第四章 Little Sister 八
八
薄暗い収容所は、カビと血の臭いに満ちていた。腐った肉と汚物と、海洋生物のそれに似た生臭さ。不快なそれらに顔をしかめながら、ジゼラは蝋燭立てを片手に鉄格子の中を覗きこむ。このフロアにはもう、誰もいないようだ。
「ジゼラさん、もう大丈夫だと思いますよ」
甲冑を着た青年は疲れた笑顔でそう告げた。彼の背には、気を失った女が負われている。
騎士達に捕らわれたジゼラは、有無を言わさずここへ連れてこられた。何しろ突然右腕を取られてしまったから、抵抗のしようがなかったのだ。更に口を塞がれて連れを呼ぶ事も出来ないまま、結局収容所にいる。
彼女は、尋問中に置き去りにされた。収容所の外にタロットが出たと、衛兵が館内を走り回って告げていた為だ。小心者と蔑むべきか、運が良かったと言うべきか。尋問していた男達は皆、一目散に外へ逃げて行ってしまった。
ジゼラは待てと言われて待っていたが、暫くすると人の気配がなくなったので、一度尋問室から廊下へ出た。そこで、この青年と出くわしたのだ。
「思ったよりいなかったな。皆処刑されたのか」
ジゼラが独り言ちると、青年は途端に視線を落として眉間に皺を寄せた。優しげな面差しの彼は、騎士なのだと言う。
騎士と聞いて最初は訝ったが、話す内に悪人ではないと気付いたから、彼と行動を共にしていた。誰もいない内に捕らわれた人達を逃がしてしまおうと他ならぬ彼が提案してきたから、今までずっと手伝っていたのだ。タロットが出たと言うなら、不用意に外へ出るよりはマシだろうとも考えて。
ひどい場所だと、ジゼラは視線を巡らせながら思う。この収容所に充満する異様な臭気の元は、死体だろうか。それとも、拷問された人々の傷口か。
ここへ来る途中、ジゼラは広場に晒された人々を見た。十字架に磔にされた女達は皆傷だらけで、怯えきった表情を浮かべていた。彼女達に石を投げる市民の横で、賞金稼ぎがアルカナと戦って歓声を浴びていた。それを愉しそうに見物する騎士も、市民も、ジゼラには到底理解出来ない。
連れてこられたこの場所にも、彼女の理解は及ばない。衰弱しきってまともに歩けない者もいたし、潰された四肢を投げ出して呆然と天井を眺めるばかりの者もいた。あの屋敷と、どちらがひどいだろう。
ここは地獄だ。この町は間違いなく狂っている。そんな中で自分が生きている事が、不思議に思えた。
「すいません……」
沈んだ声で謝る青年を見上げ、ジゼラは首を傾げた。長い髪が肩から滑り落ち、外套を着込んだ胸へ流れる。
「なんでこんな事、今まで誰も止めようとしなかったのか……」
「私に謝っても、死人は戻らぬ」
落ち着いた声に、青年は弾かれたように顔を上げた。ジゼラは彼を見上げたまま、微笑んで見せる。
「だが、あなたはいい人だな。きっとこの人達を助けてやれるだろう」
気の抜けた表情で彼女を見つめていた青年は、やがて眉をつり上げて大きく頷いた。一瞬にして引き締まったその顔に、ジゼラは頷き返す。
考えを改めてここへ乗り込んできたのなら、彼は善人だ。自らの危険を省みず、無実の罪を着せられて捕らえられた人々を助けに来たのだから。彼も騎士だというから、後々咎められはしないかと心配している。
彼が落ち込んでしまいそうだったので、ジゼラはそれ以上何も言わなかった。どうしてこんな事をするのか、広場にいた人々は何をしていたのか。気になってはいたが、彼に聞くのも憚られる。何より、知るのが怖いような気がした。
「あなたは、俺の上司に似てますよ」
「上司?」
問い返すと、青年は苦笑いを浮かべた。彼のその表情が訝しく思えて、ジゼラは首を捻る。
前を向いた青年は、何かを懐かしむように目を細めていた。温かなその眼差しが愛しいものに向けるそれのように見えて、ジゼラはそっと視線を逸らす。
「顔も似てるし……そういう物言いも」
「先にここへ来たという人か」
上司が乗り込むと言うから来たのだと、彼は言っていた。だからそう聞くと、青年は頷く。
「でも、いなかったな……どこ行ったんだろ」
「好きなのか?」
一気に目を見開いた青年は、驚愕の表情を浮かべたままジゼラを見下ろした。彼女は青年には視線をやらず、その背に負われた女を見る。
ジゼラより少し歳上だろうが、若い女だった。柔らかな頬のラインが好ましい、可愛らしい面立ちの女性だ。ここにいたのは、そういう女ばかりだった。
何が悪かったのだろう。どうして捕らえられ、ひどい扱いを受けたのだろう。西の塔に出たと言う魔女が悪いのか。根も葉もない噂を鵜呑みにした、人々が悪いのか。それともこんな事を許した、騎士と領主が悪いのか。ヴォルフが制度の不備のせいだと言っていたから、領主のせいかも知れない。
そこまで考えて、ジゼラは考えるのをやめた。無性に腹が立ってきて、隣を歩く青年に八つ当たりしてしまいそうだったからだ。彼女は単純だ。
「叶わない恋ですけどね」
青年の横顔を見るのも躊躇われて、ジゼラは目を伏せる。ついさっきまで感じていた怒りはもう、彼女の頭からすっかり抜けてしまった。
「片想いか」
「……ええ、まあ」
叶わない恋と、決めつけるのは容易い。どんな事情があるのか知らないが、そうして片付けた方が気が楽なのはジゼラも知っている。
最初から叶わないと分かっているなら、自分よりまだいいのではないかと彼女は思う。あるいは何らかの理由で叶わない方が辛いのだろうか。どちらにせよ、叶わない限りは想い続けるのだろう。
「私は片想いなのだ」
青年は驚いたようにまじまじとジゼラを見たが、彼女は顔を上げなかった。俯いたまま、自分の足を見つめている。
「あなたが?」
「ああ。ずっと、片想いだ」
想いが叶ったら何かいい事があるだろうかと、ジゼラは考える。叶ってほしいと思わないのは、隣にいるだけで満足してしまっているからだ。
嫌われていないだけでいい。旅に同行させてもらえて、その結末を見られる。それだけで充分だと彼女は思っている。願わくは、彼が無事に妹と再会出来ればいい。
いつしか、自分の事は二の次になっていた。彼の邪魔にならないように、出来る限り努力してきた。なのに、何故こんな所にいるのだろう。そばにいられるだけで幸せなのに、それすらも奪われるのだろうか。
何故、彼が隣にいないのだろう。
「……何故ヴォルフがいないのだ」
なんの前触れもなく呟いたジゼラを、青年は怪訝な表情で見下ろした。その内立ち止まってしまった彼女を追い越し、青年は少し先で足を止め、振り返る。
俯いたジゼラは、切なそうに眉根を寄せていた。青年は痛ましげに眉尻を下げ、声をかけようとする。しかし少し逡巡して、やめた。なんと言っていいのか、分からなかったからだ。困ったようなその表情から、彼の人の良さが明確に見て取れる。
「あの、ジゼラさん……」
勢いよく顔を上げた彼女に驚き、青年はびくりと肩を震わせる。拍子に背中の女が落ちそうになったので、慌てて背負い直した。薄い毛布で包まれた女は死んだように動かないが、首筋に弱い呼気がかかる。生きてはいるはずだ。
「どうして私をヴォルフから引き離したのだ、私は寂しいと死ぬのだぞ」
「は? いや、あの……すいません」
何一つ彼の責任ではないというのに、人のいい青年は涙ぐむジゼラに謝った。大きな目が涙に濡れ、ふっくらとした下唇が噛みしめられる。俯いた彼女の表情は今にも泣き出しそうなもので、青年は哀れみを覚えつつも混乱していた。
突然どうしてしまったのかと、彼は動揺する。今まで普通にしていた者が突然怒り出せば誰でもこうなるだろうが、ジゼラに限ってはこれで正常だ。今まで大人しかった方が異常だったのだが、今日会ったばかりの青年にそんな事が分かるはずもない。狼狽するより他に、反応のしようもなかった。
「……ヴォルフに会いたい」
顔は伏せたまま、ジゼラは恨みがましい視線を青年に向ける。彼は更に動揺した。どんなに急いでいても泣く子があれば無視しては行けないほど、心優しい青年なのだ。つまりジゼラは、迷子になって泣きわめく幼児と同等だと言える。
「そ……そう言われても」
「ヴォルフー!」
「ちょ、呼んだって答えませんって! 外に聞こえたらどうするんですか!」
外にはまだ、タロットがいるのだ。焦る青年をよそに、ジゼラは制止の声など聞こえていないかのようにもう一度名前を叫ぶ。困り果てた青年が彼女の口を塞ごうと手を伸ばした時、ジゼラの顔つきが変わった。
大きな目いっぱいに溜まっていた涙が一瞬にして引き、眉間に寄っていた皺が消える。徐々に目を見開いて行く彼女の顔は、驚愕を示していた。
「……ジゼラさん?」
恐る恐る問いかけた青年を追い越して、ジゼラは彼の胸に燭台を押し付ける。青年が受け取るのを確認しないまま、彼女は慌てた様子でその向こうの階段を覗き込んだ。
犬のように鼻を鳴らして臭いを嗅いだジゼラは、転げ落ちるように階段を下り始める。そんな彼女を見て、青年は焦ったように制止の声を上げた。
「ちょっと待ってくださいよジゼラさん! 地下じゃないよあっちの部屋ですよ!」
捕らえられていた人々は、全員一階の事務室に集めてある。歩けない者達は後で一緒に運び出そうと言っていたのだが、ジゼラはもうそれどころではなかった。
「後で行く、先にその人を連れて行け!」
それだけ言うと、彼女は螺旋階段の向こうに消えた。残された青年はしばし呆然とした後、やっぱり似てない、と呟いた。
ヴォルフは、走っていた。シルヴィアと手分けしてジゼラを探す内に、天井からかすかに呼ぶ声が聞こえてきたからだ。今にも泣き出しそうな声に不安を煽られ、上階へと続く階段に向かって走っている。
階段を三段ほど上ったところで、上から足音が聞こえた。怪訝に思って足を止めると、螺旋階段の上から女の足が現れる。
膝までを覆う外套の下から、編み上げの黒いブーツが覗いている。女物だが動きやすさを重視して作られている為か、ヒールはない。丸いつま先から上へ視線を移すと、外套からは見慣れた白い首が伸びていた。
「じ……っ」
思わず呼びそうになった名前は、ジゼラが顔に飛び付いてきたせいで呑み込まざるを得なかった。彼女は外套から出した右腕を伸ばしてしっかりとヴォルフの頭を抱き込み、額に頬を寄せる。
押し付けられた胸が、ヴォルフの顔を圧迫する。息苦しくとも口を塞がれているせいでそれを訴える事も出来ず、彼は背中を叩いた。しかしジゼラは離してくれない。
「何故……あのような事をするのだ」
堪えていたものがこぼれ出すかのような、震える声だった。引き剥がそうと外套の背を掴んでいたヴォルフは、驚いて動きを止める。
なんの事を言っているのか、すぐに分かった。彼女が何を見たのかは知る由もないが、ここに充満した臭いを嗅げば何が起きていたのかは想像出来る。きっと彼女は、ここに捕らえられていた人を見たのだろう。
「何故無実の人を、あんなになるまで痛め付けられる? 何故それを見物するのだ」
彼女の全身の震えが、頭に伝わってくる。怖かったのだろうと、ヴォルフはぼんやりと考える。
何も言えなかった。何を言っても慰めにさえならないような気がして、喉の奥が詰まる。微かに震える背中に手を回し、撫でてやる事しか出来なかった。
「……お前は平気か」
ジゼラは少し体を離し、小さく頷いた。その仕草に、ヴォルフは安堵する。
「なら、いい」
「よくない」
安心させようと言ったのだが、ジゼラはきっぱりと否定した。面食らって口をつぐむと、彼女はまじまじとヴォルフの顔を見つめて眉根を寄せる。今にも泣き出しそうな、切なそうな表情だった。
やがてその整った顔が歪み、大きな目に涙が浮かぶ。長い睫毛が濡れ、呼気を逃がすように唇が薄く開いた。
黙り込むヴォルフの頭を、ジゼラは再び胸に抱き込んだ。小動物のように速い鼓動が、右の頬に直接伝わる。
「私は寂しかったのだぞ。もうあなたは行ってしまったかと思った、無事ではない!」
不安だったのだろう。邪魔なら置いて行けと言ったのはジゼラ本人だが、離れたい訳ではなかったはずだ。自分からそう言ったから、置いて行かれたと思ったのだろう。それは分かるが、ヴォルフは息苦しいせいで何も言えなかった。
「だが大丈夫だ、私はあなたのものだぞ。この髪の一筋も触らせなかった、褒めてくれ。腕は掴まれたが」
「そんな心配はしていない」
冷たく返すが、ジゼラは頬を額に押し付けるだけだった。豊かな胸に更に圧迫され、その柔らかな感触が顔に伝わる。ビスチェのせいか、下半分は硬かったが。
右腕だけで、よくぞここまで強く抱きつけるものだ。うまく呼吸が出来ないせいで酸素が足りず、ヴォルフはぼんやりと考える。
「ヴォルフ、好きだ。置いて行かないでくれたのだな。大好きだ」
「分かった、分かったから離……ぐう」
何に感動したのか、ジゼラは腕へ更に力をこめる。一方ヴォルフは牛のような声で呻いた。胸とは凶器になりうるのだと、彼は思う。窒息しそうだった。
ヴォルフの意識が薄れかけたその時、背後から足音が聞こえた。天の助けとばかりに、彼は背後へ手を伸ばす。
「えっ……ちょ、ちょっと離して、ヴォルフ死んじゃう! 胸で窒息しちゃう!」
シルヴィアの悲鳴じみた叫びも何かがずれていたが、幸いにもジゼラはそれでやっと手を離した。ヴォルフは慌てて彼女から離れ、階段下へ逃げる。
残念そうにヴォルフを見つめるジゼラとは対照的に、シルヴィアは彼女を見た途端、目を丸くして硬直した。さすがに気付いたかと考えながら、ヴォルフは彼女の背を軽く叩く。おずおずと顔を上げたシルヴィアは、彼を見上げてゆっくりと瞬きした。
揺れる目が、無言で何かを訴えかける。ヴォルフは彼女に頷いて見せ、人差し指でジゼラを示した。
「シルヴィ、あれは……」
「それは誰だ」
剣呑な声が、頭上から聞こえた。ヴォルフは嫌そうに顔をしかめて、ジゼラを見上げる。ようやく階段から降りた彼女は、不快そうに眉を寄せていた。
「私がいない間に私と似た女を見つけるとは、見損なったぞヴォルフ。だがそれでも私はあなたが好きだ」
「煩い」
「顔が似ているなら胸の大きい方を選べ、私の方がい」
「お前は黙っていろ」
遮るようにぴしゃりとはねつけると、ジゼラは素直に口を閉じた。ヴォルフは深い溜息を吐いてから、改めてシルヴィアを見下ろす。
透き通るように青い目が、ジゼラを見つめたまま揺れていた。その唇は何か言いたげに開かれているが、言葉が出る事はない。動揺しているのだろう。
しばらくそのまま絶句していたシルヴィアは、おもむろに身を乗り出してジゼラの顔を凝視した。ジゼラは避けるでもなく、首を傾げる。
「ジゼラ……その物言い、ジゼラちゃんなんだね」
「昔からこうなのかこの娘は」
不思議そうに瞬きをしていたジゼラは、不意に自分の頭に掌を乗せ、シルヴィアと身長を比べた。そのまましばらく考えた後、彼女は不意に息を呑む。しかし声を出す事はない。
黙っていろと言われたからだろう。ヴォルフは呆れてまた一つ溜息を吐き、二人から一歩離れる。
「喋っていいぞ」
「ちい姉様か? 何故こんな所に?」
あれで確認したのだろうかと、ヴォルフは呆れる。それよりも、ジゼラが案外冷静な事に驚いた。こういう時ぐらい人間らしい反応が出来ないものだろうか。
一方姉の方は、呆然と瞬きを繰り返していた。死んだと思っていたようだから、驚きもするだろう。なんにせよ、離れた頃より遥かに成長している上に髪まで白くなっているのに、よく分かったものだ。
「ジゼラちゃん……」
震える声で呟き、シルヴィアは勢いよくジゼラを抱き締めた。妹より少し背の高い彼女は、その白い頭へいとおしそうに頬ずりする。
「生きてたんだね、お姉ちゃんの事覚えてるんだね、生きてるんだね!」
矢継ぎ早にまくし立てるシルヴィアの頭を横目で見ながら、ジゼラは不思議そうに首を傾げる。ヴォルフには、彼女のあっけらかんとした反応の方が不思議だった。
「生きた心地がしなかったが、この通り生きております」
「ああかわいそうに……髪まで白くなっちゃって、可愛い子」
少し体を離して、シルヴィアは慈しむようにジゼラの頭を撫でた。その台詞を聞いて、ジゼラは甘やかされて育ったのだろうとヴォルフは思う。どことなく居心地が悪くて、下らない事ばかり考えていた。
顔は似ているが、二人の反応は対照的だ。シルヴィアは涙ぐんだまま微笑んでいたが、ジゼラは普段通りの真顔を保っている。しかしあれは恐らく、動揺している。
「なんともありません。お姉様がお元気そうで何よりです」
「ジゼラちゃんも」
泣きたいような、でも嬉しそうな複雑な表情で、シルヴィアはもう一度両腕で包み込むように妹を抱き締める。柔らかなその手つきに、ジゼラの表情もようやく緩んだ。
自分はまた会えるだろうかと、ヴォルフはふと考える。妹と、再会出来るだろうかと。
また会えるとは、実際思っていない。裏切られるだけの期待をしたくはないし、現実は希望を否定している。妹が無事でいる可能性など、最早万に一つもないのだ。今日「皇帝」の言葉を聞いて、そう確信した。
それでも、この旅は続けなければならない。妹が生きていないのだとしても、ヴォルフにはするべき事がある。他の誰かの為でなく、自分自身の為に。
まだ何も、終わっていない。この旅のもう一つの目的は、まだ遂げていないのだから。
「……ジゼラちゃん」
ジゼラを抱き締めたまま黙り込んでいたシルヴィアが、不意に体を離した。涙も再会の喜びも、その顔からは既に消え失せている。代わりに、悲しげな色が浮かんでいた。
家族の事を話すのだろうかと、ヴォルフは一瞬考えた。しかし、その視線が向いた先に違和感を覚える。
「……大きくなったね」
「お姉様、何故胸を見ておられるのだ」
シルヴィアはジゼラの両肩に手を置いたまま、気まずそうに顔を逸らす。それからまた視線だけをジゼラの胸へ移し、泣きそうな顔をした。
「あの……大きくなったね」
「胸限定なのですかお姉様」
言動が妙なのは、遺伝なのだろうか。むしろ貴族の子だから、人と少しずれているのか。差別意識はないにしろ、ヴォルフはそう考えずにはいられなかった。
シルヴィアを見上げていたジゼラの視線が、徐々に下りて行く。明らかに胸を見た辺りでその動きを止め、彼女はまた首を傾げた。
「お姉様は……」
シルヴィアは呟く声にびくりと肩を震わせ、過剰な反応を示した。気にしているのだろう。鍛えてしまったら、脂肪が減るのは仕方ないのではないだろうか。
逃げるように離れたシルヴィアの顔を見上げ、ジゼラは大きく瞬きした。その無表情からは、彼女の思考はおろか感情さえ読み取れない。
「お変わりなく」
「気にしてるんだからやめて!」
殆ど泣き声で言ってから、シルヴィアは胸を隠すように横を向く。その目は、先程までとはまた別の涙に濡れていた。
「可愛らしいと思うが。小さい方が」
「ジゼラちゃんの意地悪!」
とうとう両手で顔を覆った彼女に、かける言葉も見つからなかった。むしろここにいていいのかと、ヴォルフは疑問を覚える。女同士の会話とはこういうものなのだろうか。
小首を傾げたままシルヴィアを見つめていたジゼラは、不意にヴォルフを見上げた。無表情だが、それよりは少し楽しそうに見える。
「お姉様は昔から泣き虫でな。すぐ泣いてしまわれるのだ」
「一から十までお前のせいだと思うが」
不思議そうにふうんと鼻を鳴らして、ジゼラは反対側へ首を傾ける。それから未だ顔を隠したままの姉を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。