな不安を抱いたが、ヴォルフはやめなかった。逃げてはいけない。その思いだけが、不定形な意識の中に心棒として残っている。
「死にたいか?」
穏やかな声が聞こえた。誰かの声に似ているような気がしたが、意識しかない彼には思い出せない。
もう藍色になった光が、陽炎のように揺らぐ。ヴォルフはその様子を眺めながら、見えているという事は目はあるのだろうと、ぼんやりと考えた。ゆらゆらと揺れる光はじわりと拡散してから再び収束し、人の形を作る。
それは、小柄な老爺だった。誰かに似ている気がしたが、やはり思い出せない。ただ思考出来るという事は、頭もあるのだろうと彼は思う。
「それとも、生きたいか?」
穏やかな問い掛けに、ヴォルフは何を聞いているのだろうと思う。
生きたいとも死にたいとも、今は思わない。死にたいと思っていた事もあったような気はするが、今ではそうは思えなかった。しかし生きたいかと聞かれても、頷く事は出来ない。
だからどちらでもいいと、そう言った。そして言葉を発した自分に、ヴォルフは驚く。何もないと思っていたのに、目も頭も口もあったのだ。
「すまなかったなァ」
語尾だけが少し高い、不思議な声だった。この声も言葉も、確かに聞いた事がある。
それだけだった。ヴォルフが何も思い出せないままでいる内に老爺は消え、また光が現れる。暖かな暖炉の炎のような、橙色の光。今度はすぐに形を成したが、その過程で二つに分かれた。
それは男女だった。男の方は大柄で逞しく、女の方は優しげな顔に柔和な笑みを浮かべている。こちらの二人にも、見覚えがあった。
「過去に戻りたい?」
優しい、優しい声だった。胸が温かくなるような心地よい感覚に、ヴォルフはやっと気付く。
これは、両親だ。
「過去に戻って、あの子を助けたい?」
柔らかな声は、幼子に話しかけるような調子でヴォルフに問いかける。そんな口調で話しかけられていいような年齢ではない事を、彼は覚えていた。
あの子とは、誰の事だろう。母の丸顔を見ていると何か思い出せそうな気がしたが、記憶のその部分だけ靄がかかったようにはっきりしない。思い出したくないのだろうか。
けれど、思い出さなければならない。逃げは彼にとって罪だ。これはその罰だ。いや、審判のさ中だろうか。
「あの子の代わりに、あなたが喰われる?」
母が首を傾げると、緩やかなウェーブを描く亜麻色の髪がゆらりと揺れた。その様子に何故か吐き気を催し、ヴォルフは顔をしかめる。柔らかそうな髪に、彼は血の色を思い出す。
血の海に沈んだ二人を、黙って見ていた。それはどうする事も出来ない過去で、償う事も出来ない罪だ。あまりに幼く、幼すぎたが故に、守れなかったもの。
「それとも、お前が生きるか?」
父の言葉は無闇に口を利かない彼の性格をそのまま表したかのように、簡潔だった。少し面長だが、父の顔は今の自分とよく似ていると、ヴォルフは思う。たっぷり蓄えた髭さえなければ、今の彼は父を自分だと認識してしまっただろう。
そこで彼はやっと、「あの子」を思い出した。
妹の事だ。けれど彼女の名前も顔も、まだ思い出せない。あんなに可愛がっていたのに。あんなに、愛していたのに。
過去に戻って妹を助け、代わりに自分が死ぬか。それとも今のまま、自分だけ生きるか。
前者を選択するのは簡単だ。自分が死んだ方がマシだと、幾度となく考えた。けれどもし逆の立場だったら、彼女はヴォルフのように立ち回る事が出来ただろうか。
女一人では生き難い世だ。ヴォルフが連れて行かれ、妹が一人生き残っていたとしたら、恐らく彼より遥かに苦しんだだろう。心優しい彼女は兄をみすみす連れて行かせた事を悔い、人々の悪意に胸を痛めただろう。自分が味わった苦しみだから、ヴォルフにはよく分かる。
だから今のこの立場の方が、幾分良かった。しかしこのまま生きる道を選ぶかと問われれば、答えは否だ。
このまま生きていたいと、どうしても思えなかった。生きてやらなければならない事があったような気がしたのだが、今はそれを達成する気力もない。修正出来ない重大な失敗をしでかたような、何かとんでもなく大事なものをなくしたような、喪失感だけがある。
体の中身が空になったような、嫌な感覚だった。だからヴォルフは、黙って首を横に振る。
「選ばない」
自分の声で、そう聞こえた。ああ喉もあるのだと、ヴォルフは少し嬉しくなる。
反対に、母は苦笑した。仕方ない、とでも言いたげな表情だ。父は無表情だったが、その目は優しい。遥かな高みから見下ろされているような心地だったが、不思議と嫌ではなかった。
そして二人も消え、後にはヴォルフだけが残された。忘れかけていた痛みが胸を突き、彼は俯く。伏せた視線の先に、直立する二本の足を見つけた。
最初から、何もかも持っていたのだろう。気付けなかっただけだ。今更気付いてみても嬉しくないし、むしろ虚しかった。
「……どこだ、ここは」
呟いた疑問が、空っぽの体に反響する。鼓膜を震わせた声は、むなしく闇に溶ける。
大事なものをなくした。呑み下して風化しかけた思い出より、戻らない愛しい過去より、大事なものを。それがなんだったのか、どうしても思い出せない。
「昔に戻りたい?」
驚いて顔を上げると、またもや光があった。薄紅色の光は甘ったるい子供の声で、彼に問いかける。これが誰なのか、ヴォルフはすぐに分かった。
淡い光はじわじわと闇に溶け、人の形を描く。柔らかなプラチナブロンドとグリーンの目に、懐かしさが込み上げた。丸い輪郭は、母親譲りだろう。
「パパもママも私もいた頃に戻って、ただの人間としてやり直したい?」
これは誘惑なのだろうかと、ヴォルフは考える。何者かが見せる幻覚でしかないのか、はたまた実際に選択すればそうなるのか。どちらにせよ、選びようのない選択肢ではある。
愛らしい仕草で小首を傾げた妹は、血の通った者のようだった。とうに死んでいるはずだというのに。
「それとも、このまま大陸を救って英雄になりたい?」
果たして誰が、この状況でどちらかを選べるだろう。過去に戻れれば、それは幸福だ。大陸を救えれば、両親のような英雄になるという幼い頃の夢が叶う。
けれど過去を変えられる保証はないし、ヴォルフはそもそも英雄になりたくて旅に出た訳ではない。どちらの選択肢も、ヴォルフが過去に望んで諦めた事なのだ。また叶うかも知れないからと言って、今更選ぶ気にはなれない。
それよりも今は、失ったものを取り戻したかった。それが何なのかヴォルフには未だ思い出せないが、どの選択肢の中にもなかったように思う。ならば、この場で望むべくもない。
「英雄になりたいとは思わない。名声の為にここまで来た訳ではない」
ビスクドールのような少女はヴォルフとは似ても似つかないが、確かに血を分けた妹だ。無闇に口を出さず黙って聞く姿勢など、瓜二つだった。
「今の俺には、取り戻せない過去より大事なものがある」
私と言うようになったのは、いつからだったろう。威圧的な自分を自覚してから、彼は口調を改めた。それがいつだったのか思い出せないが、少しでも柔らかくなるように、そう言うようになった。
怖かったのだ。他人に厭われる事も、奇異の視線を向けられる事も。だから彼は孤独に甘んじ、他人という存在から逃げた。そして出来る限り誰とも関わらないように、口をつぐんだ。そうすれば、武骨な容姿のお陰で誰も近付かなくなる。
取り繕う事が必要ないと思ったのは、誰に対してだったろう。最近では、めっぽう乱暴になっていたように思われる。
多分本当は、もっと優しくしてやれば良かったのだろう。そうすれば少しは、何か違っていたかも知れない。けれど――
――誰に。
「俺が望むのは、そんなものじゃない」
気付けば声が震えていた。とうに涸れたと思っていた涙がまな尻から零れ、頬を濡らす。体温の全てを奪ったように熱い雫は、顎を伝って左手に落ちた。
濡れた手が、ひどく熱い。燃えるような熱が掌に伝わり、彼は全てを思い出す。ここにいる理由も、果たさなければならない事も、胸の虚ろの理由も。本当に会いたかったものは、真っ白な光だった事も。
今大事なものが、なんなのかも。
「どちらも、いらん」
力強く言い放ったヴォルフのきつく握りしめられた左手から、金色の光が迸った。