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第五章 Little Star 三

 三


 大気を震わす「月」の咆哮は聞く者の胸中をかき乱すような、不安を煽るものだった。痛みを訴えるようでいて、胸をよぎるのは悲哀と憐憫と、後悔。「世界」の中で影響を受けやすくなっているのか、ヴォルフは胸の痛みを覚える。

 一足先にジゼラの下へ跳んだ「太陽」は、彼女には目もくれず同胞に近付いた。無傷な二本の足を「月」に伸ばした異形は、体液を流す脚を抱くように歪な体を押し付ける。立ちすくんでいたジゼラを引き寄せて背中へ隠したヴォルフは、その様子を見て怪訝な表情を浮かべた。

「ヴォルフ、離れろ。融合するぞ」

 変わらず静観するオルガに言われるがまま、「月」と「太陽」から離れたヴォルフの目の前で、白い異形は黒い脚に吸い込まれて行く。全身を震わせ、のたうちながら呑み込まれて行くその様子が共食いを連想させ、ヴォルフの背が寒くなった。

 異様な光景だった。笑う「月」の目、赤子の顔が徐々に肥大し、その首が蛇のように前方へ伸びてくる。切り落とされた脚の先からは木の根のような足が生え、髭のあった位置からも同じものが飛び出す。ロブスターのような見た目は変わらないものの、紙袋に呼気を吹いて膨らました時のように徐々に巨大化して行く。ヴォルフは顔をしかめてその光景を眺めていたが、やがて我に返り、懐から砂時計を取り出した。

 途端、赤子の二対の目が大きく見開かれる。木の根のような足が横薙ぎに彼を狙って振られたが、後方へ逃げて砂時計をひっくり返した。

 鉄粉のような黒い砂が、磨りガラスの中で音もなく流れ出す。その遅さに、ヴォルフは長期戦を覚悟する。

 白い足が伸び、再び彼を襲う。慌てて飛び退いた彼の頭上には、振り上げられた鋏があった。狙いすまして打ち下ろされた鋏脚をメイスで受け止め、ヴォルフはジゼラに目配せする。彼女の白い髪は、「月」の体液に濡れて所々黒く染まっていた。

 片手で縦に構えた剣を握り直し、ジゼラは鋏の側に立つ。ヴォルフが受け止めた鋏へ向かって剣先を繰り出したが、弾性のある触角に跳ね除けられた。深追いは無用と判断し、彼女はヴォルフとほぼ同時に異形から離れる。

 砂時計が動き出せば、後は時間を稼げばいいだけだ。本来なら無駄に戦ってわざわざ体力を消耗する必要はない。しかしタロットは大人しくしていてはくれない。どんなに逃げても追ってくるし、逃げきってしまっては無力化出来ない。分かっていても、迎え撃つしかないのだ。

 異形は二人が逃げたそばから追いすがり、鋏脚と軟体動物のそれのような足を同時に振るう。ジゼラが逃げた一方でヴォルフが受け止めると、大口を開けた赤子の顔が彼に迫った。その暗い目にあるのは穴だけで、眼球がない。

 大きく開いた口には、びっしりと歯が並んでいた。形は普通の臼歯だが一つ一つが異様に大きく、舌のある位置から上顎に至るまで隙間なく生えている。ヴォルフは反射的に避けようとしたがすぐにやめ、メイスで白い足を振り払ってから、顔を守るように左腕を突き出した。少しでも攻撃手段を減らせば、ジゼラが戦いやすくなるはずだ。

 太い腕に、赤子の顔が食らい付く。万力で締め付けられているかのような痛みに顔をしかめたが、ヴォルフは腕を噛ませたままメイスを置き、限界まで伸びた白い首を掴む。骨の軋む音が、肩から耳へ直に響いた。

 武器を置いたヴォルフに、再びうねる足が迫る。視界の端で様子を見ながら鋏脚と対峙していたジゼラは、そちらに構うのをやめて白い足に向かって剣を振る。足は避けきれず刃に当たったが、やはり食い込むだけだ。けれど、狙いは逸らせた。

 ヴォルフは腕が痛みを訴えるのも構わず、長く伸びた首を握り締めて力任せに引いた。叫びこそしないものの、真っ白な赤子の顔はそこで初めて苦悶の表情を浮かべる。パン生地を引っ張った時のように伸びきった首は、今にもちぎれそうだ。それでも腕に噛みついて離れない首を、更にもう一度、引っ張った。

 生肉を無理に引きちぎったような嫌な音を立て、長い首が半ばからちぎれる。裂け目から粘性の体液が迸り、ヴォルフの顔へ横一直線に黒い跡を残す。それを拭わないままもぎとった首を捨ててメイスを握り、持ち上げざま、近付いてきていたもう一つの顔をなぎ払った。

 鈍い音がして、白い首が吹っ飛ぶ。頭には当たらなかったが、表皮が裂けて黒い雫を滴らせた。衝撃で宙を舞う白い赤子の頭は、尚も笑っている。ヴォルフはあれがこの異形の頭に相当するのだと思っていたが、その割に扱いがぞんざいだ。

 追撃が遅れている内に、ヴォルフは左腕を大きく振って噛みついていた頭を落とす。力なく地面に転がった首の空ろな二つの目は、アルカナのそれのようだった。

「いちいち引っこ抜くのは無理ではないか?」

 鉄槌のような鋏から逃げるジゼラは、落ちた首を横目で見つつそう言った。ヴォルフは振ったメイスを手元に引き戻しながら「月」と距離を取る。

「少しでも潰せば、逃げやすくなるだろう」

「そうか。じゃあ鋏を落とそう」

 軽い口調だったが、本当にやる気である事がヴォルフには分かった。さっきやってのけた事だから、出来ると踏んでいるのだろう。しかし鋏に構うより、伸縮自在の「太陽」の足を先に潰す方が賢明なのではないだろうか。

 会話している間にも、逃げた二人に「月」が迫ってくる。伸縮するとはいえ無限に伸びるわけではないし、「教皇」のように再生はしなさそうだ。これなら、動けないよう「月」の足を潰した方がいいだろう。

「それはいいが、先に足を……おい聞け」

 ジゼラは聞いていなかった。追い付いてきた「月」の髭を踏みつけ、軽く跳ぶ。叩こうとする白い足は剣で跳ねのけ、胴を挟もうとした鋏を蹴って、更に跳躍する。ヴォルフは彼女の背後から伸びる「太陽」の足を、横なぎにメイスを振って退けた。

 折れた脚の先から伸びた白い足と黒い鋏は、未だジゼラを狙っている。しかし髭の方は、ヴォルフに標的を変更した。

 鋏を踏み台にして「月」の頭上まで跳んだジゼラは、剣を下向きに構えて背中に降りようとした。しかし彼女の足が触れるか触れないか程度の位置まで降りた時、何の前触れもなく背中がぱっくりと割れる。脱皮するような割れ方だったが、開いた甲殻の隙間から見えたのは新しい殻ではなく、無数の刺だった。

 ジゼラは慌てて剣を背中に突き立てようとしたが、曲線を描いている為に滑って刺さらない。焦って蹴った異形の背中は、更に割れて行く。その間にも迫ってきた「太陽」の足を腕を伸ばして払いのけると、ヴォルフが細い手首を掴んだ。

「馬鹿者が!」

 声が焦っていた。ジゼラはそれを少し嬉しく思いながら、引っ張られるに任せる。知らず知らず緩んだ彼女の表情は、地面に足を着こうとした所で硬くなった。髭を踏みつけて立つヴォルフの頭上に、白い足が振り上げられている。

「ヴォルフ!」

 ヴォルフは叫んだジゼラの手を離してメイスを握ったが、一瞬遅かった。すんでのところで前かがみになって頭だけは守ったが、背中を強かに打たれる。鈍器で殴られたような衝撃に咳き込みつつも、彼は振り向きざまにメイスを振るう。

 出来損なったような足は、鉄の柄に激突して吹っ飛んだ。背中の痛みを堪えて身を起こしたヴォルフの前方から、背中を打ったのと同じ白い髭が迫る。踏みつけた髭が暴れ出したので更にブーツの底で踏みにじり、彼はメイスを構える。

 しかし顔を狙ってきた足は、ジゼラが弾き返した。さすがに重たかったようで顔をしかめたが、追撃が止んだのを見計らってその場から逃げる。ヴォルフは一旦メイスを置いて踏みつけていた髭を掴み、力任せに引き抜いた。

 白い髭は、根元から引きちぎられるようにして抜けた。傷口から黒い体液が噴出し、ヴォルフの全身を染める。すぐに捨てようとしたが鋏が降り下ろされたので、引き抜いた髭を投げつけた。まともにぶつかって鋏が怯んだ隙を見てメイスを握り、彼は「月」から離れる。

「すまぬ、大丈夫か?」

 不安げな声だったが、ジゼラはまっすぐに「月」を見ていた。ヴォルフも異形から視線を外さず、頷く。

「構わん。気を付けろ」

 いくら離れてみても、「月」は二人を追ってくる。「太陽」と融合して成人男性の腕と同程度の太さとなった脚は、てんでバラバラに動いている。しかし、速度自体は変わらない。よく足がもつれないものだと考えながら、ヴォルフは迎え撃とうとメイスを握り直す。

 白い髭と鋏のあった位置から生えた足が、同時に振り上げられる。ジゼラはまた逃げたが、ヴォルフは得物を横に構えて髭を受け止めた。少し遅れて打ちつけられた方の足は、鉄球に左の拳を添えて角度を調整し、再び受ける。重い衝撃に、僅かに膝が曲がる。

 ヴォルフが止めている間に、ジゼラは「月」の側面に回った。鈍く光る脚めがけて剣を振るうと、大きく開いた鋏が彼女に迫る。だが伸びない鋏はジゼラに届かない。

 渾身の力をこめて、剣身で脚を叩く。卵を割ったような音がして、三対ある脚のうち二本がひしゃげた。。

 それでも、「月」の動きは衰えない。二本の「太陽」の足をメイスに押し付けてヴォルフの動きを制したまま、赤子の首を伸ばす。とうとう逃げる術を失ったヴォルフの背を、冷たい汗が伝う。

 ジゼラが悲鳴じみた声を上げ、ヴォルフに駆け寄ろうとする。しかし足を踏み出した瞬間メイスから離れた髭が振られ、瞬く間に眼前へ迫った。とっさに剣を立てて受け止めたが僅かに間に合わず剣身が押され、額に当たる。押し返す事もままならず、ジゼラは悔しげに唇を噛む。刃こそ当たっていないものの皮膚が擦れて切れ、白い額から血の雫が流れた。

 髭が離れた事で力の拮抗が解けた途端、ヴォルフは「太陽」の足を振り払う。しかし反対側から顔が迫って来た為にジゼラに加勢する事も出来ず、そちらにメイスを振る。首を大きく曲げて軌道から逸れた赤子の頭は、鉄球が引き戻される寸前、ヴォルフの左肩に食らい付いた。

 即座にメイスを手放して、ヴォルフは異形の長い首を掴む。びっしりと並んだ歯に噛まれる痛みに、忘れていた背中の疼痛が蘇った。だがそんなものに構っていたら肩を砕かれる。そのまま引き抜こうと試みても、肩から背中にかけてがひどく痛み、思うように力が入らない。

 耳の奥で、骨の軋む音がする。赤子の顔は肩に噛みついたまま、嘲笑うように喉を鳴らしていた。

 このままでは、さすがにまずい。ヴォルフは肩の痛みを堪え、砂時計を握り込んだままの左手を長い首に添える。骨が軋む嫌な音はしていたが、肩に力をこめているから筋肉に阻まれて歯もそれ以上は食い込まない。力が入る内に引き剥がしてしまわなければと、彼は焦る。

 しかし両手で異形の長い首を掴んだヴォルフがそれを引く事は、なかった。

「ヴォルフ!」

 左手を添えた瞬間、開いた鋏が彼の眼前に迫る。ジゼラは死の気配に一瞬にして総毛立ったが、ヴォルフは「月」を睨むばかりでそれ以上動かない。明らかに避けようのない状況だというのに、彼の目は、諦めてはいなかった。

 ジゼラの位置からは、鋏に隠れてヴォルフの顔が見えなくなった。力の抜けた手から剣が落ち、糸が切れたように足からその場に崩れ落ちる。

 挟まれてしまったと、彼女はそう思ったのだ。しかしすぐに、状況に気付く。

 剣を離したのに、「太陽」の足が襲ってこない。

「終わりだ、『月』よ」

 漆黒の鋏はヴォルフの両耳に触れる寸前で、止まっていた。赤子の顔はいつしか肩から離れており、眼球のない目で彼の左手を見つめ、唇をわななかせている。どんなタロットにとっても、これは驚異なのだ。

 手の中の砂時計は、煌々と輝いていた。瞬く星に似たその光は母の視線のように優しく、父の腕のように力強い。

「愚者よ」

 ヴォルフが後ずさりして離れると、甲高い声が聞こえた。赤ん坊の泣き声のような、奇妙な声だ。

「何故止まらぬ」

 その問いかけに、ヴォルフは答えなかった。答えたくなかったし、答える必要もないと思った。答自体ありはしない。ただ黙って、異形を見据える。

 しばらく沈黙していた「月」は、赤子の顔で笑った。小馬鹿にしたような声だ。

「お前の妹は、既にこの世におらぬ」

 ジゼラが息を呑む音が聞こえたが、ヴォルフは眉一つ動かさなかった。そんな事は、とうに気付いていたからだ。

 生かされているはずがない。「魔術師」が妹を買った理由にも、タロットが人を食う理由にも、本当は早くから気付いていた。知らない振りをしていただけだ。

「何故進む」

「それでも、するべき事がある」

 はっきりとした口調で答えると、赤子の顔が表情をなくした。半ばからちぎれてだらしなく垂れ下がった首からは、未だに体液がこぼれている。

「お前の親は、人の怨念に焼かれて死んだ」

 今度は、「太陽」の声だった。慈愛に満ちた優しい声は、幼い子供を諭すように語りかけてくる。

「何故救う」

「私も、人だからだ」

 間を空けてはならないような気がした。何故救うのか、いつだったか自問していた覚えがある。答えはとうとう出なかったし、口にした返答も少し違うような気がしている。

 何故人を救おうと進むのか。救いたいのは、不特定多数の人ではない。今までに出会った誰かに、いとおしいと思える誰かに、これ以上傷付いて欲しくないからだ。

 それが綺麗事でも、逆でも良かった。自分が進む意味など、この旅を始めたその瞬間から無いに等しかったのだから。

「『月』、『太陽』よ」

 静かに呼び掛けると、「月」は怖じ気づいたように後ずさりした。その反応を、ヴォルフは少し可笑しく感じる。タロットも、死を恐れるのか。

「己の逆さの意味を、知れ」

 異形の姿が、影に呑まれて行く。同時に辺りが暗くなり、潮騒が聞こえてくる。

 既に更けた空は厚い雲に覆われており、月の光さえ届かない。相変わらず風はなく、荒れていた海は落ち着いたようで、潮の香りが心地よく感じられた。ヴォルフは古びた砂時計を懐にしまい、一つ息を吐く。

 タロットが砂金に変わるのを見届ける事なく、ヴォルフはジゼラに歩み寄る。凍りついたように動かない彼女は、タロットが弾けるのを見てやっと我に返り、ゆっくりと顔を上げた。

 大きなグレーの目が、微かに揺れている。澄んだ青の混じったその目は、何も言わなくとも雄弁に感情を語る。何故、と、そう問いかけているようだった。

「立てるか」

 手を差しのべてやると、ジゼラは眉間に皺を寄せて顔を伏せた。何も言わない彼女が何を考えているのか、ヴォルフには分かる。長い睫毛が震えるのが痛々しく見えて、彼はそっとジゼラから視線を逸らした。

 その視線の先から、オルガが歩いてくる。逃げ回る内に大分離れてしまっていたようだ。

「女を泣かすような男に育てた覚えはないぞ」

 ヴォルフはのんきな第一声に目を丸くしたが、すぐに顔をしかめた。モノクルの奥で、鳶色の目が睨んでいるように見えたのだ。

 何かをごまかすように辺りを見回してから、ヴォルフは座り込んだままのジゼラに視線を落とす。彼女の傍らに転がっていた剣を拾い上げると、オルガが鞘を差し出してきたので黙って受け取って収めた。鞘と鍔が当たる軽やかな音がして、ジゼラが不意に顔を上げる。

 彼女の目は、ヴォルフの懐を見ていた。妹の事を聞く気はないのだろうと、彼は安堵する。今は、話したくなかった。

「その砂時計は、二体一緒に倒せるのか?」

 再び手を差しのべると、ジゼラも今度は素直に掴んで立ち上がった。差し出された剣を受け取って器用に片手でベルトに納め、彼女はまっすぐにヴォルフを見上げる。一点の曇りもない、綺麗な目だ。

「融合したから、一度で済んだ」

「『星』とはなんだ?」

 返答に窮して、ヴォルフは黙り込む。オルガは何も言わないまま、二人のやりとりを眺めていた。

「……タロットだ。この砂時計の中に封じられている」

「他のものは?」

「『星』と『愚者』以外を入れると、性質が変わる。封じる事が出来んかったのだ」

 ジゼラの問いに答えたオルガは、ヴォルフに右手を差し出した。懐から砂時計を取り出して掌に乗せると、彼女は懐かしそうに目を細めてそうっとガラスを摘まむ。長い指が、曇りガラスの表面をやさしく撫でた。

「カーティス夫妻は、この中に希望を籠めた。本当は必要なかったが、彼らはタロットの災厄を受けた人を助けたかったのだ。今こうして息子が使うようになる事など、考えてもみなかったであろうな」

「必要なかった? 何故だ?」

 ふ、と笑って、オルガは歩き出す。ジゼラはすぐにそれを追い、ヴォルフはメイスを背負い直して二人に着いて行く。月も街灯もない夜の下、頼りはオルガが手にしたカンテラの灯りだけだったが、足元は不思議とよく見えた。

 ここはまだ、「世界」の中なのだろうか。周りの景色が変わっていないからそうなのだろうが、突然夜になった事が気にかかる。

「最初のタロット達には、実体があったからだよ。カードだったから、単純に倒せた。つまり」

 そこで一呼吸置き、オルガは思い出したようにヴォルフを振り返る。足元に落としていた視線を上げると、彼女は砂時計を差し出した。

「これがなくとも、『魔術師』と『死神』だけは倒せる」

 受け取った砂時計は、かすかに光っていた。「世界」の中にいるせいだろう。

 荷車の側まで来ると、ジゼラが小さなあくびを漏らした。オルガがそれを見て笑い、荷物の中から毛布を取り出して彼女に渡す。

「寝ているがいい。夜は『世界』も眠っている」

「あなたは?」

 ん、と呟いて、オルガは森の奥へ視線をやる。風のない森は静かで、光源も見当たらないのに仄かに明るい。

「その辺りを見てくる。お主達はここにおれ」

 言い残して去って行ったオルガの背を見送って、ヴォルフは荷物をあさる。麻袋の中から堅パンと缶詰を取り出してジゼラを振り返ったが、彼女は既に毛布を敷いて外套を被っていた。

 音のない森は、不気味でさえあった。寒くはあるが耐えられないほどでもなく、現実よりも過ごしやすいのではないかと思う。寒冷地で生まれ育った彼だが、この島の夜の冷え込みはさすがにこたえる。

「ヴォルフ」

 堅パンにバターナイフで肉パテを塗りながら、ヴォルフは視線を落とす。外套にくるまって頭だけ出したジゼラは、別の生き物のように見えた。

 腹は減らないのかと心配にもなったが、彼女は燃費がいい上に多く動くとあまりものを食べられなくなるらしい。それが大食漢のヴォルフにはよく分からない。

「一緒に寝よう」

「断る」

 諦めたと思っていたらそれかと、ヴォルフは閉口する。間髪容れずに拒絶すると、ジゼラは不満そうに唇を尖らせた。普段通りの様子に、彼は内心安堵する。

「別にいいだろう。減るものじゃない」

「甘えるな」

 早々とパンを平らげて水筒から水を飲むヴォルフに、ジゼラは何も言わなかった。しかしその白い顔からは表情が消え、感情が読めなくなっている。

 黙ってしまえば何も聞こえず、視界は薄布で遮られたように暗い。互いの姿は辛うじて見えるが、ヴォルフはジゼラから視線を逸らしていた。彼女の様子がいつもと少し違う気がして、直視出来なかったのだ。

「あなたは私をなんだと思っている?」

 尖った氷で突かれたように胸が痛み、一瞬呼吸が止まった。無感動な声に責められているような気がして、ヴォルフは答えられずに黙り込む。

 今までにないほど、空気が重かった。いつだって何も聞かないジゼラが、ただ黙って、いや、一人で喋りながらも問いかけはしないままついて来るだけだった彼女が、今日は少し違う。甘えていたのは自分の方だったのだと、ヴォルフはそこで初めて自覚した。

「私はあなたを他人だと思っていない。あなたを親兄弟のように思った事も、一度もない」

 柔らかな声が、針のように胸に刺さる。彼女に何も伝えようとしなかった事を、今更後悔する。頬に刺さる視線が、ちりちりと皮膚を焦がす。

「あなたを愛している」

 まっすぐな言葉をかけられて平常心でいられるほど、今のヴォルフは強くなかった。左手で拳を握ると、忘れていた痛みが蘇る。「月」に噛まれた肩から胸へ、疼く痛みが広がって行く。

 何を迷うのか、自分でも分からなかった。気にしているのが歳の差なのか自尊心なのか、はたまた別の何かなのか。

 ジゼラが何を思ってそんな事を言うのか、知っていた。恐らく何か話して欲しい訳ではない。ただきっと、彼女は知っていて欲しいのだ。それが嘘ではないのだと。

「……知っている」

 そんな答えが、何になるのか。そもそも返答にさえなっていない。ただ他には何も言える気がしなかったから、そう言った。

 沈黙が、肌に刺さる。今更肩の痛みが気になって、落ち着かなかった。

 どうして何も話せないのか。その自問に、答えは出ている。まだ未練がましく想っているからだ。既に死んだ肉親達を、思い出を思い出として片付けられないでいるからだ。

「ヴォルフ、おやすみ」

 ようやく視線を合わせると、ジゼラは微笑んでいた。それだけで全て赦されたような気になって、ヴォルフは知らず肩にこもっていた力を抜く。

 白い瞼が、澄んだ目を隠す。ヴォルフは目を閉じればすぐに寝付いてしまう彼女にそっと近付いて、額を撫でた。

「……おやすみ」

 規則的な呼吸の音が、耳に届く。撫でる手の感触も呟いた声も届いてはいないだろうが、ヴォルフは祈る。彼女がもう二度と、悪夢にうなされる事がないように、と。

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