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第五章 Little Star 二

 二


 水平線の向こうから昇る朝日は、悪意の塊の中にいるとは思えないほど白く、眩しかった。ヴォルフは思わず目を細め、顔を逸らして「月」へ向き直る。黒光りする巨体の向こうでは、ジゼラがじっと朝日を見つめていた。

 風はなく、彼女の髪の一筋さえ揺れはしない。海はさっきまで荒れていたのが嘘のように静まっており、己の呼吸音だけが耳に響く。あまりの静けさに呼吸すら躊躇われ、タロットがすぐ側にいるにも関わらず、ヴォルフは動けずにいた。日の出を待っている場合でもないというのに。

 微動だにしない「月」も、すぐ横にいる異形の事など忘れたかのように朝日を凝視するジゼラも、その様子を硬い表情で見つめるオルガも、どうにも奇妙に思えた。本当は自分一人だけ「世界」の中に入ってしまっていて、今いる彼女達は偽者なのではないか。そんな不安が、ヴォルフの胸をよぎる。

 あまりに静かで、あまりにも不気味だった。沈黙の中で張り詰めた空気が、顔中に刺さる。指一本動かす事さえ制限されたように凍りついた場では、ヴォルフは顔をしかめる以外の反応が出来なかった。

 何かの気配だけは確かに感じる。しかしそれが何なのか、彼には分からない。不気味と言うならそうだが、単純な恐怖とは違う。タロットが現れる前兆だとは思う。けれど感じるのはもっとおぞましい、何か。

 冷たくも熱くもない作り物のような空気を揺らしたのは、ジゼラが喉を鳴らす音だった。

「……あれは、何だ」

 日の出を知らないはずもないジゼラが、緊張した声でそう呟いた。そこで、ヴォルフはふと気付く。

 朝陽とは、あんなにも白いものだっただろうか。

「避けろ!」

 オルガが叫ぶと同時、崖側にいたヴォルフは森の方へと走った。視界の端に映った海から波音が立ち、巨大な水柱が上がる。ジゼラは「月」の陰で、黙って身構えていた。

 ついさっきまでヴォルフが足を着けていた地面を、軟体動物のような異形が薙ぎ払った。色素を持たないその全身はぬめりを帯び、てらてらと光っている。

 朝陽と共に現れた異形の胴は子供が作った土人形のように歪で、腹部がやけに大きく膨れており、腕はない。代わりに胴体には木の根のような足が四本、直に生えている。頭はあるが首がなく、彫刻めいた女の顔は胴にそのまま乗せたようだった。

 これの気配だったのだ。直感したものの、ヴォルフは何故これをおぞましいものだと感じたのか自分でも分からなかった。見た事のないタロットだったせいだろうか。それにしても、ここまで強い嫌悪感を抱いたことは未だかつてない。

「タコか!」

 現れたタロットを見て再び身構えかけたヴォルフは、ジゼラの声に脱力した。あれのどこがタコに見えると言うのだろう。それよりも、緊張感のない彼女に呆れ果てる。お陰で全身にこもっていた力が抜けたのは、素直に有り難かったが。

「いや、イカだろう」

 事も無げに答えたオルガは、タロットの姿を確認するようにカンテラをかざした。微笑む異形の顔は微動もしなかったが、その膨れた腹部が僅かに動く。腹の中に何者かがいるような、奇妙な動きだった。

 妊婦を連想させるその姿に、何故かヴォルフの背が寒くなる。だから寒気を振り払うように、出来るだけ強い声で言った。

「タロットだろうが、馬鹿者共が」

 日の出と共に姿を現したところを見る限り、あれは「太陽サン」だろう。オルガがさっさと「月」を倒せと言っていたのはこれの出現を予期していたせいかと、ヴォルフは納得する。確かに二体同時に相手をするのは、いささか厳しい。

 女神像のように上品な「太陽」の顔は、微動もしない。しかしその四本の足は、そこだけ別の生き物のように絶えず蠢いていた。言い知れぬおぞましさを覚えるのは、その姿のせいか。それとも知らず知らず、あの異形を恐れている為か。

 タロットの中でも、「太陽」と「月」は異質な存在だと聞いている。その理由を思い出そうとした矢先、黒い異形がその視界の端に映った。

 慌てて体の前にメイスを構えたヴォルフの腕を、重たい衝撃が襲う。「太陽」に気を取られている隙に、「月」がすぐ側まで近付いてきていたのだ。

 視線を「月」に向けつつ受け止めた鋏を押し戻すと、異形は赤子の顔で笑いながら反対側の鋏を引く。見た目はロブスターだが、動きは甲殻類のそれとはかけ離れていた。

 メイスを手元に戻す間もなく突かれるが、ヴォルフはすんでの所で横を向いて避ける。動きは見た目より遥かに速いとは言え、巨体が故か月である為か移動速度はそう速くない。逃げるには苦労しなかった。鉄のように黒々と光る鋏は、彼のシャツだけを掠めて行く。

 巨大な脚が腹の前を過ぎるのを確認しない内に、ヴォルフは得物を振り上げて打ち下ろす。一抱えある鉄球は空気抵抗で少々失速し、鋏に阻まれて止まった。

 重い衝突音がヴォルフの耳の奥に響き、肘に痺れが走った。しかし異形に対しては痛手とはなっていないように見える。外殻に埋もれるように生えた二つの幼い顔の異様な笑みが、その予想を裏付ける。

「ヴォルフ、『月』は返すでないよ。砂時計は『太陽』に使って、そちらは削れるだけ削れ」

 じっと戦況を見守っていたオルガが、カンテラを下ろしてそう告げた。ヴォルフは何故かと聞こうとしたが、腹の前を過ぎて行った鋏が再び迫り、言葉を発する事が出来ないままメイスの柄に左手を添える。

 ヴォルフは鋏の片方を受け止めたまま得物を横に構え、頭部を挟もうとした方に鉄の柄を噛ませた。がちんと音がして、彼の腕が震える。

 一方ジゼラは、複雑な表情で「太陽」を見つめていた。しかし異形が動くと、突然眉をつり上げて反応する。木の根に似た足が伸びると同時、彼女は大きく踏み出した。

 伸びてきた足を避け、ジゼラは剣を振り上げる。うねる足が翻ったコートの裾を叩いたが、駆ける彼女は失速する事もなく、真っ向から「太陽」に挑みかかった。降り下ろした刃はタロット相手ではさすがに易々と当たるはずもなく、白い足に弾かれる。

 目前まで迫ったジゼラが見えているのかいないのか、「太陽」は退く素振りも見せず、その足を彼女の腕へ向かって伸ばす。ジゼラは少し跳んで難なく蹴り落とし、弾かれた刃を異形に向ける。だが腕を振った時にはもう、別の足が彼女に迫っていた。

 うねる白い足は木の根のようでも、出来損なった腕のようでもあった。「太陽」が腕を差し伸べるように二本の足を伸ばすと、ジゼラは地を蹴って跳ぶ。助走もなしに首へ向かって伸びてきた足を飛び越える程まで跳躍した彼女は、それを踏み台にして、また跳んだ。異形がそれを追おうと足を伸ばすが、爪先に触れたところで蹴り返される。

 軟体動物めいた足を更に踏んで、ジゼラは「太陽」の頭上を飛び越える。黒いコートが白い髪と共に舞い、その下から現れたしなやかな足が異形の後頭部を蹴った。

 バランスを崩して前のめりに倒れ込む「太陽」は頭だけを動かして、蹴った勢いで距離を取ったジゼラを振り返る。人形の首だけを後ろへ向かせたような、奇妙な動きだった。

 戦うジゼラを見つめるオルガの表情は、驚愕を示していた。思っていたより戦える、といった程度のものではない。有り得ないものを見てしまった時のような、硬い表情だ。

 ジゼラは着地したそばから剣を構え、頭だけをこちらに向ける異形に向かって跳んだ。相手の足は全て正面にある。これで邪魔される事はないはずだ。そう考えたのだが、異形へ剣を降り下ろした彼女の動きは、刃が頭に触れる寸前で止まった。

「……なん、だ」

 硬い声で呟くジゼラの視線は、「太陽」の目に注がれていた。固く閉じられていたはずのその目は、今は薄く開いている。石膏で作られたような瞼の下からは、赤い目が覗いていた。

 異形の目は血液を湛えたように赤く、微かに揺れていた。その奥、赤い液体の中に、白い何かがある。凍りついたように硬くなって行くジゼラの表情とは対照的に、「太陽」は慈母のような微笑を浮かべていた。

「ジゼラ、目を逸らせ! 見るな!」

 オルガが殆ど怒鳴り声で叫ぶが、ジゼラは剣を握る指先を僅かに動かすだけで反応しない。動けないのだろう。

 やがてジゼラの唇が震え、その目が大きく揺れる。みるみるうちに浮かんだ涙が零れ、白い頬を濡らした。明らかに異常な反応を見せる彼女に、オルガが苦い顔をする。ジゼラに何が起きているのか、彼女には分かるのだろう。「太陽」が意味するものを、オルガは知っている。

 頬を伝う生ぬるい感触に我に返ったジゼラは、顔をしかめて眉をつり上げた。怒ったような表情を浮かべる彼女が意外だとでも言うかのように、オルガは目を丸くする。

 ジゼラの指先は微かに震えていた。恐れとも怒りとも違うその震えは、彼女が右腕を外側へと動かすにつれて収まって行く。頭だけで後ろを向いた「太陽」は、微動だにしない。

「何故そんな事をする!」

 怒気を孕んだ叫び声に、ヴォルフは思わず横目でジゼラを見る。気を逸らした途端「月」が鋏を振りかぶったので、慌てて後方へ逃げた。受けて無駄に消耗するよりは避ける方が賢明だ。

 怒鳴ると同時に振られたジゼラの剣は、空を切っていた。頭を狙ったその軌道は、タロットでなくとも屈んでしまえば避けるのに造作もなかったろう。

 ジゼラはすぐに剣の向きを変え、再び「太陽」に向かって振り下ろした。初動が大きかった割に素早いその剣には流石のタロットも反応出来ず、白銀の刃が肩に食い込む。

 しかし、それだけだった。剣はよく手入れしてあるはずなのに、「太陽」の体をへこませただけで傷を負わせたような様子もない。ジゼラは眉間に皺を寄せて更に刃を押し込んだが、異形の体が切れる事はなかった。

 硬い表情で「太陽」を観察していたオルガは、不意にその切れ長の目をヴォルフに向けた。こちらはこちらで、状況が変わる様子もない。

「ヴォルフ、ジゼラと代われ。相手が悪い」

 言われてもすぐには動けず、ヴォルフは鞭のようにしなる「月」の髭を左腕で止めた。ざらついた表皮がこすれてコートの生地は薄くなったが、腕自体に痛手はない。先ほどから打ち合っているが、お互いに大きなダメージを与える事が出来ないまま時間だけが過ぎていた。

 オルガの言う相手が悪いという言葉の意味は、分かっている。「月」には二本の鋏に加えて髭があるから、速いジゼラが相手をする方が妥当だ。

 しかし万が一あの金槌のような鋏が当たってしまったら、頑丈なヴォルフのようには行かないだろう。攻撃を受けられないという事は、避けるのが間に合わなければ終わりという事だ。それが心配で、いささか躊躇していた。

「オルガ、あれは何を見た……!」

 視線は逸らさず問いかけたが、「月」は意識が逸れた隙を突いて鋏を振り下ろした。慌てて横へ逃げ、自分の足跡に鋏脚が食い込むのを見てひやりとする。

 触角を弾いたかと思えば鋏が打ち下ろされ、避ければ反対側からもう一本が迫ってくる。叩こうとしても頑丈な脚に阻まれて、そもそも仕掛ける隙がなかった。かと言って背後へ回ろうとすれば、鋏が行く手を遮る。オルガが削れと言うから戦っていたが、無意味な気がし始めていた。

「逆位置の『太陽』が意味するものは、堕胎。あれが蓄えた記憶を見てしまったのだろうよ」

 それでヴォルフにも合点が行った。「太陽」を見た時に覚えた嫌悪感は、そのせいだったのだ。あれは幻覚を見せて人の心を乱し、そこで生まれた感情を食らうタロットなのだろう。

 拮抗してしまっているなら、崩すのも手だ。

 ヴォルフは大きく一歩、後ろへ飛び退く。漆黒の異形も彼を追ったが、到底追い付くはずもない鈍さだった。見た目よりは遥かに速いものの、小回りが利く分逃げるならヴォルフの方が速い。

「ジゼラ!」

 剣を構え直して「太陽」と睨み合っていたジゼラは、呼ぶ声に驚いて顔を上げた。駆け寄るヴォルフが見えると察したようで、すぐさま異形に向き直る。「太陽」の挙動を注意深く観察しながらじりじりと横へ逃げ、ヴォルフが横に立つと同時に駆け出した。

 逃げたジゼラを追うでもなく、「太陽」はしきりに四本の足を動かしていた。対峙していて敵意も悪意も感じないが、言い知れぬ嫌悪感だけは拭えないままだ。

 交代したはいいが、ジゼラのあの剣で切れなかったものとまともに戦えるだろうか。考えながら、ヴォルフは砂時計を目の前にかざす。「太陽」の瞼はかたく閉じており、見ているのかいないのか分からない。だが足の動きが活発になったので、目視はしているのだろうと判断した。

 しかし砂時計をひっくり返そうと手首を回した瞬間、目前に木の根のような足が現れた。砂時計を割られる事を恐れて反射的に手を引っ込め、ヴォルフはその場から飛び退く。ジゼラと戦っていた時より素早いのは、砂時計を見たせいなのだろうか。

「な……」

 離れてから再び左手を上げたヴォルフは、その瞬間眼前に現れた「太陽」の顔に驚いて目を見開き、思わず声を漏らした。石膏のような質感の女の顔は、子を見る母のような微笑をたたえている。慈母のようなその笑顔が、ヴォルフには薄気味悪く思えた。

 一瞬硬直したヴォルフの左腕に、「太陽」の足が絡み付く。慌てて振り払ったが、すぐに別の足が伸びてくる。そちらは払わずに、彼は右手のメイスを大きく左側へ振った。

 当たらないだろうとは思っていたが、案の定、「太陽」は即座にヴォルフの腕を離して後方へ逃げた。羽根が舞うような奇妙な動作だ。動き自体はジゼラと戦っていた時と変わらないが、速さは格段に上がっている。

 この異形の力がどれほどのものなのか、彼は判じかねていた。大抵は少し戦ってみれば分かるのだが、ついさっきまでの様子と明らかに違うのが気にかかる。「太陽」と距離を取りながらまだ何か隠しているのではないかと考えた矢先、高い金属音が聞こえた。

 驚いて振り向くと、ジゼラは既に「月」から離れている。何の音だったのかと考える前に、地面に落ちてなお蠢く長い触角が見えた。痛みを訴えるかのようにのたうつそれを蹴って遠くへ飛ばし、ジゼラは両の鋏脚を振り上げる異形に向かって行く。

 なるほど確かに、交代した方が良かったのだろう。心中独り言ちて、ヴォルフは「太陽」に向き直る。名とは正反対に温度を感じさせない白い全身を揺らし、異形はただ、そこに佇んでいた。向こうから襲ってくる気配がないのは、何故なのだろう。

「ヴォルフ、砂時計は諦めろ。今は削れ」

 森を背にして立つオルガは、既に普段の余裕を取り戻していた。カンテラを片手に眺めるだけの彼女に、ヴォルフは怪訝に問い返す。

「……どういう事だ?」

「じき分かる。さっさと削らねば、後が大変だぞ」

 何がどう大変になるのかよく分からなかったが、彼女の言う事に間違いはない。ヴォルフは一旦砂時計を懐にしまい、メイスを握り直す。

「あな懐かしや、『星』よ」

 聞こえたか細い声は、女のそれだった。慈愛に満ちた優しげな声だったが、どこか刺がある。「太陽」の声なのだろうとヴォルフは直感したが、石膏で作ったような口は少しも動かない。

「惑うたか裏切り者共よ。まこと、人の心ほど恐ろしいものはない」

 砂時計の中の、「星」と「愚者」の事を言っているのだろう。そうは思ったが、意味が分からない。

 人の心を糧とするタロットが、それを恐ろしいと言う。真実恐ろしいのは、永遠の災厄である彼らの方ではないのだろうか。意思がある以上自覚がないとは考えられないから、発言の意図が汲めなかった。

「そもそも最初に裏切ったのは、奴の方であろう」

 困惑するヴォルフが口を開く前に、オルガが静かに言った。「太陽」の表情は変わらないが、絶えず揺らいでいた体の動きはぴたりと止まる。

「あれまで友好関係を築けておったと言うのに。当事者だけ殺してしまえば良かろうに、怨みの矛先を人類全てに向けおって」

 オルガが言い終わるか終わらないかの内に、「太陽」が不意に二本の足を上げる。うねる足を見て一歩踏み出したヴォルフは、オルガをかばうようにメイスを横に構えた。同時に異形の足が槍のように突き出され、鉄の柄に当たる。

 音はなかったが、激突時の衝撃に、ヴォルフは顔をしかめた。そう硬いようにも見えないのに、異常に重い。

 両手でメイスを握り直して足を振り払い、彼は「太陽」との距離を詰める。間合いに入った彼の腕に白い足が絡み付こうとしたが、直前に柄から片手を離して弾いた為、叶わなかった。異形がよろめいた隙に鉄球が重い風切音を立て、迫る。

 頭部を狙った一撃は、四本の足の内二本を叩くに留まった。「太陽」は止めるつもりだったようだが、流石の異形も一抱えある鉄球は受け止められず、足を弾き飛ばされる。大きく後方へ持って行かれた足から、コールタールのような黒い体液が滴り落ちた。切ろうとすれば伸びるだけの異形だが、殴られればダメージを受けるようだ。

 一方ヴォルフの得物で傷一つつけられなかった「月」の甲殻も、関節を狙われれば弱かった。こちらの動きは変わらないし、元々ジゼラが攻撃を避けるには造作もない速さだ。別段手こずる訳でもないが、狙いを定めるのに時間を要していた。

 動きを止めようと脚の関節を潰そうとすれば、即座に方向転換されるか鋏に阻まれてしまう。髭は二本とも切り落としたが、鋏は未だ両方揃っている。ならばと、彼女は振り上げられた鋏脚の関節に狙いを定めた。

 鋏が下ろされる前に、落としてしまえばいい。黒光りする異形の一撃を避けたジゼラは、再び振り上げられた鋏の下へ自分から潜る。知能はそう高くないようで、「月」はそのままジゼラの頭上へ巨大な脚を振り下ろした。並んだ赤子の顔は、変わらず不気味に笑っている。

 剣を立てて構えたジゼラは、風圧で舞う髪にも構わず、鋏脚と真っ向から衝突させる形で上へ向かって突いた。左腕がない為に筋力を使いきれない彼女が硬いものに対抗するには、こうして突くしかない。

 白銀の剣先と漆黒の鋏はジゼラの頭頂部すれすれで激突し、嫌な音を立てた。ザリガニを石に投げつけた時のような音だと、彼女は思う。そんな余裕が出来たのも、関節を貫通する刃が見えたからだ。

 赤子の顔が、怯えたように歪む。それを鋭く睨み、ジゼラは突き刺さった刃を横へ倒すようにして払った。卵の殻が潰れたような音と共に黒い体液が迸り、巨大な鋏が地面に落ちる。濡れた犬の臭いが濃くなり、彼女は思わず顔をしかめた。

 瞬間、異様な叫び声が耳を突く。胸をざわつかせる女の悲鳴のような男の慟哭のようなそれは、長く辺りに響き渡った。ジゼラが「月」の声だと理解するのにそう時間はかからなかったし、一旦その場から逃げる余裕もあった。

「ジゼラ!」

 けれどヴォルフに呼ばれてそちらを見た時にはもう、すぐそこに「太陽」がいた。駆けてくるヴォルフの必死の形相を見て、あの人の為なら死んでもいいと、ジゼラは場違いにもそんな事を考えていた。

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