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第四章 Little Sister 九

 九


 島の夜は、ひどく冷えた。コートと毛布を肩に掛けたままソファーに腰掛け、ヴォルフは舐めるように酒を呷る。断ったのだが、青年がお礼にと押し付けてきたスコッチだ。飲まない訳にも行かない。

 何のお礼なのだか、実際よく分からない。分かっているのは、シルヴィアが青年にヴォルフとの関係を話していた事だけだ。シルヴィアを助けてくれたから、と言われたが、それで彼がヴォルフに礼をする必要はないように思う。

 彼は、シルヴィアに恋をしているのだろう。ぼんやりと考えながら、彼はソファーの背もたれに頭を預ける。娘に恋人が出来たような、複雑な気分だった。子供はおろか、恋人さえいないというのに。そもそもシルヴィアも、別にあの青年が好きな訳ではなさそうだ。

 収容所に捕らわれていた人々は、全員で手分けして錬金術師が営む治療院に運んだ。そう多くはなかったし、教会は魔女狩りに手を貸しているような節があり、信用出来なかった為だ。

 収容所を出てすぐ宿に戻った翌日はシルヴィアが事後処理に奔走しており、ヴォルフはジゼラと共に情報屋を回った。昼には広場から死体が消えていた事に驚いたが、シルヴィアが言うには領主が泣いて頼み込んできたそうだ。頼むからあれを片付けてくれ、と。

 領主は、人格操作されていただけだったのだろう。「皇帝」の支配から逃れ、元の人格に戻ったという事だ。

 しかし町の人は、どうなのだろう。そんな事を考えながら、ヴォルフは薄まったウイスキーを舐める。滅多に飲めないから、少しずつ飲む癖がついていた。

「皇帝」と「正義」を倒した二日後、ようやく落ち着いたシルヴィアが泊まって行けと言うので、今は彼女の家にいる。案外綺麗好きなジゼラは家の中を見て早々汚いと騒いで、また姉を泣かせていた。それでも二人は一緒に寝ると言うからヴォルフはソファーを借りたが、なかなか眠る気になれなかった。

 シルヴィアは、どうするのだろう。このまま婚約者と結婚するのだろうか。それとも、どこかへ逃げるのだろうか。どちらを選ぶにしても、楽な道ではないだろう。だからこそ、選ばなければならない。

 そして、ジゼラは。彼女は、どうするのだろうか。このまま着いてくるのか、シルヴィアとこの町に残るのか。彼女の安全の為には、後者を選ばせた方がいいはずだ。けれど本人は、なんと言うだろう。

 いずれ、自分が決める事ではない。本人に決めさせなければ。

 なんにせよ「皇帝」は倒したから、「死神」の脅威を心配する必要はないだろう。アルカナも少しは減るはずだ。完全にいなくなるのも、食い扶持が稼げなくなるから困りものだが。

「ヴォルフ」

 上から声をかけられて、ヴォルフは階段を見上げる。階段下にあるソファーから姿は見えず、足音だけが聞こえた。

 やがて階下に降りてきたシルヴィアは、白いガウンの上からコートを羽織っている。髪を下ろした彼女は益々ジゼラに似ていた。

「まだ起きていたのか」

「眠れなくて」

 少し笑って、シルヴィアは小ぶりなカップボードからロックグラスを取り出す。それを持ったままヴォルフの横に腰を下ろし、アイスピッチャーからグラスに氷を移した。ボトルから酒を注ぐ手つきが、いやに慣れている。

 グラスの中身を一気に煽り、シルヴィアはゆっくりと一つ息を吐く。ジゼラも酒は好きだと言っていたが、酒好きは遺伝するのだろうか。

「ジゼラの腕のこと、ヴォルフは知ってる?」

 つられて薄まったウイスキーを飲み干すと、シルヴィアがボトルの口を彼に向けた。その顔には、どこか寂しそうな笑みが浮かんでいる。

「聞いている」

「……そっか」

 グラスに酒を注ぐシルヴィアの手は、少し震えていた。酔いが回った訳ではないのだろう。

 鼻が少し赤いのは、寒いせいだろうか。切り揃えられた前髪から覗く眉間に力がこもっており、額に皺が寄っている。白い横顔が寒々しく見えて、ヴォルフは使っていた毛布を彼女の肩にかけた。そこで少し、シルヴィアの表情が和らぐ。

「私には、話してくれなかったよ。突っ込んで聞けなかったし」

「身内には話しづらい事もある」

 うん、と呟いたシルヴィアの表情は、やはり寂しそうに見えた。話して欲しかったのだろうと、ヴォルフは思う。

 ジゼラがヴォルフに何も話さなかった理由は、嫌な事を思い出したくなかったからなのだろう。しかし姉に何も言わない理由は、違うはずだ。

 ジゼラは恐らく、姉に心配をかけまいとしている。失礼な事ばかり言うくせに、そういう気だけは回すのだ。

「あの子はね、私達の希望だったの」

 一瞬、どきりとした。しかしシルヴィアはそんなヴォルフに気付くふうもなく、両手でグラスを持って目を伏せている。憂いを帯びた横顔は、仄かに赤らんでいた。

「お父様は四十を過ぎていたし、お母様も三十半ばだった。それでも、無事に産まれてきてくれて……」

 言いながら、シルヴィアは顔を上げて遠くを見るような目をする。その顔に浮かべられた、なくしたものを慈しむような微笑は、誰に向けられたものだったのだろう。誰に向けたいものなのだろう。

 何を思い出しているのか、ヴォルフにはなんとなく分かった。分かったが敢えて口を挟む事もなく、黙って酒を飲む。

「……結局また女の子だったし、家はぼろぼろだったけど、まだ希望はあるって両親も姉達も信じてた。あの子が、いなくなるまでは」

 感情を押し殺したような、ひそめた声だった。独り言のように語る彼女は、虚空を見つめたままグラスに口をつける。ヴォルフに口を挟む余地はなく、黙ってグラスの中身を呷った。

 一人で背負ってきたのだろう。この頼りない双肩に、家の名も、家族の思い出も。ただ一人、マレスコッティというかつての名家の者として。それが哀れで、悲しくもあった。

 一人じゃ出来ない。ついこの間、ヴォルフはそう言った彼女を叱った。今は少し、それを後悔している。

「どうして私じゃなかったんだろう」

 かたかたと、硬質な音がする。シルヴィアが手にしたグラスの中で、氷がぶつかり合っているようだった。

 グラスを掴む指が、真っ白に変色している。震えているのは、力をこめすぎたせいだろう。

 シルヴィアはジゼラを哀れんでいるのだろうが、ヴォルフには、どちらの境遇も等しく同情に値するように思える。実際に同情する気も、それを口にする気もなかったが。

「私が行ってれば、あの子は腕をなくす事なんか……」

「お前が行っていたら、ジゼラが今のお前と同じ事を言っただろう」

 呼吸さえも止め、シルヴィアは凍りついたように動かなくなった。それからゆっくりとヴォルフを見上げ、緩慢に瞬きをする。驚いたような仕草だ。

 こういう時は、何も言わないのがヴォルフという人間だ。黙って聞くだけでいいと本人は思っているし、彼を知る者ならば沈黙以上は求めない。しかし今日は、無性に何か言ってやりたかった。今までの彼からは、考えられなかった事だ。

 しばし、無言の間が落ちる。加えて何か言うつもりもなくグラスに口を付けると、沈んでいた空気が揺らいだ。

「変わったんだね」

 横目で見たシルヴィアは、彼を見上げて微笑んでいた。空気が揺れたのは、彼女が笑ったせいだろう。なのにどこか寂しげなその表情に違和を感じ、ヴォルフは怪訝に眉根を寄せる。

「昔は誰かを励ます事なんか、しなかったじゃない。突き放すみたいに叱ってばっかりで」

 自覚はあったので、ヴォルフは彼女から視線を逸らす。何故だか少し気まずかった。

 そんな彼を笑って、シルヴィアはグラスの中身を一気に半分ほど飲み下す。さすがに体が温まってきたのか、彼女はガウンの胸元を摘まんで空気を送り込んだ。抜けるように白かった首筋までも、仄かに赤く染まっている。

「あなたは人が嫌いなんだろうって思ってた」

 案外、子供の頃から聡い女だったようだ。

 今はそうではないが、昔は他人を嫌っていた。誰の顔を見るのも嫌で、自分自身さえ厭わしく思っていた。好き嫌いというよりは、むしろ恐れていたのだろうと思う。

 他人が恐ろしかった。関わったらまた騙されると、傷つくだけだと、そう考えていた。疑心暗鬼に囚われていた彼がシルヴィアを助けたのは、幼い少女だったからに他ならない。記憶の中の妹と、同じ年の頃だった。

 幸か不幸か、ヴォルフが変わり始めたのはそれからだ。彼女と離れた時は、多少なりとも寂しかった。だから少しずつ行きずりの人を助けるようになり、誰かと縁を繋ごうとした。それは触れればすぐに切れる、蜘蛛の糸のような縁でしかなかったが。

「だから私、あなたのこと諦めたのに」

 蚊の鳴くような声に、ヴォルフは答えられなかった。初耳だったせいではない。薄々気付いていたからだ。

「代わりたいと思ったのは、ジゼラちゃんが可哀想だったからじゃないの。楽しそうにあなたの事話すから、羨ましかったの」

 長い睫毛が震え、赤く染まった頬に透明な雫が一筋流れる。細い顎まで伝ったそれは玉となって重力に負け、グラスの中に落ちた。広がった波紋が揺らぎ、氷に当たって拡散する。

 彼女が泣くのは、気を引く為では決してない。過ぎた時間が戻らない事を、恋した人を追えない事を、知っているからだ。

「ダメなお姉ちゃんだね、私」

 そんな事はないと言えば、慰めにはなっただろう。けれどヴォルフはそうしなかった。今の彼女が一番望んでいるのは、そんなものではないからだ。

 けれど、望むものは与えられない。与えてはならないし、その気もない。拒絶する事が自分の為であり、彼女の為になると思っている。

「お前には、この町でやり遂げねばならん事がある」

 憂いを帯びた笑みを浮かべたまま、シルヴィアは頷く。彼女も元々、想いを遂げようとして言った訳ではなかったのだろう。

「私は『皇帝』を正位置に戻しはしたが、意味を示させなかった。何故だか分かるか」

 出来る限り優しく、諭すように言うと、シルヴィアはまた一つ頷いた。それからグラスの中身を飲み干し、手の甲で乱暴に涙を拭く。目は少し充血して瞼も腫れていたが、顔を上げた彼女にはもう、憂いの色はなかった。

 透き通るような青い瞳が、ヴォルフを見上げる。真っ直ぐな目の奥には、揺るぎない光が宿っていた。

「私達が、建て直さなきゃいけないから」

 人の心は変わるもの。それを正すのは、人でなくてはならない。出来ない事なら無理強いはしないが、シルヴィアには成しうるだけの地位も信念もある。支える人もいる。だからヴォルフは、「皇帝」に意を示させなかった。

 一息にグラスを空にして、ヴォルフは更に酒を注ぐ。次いでシルヴィアのグラスを満たすと、丁度ボトルも空になった。

「自分の事は、自分で決めろ。町に残るか、私と来るか」

 ヴォルフは驚いたように顔を上げたシルヴィアの、その目の前にグラスを掲げた。大きく瞬きした彼女はやがてはにかんだように笑い、自分のグラスを取る。

 厚いロックグラスがぶつかり、かんと音を立てた。


 翌日買い物を済ませたヴォルフは、早々に町を出る事にした。このままずるずるいると、離れ難くなってしまいそうな気がしたからだ。無論自分ではなく、ジゼラが。

 城門まで見送りに来たシルヴィアは、憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔を浮かべていた。甲冑を着込んだ彼女はつい昨日も見たはずなのに、見違えたようにたくましく感じられる。

「ジゼラ、どうする」

 問い掛けると、ジゼラは顔を上げて不思議そうに首を傾げた。その反応を見て、シルヴィアが苦笑する。

「お姉ちゃんと、ここに残る? それとも、やっぱりヴォルフと行く?」

 ジゼラは僅かに眉根を寄せて、思案するように視線を流した。それからおずおずとヴォルフを見上げ、眉尻を下げる。その仕草で答えは決まっているのだろうと思ったが、彼は何も言わなかった。

 口を出す権利はないし、その気もなかった。自分の事は、自分で決めなくてはいけない。あの砂漠の町で、着いてくると決めたように。

「……ヴォルフと行く」

 シルヴィアはどこか寂しそうな笑顔を浮かべ、小さく頷いた。その温かな眼差しは、真っ直ぐにジゼラへ向けられている。彼女も引き留める気はないのだろう。

「昔は何をするにも、私と一緒だったのに」

 白い頬を仄かに赤く染め、ジゼラは視線を落とした。シルヴィアはそんな彼女を見て目を細め、優しく微笑む。

 ヴォルフは少し安心していた。ジゼラがいなくて困る事は恐らくないだろうが、彼女がいなくなったらきっと寂しくなる。一人ではなくなってしまったから、孤独が嫌になったのだ。

 危ないのは分かっている。この先何があるか、ヴォルフには見当もつかない。ジゼラの為を思うなら、無理にでもここに置いて行くべきだ。だがもう、それが出来なくなっていた。我ながら身勝手な事だ。

「大人になったのだ」

 シルヴィアの顔から、一瞬にして笑みが消えた。ヴォルフは怪訝に片眉を寄せ、ジゼラは真顔のまま彼女を見つめている。

「……大人になっちゃったの?」

「はい」

「お姉ちゃんより先に?」

 その問いに違和感を覚えたヴォルフが口を開く前に、ジゼラは軽くああと返した。明らかに先ではないような気がしたが、彼は何も言えずに黙り込む。顔を上げたシルヴィアが、鬼のような形相でヴォルフを睨んだからだ。

 睨まれる謂れはない。そう考えたところで、彼はシルヴィアの言葉の真意に気付いた。

「……待て、違う」

「ヴォルフじゃないなら誰?」

「お前のその基準なら、ジゼラはまだ子供だ」

 言っていてどんな基準なのかと思ったが、シルヴィアが更に眉をつり上げたのでそれ以上何も言えなかった。この姉妹は怒ると怖い。

 何故責められなければならないのか分からない上に、ジゼラが不思議そうな顔をしているのがこの上なく腹立たしい。こういう娘なのだと分かってはいるが、もう少し真面目に人の話を聞いてくれないものだろうか。この会話を真面目に取られたら、それはそれで困りものだが。

 怒ったように唇を尖らせ、シルヴィアはヴォルフに詰め寄る。近付いた顔から逃げるように、彼は一歩下がる。

「なんで知ってるの」

「本人が言っていた」

 シルヴィアは眉間に皺を寄せて困ったような表情を浮かべ、ジゼラを見下ろした。大きく瞬きをする彼女の無表情からは、感情の一片も読み取れない。

 ジゼラが否定しなかったから、事実だと信じたのだろう。シルヴィアは二人から顔を逸らし、小さく溜息を吐く。そんな姉を見て、ジゼラはふうんと鼻を鳴らした。

「出来ればヴォルフに大人にして欲しいが」

 分かっていたようだ。シルヴィアが凍りついたように動かなくなったので、彼は更に一歩下がって彼女から離れ、ジゼラを見下ろす。微笑む彼女は美しかったが、ヴォルフは渋面を作った。

「お前に羞恥心はないのか」

「そんなものはとうに海へ捨てた」

 何故捨てる必要があるのか、ヴォルフには分からなかった。深い溜息を一つ吐き、彼は顔を上げる。

 これ以上話し込んでいても、シルヴィアが怒るだけのような気がする。後ろ髪を引かれない内に、行ってしまおうか。そう思ったのだが、通りの向こうから駆けてくる二つの人影を見て、怪訝に片目を細めた。

 先を走るのは毛玉だらけのセーターを着た少年で、マイケルと言っただろうか。タロットが出た日、家の中で律儀に待っていた彼は、帰ってきたシルヴィアを見るなり怒りながら泣いていた。タロットが出た事を真っ先に報告してきた事といい、よほど懐いていると見える。

 少年に手を引かれて前屈みで走ってくるのは、騎士の青年だった。甲冑が重いせいか、その足は一歩進む度にもつれて転びそうになっている。

「おっさん、待って!」

 今度はおっさんかと、ヴォルフは肩を落とす。おじさんと呼ばれる方がまだマシだ。ジゼラはそんな彼を見上げてから、目の前まで来た少年を見下ろして少し屈んだ。

「少年、おっさんと言ってはならぬ。このおじさんはな、見かけによらず繊細なのだ。おじさんなどと本当の事を言うと落ち込んでしまうぞ」

「ジゼラちゃんはヴォルフに何か恨みでもあるの?」

 冷静なシルヴィアの問いかけが、尚更辛かった。ヴォルフが黙り込むと、青年が慰めるように彼の肩を叩く。何も言えないまま、ヴォルフは全員から視線を逸らす。

「見送りに来てくれたのか?」

「はい、お世話になりましたし」

 何事もなかったかのように掛けられた問いには、青年が答えた。彼がジゼラを助けたものと思っていたから、ヴォルフはいささか驚く。

 顔をしかめて怪訝な表情を浮かべていたマイケルが、ふとヴォルフを見上げてコートを引いた。見下ろすと、彼は歯を見せて笑う。これから悪戯する時のような、嬉しそうな笑顔だった。

「タロット倒したの、あんたなんでしょ」

 虚を突かれて目を丸くすると、少年は満面の笑みを浮かべた。タロットを倒したとは、誰にも言っていないはずだ。

「……違う」

「知ってんだよ俺、その砂時計」

 思わず口をつぐむと、マイケルはさも楽しそうに声を上げて笑った。シルヴィアが苦笑して、ヴォルフの肩を軽く叩く。

「その子、お母さんが錬金術師なんだ。あなたのご両親の事、知ってたんだって」

 錬金術師だったなら、知っているのも頷ける。両親は方々で錬金術に使う材料を分けてもらっていたようで、知り合いだという人に会う事も珍しくはない。マイケルは、母親から話を聞いたのだろう。

 会ってみたくはあったが、今どうしているのかは聞けなかった。少年の笑顔を曇らせてしまいそうで、怖かったからだ。

「俺、錬金術師になるんだ」

 錬金術師を目指すには、生半可な努力では済まない。苦難の道だろう。ヴォルフは最初から諦めていたが、父が酔う度にその苦労を語っていたから、大変だという事だけは知っている。

 マイケルはヴォルフの懐を指差して、にっと笑った。

「だからそれ、いつか見せてくれよな」

 つられて頬を緩めると、少年は照れたように頬を掻く。その黒目がちな双眸は憂いなど微塵もなく、きらきらと輝いている。

 この町に戻ってくる理由が出来てしまった。そうでなくとも、全て終わったらここに戻ろうかとも思っていた。誰も自分を知らない所へ行きたいと、そう考えていたのに。

 ふと横を見ると、ジゼラは青年に何事か耳打ちしていた。真剣な面持ちの彼は、逐一頷いている。何の話をしているものかと思ったが、聞き耳を立てる前に、ジゼラは顔を離して青年の肩を叩く。

「頑張れ。私も頑張る」

「ありがとうございます!」

 ジゼラに対して胸に拳を当てて敬礼する青年が、不思議だった。しかし聞く前にジゼラが袖を掴んだので、ヴォルフは口をつぐむ。

「ヴォルフ、日が暮れてしまうぞ。行こう」

 ヴォルフは錆びた懐中時計を取り出し、時間を確認する。少し腹が減っていたからもう少し経っているものと思っていたが、昼食を終えてから一時間も過ぎてはいなかった。彼の腹時計は性能が悪い。

 袖を掴んだままシルヴィアを見上げ、ジゼラは微笑んだ。一瞬にして今にも泣き出しそうな顔をしたシルヴィアは、両手を伸ばして妹を抱きしめる。また泣くものと思われたが、彼女は唇を引き結んで堪えていた。

「また、また会おうね。きっとね」

 袖を掴んでいた手を離し、ジゼラはシルヴィアの頭を撫でる。それで少し落ち着いたのか、彼女はジゼラの首から顎までに両手を添え、頬を寄せた。名残惜しげにすり寄る姉に、ジゼラはまた小さく笑う。

「……また」

 あまり惜しむと離れられなくなると思ったのだろう。呟いて離れたジゼラを追うように、シルヴィアの手が伸ばされる。

「あっ……ま、待って、足りないものはない? ここから向こうは行商の人もいないよ」

 情報屋でもそう聞いた。ひとまず塔へ向かうつもりでいるから、食糧は積めるだけ荷車に積んである。塔からならこの町までそう遠くない。何かあったら戻ればいいだろう。

 しかしジゼラは少し悩んで、あ、と呟く。

「足りぬぞ。圧倒的に足りぬ」

「え、何?」

 シルヴィアが問い返したが、ジゼラはヴォルフを見上げて袖を握った。その仕草を見て、彼は嫌な顔をする。

「愛」

「シルヴィにもらえ」

 吐き捨てて、ヴォルフは町に背を向ける。ジゼラの言う事をまともに聞こうとする方が愚かなのだ。

「お姉様の愛はこれ以上いらぬ、あなたの愛が欲しい。足りぬぞ、くれ」

 慌てて追いかけてくるジゼラを無視して、ヴォルフは歩き出す。くれと言われて与えられるようなら、とっくに差し出して黙らせている。

 背後でシルヴィアがひどいと叫んでいたが振り返るのも嫌で、ヴォルフはそのまま町を後にした。

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