第四章 Little Sister 三
三
ランズエンドを含めた一帯を治める領主が住むという都市に着いたのは、途中立ち寄った村を出てから二週間後の事だった。騎士が城門の警備を務めるほど大きな町だったが、冷え込んでいるせいか往来を行く人影はまばらだ。さすがに疲れきっていたジゼラを気遣って夕飯も早々に済ませ、到着したその日はすぐに宿で休息を取った。
翌日外へ出てみると、人通りは前日の夕方と大差なかった。規模の割に人が少ないのは寒いからではなく、ランズエンドに程近いこの町からも、既に人が逃げて行っているせいだろう。住人よりも、賞金稼ぎの方が多いように見受けられる。
「町がすかすかだな」
朝風呂に入ったお陰かすっきりした様子のジゼラは、辺りを見回しながらそう呟いた。ヴォルフは頷いて同意する。
道は全て舗装されているし、建物も立派なレンガ造りのものばかりだ。豊かそうに見える分、余計に人がいない事が際立って感じられる。
二人は三日ほど、ここに滞在するつもりでいた。町中にいる情報屋を全て回ろうと目論んでいるから、一日では到底時間が足りない。なんにせよ、その前に腹ごしらえだ。
「……ん」
ヴォルフが飯屋に足を向けかけた時、路地から飛び出してきた少年が彼にぶつかった。硬い腹に勢いよくぶつかってきた少年は、反動で後ろへ倒れて石畳に尻をつく。一方ヴォルフは微動もしないまま、僅かに眉をひそめた。
少年はすぐに立ち上がろうとしたが、慌てて屈んだジゼラに制されて動きを止めた。その目が彼女を見て、大きく見開かれる。
「大丈夫か少年」
何か言いかけた少年は、ジゼラが問うとすぐに口をつぐんだ。ヴォルフは顔をしかめたまま彼を見下ろしている。
大きな町の住人の割に、粗末な身なりの子供だった。冬だというのに着ているのは毛玉だらけのセーターと麻のズボンだけで、防寒具はマフラーしか巻いていない。ここは貧民街でも抱えているのだろうか。
「すまぬな。この人はこの通り大きいので、小さいものは見えぬのだ。私もたまに後ろにいるのに捜されるから困りもので」
「お前はいい加減、人を貶すのをやめろ」
そもそもぶつかってきたのは少年の方だ。否、そんな事はどうでもいい。
ヴォルフは少年の正面に立ち、右手を伸ばした。影が落ちた彼の輪郭は幼さを残していたが、どことなくやつれて見える。
助け起こすと思ったのだろう。ジゼラは身を起こして、少年を見下ろした。しかし彼は険しい表情でヴォルフの手を見つめたまま、身じろぎ一つしない。少年のまだあどけない目は、心なしかヴォルフを睨んでいるように見えた。
両者の間に漂う緊張感に、ジゼラも気付いたようだった。ヴォルフと少年を交互に見て、不思議そうに首を傾げる。彼女に説明する気もなく、ヴォルフは少年に向かって問いかけた。
「余所者なら、分からんと思ったか?」
厳しい声が落とされると、少年は顔をしかめて更にヴォルフを睨み付けた。それは凡そ子供が浮かべるような表情ではない。ヴォルフは憤るよりも虚しさを覚え、僅かに目を伏せる。
この町も、何らかタロットの影響を受けているのだろう。そうだと思いたかった。
少年は何も答えず、汚れたズボンのポケットから使い込まれた財布を取り出した。布を革ひもで巻いただけの簡素な作りのそれは、確かにヴォルフの財布だ。ジゼラはそれをまじまじと見てから、一拍遅れて驚いたように彼を見上げる。
ヴォルフは少年の土汚れとあかぎれだらけの手から財布を取り上げ、中を確認した。中に幾ら入っていたか覚えていなかったので数える事もせず、その中から紙幣を三枚取り出す。
「旅人の財布に入っているのは、その者の全財産だ。お前のせいで、路頭に迷う者も出るかも知れん」
はっとして目を丸くし、少年は眉尻を下げた。驚いたという事は、今まではそこまで考えが及ばなかったのだろう。表情は大人びているが、所詮は子供だ。
よそ者の旅人相手に盗みを働いても、大した罪には問われない。住民は常に住民の味方で、あちらが加害者であっても旅人の方が泣き寝入りするしかないのだ。だからこの少年のように、旅人だけを狙って盗みを働く者も多い。
彼は砂漠にいた少年より、少し幼い程度だろうか。都会にいるせいかこんな事をしているからか、向こうより大人びている。それでも気落ちしたようなその表情は、年相応のものに見えた。
分かってくれただろうかと、ヴォルフは考える。止むを得ない事情があるのは見れば分かるが、彼も全財産を持って行かれる訳には行かない。
ヴォルフは俯く少年の腕を掴んで引っ張り起こし、その手に紙幣を乗せて一緒に握り込む。紙幣は一番安価なもので金貨一枚と同等の価値があり、都会で流通しているのはかさばらない紙の方だ。紙幣が一枚あれば、この子供一人ぐらいなら三日分程度の生活費を賄えるはずだ。ヴォルフだと一食分にしかならないが。
「だが、盗られたのは私が悪い。黙って持って行け、無駄に使うなよ」
少年は、握られた手を呆然と見つめていた。ヴォルフが手を離そうとしたところで我に帰り、紙幣を握りしめて太い腕を振り払う。一歩下がって離れると、彼は薄い眉をつり上げてヴォルフを見上げた。
「早く出てけ!」
それがどういう意味なのか、ヴォルフには分からなかった。思わず怪訝な表情を浮かべるも、少年は問い返す隙も与えずに踵を返して駆け出してしまう。
逃げるように走り去る少年の背中が通りの向こうへ消えるまで見送った後、ジゼラはヴォルフの袖を掴んで微笑んだ。ヴォルフは何を言うでもなくその笑顔を一瞥してから、飯屋の戸を開けて中へ入る。昼飯時だというのに店内は閑散としており、カウンターで食事する旅人の丸まった背中が物悲しくもあった。
手近なテーブル席に着き、ヴォルフは店員を呼ぶ。声に反応してカウンターの裏から出てきた初老の男性は、店主だろうか。前掛けで手を拭く彼の手付きは、どことなくぎこちない。その顔には深い皺が刻まれ、疲労が明確に見て取れた。
「ああ、旅の人かあ……」
ヴォルフの姿を見て、店主は感慨深げに呟いた。何があったものかと考えながら、彼は淡々とメニュー表を読み上げて行く。ジゼラは棒切れのような店主の指が伝票にペンを走らせるのを、痛ましげに見つめていた。
この町でも、何かあったのだろうか。それとも単純に、人がいなくなったせいなのか。どちらともつかないが、ヴォルフは焦燥感を覚える。
タロットがいるのなら、早めに倒してやらなければ。しかし道中でそういう話は聞かなかったし、町には目に見える異変も起きていない。彼の疲労が町から人が離れて行っているせいならば、ヴォルフにはどうする事も出来ない。それが歯がゆくもあり、無意味な焦躁感を募らせる。
注文を書き留め終えた店主は、顔を上げて苦笑いにも似た表情を浮かべた。疲れた笑顔を見て、ジゼラが眉尻を下げる。
「食事したら、こんな所からはさっさと出た方がいい。特にあんたみたいな女の子は」
「何故だ?」
ジゼラが問い返すと、店主は注意深く店内を見回してから少し背中を丸めた。内緒話でもするような彼の仕草を見て、ジゼラは身を乗り出す。
「この町、また魔女狩りが流行ってるんだ」
ヴォルフは厳しい表情を浮かべたが、ジゼラは首を捻った。彼女は歴史に疎い。
「魔女など、もういないだろう」
「西の塔に魔女がいるって噂が流れてるんだよ。魔女を町に入れるなって、領主様も気が立ってんだ」
魔女狩り。それは大陸とこの島の、忌まわしい記憶だ。罪のない女達が何人も殺され、町は死で溢れた。それ自体はもう何百年も前の出来事ではあるが、事のあらましは口伝で今日に受け継がれ、今なお知らない者は殆どいない。
現在は魔女も魔術師も姿を消したが、魔女とは忌むべき存在である、という人々の見解は変わらない。それが近辺に現れたとなれば、領主の気が立つのも分かる。しかし実際のところは、どうだろう。
「気をつけよう」
短く返すと、店主は店の奥へ引っ込んで行った。狭い店だが、一人で切り盛りするには手に余るだろう。こうして忠告してきた事から考えるに、彼にも何らかあったと見て間違いない。
誰かが暴走すれば、全く関係のない誰かが危害を被る。そのくせ当の本人の腹はちくりとも痛まない。そういうものなのだ。
「魔女狩りとは、魔女を狩る事ではないのか?」
唐突に問いかけられて、ヴォルフは顔をしかめた。彼女は魔女狩りの真実を知らないのだろう。相変わらず知識力が低い。幼少の頃親元から引き離されたなら、知らないでも無理はないが。
子供に語るには、重い話だろう。魔女の驚異を伝えるなら、お伽噺として語った方が手っ取り早い面もある。最近では魔女よりもタロットやアルカナの驚異の方が身近になってきているからか、魔女狩り自体を知らない若者も多い。
突然変異として産まれ、その血に魔の力が刻み込まれた忌むべき存在であろうとも、彼らが今日の医学の発展をもたらした事は否めない。むしろ敬うべきだとヴォルフが思うのは、自らがその血を引いているからか、養母の影響か。
「異質な者は、罪がなくとも魔女と疑われて捕らわれる。お前は髪が白いだろう」
なんにせよ、知らないのなら知らないで構わない。深く説明せずそれだけ言うと、ジゼラは納得したように頷いて床に下ろした荷物の中から外套を引っ張り出した。髪を隠そうとしたのだろう。歩いていれば昼間はまだ暖かく、着るには少し暑い。
素直な娘だ。深く追及しないのは、建前の説明で納得してしまうからなのだろう。それとも、追及する事で厭われたくないだけなのか。
「あの子は、物取りだったのか?」
店主が運んできたパンを片手でちぎりながら、ジゼラは今更そう問いかけた。ヴォルフはまずい芋を口に運びながら、小さく頷く。
「スリだな。貧民街の子供だろう」
「更生してくれればいいな」
ああと呟いて、ヴォルフは空にした皿をテーブルの脇へ避ける。タイミング良く料理を運びにきた店主が、既に積み上げられた皿を見て驚愕の表情を浮かべた。
「この都会では、あれぐらいの子供に出来る事はないだろう。問題は制度の不備だな」
あの少年がどんな境遇に置かれているかは不明だが、大方孤児か貧しい家の子供だろう。それを救えないのは、領主の不手際が原因と言っても過言ではない。
子供一人で生きる為には、周囲の同情に甘えるか物取りに走るしかない。幼くして親を亡くしたヴォルフも重々理解しているが、かと言って、生きる為に仕方のない事と見過ごす訳にも行かない。彼も食い扶持を取られては困るのだ。そこまでお人好しにはなれない。
店主に呆れられる程の量を平らげてやっと満足し、ヴォルフは店を出た。ジゼラは頭から外套を被り、俯いたままついてくる。通りは相変わらず人通りがまばらだが、休憩中らしき騎士の姿はそこここに見受けられた。
騎士がいるというのに子供の盗人一人捕らえられないというのも、おかしな話だ。そのくせ魔女狩りは盛んになっているというから、いよいよもって怪しい。突然町が変わる事など、タロットの影響を受ける以外では有り得ない事だ。
暫く滞在するから、その間に探せばいいだろう。何より、西の塔に現れた魔女というのが気にかかる。この町の西にはもうランズエンド岬以外にないはずで、その近辺には人もいないと聞いている。
女情報屋に聞いた大きな町というのがここの事なら、もうランズエンドに肉迫しているという事だろう。それならここで少し休んでから、目的地へ向かった方が賢明だ。
「ヴォルフ」
小声で呟くジゼラを見下ろすと、彼女は外套から指先だけ出して路地を差していた。そちらには人垣が出来ており、怒鳴り声が聞こえてくる。よくある喧嘩だろうに、人々は遠巻きに眺めているだけで止める様子もなかった。
普通なら誰かが止めるか、自治体の者を呼ぶかするはずだ。しかし野次馬達は誰一人そんな素振りも見せない。さすがに違和感を覚えて近付いてみると、人垣の向こうには賞金稼ぎらしき汚れたコートを着た男の姿がある。
しかし見えるのは男の肩だけで、喧嘩の相手は人々の背中に隠れて見えなかった。既に倒れているのかも知れないが、それならあんなに怒鳴ったりせず逃げるだろう。
「てめえ一度ならず二度までも、ふざけんじゃねぇぞ!」
腹の底からのがなり声に、ヴォルフは何故か焦燥感を抱く。何があったか不明瞭だが、止めなければならないような気がした。
「ジゼラ、待っていろ」
ジゼラが頷くのを確認してから、ヴォルフは人垣をかき分けて路地へ近付いて行く。横目で見た見物人達は、何故だか薄ら笑いを浮かべていた。気味の悪さを感じながら路地へ入った彼の目に、倒れた子供が映る。
それはあの、物取りの少年だった。かなり殴られたようで顔が腫れ上がっており、もはや見る影もないが服装でそれと分かる。身を守るように両腕で顔を覆い、時折弱々しく身じろぎするばかりの彼には、抵抗する力もないようだった。
そんな少年を男の足が容赦なく踏みつけるのを見て、ヴォルフは慌てて二人へ近付いて手を伸ばす。薄汚れたコートの襟首を掴んで力任せに引き離すと、男は驚いたように目を見開いて彼を見上げた。
「馬鹿な事をするな」
怒気のこもった声に、男は一瞬怯んだように身をすくめた。巨躯の上強面の彼に凄まれたら、誰でもこうなるだろう。しかし男はすぐに顔をしかめ、少年を指差した。
「スリの肩持つのか? このガキ、昨日も俺狙ってきやがったんだぞ」
ヴォルフはその言動から、昨日今日と連続して狙われたのだろうと推測する。しかしあれほど手慣れていた少年が同じ人物を標的にするような愚を犯すとは、到底考えられなかった。
「物を取られた腹いせに、命を取るつもりか? これ以上はやめろ」
言いながら、ヴォルフは男を人垣の方へと突き放して少年の側へ屈みこむ。未だ顔を隠したままだが、肩が上下しているから生きてはいるだろう。
彼の粗末な服は、ひどく汚れていた。小さな手の甲にも狭い額にも痣が残り、皮膚の破れた箇所から血が滲んでいる。痛々しい姿に眉をひそめたヴォルフは、なるべく傷に障らないようそっと少年の肩を叩いた。
「おい、分かるか」
少年はゆっくりと顔から腕をどけ、ヴォルフを見上げた。両目共に瞼が腫れ上がって半分ほど隠れており、覗く目は虚ろに混濁している。
よくぞこんな幼い少年を、ここまで痛め付けられたものだ。財布を盗られて怒る気持ちは分かるが、こんなになるまで報復する理由が分からない。賞金稼ぎなら、また稼げばいいだろうに。
考えながら少年を抱き起こそうとして、ヴォルフは気付く。小さな手に、財布が握られている。
昨日盗んだ財布を、今日も盗めるわけがない。見る限り財布自体使い込まれているから、昨日今日で新調したものではないだろう。それなのに、彼は今財布を握りしめている。
そもそも同じ人間を狙うという事自体、ありえない話なのだ。だからつまり、この少年は。
「返そうと……したのか」
少年は肯定するでも否定するでもなく、切れて血がにじむ唇を歪めてにやりと笑った。ヴォルフは眉根を寄せて苦笑する。
「ちょっと、何してるの!」
若い女の声だった。ヴォルフは少年の肩を抱き起こしてやりながら、声の主を見上げる。
見事な鋼の甲冑に身を包み、片手に剣を携えたその姿は、紛れもなく騎士のものだった。腰には上等なレイピアを提げており、上級の役職に就いているであろう事が分かる。しかし先程聞こえたのは、女の声だったはずだ。
「え……マイク、どうしたの!」
犬面の兜に隠れて顔は見えないが、確かに女性騎士のようだった。ヴォルフは意外に思ったが、見物人達は何人かが輪から離れて行くだけで驚く素振りを見せない。
この島は女王が統治するようになって久しく、女性の立場を尊重する傾向にある。女性騎士の発祥もここだと聞くから、珍しくはないのだろう。
その割に魔女狩りが盛んだというのは、いささか妙な話だ。領主の気が立っている、というのは先ほど聞いた限りだが、果たしてそれだけの理由だろうか。集団パニックに陥っているのか、はたまたタロットがいるのか。
女性騎士が顔を覗き込むように少し屈むと、少年はあからさまに顔をしかめた。痛々しい姿だが、案外元気なようだ。元々丈夫な子供なのだろう。
「ひどい傷じゃない。だからスリなんかやめろって言ったのに」
少年はそっぽを向いたまま、ふんと鼻を鳴らした。その仕草を見て、騎士は面の下で溜息を吐く。
知り合いのようだから、預けて行ってしまおうか。そう考えた矢先、騎士はふと彼を見て息を呑んだ。また恐がられるのかと嘆きかけたが、彼女は怯えではなく驚愕の声を上げる。
「ヴォルフ……嘘、ヴォルフ?」
今度はヴォルフの方が目を丸くした。名前を知っているという事は知り合いなのだろうが、騎士と知り合った覚えはない。そもそも、彼はこの島には来た事がなかったのだ。知り合いなどいるはずもない。
どこで会ったのだろう。記憶の糸を辿る彼は、ふと昔助けた娘に思い至る。
何年前だっただろうか。街道で行き倒れていた娘を介抱して、この島へ渡る手助けをしてやった事がある。両親が流行り病に倒れた挙げ句、借金の形に家を取られて叔父と結婚させられそうになり、命からがら逃げてきたのだと聞いた。彼女の家は確か、騎士の家系だったはずだ。
彼女だろうか。困惑して黙り込むヴォルフを見て、騎士はごめんと呟いた。
「分からないよね」
言って、彼女は兜を両手で持って持ち上げた。重厚な鋼の面から白金色の後れ毛がこぼれ、白い顔が露わになる。
青みがかったグレーの目と、つり上がった細い眉。長い睫毛は隙間なく生え、彫りの深い目元を際立たせている。目のすぐ上で切り揃えられた前髪は、少し風が吹く度に軽やかに揺れた。微笑む彼女は美しかったが、ヴォルフが驚いたのはそのせいではない。
ほとんど左右対象のその美貌は、ジゼラのそれとよく似ていた。違うのは髪の色と、唇の形ぐらいのものだろうか。向こうより唇が薄く、幅が広い。
「……シルヴィか」
どうしてジゼラと会った時、彼女を思い出さなかったのだろう。ヴォルフはそう考えたが、思い出すはずもない。助けた頃のシルヴィアは目ばかりがぎょろりと大きなやせっぽちの少女で、大人びた今の顔とは似ても似つかなかった。
それでもその笑顔には、昔の面影が残っていた。満面の笑みで頷く彼女を見て、ヴォルフは人違いではなかったと安堵する。
「うん。こっちに来てたんだね」
顔はジゼラと瓜二つだが、彼女の方が表情が生き生きしている。それが少し、不思議なようにも思えた。
「……ああ」
短く返すと、シルヴィアは小さく笑った。それからふと通りを振り返り、脱いだ兜を地面に置く。両手を出されたので、ヴォルフは少年をその腕に抱かせた。
シルヴィアの背後には、いつの間にか数人の騎士がいた。彼女は警らの途中だったのだろう。
「この子手当てして、教会まで送ってあげて」
「はい」
「あーあ、またお前かよ。今度はこっぴどくやられたなぁ、やめろって言ってんのに」
彼は常習犯のようだった。そのまま少年を抱いて去って行く騎士達の背を見送ってから、シルヴィアはヴォルフに向き直る。彼はそこでやっと、立ち上がった。
改めて向き直って、頭の位置に違和感を覚える。ジゼラより少し背が高いだろうか。最近は何でもジゼラと比べてしまう。
「久しぶりだけど……変わってないね、無口なとこ」
少し眉を寄せて微笑む彼女は、切なげにも見えた。あの少女がこうも立派になったのかと思うと、ヴォルフにとっては感慨深いものがある。
「悪かったな」
「あ、でもちょっと老け……」
思わず顔をしかめると、シルヴィアは慌てて首を横に振った。過ごした年数を考えれば老けた事ぐらい自分でも分かっているが、いざ言われると複雑だ。
「そ、そんなに変わってないよ! ただ、昔より渋くなったって言うか」
「同じだ」
ううと唸って、シルヴィアは首をすくめた。ヴォルフはそんな彼女を置いて、ジゼラを回収しようと路地を出る。
人垣はすっかり捌けており、通りには静寂が戻っていた。騒ぎを起こしていた男も消えているから、騎士達が連れて行ったのだろう。時折吹き抜ける風の音だけが、口笛のように響いている。にわかに焦りを覚え、ヴォルフは左右を見回して連れを探す。
しかしジゼラの姿は、どこにもなかった。黄土色の外套を頭から被った彼女の姿は、遠目にも目立つはずだ。それなのに、ヴォルフの目でも見つけられない。
一瞬にして背中が冷えた。あの娘が、待っていろと言われたのにどこかへ行くはずがない。
「……ジゼラ」
どこへ、行った。凍りついたように動かないまま呟いたヴォルフを、シルヴィアは不思議そうに見上げていた。




