第五章 Little Star 一
一
うっすらと雪の積もった獣道に、荷車が轍を残して行く。目一杯詰まれていた荷は一袋減り、少しバランスが取りづらくなっていた。それでもしっかりと握られた荷車は傾ぐ事もなく、大柄な男に引かれて行く。
狭い眉間に皺を寄せ、ヴォルフ・カーティスは先を急いでいた。刃物で断ち切ったような鋭い目は、行く手だけを睨んでいる。巨躯に巨大なメイスを背負った目立つ彼も、深い森の中では粉雪にさえ紛れた。
ひどく寒かった。体の芯まで凍り付くような冷え込みに、ヴォルフの眉間の皺は深く刻まれたままだ。寒さには強いつもりだったが、こうまで寒いと流石に閉口する。呼吸をする度、吸い込まれた冷たい空気が痛いほどに鼻孔を突いた。
傷んで赤茶けた彼の髪は、溶けた雪に濡れている。擦り切れたコートの大きな襟にも、点々と染みが残っていた。
「それではお義母様とお呼びすれば宜しいのですね」
外套を頭から被ったジゼラ・マレスコッティは、抑揚のない声でそう言った。ふっくらとした薄紅色の唇から、一言喋る度に白い息が漏れる。
フードの下から覗く髪は白いが、目鼻立ちの整った美しい娘だ。青みがかったグレーの大きな目は、星を沈めたように輝いている。小振りな鼻と頬は寒さの為か真っ赤になっており、痛々しく思えた。
彼女が右手にはめた手袋は、ヴォルフのものだ。手が冷えて真っ赤になっていたから貸してやったはいいが、相変わらず左袖を掴んでいる。
「何故儂が義母になる?」
感情の読めない声は、女にしては低かった。カンテラを手に二人の前を歩くオルガは、肩越しにジゼラを振り返って少し眉をひそめている。
ねずみ色の地味なローブに隠れた顔は、口調の割に若かった。モノクルの向こうで細められた鳶色の目は仇っぽい切れ長で、下がった細い眉との対比が悩ましい。高い鼻は少し上を向いており、それだけで皮肉屋だと分かる。フードから覗く艶やかな黒髪は、紙のように白い頬に曲線を描いていた。
「ヴォルフの養母殿なら、私の義母になるはずでしょう」
意味が分からなかった。細面を引きつらせ、オルガは視線だけでヴォルフを見上げる。彼は渋い表情を浮かべたまま、顔ごと目を逸らした。
死んだ両親の代わりにヴォルフと妹の面倒を見てくれたのが、このオルガだ。そう話したら、ジゼラは彼女をお義母様と呼び始めた。相変わらず理解不能だ。そもそももっと他に言うべき事があるのではないかと、ヴォルフは思う。
「ヴォルフよ、この娘の頭は大丈夫か?」
「大丈夫ではないから手を焼いている」
オルガは不思議そうに首を捻るジゼラを、信じがたいものを見るような目で見ていた。普通に対応するようになったヴォルフの方がおかしいのだ。最近は大人しかったのにと、彼は心中嘆く。
寒いせいか身を硬くするジゼラとは対照的に、オルガはすらりとした長身を誇るように、背筋を伸ばして歩いていた。かなりの高齢だというのに、元気な事だ。魔女に年齢という概念などないのかも知れないが。
とうの昔に死に絶えたと思われていた、魔女という人種の生き残り。それがオルガだ。彼女が言うには純血種も細々と生き延びているものの、最早両手で数えられる程の数しかいないらしい。頑なに異人種と交わる事を拒んできた彼らだが、今となっては殆どが人の中にその血を残すのみとなっている。
人が羨み、妬み、その末に疎んだ異端の力。それを持つ人々は誰もが美しく聡明で、気高かったという。疎まれる定めを背負った者達だった為か決して表舞台に出る事はなく、人目から逃れるように暮らしていた。
それも彼らなりの自衛の術だったのかも知れないと、ヴォルフは思う。歴史上の汚点と言える魔女狩りが起こったのは、魔の力を持った一族と交わると男児が産まれなくなると知れた為だ。彼らは、最初からそれを知っていたのではないだろうか。
知っていたとしても、防ぎようのない事だ。彼らの衰退の理由がそれだとしたら、あまりにも哀れな事だと思う。元々少数民族だった為か、凋落も早かったと聞く。
黙々と歩いていたジゼラがふと顔を上げ、先を歩くオルガへ視線を向けた。美しい彼女の横顔もまた、魔女の血が混ざっているせいなのだろうか。
「お義母様は、随分お若いのだな」
「お義母様と呼ぶな」
うんざりとたしなめたヴォルフとは対照的に、オルガは笑った。妙に楽しそうなのが気にかかるが、彼はそれ以上何も言わない。余計な口を挟んで揶揄されるのが嫌なのだ。
ふふ、とさも愉快そうに笑ったオルガは、ジゼラから視線を外して行く手へ向き直る。何が楽しいのか、ヴォルフには理解出来なかった。
「儂は歳はとらんのだ。いいだろう」
「そうか、若作りなのだな」
それとは少し違うような気がした。得意気だったオルガの顔が、一瞬にして引きつる。しかしジゼラは気付くふうもなく、ヴォルフを見上げた。
「歳をとれないと困るぞ。あなたに追い付けなくなってしまう」
こちらを睨みつけるオルガを、ヴォルフは見ない振りをした。代わりにジゼラを見下ろす。
長身のヴォルフを見上げているせいか、ゆったりとしたフードが少しずれている。袖を掴まれたままの左手でそれを引っ張って直してやると、白い顔に影が落ちた。
鼻と頬が真っ赤になっているから寒いのだろうに、彼女は文句一つ言わない。下らない事はひっきりなしに言うが。
「私も歳を取るんだ、追い付ける訳がないだろう」
はっと息を呑み、ジゼラは目を丸くした。それから大きく首を横に振り、袖を引く。
「それは困る、一緒がいい。あなたと一緒でないと嫌だ。それ以上歳をとらないでくれ」
「無茶を言うな」
すげなく返すと、ジゼラは眉尻を下げて肩を落とした。気落ちした様子の彼女が異界のもののように思える。本気で言っている訳ではないと思いたいが、オルガが歳をとらないと言っても動じないところを見る限り怪しいだろう。
カンテラを目の前にかざして周囲を見回していたオルガが唐突に振り返り、下へ向けた掌を腰の高さまで上げた。笑みを浮かべる彼女は、ジゼラの失言の事は諦めたようだ。怒っても無駄な事は理解したのだろう。
「知らん間に図体ばかり大きくなりおったな。昔はこんなに小さかったのにのう」
おおと呟いて、ジゼラは目を輝かせる。子供の頃は誰でも小さいものなのだから、何故嬉しそうな反応をするのかヴォルフには分からなかった。
「子供はいいな。あなたに似た女の子が欲しい」
「それはかなり哀れだと思うがの」
反応すべきはそこではないような気がしたが、ヴォルフは黙り込んだまま顔だけをしかめた。一番哀れなのは、常識の通じない二人に挟まれてしまった彼だ。オルガに至っては、存在自体が常識を大きく逸脱している。
「塔」を倒してから数日。ずっとこうして森の中を進んでいるが、どこへ向かっているのだろう。ヴォルフはふとそう考えたものの、聞くのも今更すぎるような気がした。身にもならない会話を続けている内に、もう大分来てしまっている。
先頭を歩くオルガを見ると、彼女はしきりに左右を気にしていた。木に囲まれた獣道で、一体何を探しているのだろう。
疑問を抱いたヴォルフが問いかけようとした時、ジゼラが上を向いて鼻を鳴らす。臭いを嗅ぐようなその仕草は、もう見慣れたものだ。異常に鼻がいい彼女は、異臭がする度にこうして辺りの匂いを嗅ぐ。
「なんだ? 水の匂いが濃くなったぞ」
雪が強くなった訳でない事は、オルガが振り返った事でヴォルフにも分かった。しかし先ほどまでとどう違うのか、彼には分からない。
目を見張ったオルガが立ち止まると、ジゼラが首を捻った。彼女をまじまじと見た後、黒髪の魔女は片目を細くする。訝しげにも見えたが、むしろ探ろうとするような表情だ。
「お主は犬か?」
小馬鹿にするような口調だった。しかしジゼラは気にするふうもなく、ゆっくりと瞬きだけを繰り返す。
「犬だったらヴォルフに撫でてもらえるだろうか」
「犬だったらな」
言いながら、ヴォルフは懐に手を入れてコートの内側を探る。空気の匂いが少し変わっただけにせよ、変化があったなら何かいる可能性もなくはない。
擦りガラスを掴んだ指に、確かな熱が伝わる。冷えた指先からじわりと染み込んで行くような熱さを確認してから、ヴォルフは砂時計を取り出した。曇ったガラスの中で、砂が白色の淡い光を放っている。
「何かいるのか」
「もうすぐそこだの。砂時計は持っておくがいいよ」
独り言めいた問いかけに返しながら、オルガは行く手をカンテラで照らす。ヴォルフには細く続く獣道しか見えなかったが、彼女は満足そうにうむと呟いてもう一度振り向いた。
「この先は『世界』の中だ。覚悟は良いか?」
「聞かれても分からぬ」
ジゼラの返答に、オルガは渋い顔をした。しかしヴォルフは心中同意する。何の前触れもなく覚悟があるかと聞かれても、答えようがない。
しかし答える事もせず、オルガは肩をすくめる。そして一歩踏み出した彼女の姿が、忽然と消え失せた。
ヴォルフも流石に驚いて目を凝らし、左右を見回してみたものの、やっぱりオルガはいなかった。「世界」の中へ入ってしまった、という事だろうか。ならば追わなければまたうるさい。彼は荷車を引いて、オルガが消えた場所へ歩み寄る。
「なんだ、どこへ行った?」
「『世界』の中だろう。『運命の輪』と似たようなものらしいが」
言いながら、ヴォルフは更に進む。ジゼラは彼の横にぴったりと着いて、辺りを見回していた。
静まり返った森の中は不気味で、雪の降る音さえ聞こえそうな気がした。しかしちょうどオルガが消えた場所で突然その雪も止み、驚いて立ち止まった事で真の静寂に包まれる。同時に、カンテラの灯りが見えた。
目の前には、笑みをたたえたオルガがいた。驚いたようにぽかんと口を開けたままのジゼラに対し、ヴォルフは彼女から視線を逸らして周囲の様子を確認する。
周りの景色に変化はない。しかしカンテラの灯りがなければ一歩先も見えないほど、辺りは暗くなっていた。あの一瞬で雪が止み、夜になる事など有り得ない。ここは本当に「世界」の中なのだろう。
「暗いな」
呟くジゼラにつられて見上げた空に星はなく、奇妙に黄色い月だけが浮かんでいた。卵の黄身より更に濃い、赤みがかった黄色の月。吸い込まれそうな程大きく見える割に月光が届かないのは、何故なのだろう。
月の光さえ届かない獣道を、オルガはためらいなく歩き出す。風もない静寂に、彼女のかすかな足音だけが広がって行く。灰色の背を追うように、周囲を窺っていた二人も歩き出した。
「雪は止んだが、さっきまでいた所と何が違うのだ?」
「時間の流れが早いのだよ。お前達に流れる時間は変わらんが、ここは半日が一時間で過ぎる」
振り返りもせずに、オルガが返す。ジゼラは意見を求めるようにヴォルフを見上げたが、彼も首を横に振った。言っている意味もよく分からないし、彼には元々時間の感覚がない。
つまり、現実より一日が早く過ぎるという事なのだろう。しかしそれが「世界」というタロットにとって何の得になるのか、ヴォルフには分からなかった。自分に流れる時間は変わらないのなら、早く歳をとるようになる訳でもないはずだ。
「日が上っても半日で沈む。何も知らん者なら、一日で狂うよ」
「狂わせてどうする?」
立ち止まる事もせず、オルガは肩をすくめるだけだった。聞いても無駄だと分かってはいたが、ヴォルフは落胆する。
見て判断しろと、彼女はいつもそう言うのだ。既に見られないもの、歴史や両親の事は事細かに話してくれたが、タロットの事はあまり詳しく教えてくれない。見ても分からないから聞いているというのに。
「『世界』を倒さねば出られんが、他にもおるようだの。先にそちらか」
「タロットの中にタロットがいるのか」
ああと答えながら、オルガは空を見上げる。まだ空の色に変化はないが、彼女の言が正しいならすぐに夜が明けてしまうだろう。
「『世界』だけは、中で他のタロットを飼っておるのだ。それらも、『世界』の中でしか生きられんでな」
「何がいる」
問い掛けたが、オルガはもう反応しなかった。黙ったまま、空から行く手へ視線を移す。
ヴォルフはその反応に渋面を作り、ジゼラを見下ろす。しきりに辺りの匂いを嗅いでいた彼女は、彼の視線に気付くと顔を上げて首を傾げた。
「土臭いぞ」
「土?」
下は地面だから土の匂いがするのは当然だが、わざわざ言ったからにはそれだけではないのだろう。「世界」の中だから、地の匂いが濃くなっているのだろうか。さっきは水の匂いだと言っていたはずだが。
考えながら、ヴォルフは目を細くする。細い獣道の先に微かな光が見えたが、光源までは分からなかった。だがもうそろそろ、この森を抜けられるだろう。
寒さが和らいだからか、ジゼラは手袋をはめた手をヴォルフに差し出した。彼は黙って手袋を外してやり、自分の手にはめ直す。すらりとした彼女の手は色が抜けたように白かったが、指先が少し赤くなっていた。
「やっと海だの」
オルガの独り言を、ヴォルフは怪訝に思う。地図の上では、まだ岬まで距離があるはずだ。景色は現実世界と変わっていないから地理に違いはないと考えていたのだが、そうではなかったのだろうか。
隣を見ると、ジゼラが眉間に皺を寄せている。その視線は行く手の光へまっすぐに注がれていた。土の匂いが濃いだけでこんな反応はしないから、また別の匂いがしたのだろう。
「濡れた犬の臭いがするぞ。犬がいるのか?」
土の次は犬かと、ヴォルフは再び周囲へ視線を巡らす。一筋の光も入らない森の中には何も見えなかったが、あからさまに顔をしかめたオルガと目が合った。すぐに視線を逸らした彼女は、ジゼラを見下ろして首を捻る。
「犬はおらんが……お主本当に人間か?」
「あなたには言われたくなかったな」
豪胆というよりは、怖いもの知らずなのだろう。オルガに睨まれても、ジゼラは動揺する素振り一つ見せなかった。
行く手から、潮騒が聞こえてくる。船の上で聞いた波の音は優しかったが、ここで聞くそれには胸の内をかき乱すような禍々しさを覚えた。この先にタロットがいるのだと確信付かせるほど、嫌な音だ。
「海だな」
呟くジゼラの声は、珍しく硬い。ヴォルフはその表情を盗み見ようとしたが、フードに隠れて見えなかった。
森を抜けた先は、崖になっていた。覗けばすぐ下に海が広がっており、切り立った岸壁に打ち付ける波しぶきから潮の濃い香りが漂ってくる。吸い込まれたら二度と戻れなくなりそうな漆黒の海は、風もないのにひどく荒れていた。
点々と顔を出す尖った岩に波がぶつかり、海面に渦を作る。容赦なく岸壁を叩く波が、足元を揺るがしているような気さえした。ぞっとするほど暗い水面はただ黒いだけで、月の光も映らない。
それが妙だと気付いたのは、ジゼラが剣を抜いた後だった。ヴォルフは獲物を狙う獣のような目で海面を見つめ、その変化を探る。
「何かいる」
呟いたジゼラの視線の先では、白い影が二つ、波間に揺れていた。ぼんやりとした丸い灯りのようにも見えるそれは、徐々に形を変えて行く。否、海面へ向かって上昇しているのだ。
おぼろげに形が見えたかと思った瞬間。海面から飛沫が上がり、水柱が立つ。飛び出してきたそれは、甲殻類のようだった。
濡れた犬の臭いが、辺りに充満する。思わず鼻をつまみたくなるような悪臭を放つのは、ロブスターに似た真っ黒な異形だ。この臭いがなければ、ヴォルフは美味そうだと思っただろう。
ロブスターに似ているとはいえ、大きさは一般的な成人男性と同程度だろうか。飛び散る水しぶきの中から崖の海側へ着地した異形の鋏脚は、五歳前後の幼児の身長と変わらないほど巨大だ。異様に長い触角は辺りを探るように揺らめき、時折地面を擦る。
外見だけを見ればそのままロブスターなのだが、本来目があるべき場所に赤ん坊の頭が埋まっていた。丸々とした二つの顔はどちらも同じように笑っており、一見愛らしく思える。けれどその目は老人のように落ち窪んで暗く、髑髏のようにも見えた。
「時間が悪かったの。『月』が先か」
柳眉を曇らせて呟きながら、オルガは森の方へと後退した。戦う気はないのだろう。ヴォルフも彼女が手伝うとは思っていなかったから構わないが、せめて情報だけでも寄越してくれないものだろうか。
「これが『月』なのか?」
ジゼラは剣を握った手で外套を脱ぎながら、怪訝に問いかけた。黒いコートが翻り、彼女の足を叩く。ハイネックを着てはいるが、生地が薄いせいか豊かな胸がビスチェの上へ迫り出して見えた。
「グリルしたい所だな」
背負ったメイスを手に持ち替えつつ、ヴォルフは独り言ちる。滅多にお目にはかかれないほど巨大な得物だが、巨躯の彼が手にしていると実際よりも小さく見えた。
「目のところは食べたくないな」
威嚇でもするかのように、「月」が大きな鋏を開閉して硬質な音を立てる。しかしジゼラはどこ吹く風で、呑気に返した。
緊張感が足りないとは思うものの、変に気張らないのはいい事だ。のんきすぎても良くないが、力が入りすぎてもいけない。特に、この異形達を相手にする時は。
赤ん坊の顔が、不気味なほど無邪気に笑っている。けれど辺りに満ちるのは潮騒のみで、息遣いさえ聞こえてはこなかった。タロットは呼吸をしないし、こちらも息を殺している。そのせいか、寄せては返す波の音がやけに鮮明に聞こえていた。
膠着状態が作る静寂を打ち破ったのは、「月」の触角だった。蛇のようなそれが不意に波打ち、ヴォルフの足を襲う。難なく避けたと思われるも、触角は地面を叩き、土くれを舞い上げた。驚いて後退した彼の横から巨大な鋏が迫るが、ジゼラが両者の間へ割り込み、剣で弾き返す。
鈍い音が立ち、ジゼラがわずかに眉をひそめた。さすがに重かったのだろうが、「月」もまた、短い方の触角を忙しなく揺らしている。表情がないから判断しようもないが、向こうも苦しくはあったのだろう。弾かれた鋏は頭部の前で止まり、また何度か開閉した。
「先に脚か?」
四対の脚がざわざわと動くのを見て、ジゼラが呟く。気味が悪いと言い出すかと思っていたが、タコ以外は平気なようだ。ヴォルフには彼女の基準がよく分からない。
「ちまちまやっていないで、さっさと削ってしまえ。後が苦しくなるぞ」
「だったらお義母様も手伝ってくだされば良いのでは?」
ジゼラの言はもっともだが、オルガは鼻を鳴らすだけだった。ヴォルフは予想していたものの、手を出す気はないらしい。そもそも彼女が戦えるかどうかは怪しい所だ。口を出すだけマシかと考えながら、ヴォルフは砂時計を目の前にかざす。
曇りガラスの中で落ちる砂を目視したのか、「月」が再び鋏を鳴らした。他のタロットと同じように怒ったのかと思われたが、二つの赤子の顔は未だに笑っている。一部でも人のパーツがあれば、僅かながら感情の変化は出るはずなのだが。
怪訝に思いながら横目で砂時計を確認すると、砂の落ちる速度がやけに速かった。明らかに、タロット相手に使った時の速さではない。
「……なんだ、これは」
硬い声で呟くヴォルフの意識が一瞬砂時計に向いた瞬間、「月」が動いた。重たそうな見た目からは想像もつかないような速さで彼の目前へと迫った異形は、身をもたげてその巨大な鋏を振りかざす。驚いて構えたメイスの太い鉄柄が挟まれ、苦しげな音を立てた。
受け止めたはいいが、ヴォルフはその重さに呻く。本来ロブスターの鋏は威嚇にしか使われないものだが、これは充分実用的に出来ているようだ。更に力を込めてみても僅かに押し戻すのが精一杯で、完全に押し返すことが出来ない。
さすがに見かねたのか、ジゼラが剣を地面に対して水平に構え、鋏脚を突こうと迫る。しかし彼女の剣が届く寸前、「月」はヴォルフの腕を押し返し、急速に方向転換した。
目を丸くしたジゼラの頭上へ、反対側の鋏が振り下ろされる。咄嗟に飛び退いた彼女を守るように刺の並んだ鉄球が現れ、下から鋏を弾いた。押し戻された勢いで再び高く上げられた鋏脚は、間髪容れずに振り下ろされる。
巨大な鋏がギロチンのように打ち落ろされた時には、二人は既にその場から逃げていた。「月」が鋏を地面に深くめり込ませて動きを止めた隙に、二人はそれぞれその巨体の両側へ回る。
「月」が土くれを舞い上げながら鋏を引き抜いたのと、二人が仕掛けたのは、ほぼ同時だった。ヴォルフはメイスで薙ぐように横へ振り、ジゼラは一旦腕を引いて、突く。けれど彼らを嘲笑うかのように、二つの赤子の顔がそれぞれ両側を向き、異形の左右から硬質な音が立った。
「大きい割に、速いのか……」
悔しげに呟いたジゼラは受け止められた得物を手元へ引き戻し、即座に「月」から離れた。一方鉄球を挟まれたヴォルフは、一度メイスを振り切って引き剥がしてから、異形と距離を取る。「月」は彼らを追う様子もなく、二つの赤子の顔で笑っていた。
流石に不気味に思えて砂時計を確認すると、中身は既に金色に光っていた。更に違和感を覚え、ヴォルフは周囲を見回す。視界に入った空はもう、白んできていた。
一日が半日で過ぎるとは聞いていた。しかしここへ入った時の月の位置から考えると、まだ夜が明けるような時間ではないはずだ。怪訝に眺めている間にも、夜は明けて行く。
「失敗したのう、『世界』の方に働いたか」
声は普段と変わりないが、オルガの表情は苦々しいものだった。夜が明けてはいけなかったのだろうか。そう考えるヴォルフの視界の端、海の向こうから、白い太陽が昇り始めた。