第五章 Little Star 六
六
黒檀の杖が、何の前触れもなく持ち上がる。石に添えられていた「魔術師」の両手はいつしか離れており、体の横にだらりと垂れていた。持ち主の手から離れた杖はひとりでに浮き上がり、主を守るかのように「魔術師」と三人の間、支えるものもない空中で静止する。
聞かなければならなかった全てが、ヴォルフの中から消え失せた。妹はどうしたのか。何がしたいのか。自分を野放しにしていた理由は何か。
恐怖を覚えた訳ではない。聞きたくなかった訳でもない。ただそれらの問い掛けが無意味である事に、気付いてしまったのだ。
重苦しい沈黙の中、真っ先に動いたのはオルガだった。手にしたカンテラの赤々と燃える火を目の前にかざし、吹き消すような仕草でふうと吹いた。火が消える気配はなく、反対に炎がカンテラからこぼれんばかりに燃え上がる。そしてあろうことか、彼女はそこへ手を突っ込んだ。
「……は」
思わず間抜けな声を漏らしたヴォルフは、次の光景に我が目を疑う。傍らで見ていたジゼラも大きく瞬きしていた。オルガの手には小さな火傷一つないばかりか、何かを握っていたのだ。その腕が引かれるにつれ、その姿が露になる。
いっそう激しさを増す炎の中から現れたのは、剣だった。それもやけに大きく、女が使うような形のものではない。ヴォルフが使ってやっと様になるような、大きな幅広の両手剣だ。
オルガがあんな剣を使えるのかどうかは、甚だ疑問だ。しかしヴォルフが驚いた理由は、カンテラから剣が出てきた事でも剣の大きさでもない。
「……オルガ、それは」
カンテラから飛び出した火の粉が弾け、小気味良い音を立てる。オルガはヴォルフを振り返って笑い、取り出した剣を片手で軽く振った。ゆったりとした袖から覗く手首は骨っぽく、とてもあれを軽々扱えるようには見えないというのに。
「不肖のバカ息子が折りおった、英雄の剣だ」
装飾のない布を巻き付けただけの簡素な柄も、分厚い刃についた無数の傷も、確かに昔使っていた剣のものだ。物に執着しない父の唯一の形見だったが、あれは随分前に柄ごと砕けたはずだった。それが何故、オルガのカンテラから出てくるのだろうか。
様子をうかがっていた「魔術師」が、面白くなさそうに鼻を鳴らした。深い皺の刻まれた顔には、渋い表情が浮かんでいる。
「何だってお前が……」
「さてな。気を抜くなヴォルフ、来るぞ」
慌てて見た先では、杖の頭についた髑髏が光っていた。薄暗い森を浸食するかのような不気味なその光に、ヴォルフの背が冷える。石が光っている、確かに不自然ではあるもののそれだけの事なのに、今まで感じた事もないような寒気が全身を襲った。
恐れているのか。自問してみたが、すぐに違うと気付いた。杖の周囲に漂う冷気を見た為だ。あれのせいで、周囲の温度が下がっている。
収束するように凝固した白い煙は、瞬く間に氷柱へと変化する。それが動くと同時、ヴォルフも動く。
横へ飛び退いた彼がいた場所、ちょうど心臓の辺りを貫き、氷の刃が飛んで行く。真っ先に自分を狙うのは、どのタロットも同じか。ヴォルフはメイスを置いて来る形で足を踏み出し、そのまま腕を振る。
しかし振り切る前に再び氷柱が現れ、滑空する燕の如き速さで彼に向かって飛んでくる。避ける間もなくメイスを体の前に構えると、鉄柄に当たって砕け散った。
「安易に飛び込……ジゼラ待て、どこへ行く!」
オルガの怒鳴り声に驚いて見ると、ジゼラは既に遠くを駆けていた。逃げたのか。否、そんなはずはない。
小さく舌打ちして、ヴォルフは彼女の後を追う。右手の砂時計から、燃えるような熱を感じていた。
「あれは聡いなァ。お前、耄碌したか?」
愉しげな「魔術師」の声が耳障りで、ヴォルフは眉間に皺を寄せた。途端背後に気配を感じ、走りながら上体を捻ってメイスを後方へ振る。
彼の背を追っていた氷柱が鉄球に激突し、粉々に砕けた。残る二人には一瞥もくれないまま、ヴォルフはジゼラの背中を追う。
焦っていた。探し求めていた怨敵と対峙する事も放棄するほど、彼女の背中が気になった。それがどういう類いの焦りなのか、ヴォルフ本人にも分からない。ただ左手に握りしめた砂時計の熱さに、焦燥を煽られる。
「ジゼラ、勝手に行くな!」
「向こうにもいる!」
間髪容れずに返ってきた答えに、ヴォルフはぞっとした。心臓に虫が這うような奇妙な感覚に身震いしそうになったが、冷えた空気を吸い込んで堪える。
異常な身体能力や直感は、魔女の血のせいだろうか。ヴォルフの腕力も多少恩恵を受けているから、そうなのだろうと思う。ただ、何故今そんな事を考えるのか、彼自身疑問だった。異様なまでに強く感じる不安にも、違和感しかない。
脇目もふらず走っていたジゼラは、森を出たところでぴたりと立ち止まった。ヴォルフは少し遅れて追い付き、森を出た先、岬にいたものに驚愕して目を見開く。
「まだ生きていたか、『愚者』よ」
壮齢を少し過ぎた、威厳のある男の声だった。苦い記憶を呼び起こされ、ヴォルフは眉間にシワを寄せてその場に立ち尽くす。
曇天と潮騒を背にしたそのタロットは、宝剣を携えて仮面を被った男のように見えた。表情のない白い仮面の縁から、後ろへ撫で付けられた鳶色の髪が見える。
首から下を袖のない外套で被っており、ごく普通の人間のようにも見える。しかし、よく見ると足がない。頭のついた外套が宙に浮いているだけだ。
「あの時の……『審判』か」
ジゼラは驚いたようにヴォルフを振り返り、まじまじと見る。呟いた本人はその視線に答えず、苦々しく表情を歪めるばかりだった。
父から譲り受けた両手剣を折ったのが、この「審判」だった。ヴォルフも忘れかけていたし思い出したくなかったから、向こうが覚えていた事に驚く。
初めての敗北だった。あの時は深手を負わされた挙げ句に得物を折られ、ここまでかと思ったものだ。命乞いする気も丸腰で抵抗する気もなく、このまま死ぬのだろうと、ぼんやりと考えていた。ここで死んでしまっても、構わないと。
しかし「審判」は、彼に止めを刺さなかった。朦朧としていたから何と言って逃がされたのか覚えていないが、それが悔しくて、記憶の彼方に封じ込めてしまっていた。
「ああ……罪深い」
嘆息するような声に、ヴォルフの全身に寒気が走る。ジゼラも同じだったようで、目を見開いて硬直していた。
「審判」の手にした剣が、火花が散るような音を立てる。それを聞いて我に返ったヴォルフは、咄嗟に左腕でジゼラの腰を抱えてその場から横へ飛びのく。瞬間、背後にあった木が真っ二つに裂けた。ヴォルフが避けた事で彼を狙った宝剣が木に突き刺さり、衝撃で裂けたのだ。
一撃でも食らったら、人間などひとたまりもない。だがずっと、ああいうものと戦ってきた。今や恐るべくもない。
「……嘘だろう」
轟音を上げて左右に倒れた木を振り返り、ジゼラは呆然と呟く。ヴォルフは彼女を下ろして、メイスをきつく握りしめた。
思い出したくはない。ものにこだわらないヴォルフにも自尊心はある。あの敗北は記憶すら頭の片隅に押しやるほどに彼を打ちのめして、心身ともに深く傷付けた。
けれど、逃げられない。ここで逃げたら、今まで戦ってきた意味が本当になくなってしまう。
思えばずっと、逃げてばかりいた。大陸を襲う災厄の真実からも、苦い過去からも、身の内に流れる血からも、この旅の意味からも。知りたくなくて、気付きたくなくて、忘れた振りをして逃げていた。
そして隣にいる、たった一人の女からも。
「……ジゼラ」
宝剣を手元に戻した「審判」から視線を外さないまま、ヴォルフは呟く。澄んだ色の瞳だけが怪訝に見上げるのを、彼は視界の端で見ていた。
「砂漠の町で、言ったな。死んだら頭を潰してやると」
あの剣が打ち出されるまでは少々のタイムラグがあるが、今から近付くには心許ない程度の時間だ。だから再び避けるべくその場に留まり、続ける。
「撤回させてくれ」
「……なんだ?」
「お前は死なせはせん」
それはあの荒野で言えなかった事。心の端に引っ掛かっていた言葉への、本当の答え。彼女だけではない。本当は、守りたかった。
災厄に見舞われ、何も出来ずに死んで行く人を。狂った町で、静かに狂って行く人を。誰かに傷付けられ、痛みを堪える人を。この大陸に残った、全ての希望を。
せめてこの手に残ったたった一つでも、守りたかった。
「お前は、絶対に」
ヴォルフの声をかき消すような火花の音が、「審判」の手元から上がった。彼は即座にその場から逃げ、異形との距離を詰める。ぽかんと口を開けていたジゼラも機敏に反応して同様に地を蹴り、横へ回り込むようにして「審判」へ向かって行く。
二人の間をすり抜けるように飛んだ宝剣は、再び木に激突した。剣がない内に「審判」に近付いたヴォルフは、その顔を見て眉をひそめる。
異形の真っ白な仮面には、表情というものがない。くり貫かれた目の奥には何もなく、真っ暗な空虚が広がっている。しかし確かに鳶色の髪が生えた頭は存在している。よくよく見れば仮面の縁には根が張ったように皮膚がせり出し、癒着していた。
「ジゼラ、火花の音がしたら横へ逃げろ。威力はあるが、方向転換は出来ん」
ヴォルフは間合いに「審判」を捉えた瞬間、大きくメイスを振る。異形は難なく避けたが、狙いはそれではなかった。
彼は左側へ伸ばした右腕の下をくぐらせるように、砂時計をつき出していた。滑るように後方へ移動していた「審判」の動きが驚いたように止まり、砂時計を逆さにすると舌打ちの音が聞こえる。メイスだけに注意を向ければ、砂時計も視界に入るだろうと予測しての事だった。
「わかった!」
やや遅れた返答の後、宝剣が「審判」の手元に戻った。戻るまでに時間がかかるが、次の動作に移るまでは速い。どう戦うかと考えたところで、再び火花が散る音がした。
咄嗟に屈んだヴォルフの頭上を、例えようもない速さで宝剣が飛んで行く。今度は木々の間をすり抜けて行ったらしく、少し遠くから太い枝が折れる音が聞こえた。あれが戻らない内はいいが、このタロットは剣を飛ばすだけが能でもない。
宝剣が手元から離れたのを見計らい、ジゼラは一歩で「審判」との間合いを詰め、首に向かって剣を振る。けれど異形はほんの少し浮き上がっただけで、避ける素振りを見せない。
白銀の刃は「審判」の外套を切ったが、それだけだった。体があれば致命傷になったであろう一撃だというのに、前身頃を裂いただけだけで、体液どころか胴体すら見えない。外套の下は空洞なのだ。
「またか……」
以前戦ったタロットを思い出したのだろう。苦々しく呟き、ジゼラは一旦「審判」から離れる。それを追うように、白い手袋をはめたタロットの指が彼女を差した。ヴォルフは慌ててメイスを横に構え、ジゼラと「審判」との間に突き出す。
「ジゼラ、屈め!」
怒鳴ったのとほぼ同時に、金属同士がぶつかる甲高い音が継続的に鳴り響く。「審判」の指先からは、凄まじい速度で無数の針が放出されていた。たかが針でも、この速さで貫かれたら当たり所によっては致命傷になりかねない。
少し遅れてジゼラが屈んだのを確認してから、ヴォルフは腕に力を込めてメイスを振る。無理に力を入れた為か針が刺さったのか手首に痛みが走ったが、構ってはいられない。
大きく飛んで鉄球を避けた「審判」の手に、宝剣が戻る。慌ててメイスを手元へ引き戻したヴォルフは一瞬逃げようとしたが、渋面を作って頭上へメイスを構える。屈んでしまった為に、ジゼラが体勢を整えるのが遅れたのだ。いくら彼女の足が速くとも、到底逃げきれない。
炎が弾けるような音と共に、宝剣が一直線にヴォルフの頭上へ向かって来る。左手を柄に添えて位置を変えたが、剣がぶつかった衝撃には耐えられなかった。鉛玉を落とされたような重さに肘が曲がり、足は地面に沈む。
それでも、メイスは折れなかった。腕が押し潰されるのではないかと思うほどの衝撃を堪え、ヴォルフは顔をしかめてきつく歯噛みする。上からかかる力を逃がすように柄を傾けると、宝剣の切っ先がずれて地面に突き刺さった。
土くれが舞い上がるのを視界の端で見ながら、ヴォルフは一つ息を吐き、すぐにメイスを握り直す。これは恐らく、長年使う内に魔術師が使う触媒としての効力を持ったのだろう。そうでなければ、あの一撃に耐えうるはずもない。
二度の敗北は許されない。「審判」だけではない。この先一度たりとも、ヴォルフは負けてはならない。憎んでいた血で、長い旅の中で培ってきた全てで、この脅威に打ち勝たなければ。
彼に、未来はない。
いつの間に立ち上がったのか、ジゼラが「審判」の懐に飛び込んだ。大きく腕を引いて肩の上へ剣を構えた彼女は、切っ先を仮面に向けて勢いよく突き出す。
手は間に合わないと判断したのか、「審判」は空中で後転した。しかし一瞬間に合わず、鋼の刃に鼻先を突かれる。石膏の仮面が僅かに砕け、黒い体液が噴き出した。大きく回転する異形の手は、何故だか回る前と同じ位置にある。
その人差し指が持ち上がった瞬間、ヴォルフはジゼラの腰を掴んで引き寄せた。よろけながら着地した彼女を胸に抱え込んで、「審判」に背を向けて屈む。何かが近付いて来る気配を感じつつ、頭を下げて後ろ手でコートの裾を広げた。
両肩に、鋭い痛みが走った。案の定、針を放出してきたらしい。背中はコートの分厚い生地を浮かす事で守ったが、肩はそうも行かない。
「ヴォルフ、血」
「血ぐらい出る」
追撃が止んだところでジゼラを解放し、ヴォルフは立ち上がる。まだ針が刺さっているような気がしたが、悠長に抜いている暇はない。
立ち上がって振り向こうとしたその瞬間、あの音がした。ジゼラも気付いたようで、二人同時に左右へ避ける。背後から風切り音を立てて飛んできた宝剣は、地面に突き刺さって土くれを巻き上げた。
ひやりとした刹那、森の方から轟音が響き渡る。何事かと見てみれば、火が爆ぜる音がした。まだ宝剣が戻るほどの時間は経っていないはずだ。
「燃えている」
呟いたジゼラの視線の先、空には、確かに黒煙が上がっていた。何が起きているのかと考えた矢先、森の中からカンテラと剣を手にしたオルガが飛び出してくる。
見る限り傷はないものの、彼女は明らかに疲労していた。慌てていたからすっかり忘れていたが、彼女一人に「魔術師」を任せてしまっていた事になる。魔女とはいえ、疲れもするだろう。
「ち……『審判』か」
軽く舌打ちし、オルガは「審判」を睨み付けた。背を向けてしまっていて、ヴォルフにタロットの反応は見えない。
「オルガ、『魔術師』はどうした」
「もう来たよ。流石にしぶといな」
は、と呟くと同時に、ジゼラが何かに気付いたような声を漏らした。視界の端で、くすんだ色のローブと艶やかなブルネットが翻る。
オルガよりやや遅れて森から飛び出して来たのは、杖だけだった。石の髑髏は頭部が欠け、そこだけ光を失っている。持ち主もいないのに大きく振りかぶられた杖を、オルガが剣の分厚い刃で受け止めた。
「こちらは止めておく、お前達はそっちをなんとかしろ!」
怒鳴られて慌てて「審判」へ向き直ると、異形は変わらず地面から僅かに浮いた状態で佇んでいた。今にも陰鬱な曇天に溶け込んでしまいそうな石膏の仮面は、鼻の部分が欠けている。仮面の向こうにあるのは闇ばかりでなく、時折白いものが覗いてはすぐに引っ込んだ。
その様子に、ヴォルフはぞっとする。見てはいけないものを見てしまったような、嫌な気分だった。
「ヴォルフ、どうする?」
仮面の向こうに何もなかったせいだろう、ジゼラは困ったように眉を曇らせてそう問いかけた。どうするかと聞かれても、砂時計が完全に光るまで普段通り時間を稼ぐだけだ。
背後では、恐らく打ち合っているのだろう。断続的に鈍い音がする。少し遠く、森の中からはきな臭さが漂ってきていた。それよりも炎が弾ける音に、彼は焦る。
「ヴォルフ!」
ジゼラの怒鳴り声が耳に入ると同時、彼は反射的にその場から逃げた。耳元を重い風切音が通り過ぎ、風圧で頬に傷がつく。
オルガは避けただろうか。さすがにとばっちりを食うほど鈍くはないだろう。そう考えながら、彼は砂時計に視線を落とす。
砂はまだ、半分残っている。砂の落ちる速度の異常な遅さに、目眩がした。
「堪えろ、まだだ」
「わかった。大丈夫だ」
ジゼラの大丈夫という言葉を、これほどまで不安に感じた事はなかった。いつだって呆れる反面、何の根拠もなく安堵していた。それが今は、闇の中を手探りで歩くような不安に襲われている。
しかしこの不安にも、根拠はない。だから大丈夫と自分に言い聞かせ、ヴォルフはメイスを握りしめる。ちょうどその時、宝剣が「審判」の手元へ戻った。
ぱち、と、軽やかな音がする。慌てる事なく横へ逃げてから、ヴォルフは「審判」へ向かって行く。ジゼラも同様に、地を蹴った。
あれに体はない。しかし少なくとも仮面には実体がある。ならば、仮面を砕いてしまえばいい。
得物を振ったのは、ジゼラの方が早かった。水平に薙ぐように仮面を狙うが、横からの直線攻撃では浮き上がるだけで避けられる。ならばと、ヴォルフは剣が引き戻されると同時に下から上へメイスを振る。「審判」は今度も避けたが僅かに間に合わず、鉄球についたスパイクに顎を引っかけられた。
勢いよく上方へ吹っ飛んだ「審判」は、すぐさま空中で後転して体勢を立て直した。その仮面にはひびが入り、黒い体液が滲み出している。無表情な仮面とは対照的に、異形が放つ威圧感は増大していた。
砂時計を見ると、傷つけられると、彼らはみな怒ったかのような反応を見せる。或いは、焦っていたのだろうか。彼らは人間から生まれた存在だ。当然、死への恐怖はあるだろう。
あれは人間と、何か違うだろうか。考えて、ヴォルフはすぐに否定する。同じはずがない。あれは負の感情だけを集めて作られたものなのだから。
「さすがに簡単には割れんか」
呟いたヴォルフは改めて「審判」を見て、奇妙な違和感に息を詰まらせた。
喉元を無数の虫が這い上がってくるかのような、強烈な不快感。仮面のひび割れのそこかしこから覗く、白いもの。それがなんなのか気付いた瞬間、彼の全身に鳥肌が立った。
あれは目だ。小さすぎて、何の目なのかまでは分からない。けれど確かに、視線を感じる。
見られている。そんな感覚を抱くと、途端にヴォルフの体が動かなくなる。ずっと、こんな視線から逃げ続けてきた。
今も、こうして。
今まで逃げてきた全てのものに、見られている。
「馬鹿者呑まれるな!」
オルガの一喝で我に返ったが、その時にはもう宝剣が飛んでいた。真っ直ぐに向かってくる剣先を見つめ、ヴォルフは死を覚悟する。これは今まで逃げてきた報いなのだと、そう思った。あれは確かに「審判」なのだ。
けれど正面から来たはずの衝撃は、横から襲ってきた。否、違う。そうではない。
「ダメだ!」
絶叫に近い声と、もう何度も聞いた音。
鉄錆の臭いと生ぬるい感触が、頬を叩く。
たとえば彼女に左腕があったなら、突き飛ばせばそれで済んだ。攻撃が来るタイミングなど分かりきっていたのだから、あの反射神経を持ってすれば、自失したヴォルフを突き飛ばして自分も逃げるぐらいやってのけたはずだ。
けれど彼女に、左腕はなかった。
今日に限って、彼女は右側にいた。だから腕を伸ばすには反対側を向かなければならず、そのたった数秒のせいで、自分が逃げるだけの時間を失った。
「……ジゼラ」
宝剣が背に刺さるさまが、有り得ないほど緩慢に見えた。肋骨を砕いた剣先はそのままの勢いでもって胸へ貫通し、後ろから押されたように、ジゼラの体が前のめりになる。見開かれた目から光が消え、唇から真っ赤な血が零れる。
十字の柄に背中を押されるまま、彼女の体が倒れこむ。黒いコートが翻り、白い髪を包むように隠した。切れ味の鈍い切っ先に引っ掛けられたのは、肺腑か心臓か。
「ジゼラ……」
一瞬にして力の抜けた体が、宝剣が地面に突き刺さった衝撃で跳ね上がる。けれど背中が柄に当たってまた跳ね返り、彼女は地に伏した。大地が大量の鮮血に濡れ、黒く変色して行く。反対に、白い髪は真っ赤に染め上げられる。
「審判」の剣は、背中から彼女の胸を貫いていた。ただの一言もないまま、ついさっきまで動いていた彼女が物言わぬ肉塊と化す。不安だったのは、これを予期していたせいなのだろうか。
いや。どうでもいいのだ。そんな事、今更気付いたって。
むせるような生臭さも世界の色も、ヴォルフの中から消え失せた。燃えるような熱が肩からうなじへ這い上がり、頭にこもる。どんなに逃げてもこれが現実で、突き付けられたのは、抗いがたい死。
「ジゼラ――!」
胸に込み上げる悲しみとも怒りともつかない感情を吐き出すように、彼は吠える。絶叫にも慟哭にも似た咆哮は虚しく、潮騒にかき消された。