第五章 Little Star 五
五
獣の咆哮のように聞こえたが、それは確かに地鳴りだった。しかし「世界」は何の動きも見せない。音だけが耳朶を震わせ、鼓膜を叩く。
何が起きたのかと、ヴォルフは周囲を見回す。景色に変化はなく、相変わらず風もないのが不気味だった。怪訝に思いながらも、彼は懐から砂時計を取り出して逆さにする。オルガが見ていると言っていたから、恐らく「世界」には見えているだろう。
「立て、逃げるぞ」
未だ周囲の様子をうかがうヴォルフを尻目に、オルガはジゼラの手を取って立たせた。彼女は顔をしかめて辺りに視線を巡らせ、しきりに鼻を鳴らしている。何か臭うのだろうか。考えたところで、ヴォルフは足を掴まれる感触に驚いてその場から飛び退いた。
見下ろした地面からは、手が生えていた。骨と皮ばかりで、老人のそれのようだ。所々に浮いた染みは死斑だろうか。皮膚自体がくすんだ黄色に変色しており、生きている人間の手でない事は明確に見てとれる。
「アルカナか!」
叫ぶが早いか、ジゼラは地面から生えた手に剣を叩きつけた。切り落とされた手はすぐに落ちたが、持ち主と思われる死者はものともせずに片腕で地面の下から這い出てくる。蓬髪の残るその頭を踏み潰し、ヴォルフは荷車を掴んだ。
「捨て置け、どうせ『世界』から出れば元の場所に戻る」
オルガに咎められ、ヴォルフは荷車を離してメイスを握る。背中の留め具を外す一瞬の間にも、地面のそこかしこが次々と盛り上がって行く。
異様な光景だった。地面の至るところから干からびた手が生えたかと思うと、土の重さも自重も感じさせない動きで屍が這い出してくる。死人が地面から生えてくるかのようなその光景に、ジゼラが顔をしかめた。
「ここのアルカナは、臭わぬのだな」
確かに、腐敗臭はしない。ただ地面が掘り起こされたせいか、土の匂いは濃くなっていた。ジゼラが鼻を鳴らしていたのはこのせいだったのかも知れない。
二人が周囲を見回している内に、オルガは駆け出した。アルカナ達の間を縫って走る彼女に、剣を収めたジゼラが続く。オルガがまたジゼラの手を取ったのは、足の速い彼女に先を走らせない為だろう。つまりここから出る道を知っているのだろうと判断し、ヴォルフは彼女達の後に続く。
地面から這い出してきた死者達は、手に手に棍棒と剣を掲げている。カップがいないだけ塔よりマシか。アルカナの群れに突っ込んで行くヴォルフは、カップがいたとしても同じように動いただろう。メイスの一振りで何体か倒れたが、数が多すぎて大した意味を為していない。
「ヴォルフ、先に行け! 真っ直ぐ海に向かえ、もうここに用はない!」
用とは何の事かと問い返そうとした時、木の上からアルカナが落ちてきた。一瞬、足を止める。足が腐っているからか着地も出来ず無様に倒れた屍は、落ちた衝撃の強さにも関わらずすぐさま髑髏のようになった顔を彼に向けた。起き上がる前にその頭を踏み潰し、ヴォルフはオルガを追い抜いて行く。
動きの鈍い亡者の群れを一方的に殴りつけながら、ヴォルフは奇妙な高揚感に急き立てられるように走る。重たいメイスが死者に激突する感覚だけが、指先を震わせる。楽しくもなんともないはずなのに、コートに飛び散る腐った体液の染みに、はらわたが足に絡み付く感触に、左手の砂時計が放つ焼けつくような熱に、やけに高揚していた。
いつだってこの手で、相棒一つで道を切り開いてきた。自分のために、己が負わされた全てを灌ぐためだけに。その道程のなんと孤独で空虚だった事だろう。
けれど、今は違う。
五感が妙に研ぎ澄まされている。開けた視界には後ろにいるはずのジゼラの白い髪までもがはっきりと映り、耳は彼女の呼吸音さえ拾う。渇いた口腔に血の味が広がり、背中に気配を負っているようにすら感じる。
確かにそこに彼女がいて、歩む道を開いているのが確かに自分であること。それが高揚感に匹敵するほどの重圧となって、双肩にのしかかる。
ただ今は、それが嬉しい。巻き込んでしまった形であったとしても、望んだのはジゼラ本人だった。妹の代わりに、と言うつもりもないが、居場所をなくした彼女を守ってやる事が出来る。過去も血も生い立ちさえも、全て受け入れてくれた人を。
だから。
だからどうか、この先も。
「ヴォルフ、離れ過ぎるな!」
オルガの怒鳴り声は、いささか焦っていた。速度を落として振り向くと、二人との間にアルカナがいる。ジゼラが左右から来る者を叩き切っていたが、手が追い付かないようだった。
そこでやっと少し、ヴォルフの頭が冷えた。振り向きざま間にいたアルカナ達をメイスで殴りつけ、一旦立ち止まる。遮られていた視界が開け、二人の顔が見えた。
右手にカンテラを握ったオルガは、走った距離の割に顔色一つ変えていなかった。先ほどの焦った声はなんだったのかと怪訝に思うも、ジゼラを見て納得する。彼女は既に、肩で息をしていた。
走りながら戦えば普通はこうなる。女の体力でヴォルフに着いて来られるはずもない。いつもならジゼラの手は彼の袖を握っていて、着いて来られないようなら引っ張るから、すっかり忘れていた。
「平気か」
メイスを握り直しながら問い掛けると、ジゼラは視線だけを上げてヴォルフを一瞥してから、大きく一呼吸した。少しの間の後、顔ごと彼を見上げて頷く。
オルガは何も言わず、二人のやり取りを見ていた。柳眉が寄せられて赤い唇が笑みの形に変わるのを見て、ヴォルフは向き直る。明らかに苦笑の形を作った彼女の顔を見るのが、気恥ずかしかったのだ。
正面を向くと同時に大きく振ったメイスは、すぐそこまで迫っていた死者の一団を根こそぎ薙ぎ払った。再び一歩踏み出すと、ジゼラの気配も動く。オルガの気配が希薄なのは、昔からだ。そこにいないもののように、彼女の気配は淡い。
重たい鉄球が屍の骨を砕けば、その感触が指先から肩へ伝わって頭を痺れさせる。力をこめた拳がひどく熱く、そこだけ発熱しているようだった。鉄球と激突して髑髏のような頭が弾けても、刺が食い込んだ腹が破れて腐った内容物が零れ出しても、何故か臭いを感じない。「世界」の中にいるせいか、はたまたこれも幻影でしかないのか。
人体を破壊しているという感覚は、既にない。ただ道を開けているだけなのだと、ヴォルフはそう考えている。そうでもしないと、物のように吹き飛ぶ屍が哀れに思えてしまうからだ。
避けて通るよりは、倒して行く方がいいのだと考えている。動く死体達は、破壊される事でしか「死神」の支配から逃れる術がない。動けなくなって、ようやく死という安寧は訪れる。
地面から出てくるものは踏み潰し、進路を塞ぐものはまとめて薙ぎ払う。人を人とも思わないひどい所業だ。けれど、やらなければ死ぬ。そうやって、自分に言い聞かせ続けてきた。そして徐々に、麻痺して行った。
この臭わないアルカナ達は果たして、本当に死人なのだろうか。はたまた、やはり「世界」が作り出した幻覚か。
「真っ直ぐ海を目指せ。ここからなら、そう遠くない」
オルガの声は落ち着いていた。真っ直ぐに道を示してくれた母のように。常にどっしりと構えて動じなかった、父のように。
思えばずっと、こうして戦ってきた。戦って戦って、ただひたすら歩き続けても終わりは果てしなく遠くて、どこにも見えなかった。どこが終着点なのかさえ分からないまま、進めるだけ進んできた。立ち止まる事が怖かったのに立ち止まりたくて堪らない、矛盾した気持ちのまま。
それでも確かに今、ここまで来た。十年という長い月日を費やした贖いの旅の終着点に、ようやく辿り着こうとしている。
歩いても歩いても到底見えなかった終わりが、今やっと、見えてきた。
「……ここか」
森を抜けた先は、岬だった。潮騒も磯の匂いもないが、遠くに見える水平線でそうと分かる。
そこには何故だか、アルカナはいなかった。後ろから着いて来る気配もないのを怪訝に思いながら、ヴォルフは二三歩森から距離を取る。彼を追っていた屍達は、森を出る一歩手前で足を止めていた。
「よし、飛び込め」
妙に興奮していたヴォルフは、一気に冷めた。オルガの言葉が信じられず、彼は勢いよく振り返る。二人は今まさに、アルカナの森を出たところだった。
オルガの横に着いていたジゼラも、驚愕に目を見開いていた。当然だろう。海に飛び込めと言われて驚かない方がおかしい。
「……お義母様、今なんと」
ジゼラの顔は、心なしか青ざめていた。あまりの台詞に硬直する二人を横目に、オルガは崖へ向かう。
「海に飛び込め」
「私に捨てた羞恥心を拾って来いと?」
寝惚けた言葉に、オルガは答えてくれなかった。ヴォルフは呆れた表情で溜息を吐いてから、彼女に着いて行く。
後ろから、その袖を掴む者があった。見なくても分かるが視線を落とすと、不安げな面持ちで見上げるジゼラがいる。元々白い顔は、更に青白くなっていた。
ヴォルフは彼女に何を言うでもなく頷いて見せ、崖へ向かう。引っ張られるようにして歩き出したジゼラは、唇を引き結んで俯いていた。さすがの彼女も海に飛び込むのは嫌なのだろう。ヴォルフだって嫌だ。一張羅のコートがだめになってしまう。
「『月』も『太陽』もなければ、見張るものはない。『世界』は入るも出るも自由だ。それ自体には何も出来んでな」
「見ているのではなかったのか?」
崖の端に立ったオルガの横へ行き、ヴォルフは海を覗きこむ。凪の海からは、潮騒さえ聞こえてこなかった。昨日はあれほど不気味に感じられた磯の香りさえなく、水面は海とは思えない静けさを保っている。これではまるで湖だ。
違和感のある光景に眉をひそめた時、ジゼラが腕を抱き込んですがりついてきた。彼女はヴォルフの二の腕の横から顔を出すようにして、崖下を覗いている。海など昨日は普通に眺めていただろうに。
「まあ見てはいるよ。だが境界には、『世界』は手を出せんのだ。そういうものでな」
「よく分からんが……海が出口なのか?」
ああと呟いて、オルガは背後を指差した。そこに広がる森の中では未だアルカナがうろついているが、出てくる気配はない。確かにこの岬は非干渉区域なのだろう。
「ここから、『世界』の外へ行ける。ヴォルフ、体力はもつか?」
「誰に聞いている」
強がった訳ではない。実際、ついさっきまで走っていた割には腹も減っていないし、疲労感もない。ここから出た先に何がいても、全力で戦える気がしていた。
ふと左手を見ると、砂時計の上部にはまだ黒い砂が残っていた。少し遅いが、動いてはいるようだ。
「それでいい」
オルガは笑っていた。ここから先に何があるのか、彼女はきっと知っているのだろう。
ヴォルフは確信していた。身の内に流れる血が警告している。異常な高揚を覚えたのも、恐らくその為だったのだろう。
「ここはランズ・エンド岬。『世界の果て』だ」
言うが早いか、オルガは断崖絶壁から飛び降りた。ねずみ色のローブがはためき、豊かなブルネットが優美に流れる。彼女が海に落ちたのは確かに見えたというのに、音もせず水飛沫も上がらない。穴に吸い込まれるようにして、海の中へ消えた。
ヴォルフはジゼラに視線を落とし、表情を窺う。信じられないものを見るような目で海を見つめていた彼女は、ヴォルフの視線に気付いて顔を上げた。
「……ヴォルフ、私は泳げぬのだ」
タロットは怖がらないのに、海は怖いのだろうか。珍しく怯えたような表情を浮かべる彼女がおかしく思えて、ヴォルフは笑った。青ざめていたジゼラの頬に、色が戻ってくる。
メイスを握ったままの右手に砂時計を持ちかえ、ヴォルフは袖を掴む手を左手で握り込む。華奢な指先が震え、一瞬固まった。
「心配しなくていい」
海に捨てたはずの羞恥心が戻ってきたのか、ジゼラは握られた手を見つめて頬を赤らめていた。胸に込み上げるものを堪えるように、ヴォルフは彼女の手をそっと握り直す。
戸惑う指先は手袋を掻くように動いて、手の甲に添えられた。たったそれだけで、離れていた糸が繋がったような温かい感情が胸を満たす。それを何と呼ぶのか、ヴォルフはもう気付いていた。
「行くぞ」
頷くジゼラの手を引いて、一歩踏み出す。一思いに飛び降りると、引っ張られて彼女も落ちた。
崖から海面までの距離は、見た目より遠く感じられた。風を切る音が耳元でごうごうと鳴り、浮遊感に身がすくむ。何も出来ずに落ちるという感覚は、こんなに恐ろしいものだったのだろうか。
風圧と固く握られた手の感触に、ヴォルフは顔をしかめる。怖かった訳ではなく、手が痛かった。相変わらず握力が異常だ。
考えている間に、海面は目前まで迫っていた。
「ひっ」
ジゼラは悲鳴を上げたが、ヴォルフは怪訝な表情を浮かべる。落下の浮遊感はあったものの、着水時の衝撃がなかったのだ。何事かと考える間もなく視界が暗転し、全身の感覚が失せる。
自分は死んだのかと思った。けれどそれも一瞬だけで、すぐに世界が戻ってくる。
確かに海に落ちたはずの足は、地面に着いていた。体は少しも濡れてはいないし、痛みもない。否、きつく握られたままの手は痛い。目は閉じていたのか開いていたのかも思い出せないが、視界に入る風景は海の中のそれではなく、森の中のものだった。
安堵と拍子抜け感に呆然としていると、肩を叩かれた。大げさに身をすくめて振り返った先には、オルガがいる。
「ぼんやりするな。まだいるぞ」
背後にオルガはいたが、他に何がいるのかヴォルフには分からなかった。見回してはみたものの、視界に入るのは木ばかりだ。崖から飛び降りたはずなのに森の中にいるのも妙だし、置いてきた荷車が側にあるのもおかしな事だ。一番奇妙なのは、何事もなかったかのようなオルガの態度だろう。
そこでふと思い出して左側を見ると、ジゼラは目を見開いたまま硬直していた。何が起きたのか分っていないのだろう。ヴォルフにも分からないのだから、当然と言えば当然だ。
だが、現実に戻った事は確かなはずだ。空はこの島の冬を象徴するかのようにどんよりと曇っており、風もある。何より底冷えするほど寒い。幸い雪は降っていないが、空を見る限り降りだすのは時間の問題だろう。
「どこを見ておる。そこだ」
そこで我に返り、ヴォルフはオルガを振り返ってその指が示す先を辿る。彼の足下を差した指の先には、人のものとおぼしき眼球が無造作に転がっていた。
いや、眼球が落ちているのはおかしい。さすがに驚いて後ずさりすると、オルガが鼻で笑う。
「見ろ、小さく醜い。見る事しか出来ない脆弱な存在だ」
言葉の端に滲んだあからさまな嫌悪に、ヴォルフは違和感を覚えた。小ばかにするような態度を取るのは常の事だが、こんな声を聞くのは初めてだ。この眼球の何がそれほど彼女を怒らせるのか、ヴォルフにはよく分からない。
或いは、彼女はこれがタロットという存在だから嫌悪するのか。
それよりも、これが「世界」だとでも言うのだろうか。オルガが言うからにはそうなのだろうが、にわかには信じがたかった。世界と言うからには、もっと大きなものとばかり考えていた。
とにかく近くで見ようと腰を折ったヴォルフの隣で、ジゼラも同様に背中を丸めた。目がいいとはいえ、こういうものは近付かないとよく見えない。そして少し顔を近付けてまじまじと眼球を見たヴォルフは、ようやく納得する。
それは人間の眼球とよく似ていたが、繋がっているのは視神経ではなく、芋虫の胴だった。眼球と比べるとやけに小さく、これで動けるのかどうか甚だ疑問だ。動く気配がないのを見る限り、必要がないのかも知れない。
醜悪な異形だった。今までに見たどのタロットよりも小さく、非力だ。オルガが厭うのも分かる。
「これは視界に入った人間を身の内に取り込み、永遠を彷徨わせる。一度入って出たから、もう二度と取り込まれる事はなかろうな」
「だからわざわざ入ったのか?」
ジゼラの問いかけに、オルガは小さく頷いた。それからヴォルフの手元に視線を移し、再び顔を上げる。
つられて手元を見ると、砂時計はもう金色の輝きを放っていた。右手を持ち上げた彼を見て察したのか、ジゼラはようやく掴んでいた手を離す。オルガに何も言われなくて良かったと、ヴォルフはぼんやりと思う。
「ヴォルフ」
厳しい声に振り向けば、オルガが真っ直ぐに見上げている。その切れ長の目は射抜かんばかりに鋭く、獲物を狙う鷲のようだった。
「覚悟は決めたのか? もうすぐそこだ」
何の事だかすぐに分かった。答えるでもなくジゼラを見ると、彼女は微かに笑う。頭を抱えたくなるほど馬鹿だが、鈍いわけではないのだ。
ヴォルフは砂時計の上下を掴み、目の前にかざす。薄暗い森の中、金色の光を浴びた「世界」の体は、青く透き通っていた。死んだように何の反応も見せないものの、辛うじて眼球が血走っているから焦ってはいるのだろう。
浅く息を吐いてから大きく息を吸い込むと、冷たい空気が氷柱のように肺腑を刺した。その冷たさが腹部へ滲み、胃をも冷やす。それは故郷の朝、新雪に足跡をつけながら吸い込んだ空気に、よく似ていた。
「『世界』よ」
異形の眼球は血走るばかりで、言葉を発する事はない。ヴォルフはそれを、何故だか虚しく思う。
「正位置へ直り、我が目にその意味を」
「示すな」
背筋が一瞬にして冷え、ヴォルフの呼吸が止まった。視線の先では「世界」が弾け、砂時計の中の砂が黒へ戻って行く。
言葉を遮るように放たれた言葉、背後から聞こえたその声には、聞き覚えがあった。視界の端では、ジゼラが目を丸くして背後を見ている。そしてそこに何がいるか、ヴォルフはもう気付いていた。
「……貴様」
潰れた喉から無理矢理絞り出したような忌々しげなオルガの声は、老婆のそれのように聞こえた。ヴォルフはまだ、振り向く事が出来ない。
「力は足りるのか、裏切り者よゥ……まだいたんだなァ」
老人の声は記憶の中にあるそれによく似ていたが、こうして嘲笑うかのように言葉を発した事はなかったように思う。これは違うのだと認識した瞬間、ヴォルフは勢いよく振り返る。
そこには、痩せた老爺がいた。オルガのものと似たようなねずみ色のローブを着て、腰の曲がった体を人の足ほどの太さの杖で支えている。杖の頭には髑髏を模した琥珀色の石が付いており、その上に枯れ枝のように節くれ立った指が乗せられていた。
頬の痩けた顔には不釣り合いなほど大きな鷲鼻と、乾いてひび割れた唇。皺に埋もれた肌には老人特有の染みが点々と浮き、薄い眉と相まってみすぼらしさを助長させている。けれどその落ち窪んだ目は、老いた狒狒を彷彿とさせるような不気味な光を放っていた。
「いンや勿体ない事だァ……みすみすお前なんぞに喰わせてしまうとは」
「黙れ」
感情を押し殺したようなオルガの声に、老爺は笑った。いかにもおかしそうにひいひいと笑って、視線をジゼラへ向ける。舐めるような、嫌な目だった。
「お前、悔いているンだろゥ」
語尾だけがやけに高い奇妙な声で、老爺は囁く。ジゼラは感情の読めない無表情で、彼を見つめていた。
「曲がりなりにも血の繋がった叔父だァな。知っていたんだろ、お前。自分が何なのかをよゥ」
ジゼラの端正な横顔が、作り物のように見えた。黒いコートが白い髪を巻き込んで風になびき、革を叩く重たい音を立てる。中身のない左袖が、蛇のようにうねった。
彼女は動かない。淡々と老爺の声を聞くばかりだ。ただヴォルフの懺悔を聞き、受け入れたように。
「そう都合よくタロットが現れるわけなかろうよ。親戚と子供達を殺したのは、お前だ。ジゼラ・マレスコッティ。お前の身の内に巣食っていた魔の力と、深い怨嗟だ」
意味が分からない、振りをしていた。そうでもしなければ自分自身をも憎んでしまいそうで、ヴォルフは怖かった。
知っているのだろうと、「女帝」は言った。確かにあの時にはもう気付きかけていたが、知らない振りをしていた。自分にとって都合の悪い真実に気付きたくなくて、これ以上人を憎みたくもなかったから。
「『主』が憎んだのはなァ、人間の醜さだった。その醜い部分を、食ってやってどうするんだよゥ」
今にも笑い出しそうな声で、老爺は続ける。オルガは不思議と止めないし、ジゼラの表情も変わらない。彼女は分かっていたのではないかと、ヴォルフは思う。
幼くして人の醜い感情を知り、どん底まで叩き落とされた彼女は、気付いていたのではないだろうか。ヴォルフのように逃げもせず、何もかも受け止めていたのではないだろうか。だからこそ、こうしてここにいるのではないか。
「タロットを作るのは私じゃァない。カードの思念なんかでもない」
聞きたくなかった。この場にも、いたくなかった。けれど耳を塞ぐ事も、逃げる事も叶わない。自分自身がそれを許せないのを、それだけはしたくない事を、知っているからだ。
「醜い人の心そのものだ。私はお前達が垂れ流す力が自然とそいつを固めてやるように、チョイと細工してやっただけさァ」
全てが人自身のせいで、全てが自分達のせいだった。だからこそ、早くから気付いていたからこそ、ヴォルフは逃げてしまいたかったのかもしれない。人間のせいなら、自分のせいなら、どうする事も出来ないと。それでも今までずっと知らないふりをして、前へと進んできた。
信じていた全てに裏切られたような脱力感はあった。けれど、それだけだった。もう、とうに気付いていたのだ。
なにもかも。
「タロットを殲滅するなんぞ、元から無理なンだ。人の心が醜くある限り、タロットは消えない」
オルガが手にしたカンテラが、音もなくその輝きを増す。言葉を発しない彼女が何を思うのか、ヴォルフには知れない。
真っ白な髪をなびかせて、ジゼラは腰の剣を抜く。煌く白銀の剣身は、いつか見た故郷の星のように瞬いて見える。
逃げてきた。逃げるように前へ進みながらも、この先に希望なんて一かけらもないと思い込んでいた。不都合な真実に目を瞑り、その暗闇の中を歩いてきた。けれど。
確かに「星」は、ここにあった。
「お前のしてきた事は、全て無意味だ」
ヴォルフの胸には今、何もなかった。恐れも絶望もない。ただただ静かに凪いで、老爺の言葉を受け止める。その手がメイスと砂時計を握りしめた時、高い笑い声が鼓膜を叩く。
「ヴォルフ・カーティス……我が孫子よ!」
老爺――「魔術師」の高笑いは、長く長く、森にこだました。