第一章 Desert Rose 四
四
マリアと別れてすぐ、ヴォルフは教えられた場所へ向かった。思ったより話し込んでいたようで、既に日はとっぷりと暮れている。無事でいてくれればいいと考えながら、足早に歓楽街を進む。
日が暮れてみれば、あれほどいた娼婦達は大通りからほとんど姿を消していた。何人かは未だ客引きに励んでいるが、夕方の比ではない。代わりに明らかに町人ではなさそうな身なりの男達が、辺りを気にしながら歩いていた。
酒か、はたまた賭博か。各々武器を携えた彼らは、旅の途中に立ち寄った賞金稼ぎ達だろう。呑気なものだが、彼らを蔑む権利は、ヴォルフにはない。
自分も同じようなものだ。一緒くたにして見られたくないと思っても、している事は同じなのだから。
元は死人であるアルカナ達を倒して、死者の安息を願って捧げられた銀貨を奪う。あまつさえ、彼らが生前身に付けていたものであろう装飾品にさえ手をつける。
物取りと大して変わらないし、言い訳するつもりもない。ただ、果たさなければならない目的さえなければ、ヴォルフも普通に働いて稼いでいた。気だけが急いて、日雇いの仕事すら探す暇もないままこうして進んでいる。
本当なら人助けなどしている暇はないというのに、一体何をしているのだろう。心中自嘲しつつ足下に落としていた視線を上げると、路地に入って行く少年達が見えた。ヴォルフは思わず足を止め、彼らを見送る。
三人が路地に消えてから、彼はその後を追う。間に合ったのはいいが、先に行って警告してやろうと考えていたから、一足遅かった。
歓楽街の喧騒に紛れ、硬いものを蹴る音がする。扉を蹴り開けただけだろう。それでもにわかに焦り、ヴォルフは路地へ駆け込んだ。一つだけわずかに扉の開いた家を見て、更に焦燥感を募らせる。
「ふざけるな!」
家の中から聞こえた怒鳴り声に驚いて、ヴォルフは足を止めた。聞き覚えのある、女の声だ。その後も言い合う声は聞こえてくるが、何を言っているのかまでは分からない。
少し迷って、結局飛び込みはせずに、扉のわずかな隙間から中を覗いた。三人の少年の背中しか見えないものの、確かに女の声はする。
「ホントに女かよ、騙された」
「顔はいいのに白髪かよ、もったいねー」
女が鼻で笑う声が、かすかに聞こえた。ヴォルフは知らず知らずのうち手にこもっていた力を抜き、室内に聞こえないように、そっと息を吐く。
弱者を見ると放っておけないのは、加害者側の人間を哀れにも思うからだ。生きる為に他人を傷つけなければならない彼らを、ヴォルフは悲しく思う。単純に許せないとも思うが、普段は加害者も傷つけたりはしない。
しかし今回は、事情が違う。彼らは単純に、目先の欲の為だけに被害者を作ろうとしている。
どう止めるか。流石に人間相手にメイスを使う訳には行かないし、素手でも下手をしたら大怪我をさせてしまう。力が強すぎるのも考え物だ。
「髪の色などどうでも良いだろう。それ以上寄るな、斬るぞ」
穏やかならぬセリフだった。ヴォルフは一瞬怪訝に眉をひそめたが、マリアの言葉に思い至り、納得する。今まで無事だったのは、彼女に自衛の術があったからなのだろう。
しかし少年達は、笑った。示し合わせたかのように、同じような笑い声が聞こえる。馬鹿にするような響きだった。
「その腕で? 無茶言うなって」
左端にいた少年が唐突に屈み、右手を伸ばした。女は払いのけようとしたようだが、少年の左手で掴まれる。白い手が捻り上げられても、彼女が左手を出す様子はなかった。
何か障りでもあるのだろうか。そう考えた所で、ヴォルフは我に返る。
「……何をしているんだ俺は」
これではただの覗き魔だ。止める為に来たのに、傍観していては意味がない。
ようやく扉を開け放って室内へ踏み込んだ彼を、少年達が一斉に振り返った。女の姿は相変わらず見えない。だが、その方が都合は良かった。出来る限り他人に見られない方がいい。
「なんだあんた、取り込み中だぞ」
「賞金稼ぎか?」
ヴォルフは少年達の声には構わず、懐から小さな砂時計を取り出して目の前に掲げた。昼間錬金術師に見せろとせがまれた、あの砂時計だ。彼らは三者三様に怪訝な表情を浮かべ、お互いに顔を見合わせる。
「お前達は一度、痛い目を見た方がいい」
「はァ? なんだそりゃ」
三人の視線が集まったところで、ヴォルフは砂時計をひっくり返した。曇りガラスの中で、砂が落ちて行く。くびれの細さの割に、落ちるペースは速かった。
怪訝な表情を浮かべていた少年達が、徐々に驚愕に目を見開いて行く。時計の中の砂は、もう半分ほど落ちていた。
「おい、なんだよアレ。手品か?」
目を丸くする少年達のその目の前で、落ちる砂が黒から金色へと変わって行く。ガラスが曇っているせいかどこで色が変わっているのか分からず、変色する過程も見えない。
見えるはずがない。錬金術師が作ったものには、種も仕掛けもないのだから。
音も立てずに落ちて行く砂は、星のように瞬いていた。曇りガラスの中でぼんやりと光る砂は美しかったが、それを見る少年達の表情は硬い。砂時計の上部に溜まっていた黒い砂が落ち、全て金色に変わる間際、ヴォルフは呟いた。
「頭でもぶつけて、反省しろ」
黒い砂が、全て下に落ちきった。金色の砂がわずかに光った瞬間、少年達の足が床から浮く。各々悲鳴を上げる彼らは空中でひっくり返り、頭から落ちた。どすんと鈍い音がして、板張りの薄汚れた床が軋む。
砂の色が変わるだけなら、ただの手品だろう。けれどこの砂時計はそんなオモチャではない。この世でただ一つ、タロットに対抗する為に作られた武器なのだ。
人間相手に使うとひっくり返るだけだが。
「いってぇ……なんだコレ」
頭をさすりながら、一人がのろのろと起き上がる。後の二人も顔をしかめつつ身を起こしかけ、近付いてくるヴォルフを見て、凍り付いたように動かなくなった。
何が起きたか、そこで理解したのだろう。理解は出来ないだろうが、自分達が空中で一回転して頭から落ちた事は、現実として認識出来たはずだ。一人が魔術師だと叫ぶと、全員立ち上がってまろびながら外へ逃げて行く。
その背中を見送りながら、ヴォルフは複雑な心境になる。魔術師ではないが、捕まえて訂正する気もなかった。寧ろそれを探している立場なのだが。
魔術師というのは、未だに人々を恐怖させる存在なのだ。お伽話と馬鹿にするくせに、ひとたび非現実的な目に遭うと、魔術師の仕業だと怯えて逃げ出す。信じていないのではなく、信じたくないだけなのかも知れなかった。
ヴォルフは砂時計を懐にしまいながら小さく息を吐き、座り込んだままの女に向き直った。そして、吐いた息を呑む。
まじまじと見た彼女は、寒気がするほど美しかった。驚いたように見開いた大きな目は青みがかった灰色で、長い睫毛に隙間なく縁取られている。凛とつり上がった細い眉は白金色だが、無造作に纏められた髪は、何故か老人のように白い。小さな顔は髪との境が分からなくなる程白く、バラの花弁のような唇の薄紅色だけが、際立って見えた。
何故今まで無事だったのか、分からなかった。男装しているから男として生活していたのだろうが、それにしても年齢的に妙だ。
黙り込むヴォルフを目を丸くして見上げていた女は、大きく瞬きをして、ゆっくりと首を傾けた。その仕草を見て、彼は驚いた拍子に止めていた呼吸を再開する。
「助けてくれたのか」
柔らかな声だったが、抑揚がなかった。肯定するのも妙だったので、ヴォルフは手だけ差し出す。女は不思議そうに大きな手を眺めた後、そっと掴んだ。
手を引いて起こしてやる間も、彼女はヴォルフから視線を外そうとしなかった。居心地の悪さに、彼は目を逸らす。
「勝手に上がって、悪かった」
言うべき言葉が見つからず、結局謝った。女は真顔を崩さないまま、二三度忙しなく瞬きをする。
「昨日のひとだな。どうしてここに?」
見上げてくる顔は、人形のように表情を変えない。ほとんど真っ白な顔の中で唯一色付いた唇が動くのを見て、目眩がした。
返答に窮し、ヴォルフは彼女から再び視線を逸らして下を向く。事実をそのまま伝えるのも憚られた。まさかマリアから情報を買ったとも言えない。
「……たまたま、見かけただけだ」
言い訳のような響きだったが、女はそうかと言った。気付いていないのか、気付いて何も言わないだけなのか。
「あなたはお人好しなのだな。ありがとう」
嫌味のようにも聞こえたが、女はやっぱり真顔だった。違和感を覚えても指摘するのは妙な気がして、ヴォルフは口をつぐむ。
娼婦以外の若い女とは、滅多に話す機会がない。元々無口だから雑談しようにも話が出てこないし、話す事もなかった。いや、雑談しようとしていた訳ではない。
「……そうだ、違う」
「何がだ?」
問い返されて顔をしかめたが、呟いてしまったのは自分だ。また怯えられるのも嫌だったのですぐに表情を消したが、女は眉ひとつ動かさなかった。
「あまり娼婦を信用するな。売られたくはないだろう」
「売られる? 何を?」
そういう女かと、ヴォルフは頭を抱えたくなった。
たまに、こういう娘がいる。娼婦が何を生業として生きているのか知らない、子供のような女が。山奥や小さな村で老人と暮らしていたような娘に多いが、町中で見たのは初めてだった。ここまで歳が行っているのに、それもないだろうとは思うが。
口調からして庶民の生まれではなさそうだから、或いは娼婦という職業を知らないだけなのかも知れない。どちらにせよ、これでは注意しても無駄だろう。
「……とにかく気をつけろ」
説明するのも嫌だった。そこまでする義理は流石にない。これ以上食い下がられる前にさっさと行ってしまおうと、ヴォルフは逃げるように背を向けようとする。
しかしコートを掴まれ、引き留められた。
「待て」
「っぐ……」
気付かずそのまま足を踏み出したせいで、襟元の留め具が喉に食い込み、首が締まった。一瞬息が詰まり、呼吸が止まる。流石に苛立って踏み出した一歩を後ろへ引き、ヴォルフは勢い良く振り返った。
しかしそれでも真顔の女を見て、怒る気も失せた。見るだけで毒気など抜けきってしまうほど、綺麗な顔だ。
こんな世間知らずの娘がよく一人で生きて行けていたものだと、ヴォルフはぼんやりと思う。強面の彼を見ても怯える素振り一つ見せないから、肝は据わっているのだろうが。
「せっかく来たのだ、ゆっくりして行ってくれ」
一瞬、耳を疑った。確か昨日は、男は信用出来ないと言っていたはずだ。それがその口で、こんな夜にゆっくりして行けと言う。
理解出来なかった。男は信用出来ないと言うのは、今までの会話から推測するに物取りか何かと勘違いしているせいなのだろう。それでも危機感が足りない。ヴォルフの方も無論何かする気はないが、これではカモにされて当然だ。
「済まんが、私はこれから隣町に……」
「そうだ、名前を聞いていなかった」
人の話を聞いていないのかと、ヴォルフは呆れる。わざとなのか元々なのか定かではないが、調子が狂うのは確かだ。
「……カーティスだ」
「何故セカンドネームを名乗る」
仲良くする気はないと暗に言ったつもりだったが、彼女には通じなかった。ヴォルフは逃げ出したい衝動に駆られる。容姿は滅多にお目にかかれない程だが、おかしな女だ。
「ヴォルフ・カーティス」
ヴォルフ、と呟いて、女は掴んでいたコートをようやく離した。しかしヴォルフが動く前に、彼女は扉に近付いて、閉める。帰す気は更々ないようだった。
彼女が何を考えているのか、全く読めない。そもそも何故引き留めるのかも、よく分からなかった。
「ヴォルフ、どうして私を助けた」
大きな目が、無遠慮に見上げてくる。ヴォルフは口を噤んだが、星を孕んだように輝くその目は、逃げる事を許してはくれない。
どうしてと言われても、理由はない。助けられそうだから助けたというだけの事で、他意もなかった。そもそも人を助けるのに理由がいるのだろうか。どういう返答を期待されているのか分からず、彼は眉間に皺を寄せる。
「この五年間、あなたのように誰かを助けようとする人は見た事がなかったのでな。昨日は礼も言わず、すまなかった」
殊勝に謝る彼女が、意外に思えた。素直な女なのだろうが、素直すぎる嫌いがある。
五年間というのがどういう年数なのか、ヴォルフには分からない。それ以前は、一人ではなかったのだろうか。それなら初心すぎるのも頷けるが、不思議ではある。
口調からして、普通の家に生まれたような女のものではない。貴族の家の出だろうが、それがこんな所にいる理由が分からなかった。最近はタロットの被害に遭って没落する家が多いと聞くし、その類だろうか。
「お礼が出来ればいいのだが、生憎私は日々生きて行くだけで精一杯でな。何も出来ぬのだ」
「礼が欲しくて助ける訳ではない」
口を挟むと、彼女は黙り込んだ。
「私が勝手にしている事だ。お前は気にしなくていい」
「ジゼラ・マレスコッティ」
唐突だった。ヴォルフはまた顔をしかめたが、女は意に介さず彼に歩み寄る。
それが、名前なのだろうか。胸の高さから真っ直ぐに見上げてくる彼女を見下ろして、ヴォルフは困惑する。
「ジゼラと呼んでくれ、ヴォルフ」
何やら嫌な予感がした。よもや、ついて来ると言い出すのではないだろうか。人助けするとたまに言われるが、ついぞ了承したことはない。
しかし次に彼女が口にしたのは、もっと恐ろしい言葉だった。
「私をもらってくれ」
ヴォルフには、絶句するしかなかった。ジゼラは先ほどまでと寸分違わぬ真顔のままで、本気なのか冗談なのか全く分からない。意味も分からない。
嫁にしてくれという意味なのだろうか。それとも、抱いてくれという意味なのか。そんなはずはないし、どちらにせよ理解出来ない。今日会ったばかりの人間に対してする発言ではなかった。
「……無理だ。帰る」
「だから待てと言うのに」
大きく一歩踏み出した所で今度は腕を掴まれ、ヴォルフは仰け反った。案外力が強いようだ。
肩が外れるかと思った。痛む肩をさすりながら、ヴォルフは再び振り返る。不機嫌も露わに大きく顔をしかめてみても、ジゼラは動揺する素振りさえ見せない。
「お前は自分が何を言っているか、分かっているのか?」
当然だとでも言うように、ジゼラは大きく頷く。真顔の彼女に、ヴォルフの方が動揺した。
「好きになったらそう言えと言われていた」
「誰に……は?」
問い返しかけてから言葉の意味を理解し、ヴォルフは間の抜けた声を漏らした。精巧に作られた人形のような顔は、未だ真っ直ぐに彼を見上げている。
この女は今、なんと言った。
「……いや、何?」
問いはしたが、返答が怖かった。薄紅色の唇が開くのが、ひどくゆっくりとして見える。
「あなたが好きだ」
好きという言葉の意味を、勘違いしてはいないだろうか。そう思ったが、ジゼラの表情は真剣そのものだった。元々表情の変化に乏しいだけなのかも知れないが。
馬鹿げていると、ヴォルフは心中呆れる。そもそもこんな美しい娘が、自分のような婚期を逃した強面に惚れていいものではない。
「馬鹿な事を言うな」
悩んだ末に、短くたしなめた。大きな変化ではないものの、ジゼラはそこでようやく眉を寄せ、渋い表情を見せる。
「馬鹿ではない。恋に道理はないと父が言っていたぞ」
「会って一日だぞ」
「あなたを見ていると、胸が高鳴る。恋だろう」
まるで話が通じないし、理屈が理解出来ない。胸が高鳴るのは顔が怖いせいではないかと思ったが、自分で言うのも嫌で、ヴォルフは黙り込む。
ここで問答をしていても無駄だ。しかしジゼラに腕を取られているせいで、動くことも出来ない。まさか振り払って逃げる訳にも行くまい。何故若い女に、家の中に閉じこめられているのだろう。
「これが恋でなくとも、私はあなたと離れ難い。連れて行ってくれ」
「無理だ」
「腕には覚えがあるのだ、あなたの邪魔はしない。連れて行ってくれ」
後ろへ引き寄せられた腕が、ジゼラの右腕に抱き込まれた。当たった胸の硬い感触を、不思議に思う。布でも巻いているのだろうか。そういう問題ではない。
「頼む」
見上げる澄んだ目は、縋るようなものだった。ヴォルフは生まれて初めて、人を助けた事を後悔した。