第四章 Little Sister 一
一
「これだけ買ったのだからいいだろう、干し肉ぐらい」
涼やかな声は、焦れたような早口で商人を責める。露店商は困り果てて頭を掻き、はあと情けない声でぼやいた。
夕飯を食べてから買い物に出たはいいが、日はとうに暮れている。早く宿に戻らないと、問答無用で閉め出されてしまいかねない。時間がかかるから買い出しはいつも宿へ戻る前にしているものの、今日は買うものが多く、常より長引いていた。
「そりゃこんだけ買ってくれたから、オマケしてやりたいけどよ……」
言いながら、商人はちらりと荷車を見る。その上には、大きな麻袋が三つ積まれていた。次の町まで遠いと聞いたから、先程まとめて買ったものだ。
「いいだろう、三袋」
「いやいや良くないってお嬢ちゃん、多すぎるって。一袋はあげるから、二つは買ってくれよ」
「なら合計で半値にしろ」
「いやいやカンベンしてよ、仕入値より下がっちゃうよ」
ヴォルフ・カーティスは黙り込んだまま、二人のやり取りを見守っていた。商人を哀れにも思うが、口を挟むのも憚られる。彼女は食費を少しでも浮かすべく交渉しているから、たしなめるのも気が引けた。
彼が背負ったメイスは巨大なものだが、彼自身が大柄なせいか実際より小さく見える。その狭い眉間からは、恒例の値段交渉が始まってからずっと深い皺が消えない。刃物で断ち切ったように鋭い目は不機嫌そうに細められているが、実際は困っているだけだった。
薄い唇から溜息が漏れると、傷んで赤茶けた黒髪が揺れた。手入れを怠ったその髪と無精髭も相まって粗野な印象を受けるが、彼は馬鹿が付く程のお人好しだ。彼一人なら、商人に困った顔をされたら値段交渉などやめていただろう。
「荷車で元は取っただろう。相場よりずっと高いぞ」
商人はそこで、とうとう言葉に詰まった。これを見越して荷車を言い値で買ったのかも知れない。頭はあまり良くないと思っていたのに、そういう知恵だけは回るから不思議なものだ。
商人と見つめ合うジゼラ・マレスコッティは、真顔だった。長い髪は老人のように白いが、その美貌は二十歳前後の初々しさを保っている。見開きがちの大きな目は青みがかった薄いグレーで、白い肌と髪の色も相まって無機質な印象を受ける。しかし長い睫毛と眉にだけは、申し訳程度に白金色が付いていた。
ふっくらとした薄紅色の唇を引き結び、ジゼラは細い眉をつり上げる。外套を着込んだ彼女は、その合わせ目を握ったまま商人を見つめていた。中年の露店商は圧倒されたように身を引き、やがて低く唸りながら袋を三つ差し出す。
「もう分かったよ、持ってきな」
「ありがとう」
差し出された袋を受け取り、ジゼラは立ち上がってヴォルフを見上げた。満足そうに微笑む彼女は目を奪われる程美しいが、商人にとっては悪魔だろう。
「よくやった」
短く労うと、ジゼラは嬉しそうに目を輝かせてヴォルフの左袖を掴んだ。「運命の輪」と遭遇して以降、彼女は袖を取るだけでくっつこうとはしない。
ヴォルフは荷車の取っ手を掴み、宿へ向かって歩き出す。何故もっと早く買っておかなかったのだろうと、今更ながらに思う。さっさと買っておいてしまえば、道中空腹に嘆く事もなかったのに。
「ヴォルフ、手紙にはなんと書いてあった?」
「運命の輪」が落とした羊皮紙は、飾り紐で綺麗にくくられた手紙だった。羊皮紙を使っている事で古いものであると推測できるが、中身が分かろうはずもない。もし万が一恋文だったらと思うと、迂闊に見るのも憚られる。
「見ていない」
「見ないと持ち主に返せぬだろうに」
同意は出来るが、他人の手紙を見るのは流石に気が引けた。寧ろあまり見たくない。
「持ち主が生きているかどうかも分からんぞ」
「ああ、そうか」
納得したように呟いて、ジゼラはふと持ったままだった袋を見る。おもむろに差し出されたそれを受け取ると、彼女は満足そうに笑った。
ジゼラの態度が、以前と少し変わった。袖を握ってついてくるのは相変わらずだが、むやみやたらにへばり付く事はない。どういった心境の変化かヴォルフには測りかねるが、自らの過去を改めて見て、思う所があったのかも知れない。
戻った宿屋の主人が外にいるのを見て、二人は慌てて部屋へ駆け込んだ。嫌な顔をされたが無視して、荷物を荷車ごと部屋に詰め込む。外へ置いておくと、荷車ごと盗られてしまいかねない。時には荷が乗っていない車でさえ持って行かれる事がある。
狭い部屋に大きな三つの麻袋を積み、ヴォルフはやっと安堵の息を吐いた。野宿が当たり前になってはいるものの、室内にいると落ち着く。
そして彼は、コートを脱ぎながらふと考える。
ジゼラが一緒に寝ようと言わなくなったのは、いつからだったろう。同行し始めた頃は毎日のようにヴォルフの部屋へ来ていたし、野宿しても煩かった。最近はめっきり何も言わなくなったが、普通は逆ではないのだろうか。逆でも困る事には変わりないし、大人しくなってくれてよかったとは思っている。
彼女の何が本当で何が嘘なのか、ヴォルフには分からない。ただ今までの全てが嘘だったらと思うと、薄ら寒くもあった。
元々、ついて来る為の口実ではないかと疑っていた。疑っていても無碍に出来なかったのは寂しかったからに他ならないのだろうと、今は思う。気付かない振りをしていたが、孤独は確実に彼を蝕んでいた。それこそ全く関係のない人を助けて、少しでも誰かとの縁を繋ごうとしてしまう程に。
「運命の輪」が示した思い出は、内にあるそんな浅ましさを彼自身に再認識させた。忘れていたつもりもないし、時折思い出す事もあった。それでも自らを省みる事は、今までなかったように思う。
あれはそうして後悔させて、悲哀の念を喰らうものだったのだろう。誰しもが身の内に溜め込んでいる自らへの哀れみ、或いは自責の念を思い出させ、そこで生まれる後ろ向きな感情を糧とする。
しかしそれは、邪念と呼ぶのだろうか。
「ヴォルフ」
呼ぶ声に驚いて顔を上げると、ジゼラが扉から顔を出していた。冷えるからか、寝間着代わりのシャツの上からコートを羽織っている。
「話したい事がある……いいか?」
ためらいがちな問い掛けに、ヴォルフは頷く以外の反応が出来なかった。それほど彼女のしおらしい態度が意外で、驚いたのだ。ノックをしないのはいつもの事だが、普段なら問答無用で一方的な会話に持ち込まれる。
ジゼラは後ろ手で扉を閉め、黙ってベッドへ腰を下ろす。硬いベッドが二人分の体重を受け止め、軋む音を立てた。
隣に座ったはいいが、彼女はヴォルフの視線を避けるように目を伏せて俯いていた。その態度で、彼はジゼラが何を話しに来たのか察する。とうとう話す気になったのかと安堵する反面、罪悪感が胸を詰まらせた。結局自分は、ここに至るまで彼女に何も話せていないままだ。
ジゼラはしばらく黙り込んだ後、眉間に皺を寄せる。困ったような、戸惑ったような表情だった。
「どこから話したものか……」
「お前が話すべきだと思う所からでいい」
視線だけを僅かに上げ、ジゼラは頷いた。
「代々の長男が、大陸の国王直轄の騎士団へ所属する事を定められた家があるのを、知っているか」
「……いや」
ヴォルフはジゼラと同じ国の生まれではないから、知らなかった。そもそもそこに生まれていても、平民でしかない彼は知り得なかっただろう。
「騎士を輩出する名家として幾つかあるが、その内の一つにマレスコッティという家がある。私はそこの生まれだ。上流階級の間では名の知れた家でな」
「だから騎士が退いたのか」
ああと呟いて、ジゼラは再び視線を落とす。表情は普段と大差ないが、その目には陰りが見えた。
「だがどういった訳だか、私が生まれた当時の我が家は、借金で首が回らない状態だった。跡取りが産まれなかったせいかも知れぬが」
「知らんのか」
「私は十の時、遠縁の家へ借金の形に引き取られたのだ。だから事情は理解していなかった。あなたも知っての通り、頭も昔から悪くてな」
ヴォルフには彼女が別人のように見えた。ジゼラが自らを卑下する事が、今までにあっただろうか。
「何故私一人が借金の形にされたのか分からぬが、それならそれで仕方がないと思っていた。宝剣は、家を出る時両親から頂いたものだ。由来は知らぬ、教えてくれなかった」
借金で首が回らない状態でも売らずに取っておいた宝剣を持たせたと言うなら、彼女の親も、娘を手放したくはなかったのだろう。そう考えると、顔も知らない夫婦が哀れにも思える。
「親戚の家というのが地獄でな。子供ばかりが何人もいたが、体のどこかに傷のない子はいなかった」
そういう話を、聞いた事がある。旅を始めてから情報屋に聞いた話で、大陸のどこかの山奥に、子供を集めた楽園と呼ばれる場所があると。実際の様子がどうだったかも聞いたが、すっかり忘れていた。
聞くも無残、語るも無残で始まる残酷な小噺のような、嫌な話だった。そこは楽園とは名ばかりの、主人の欲望を満たす為だけの場所だったと言う。貧しい農民の子供が何人も買われ、そこへ集められていたようだ。
ジゼラはそこにいたのだろう。情報屋の間では有名な話だったようで、タロットの事を聞くと、一時期は決まって聞かされたものだ。
「腕はそこで焼かれた。だが気を失っている間に、何故だか屋敷が焼け落ちていてな。剣は焼け残っていたから良かったが」
彼女は知らないのだろうと、ヴォルフは思う。
ジゼラがいたのが彼が聞いた屋敷と同じ場所なら、そこは「戦車」に焼き尽くされたのだと聞いている。主人を含めた数十名が抵抗する事も逃げる事も出来ず、「戦車」に焼かれてしまったのだと。僅かに生き残った子供達はみな極度の衰弱、或いは心神喪失状態にあり、社会復帰に大変な時間を要したのだとも。
ジゼラは話さなかったが、そこの子供達に何が起きていたのかも情報屋から聞いた。屋敷の主は嗜虐癖のある小児愛好家で、毎日のように筆舌に尽くしがたい残虐な宴が行われていたと言う。そんな所にいて、よくぞ生きていられたものだ。
否、命こそあったが、無事ではなかったのだろう。人は極度の心労を継続的に感じ続けると、心ばかりでなく身体にも異常をきたす場合があると母から聞いた事がある。だから何かあったら悩まず相談しなさいという教訓めいた話だったのだが、こんな所で実例に出会うとは思ってもみなかった。
精神的に無事だった代わりに、彼女の髪は白くなってしまったのだろう。そう考えると、見慣れた白髪頭が痛ましくも思える。
「それから暫く、山の中をさ迷っていた。子供でも知っているような木の実しか食えるものがなかったから、すぐに弱って洞穴でじっとしていた」
「何故山を下りなかった?」
ジゼラは俯いたまま目を伏せて、ゆるく首を振った。
「山を下りたら、あの男がいるような気がした」
膝に乗っていたジゼラの手が、ベッドに置いたヴォルフのコートを掴む。そうする事で何かを堪えるような、すがるような仕草だった。
「カビ臭くて湿っぽくて、嫌な穴だった。臭いのが自分の腕だと分かっていたから、余計に嫌だった」
焼かれたというだけではどの程度か判断出来ないが、今腕がないということは軽い傷ではなかったはずだ。治療もしないまま放り出されれば、傷ついた部位はいずれ壊死する。しかしその時はまだ、左腕はあったのだろう。あってないようなものだったのかも知れないが。
生きたまま、虫に喰われる感覚。そんなものをヴォルフは知らないが、その言葉の意味は、やっと分かった。
「それから暫くは、雨水だけで過ごした。腕一本が駄目になっても案外生き延びられるものだと、子供心に思ったものだ」
「蛆虫は腐敗した肉だけを喰う。だから感染症にもかからず、生きていられたのだろう」
ジゼラはヴォルフを見上げ、納得したように頷いた。それからまた、視線を落とす。
「このまま死ぬのかと思ってずっと寝ていたが、ある日目が覚めたら、ベッドの上にいた。山中に住む錬金術師が助けてくれたのだ」
「錬金術師が?」
意外に思えて、ヴォルフは怪訝に問い返した。山中に住むような錬金術師は迫害されて逃げた者が多く、なべて人嫌いだ。それが子供とはいえ人間を助けるとは、中々に考え辛い事だった。
「高齢の錬金術師でな。それから面倒を見てくれて、腕も彼が治療してくれた。大分食われていたから、切り落とさざるを得なかったが」
医術を研究していた者だったのだろう。錬金術師の中には薬を作って行く内、人体に興味を持って解剖学に手を出す者もいる。
「彼と暮らしていたのは、数ヶ月だった。短く感じたが、屋敷にいたのと同じ程だっただろうな」
「その錬金術師はどうした」
「死んだ。かなり高齢だったからな」
寡黙で人付き合いを嫌う者が多い錬金術師達でも、ある程度孤独に慣れると、突然人里に姿を現す事があると言う。山中に隠れ住んでいる錬金術師が子供を拾ったと聞くだけではにわかには信じがたい事だが、高齢だったなら話は別だ。
慣れたと思っていた孤独に、耐えられなくなる事はある。ヴォルフがそうだったように、ジゼラを拾った錬金術師も、そうだったのだろう。
「それから町に下りて、剣についた宝石を売りながら暮らしていた。剣を使うようになったのは、町を移動して行く内にアルカナが出始めてからだ」
「剣はどこで習った?」
「基本は父に教わっていた。後は、剣を作ってくれた鍛冶屋に。あちらも亡くなったが」
どこからどこまでが五年間だったのだろうと、ヴォルフは思う。鍛冶屋が死んでから五年間、一人で生きていたのだろうか。だとすると、ジゼラはまだ十代という可能性もある。
その若さで苦労したとなると、同情もする。本人は何度も同情されたくないと言っていたが、聞いてしまえば無理な話だろう。
「あなたについてきたのは、食い扶持には困らぬだろうと思ったからだ。嘘を吐いてすまなかった」
「そうだろうな」
何気なく返すと、ジゼラは弾かれたように顔を上げて大きく首を横に振った。白い髪が舞い、黒いコートに曲線を描く。
「今は違う、今はそうではない」
その必死な声に、ヴォルフは複雑な心境になる。今は好きだと言いたいのだろうか。それもまた厄介な事だ。いっそ今も食って行く為について来ていると言われる方が、まだ良かった。
黙ったままでいると、ジゼラは肩を落として再び俯いた。真顔だが、その目は僅かに揺れている。
「浅ましいだろう。自覚していると言う事で、許してもらおうとしている」
無表情を崩さないまま、ジゼラは懺悔でもするように言った。ヴォルフはまた、彼女が分からなくなる。
今までの彼女が全て嘘だったのか、こちらが地だったのかは、判じかねる。だが全て嘘だったのだとしたら、今までのように接する事は出来なくなるだろう。それが少し、怖かった。
自分は彼女を、なんだと思っていたのだろう。それがヴォルフには分からない。少なくとも他人ではないと考えているが、ならば何なのかと問われれば返答に窮する。
ただ今まで考えないようにしていた疑問が、彼の表情を曇らせる。能天気な普段の彼女が本当で、今が落ち込んでいるだけなのか。それとも強かなくせにそんな自らを卑下する、この娘が真実なのか。
「ジゼラ」
名前を呼ぶと、ジゼラは視線だけを上げる。一点の曇りもない、透き通るような目だ。
「どちらが本当だ」
妙な問い掛けだと、ヴォルフは自分でも思う。聞かなければならなかった訳ではなく、知りたいだけだった。どちらでもいいと思うし、どちらかであったとしても、彼女を見る目は恐らく変わらない。
ゆっくりと二度、瞬きをして、ジゼラは顔を上げる。見上げてくる目は普段と何ら変わりなく、真っ直ぐだった。
「どちらもだ」
言って緩慢な動作で腰を上げ、ジゼラは微かに笑った。寂しいような自嘲しているような、白い笑みだ。
このコートの下に、どんな傷があるのだろう。背負っていたのは自らの傷だったのか、それともヴォルフと同じように、思い出だったのだろうか。今はそれが、気になっていた。
何も答えられず、ヴォルフは視線を落とす。何を言っても今の彼女には響かないだろうと、そう思った。
「私が邪魔だと思うなら、置いて行ってくれ。私はあなたを追わぬ」
驚いて見た時には、ジゼラはもう扉の向こうへ消えていた。
何故今話しに来たのか、理由は見当がついている。彼女も「運命の輪」に己の過去を示され、思い出してしまったからではないだろうか。何も言いたがらなかったのは言いたくなかったからではなく、思い出したくなかったからなのだろうと、ヴォルフはそう考えている。
だからどうという訳ではない。明日になれば昔の話など関係なく、ジゼラはいつも通り接してくるのだろう。ヴォルフ自身、そのつもりだ。
だから彼は翌朝少しだけ早く起きて、ジゼラを起こしに行った。何も言わない代わりに、そうする事で、置いて行かないと伝える為に。




