第四章 Little Sister 五
五
シルヴィアの家は平均的な中流家庭のものより少し広く、無精なようで恐ろしく荒れていた。三脚あるダイニングチェアーの内、二脚に脱ぎ散らかした服が無造作に積み上げられており、悲惨な状態だ。
これが女の家かと、ヴォルフは呆れた。生来几帳面な彼は、汚い部屋に耐えられないのだ。お陰でシルヴィアが二階に着替えに行っている間、部屋の片付けをする羽目になった。別段頼まれた訳ではなく、自主的にやっていたのだが。
「あ、ゴメン」
戻ってきたシルヴィアは、キッキンの掃除をするヴォルフに短く謝った。渋い表情を浮かべた彼を見て、彼女は申し訳なさそうに俯く。申し訳ないと思うなら掃除ぐらいしておけと、ヴォルフは呆れた。
シルヴィアは薄いシャツの上から厚いコートを羽織り、革のパンツを穿いていた。長いマフラーを巻いてはいるが、寒そうだ。ジゼラの派手な胸を見慣れているせいか、胸元が寂しく見えた。
甲冑を脱いでいるのは、動きにくいからだろう。あれは所詮同じ装備の対人用でしかないから、収容所に乗り込むだけなら、軽装に着替えた方が賢明だ。それにしても寒そうだし、出来れば戦って欲しくはなかったが。
「そんな薄着で、寒くないのか?」
うんと軽く返しつつ、シルヴィアは下ろした髪を紐で一つに結わえた。白っぽいブロンドはストレートだったはずだが、編んでいたから癖がついているようで、緩い曲線を描いている。
「どうせ戦うんだから、暑くなるでしょ」
そう言って微笑んでから、シルヴィアはテーブルの上に置いてあった大剣を手に取る。かなり使いこまれているようで、鋼の刃には無数の傷がついていた。あれは斬るより叩き潰す為のものだから、傷があっても問題ないのだろう。
「できれば穏便に行きたいところだがな」
「あなたが出て穏便に済んだ事あったっけ?」
返す言葉もなかった。
ヴォルフが掃除に使っていたブラシを置いて手袋を嵌め直した時、外から馬の足音が聞こえた。町中に騎士がいるから不思議な事でもないはずだが、シルヴィアの表情は硬くなる。
「ああ……どうしよう、ごめんヴォルフ、二階に行って」
ヴォルフは怪訝に眉根を寄せたが、誰か来たのだろうと解釈し、言われるがまま階段を上る。しかし彼が狭い踊り場に着いたところで、玄関のドアが勢いよく開いた。
「やあシルヴィ!」
ノックもせずに堂々と入ってきた挙げ句親しげに声をかけたのは、金髪の若い騎士だった。品のあるプラチナブロンドと整った顔立ちは育ちの良さを窺わせるが、着ている甲冑は無意味とも思えるほど派手なものだ。
銀とも鋼とも光り方が違うから、恐らく白金の箔を貼ってあるのだろう。全体に金で装飾まで施されており、実用的な甲冑とは思えない。ヴォルフが鼻につく優男だと思った矢先、シルヴィアは青年に向かって、ぎこちない笑みを浮かべた。
「団長、こんにちは」
騎士団の長なのかと、ヴォルフは驚く。見る限り線の細い青年だから、団長が勤まるのかどうか甚だ疑問だ。
とはいえタロットの出現からこちら、戦争は殆ど起きていない。タロットの災厄に見舞われた国々に、戦争をしている余裕がなくなった為だ。
この大陸では近年になって、随一の土地を有していた国の王が盟主となり、友好条約を締結した。最早統一されたと言っても過言ではないだろう。だから騎士団は、王侯貴族が自衛の為という名目上、道楽で作る集団と化している。
騎士達が堕落した背景には、そういった理由もあるようだ。騎士達はみな、戦わなくとも権力を握る事が出来る。一方貴族達は、騎士の質や団の規模を張り合っているようだ。それの何が楽しいのか、ヴォルフには分からない。
ろくに戦わないのなら、団長など飾り物でいいのだろう。末端貴族が有力貴族の有する騎士団に所属する事もあるようだから、あの青年はその類かも知れない。
「シルヴィ、僕らはもう結婚するんだ。そんな堅苦しい呼び方はしないでおくれ」
「いいえ団長。団に属する限り、私は貴殿の部下です」
ヴォルフにはその言葉が明確な拒絶に聞こえたが、青年は朗らかに笑った。その声に嫌味な色はなかったから、気付いていないのだろう。或いは、そういう振りが上手いだけなのか。
「慎み深いのだねシルヴィ。そんな所が好きだよ」
「ありがとうございます」
「だがね」
青年が屈んで顔を近付けると、シルヴィアは目を見張って身を硬くする。怯えたような表情を浮かべる彼女は、身動きが取れないようだった。単純に上司を前に緊張しているだけ、という反応ではないように思えた。
そんな様子に気付いているのかいないのか、青年は彼女に笑いかけて見せる。形の良い薄い唇が緩やかな弧を描いた。しかしその目は、笑っていない。
「結婚を拒否して騎士を続けていても、マレスコッティ家の再興はない。分かっているね」
そういう事かと、ヴォルフは納得する。
元々どちらが持ちかけた話かは不明瞭だが、シルヴィアは恐らく、政略結婚を避け続けているのだろう。とうに没落したとはいえ、ジゼラの話を聞く限りマレスコッティ家は大陸の有力な貴族だったはずだ。互いにとって損はない。
しかし気持ちの上では、どうなのだろう。青年団長はともかく、シルヴィアは乗り気ではないように思える。
「分かって……おります」
「そう、良かった」
微笑む青年は白バラの如く華やかだったが、今は薄ら寒く見えた。シルヴィアの表情も硬いままだ。嫌なら避ければいい、という話ではないのだろう。口振りから察するに、既に婚約していると見て間違いない。
「出かけるなら、風邪をひかないようにね。君だけの体じゃないんだから」
言いながら、青年は手を振って出て行った。何をしに来たのだか、ヴォルフには理解出来ない。
ドアが閉まってからも暫く立ち尽くしていたシルヴィアは、顔を上げて階段を見上げ、驚いたように目を丸くした。見られたくない場面だったのだろうが、見てしまったものは仕方がない。ヴォルフは黙って階段を下り、彼女の正面に立つ。
シルヴィアは気まずそうに目を逸らし、顔を隠すように俯いた。白い顔に前髪の影が落ち、彫りの深い顔に陰影が濃く浮かび上がる。そのせいもあってか、彼女の表情は辛そうに見えた。
「あれは婚約者か?」
口をつぐんだまま、シルヴィアは小さく頷く。怒られてでもいるような仕草だが、怒っているつもりは、ヴォルフにはなかった。
困惑して黙り込むと、途端に静寂が肌を刺す。目線の下で俯いていた小さな頭が、ゆるく左右に振られた。何かを諦めたような、振り払うような仕草だ。
「……仕方ないんだ。マレスコッティ家にはもう、私しかいないんだから」
「姉妹は他に三人いたはずだろう」
大きく瞬きをした後、シルヴィアは勢いよく顔を上げた。驚愕の表情を浮かべる彼女から、ヴォルフは目を逸らす。
つい指摘してしまったが、これはジゼラから聞いた話だった。しかし驚いたという事は、やはり彼の憶測は間違っていなかったのだろう。シルヴィアは、彼女の姉に違いない。
「言ったっけ?」
何を話したか、もう覚えていないのだろう。ヴォルフは心苦しく思いながらも、頷く。
「……ああ、聞いた」
そうと呟いて、シルヴィアは再び視線を落とした。少しの間の後、彼女は溜息を吐いてダイニングの椅子を引く。そのまま倒れ込むように腰を下ろし、テーブルにもたれかかった。疲れきった彼女の顔が、ヴォルフには痛々しく見える。
「二番目のお姉様は、流行り病で亡くなったの。お父様達と、同じ病気だった」
貧しかったなら、それも仕方ないのだろう。病によっては特効薬が存在するが、かなり高価な品だ。一家離散するほど貧窮していたのならば、買えるはずもない。
「一番上のお姉様は、いい家にお嫁に行ったんだけど……男の子が、産まれなくて」
跡継ぎを産めない嫁は、家中から疎まれる。貴族だろうが農家だろうが同じ事で、しばしば家を追い出される事もあると言う。富裕な家なら養子を取る事もあるが、血の繋がった実子でなければ意味がないと考える者もいる。
平民であれば追い出されるだけで済むが、上流階級の家には体面というものがある。離婚したとなれば悪い噂が広まるし、死別でもない限り再婚もままならない。これは神前で永遠を誓ったならば離婚する事はすなわち罪であるという、宗教的な観念による風習だ。
だから跡継ぎを産めない嫁は、自然死を装って殺害される事が多々ある。妻とは別に妾を囲っておくのは道楽の他にその為もあると言うが、定かではない。
「嫁に行っても、家の再興は果たせんのではないか」
長子は、死んだのだろう。ヴォルフはそう思ったが追及はせず、末子の話が出る前に疑問を口にした。シルヴィアはようやく彼を見上げ、苦い笑みを見せる。
「彼は、次男だから。マレスコッティ家が崩壊してるなんて、こっちの人は知らないんだ。だから彼にとっても損はないし、私は目的を果たせる」
次男が大陸の王に仕えていた一族の娘と結婚したとなれば、家名も上がるだろう。予想通り、あの青年は下級貴族の子息に違いない。
家を再興する。それは何よりも優先すべき目的だろうし、立派な志だ。しかしヴォルフは解せない。彼女は本当にそれでいいのかと、そう考えてしまうからだ。
「それでいいのか」
他に言いようもないので思ったまま問いかけると、シルヴィアは眉を曇らせる。これも予想通り、良くはなさそうだ。しかし彼女は、ゆっくりと頷く。
「……しょうがないよ」
自分に言い聞かせるように、シルヴィアは呟いた。そんな彼女に何を言うでもなく、ヴォルフは踵を返してドアに近付く。ここで何を言っても、こればかりは本人が決める事だ。ならば、余計な口を出したくはない。
シルヴィアは一瞬怪訝な表情を浮かべたが、ドアが開くと何をしようとしていたのか思い出したようで、慌ててヴォルフを追った。ついて来なくてもいいし、あまりついて来られたくもなかったが、彼は収容所がどこにあるか知らない。何より行動を起こせと叱った手前、ついて来るなとも言えなかった。
「ごめん、忘れてた」
「そうだろうと思った」
申し訳なさそうに眉尻を下げた彼女は、ふと何かに気付いたように、あ、と呟く。彼女の視線の先を見ると、駆けてくる少年が見えた。数時間前旅人と揉めていた、あの手癖の悪い少年だ。
マイクと呼ばれていたから、マイケルというのだろう。慌てる彼の頭の右半分に包帯が巻かれていたが、もう顔の腫れは引いていた。しかし怪我はいいのだろうかと、ヴォルフは怪訝に思う。
「シルヴィ姉ちゃん!」
上ずった声で、少年は怒鳴るように叫ぶ。シルヴィアは目の前まで来た彼の両肩へなだめるように手を添え、眉間に皺を寄せた。
「何してるの、怪我したんだから安静にしてなきゃ」
「タロット!」
少年の怒鳴り声に、困ったようにしかめられていたシルヴィアの表情が一変した。ヴォルフも濃い眉をつり上げ、険しい表情を浮かべる。
マイケルは何度か大きく呼吸した後、肩から力を抜いた。やはりまだ傷が痛むのか、少し顔をしかめている。それでもシルヴィアを見上げ、悲痛に表情を歪めた。
「タロットが出たんだ、収容所の方! ヤバイよ、衛兵が皆逃げてきちゃってる」
シルヴィアが息を呑み、片手で口元を覆った。青い目が驚愕と不安に揺れ、戸惑ったように左右を見回す。
「そんな……この街に入口なんてないはずなのに」
「自然発生したのだろうな」
シルヴィアは呟いた彼を見上げ、口元から手を離す。落ち着いたヴォルフの声を聞いて、幾分安心したようだった。
安心している場合ではない。収容所には、ジゼラがいるのだ。
逸る気持ちを抑えて懐から取り出した砂時計は、少しだけ熱を持っていた。寒さを凌ぐために中に着込んでいたから、気付かなかったのだ。
そこで今更気付いたかのように少年がヴォルフを見上げ、まだ少し腫れぼったい目を見張った。しかし何か問いかけるでもなく、彼とシルヴィアを交互に見る。
「とにかく私は行くぞ。お前は家にいろ」
「あ……待って」
引き留める声に、ヴォルフは一歩踏み出した所で立ち止まった。シルヴィアは行かせまいとするかのように彼のコートを掴み、少年を見下ろす。
彼女のその仕草に、ヴォルフは何故だかまた焦燥感を覚えた。既視感にも似た感覚に、彼はシルヴィアを止める言葉も出せないまま立ちすくむ。懐かしいような気がしてしまうのは、以前にもジゼラが同じような事をしたせいだろうか。
「危ないから、うちにいて。私も行ってくる」
え、と呟いて、少年は再び目を丸くした。怪我をしたせいか寒さのせいか、彼の顔は紙のように白く、頬の真新しい傷が余計に痛々しく見える。
「え……衛兵みんな逃げたって言っただろ、姉ちゃんだけでどうすんのさ!」
「私は逃げないよ。この人もいるし」
ね、と同意を求められたが、ヴォルフは返答せずに歩き出した。シルヴィアはそんな彼を見て苦笑いを浮かべ、少年の背中を押して家の方へと促す。
少年は不安げな面持ちで暫くシルヴィアを見ていたが、やがて肩を落として、とぼとぼと家の方へ向かって行った。しかしドアの前に立ったところで、彼は不意に振り返る。
「帰ってこいよ!」
怒ったような声は、照れ隠しだったのかも知れない。シルヴィアが肩越しに振り返って小さく頷くのを見ながら、ヴォルフはそう考える。
いつもこうして、押しきられるまま同行を許している。シルヴィアがついてくると決断したのは、ヴォルフがタロットに対抗する術を持つ事を知っているからだろうか。彼女が旅に同行していた数ヶ月の間にも何度かタロットと戦ったから、安全だと思っているのだろうか。
或いは、町を守りたいと思っての事か。そうであってほしいと願っているし、正義感の強い彼女の事だから、そうだろうとも思う。
建ち並ぶ白壁の邸宅の隙間を縫うように進んで行く内に、大通りの方から馬の足音が聞こえてくる。かなり急いでいるようで、瞬く間に近付いたかと思えばすぐに通り過ぎて行った。逃げた衛兵達が乗っているのだろう。
「情けない……」
呟くシルヴィアを慰める気も起きなかった。ヴォルフは先を歩く彼女の背中から視線を外し、路地越しに大通りを覗く。見事な葦毛の馬に乗った騎士が、一瞬だけ見えた。街の外へ向かうのだろう。
「誰もいない方が都合がいい。私も、お前もな」
その時行く手から、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。二人はそれに弾かれたように、同時に駆け出す。
騎士や素封家が住む区域だからか、この道を通る人はいなかった。反対に大通りの方からは、大勢の足音に混じって時折悲鳴が聞こえてくる。混乱した人々が叫んでいるだけなのだろうが、ヴォルフはその声にまた焦りを覚える。
シルヴィアは息を切らせつつ、民家の少ない方へ進んで行く。罪人を入れるような収容所が、住宅地にあるはずもない。
「シルヴィ、まだか!」
「もうちょっと……わ!」
角を曲がった途端、シルヴィアが声を上げた。続いて角を曲がり、ヴォルフは厳しい表情を浮かべる。
細い路地には、甲冑を着た兵士がうつ伏せに倒れていた。兜の後頭部は大きく陥没しており、空いた穴に体液が溜まっている。いびつな石畳には彼を中心として血溜まりが広がり、辺りにむせるような血臭が漂っていた。
兵士が身につける甲冑は概ね鋼製で、そう易々とは傷つけられないはずだ。それがここまで手酷く壊されているという事は、人間の仕業ではないだろう。
「何……これ」
呆然と呟くシルヴィアの肩を掴んで脇へどかし、ヴォルフは路地を抜ける。そこだけ穴が空いたように開けた土地は、彼の目線の高さまである鉄柵に囲まれていた。しかしその柵にも、熔かされたかのように丸く穴が空いてしまっている。
穴の向こうに見える石造りの堅固な建物が、収容所だろう。魔女として捕らえられた者を収容する為の施設であるからか、屋根には木製の白い十字架が取り付けられている。
ヴォルフは注意深く周囲に視線を巡らせながら、壊れた柵を跨いで敷地内へ入る。町から距離を取る為なのか、収容所の敷地は異様なまでに広大だ。むき出しの地面に点々と広がる血溜まりと兵士たちの遺体を見て、彼は顔をしかめた。
彼らは、タロットに立ち向かった者達だったのだろうか。それとも逃げようとしていたのか。吹き飛ばされた可能性もあるから、遺体の状態からは判断出来ない。しかし前者だったのなら、虚しい事だ。
町を守ろうと圧倒的な力を持つタロットに立ち向かった勇敢な者が死に、尻尾を巻いて逃げた者が生き延びる。逃げる方が賢明である事はヴォルフも分かっているが、それでも、言い知れぬ苛立ちを覚えた。抵抗するだけ無駄なのだとまだ見ぬタロットに嘲笑われているようで、腹立たしくもある。
このまま収容所へ入ってジゼラを捜したいのはやまやまだが、先にタロットを探さなければ町が壊される。そうなっては、抵抗した者達が浮かばれないだろう。
再び歩き出すと、シルヴィアは少し遅れて着いてきた。痛ましげに眉を寄せ、彼女は地面に転がる遺体の顔を一つ一つ覗き込んでいる。知った者がいないかどうか、確認しているのだろう。
手の中の砂時計が更に熱くなっていた。内側から滲み出すような光は、タロットに肉薄している事を示している。しかしまだ、姿は見えない。
もう、収容所に入ってしまっているのだろうか。そうではないと思いたかった。捕らえられた者達を、これ以上危険な目に遭わせたくはない。
「ヴォルフ、あっち」
小声で呟いたシルヴィアに袖を引かれ、ヴォルフはそちらへ向かう。収容所の裏手へ回った時、生肉を噛むような音が聞こえてきた。
巨大な収容所の、壁際。天秤に似たタロットは、窓に手を突っ込むような体勢でそこにいた。