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第三章 Phantom Pain 十

 十


 乾いた大地へ崩れ落ちるように、亡者が倒れ伏す。辺りには血とカビと腐った肉の臭いが混じりあい、吐き気を催す程の悪臭が漂っている。動く死体相手に巨大なメイスを振るう男は、それでも眉一つ動かさない。

 スパイクが放射状に並んだ鉄球が、アルカナの頭に激突する。皮膚も脂肪も腐り落ち、所々筋肉と骨の露出した顔が、跡形もなく弾けた。砕けた頭部からこぼれるのは丸々と肥えた蛆虫ばかりで、脳は溶け尽くしてしまっている。棍棒を振り上げながら迫り来るアルカナ達をまとめて薙ぎ払い、ヴォルフは小さく息を吐いた。

「……終わりか」

 荒野の日差しは灼熱と称するに相応しい熱でもって、全身を焼く。頭に被ったストールを巻き直し、彼は屍の山を乗り越えた。

 町を目指して歩きながら、ヴォルフは奇妙な違和感に顔をしかめていた。自分は今、間違いなく砂漠地帯を歩いている。それなのに、ここにいるはずがないような気がしてならない。こんな感覚を抱くのは初めてだった。

 悩んでいると腹が減ってきたので、ヴォルフは腰に提げた布袋から干し肉を取り出す。それを一口かじって、彼はまた、違和感を覚えた。

 見た覚えのある光景。取った覚えのある行動。言った覚えのある言葉。その全てが彼の胸の内でこごり、澱となって溜まって行く。自分の記憶が信じられないような、不気味な感覚だった。

 やがて彼は目を細め、舞い上がる熱砂の向こうを注視した。そこにあった人影を見て、町は近いのだろうかと考える。考えてまた、怪訝に眉をひそめた。

 何かがおかしい。こんな所に来た事はないのだから、知り合いはいないはずだ。それなのに、彼はあの人影が誰なのか知っている。いや、知っているような気がする。

 人影に近付いて行く内、ヴォルフは何故か焦燥感を覚え始める。腹が減っているせいではない。早く町に着かなければ蓄えが減るからだとか、そんな理由ではない。そんな事よりもっと重大で、彼を焦らせるに足る理由。

 早くあれを、回収しなければ。あれというのが何なのか本人にも分からなかったが、ヴォルフは足早に人影へ近付いて行く。

 くすんだ黄土色の外套を頭から被った人物は、スコップを片手に立ち尽くしていた。目深に被ったフードに隠れ、その顔は見えない。けれどヴォルフはこれが女であると、知っていた。

「おい」

 ヴォルフが声をかけた瞬間、俯いていた顔が勢いよく上げられた。見開いた目の透き通るような輝きも、真っ白な髪も、バラの花弁のようにふっくらとした唇も、彼は知っている。

 目を丸くしてまじまじとヴォルフを見ていた彼女は、不意に泣き出しそうに表情を歪めた。白金色の細い眉が切なげに寄せられ、小さな唇がわななく。やがてその手から力が抜け、スコップを取り落とした。

「……ヴォルフ」

 今にも嗚咽を上げそうなほど掠れた声で、ジゼラは呟いた。その右手がヴォルフに向かって伸び、コートの袖を握る。白い指は、微かに震えていた。

 これを一人で歩かせてはいけない。一人にするのもいけない。それは義務か、使命感のようなものだった。

 ヴォルフは緩慢な所作で頷き、辺りを見回す。自分は確かに街道を歩いていたはずだ。しかし熱砂の舞う荒野の風景は、まさしく既に通り過ぎた地域のものだった。まさか戻されてしまったのかと考えながら、彼はひとまず町の方へ向かう。

「私達は何故ここにいるのだ?」

 左腕にぴったりと寄り添うジゼラは、ついさっき涙ぐんでいたのが嘘のようにけろりとしていた。袖を握って安心したのだろうが、その変わり身の早さにはヴォルフも驚く。

「分からん。タロットのせいだとは思うが」

「困ったな。振り出しに戻ってしまったぞ」

 この荒野が振り出しだったのはジゼラだけだが、ヴォルフは否定しなかった。本当に飛ばされてしまったのなら、彼にとっても来た道を再び進まなければならない事になる。せっかく島まで渡ったというのに、それは御免被りたい。

 何より、あのタロットがそれだけで済ますとは到底思えなかった。別の場所に飛ばすだけなら、ただの嫌がらせだ。別の世界に飛ばすならまだしも。

 そこまで考えて、ヴォルフは気付く。情報屋の女は、仲間が「運命の輪」に呑まれたと言っていなかっただろうか。

「静かだな」

 砂が口に入るのを嫌ってか、ジゼラは俯いたまま呟く。ヴォルフは彼女の頭を見下ろして、ああと短く返した。

 左腕に確かな重みを感じ、彼はようやく思い出した。我に返る前、自分が何を見ていたのかを。それがどれほど幸福で、残酷で、思い出したくない記憶であったかを。

「運命の輪」とは恐らく、そういうタロットなのだ。人を苦い記憶の中に放り込み、そこで生まれる憎しみや悲しみをゆっくりと喰らう。情報屋の女が逃れられたのは、それ以前に苦い記憶がなかったからなのかも知れない。

 悪質、というよりは、悪趣味なタロットだ。人の記憶を掘り返すような真似をして、悪戯に苦しめるとは。

「ヴォルフ、変だぞ」

 開いた城門をくぐって町の中へ入った途端、ジゼラは訝しげに呟いた。ヴォルフも町の中を見て、同意するように頷く。

 精巧に作られた人形が並んでいるようだった。歩き出そうとする者もあれば、露店を覗き込む者もある。しかし誰一人として、微動もしない。皆何かをしようとした体勢のまま、凍り付いたように動かなかった。

 通りを歩きながら、ジゼラは顔をしかめたまま辺りを見回している。目に入ってくるのは動かない町人ばかりで、町の様子に変化は見られない。この町だけ時間が止まってしまったかのように静かで、風さえも感じられなかった。

 ヴォルフは人々の様子を暫く観察した後、懐から砂時計を取り出す。熱は持っていないものの、中の砂が淡く光っていた。

「現実の世界ではなさそうだ。『運命の輪』の中にいるのかも知れん」

「なら、この人達はなんだ? あの町の住人ではないぞ」

 眉を片方だけひそめ、ヴォルフは改めて動かない人々の様子を確認する。二日しか滞在しなかったから当然だが、顔を見ても町にいたかどうかは判断出来なかった。だがここに住んでいたジゼラが言うのだから、実際元々の住人ではないのだろう。

 呑まれた人がいるなら、その人達だろうか。見る限り旅装の人が多いから、可能性は充分にある。それにしても動かない理由が分からない。

 何にせよ、人が呑まれているのにタロットを倒してしまって大丈夫なのだろうか。こんな状態で、彼らは現実の世界に戻れるのだろうか。

「……よく分からんが、それより戻る方法を探した方がいいな」

 ふうんと呟き、ジゼラは首を傾げた。ずれたフードを外し、彼女は空気の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。何も言わないところを見ると、何の匂いもしなかったのだろう。

 何もないまま北側の歓楽街に入ったが、そこにも動かない人がいるばかりで変化は見られなかった。娼婦の姿がないから、やはりここにいるのは呑まれた旅人達なのだろう。

「ヴォルフ、においがしない」

 不安げに眉尻を下げ、ジゼラはコートの袖を引く。ヴォルフは肩越しに彼女を振り返り、顔をしかめた。

「何がだ」

「あなたも、私も。この町も」

 大きな目が、怯えたように揺れていた。においがしないから不安なのだろうか。彼女は犬なのではないだろうか。

 そう言われても、ヴォルフは元々鼻が悪いから分からない。困惑したように眉根を寄せて入り口の方を注視すると、代わり映えしない城壁が見えた。

 何の収穫もないまま、町を出てしまう事になりそうだ。そう考えながら通りを進んで行くと、城門の前に奇妙な人影が見えた。ねずみ色のローブを着たその姿は、往年の魔術師を彷彿とさせる。動いているようにも見えないが、目深に被ったフードは微かに揺れていた。

「魔術師」だろうかと、一瞬考えた。しかしその人物にタロット特有の雰囲気はなく、砂時計にも光る以外の変化はない。タロットと人間の違いぐらいは分かる。

 警戒しながら近付いて行くと、ローブの人物はふと顔を上げた。覗いた口元には白い髭が蓄えられており、老人である事が分かる。彼は動けるようだが、益々疑わしかった。

 けれどヴォルフは何故だか、その老人を懐かしく思う。何故なのか自分でも分からないものの、遠い昔にはぐれた知己と再会したような、温かな懐かしさだった。まだ「運命の輪」の影響下にあるのかとも思ったが、老人に知り合いはいないはずだ。

「長うかかったの、愚者よ」

 しゃがれた声は奇妙に高く、男のようにも女のようにも聞こえた。萎びた唇が笑みを浮かべるのが見えたが、フードの影が落ちて鼻から上は見えない。

 タロットのような言い種だった。ジゼラは怪訝に首を捻ったが、ヴォルフは表情を硬くする。これがタロットだとしたら、「隠者」だろうか。しかしあれは人前に姿を現す事がなく、両親でさえ見た事がないと言っていたはずだ。

「お前は誰だ」

 硬い声で問うと、老人は愉快そうに笑った。彼から少し離れた所で立ち止まり、ヴォルフは益々渋面を作る。

 不快だった訳ではないし、恐らくタロットではないだろうと思っている。だから彼が顔をしかめたのは、そんな理由ではなかった。彼の笑い方に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。

「この町の人間は皆、『運命の輪』に呑まれた者。彼奴らがいるのは、この町ではない。定められた運命を見出だせず、自らの記憶の中に今なお囚われておる」

 ヴォルフには、意味が分からなかった。本当に不条理な弾圧から逃げ延びた魔術師なのかも知れないが、それが自分を愚者と呼ぶ理由が分からない。

 黙り込むヴォルフを笑って、老人は更に続ける。

「『運命の輪』を浄化してやれば、彼奴らも元の世界に戻るであろう。だからお前は、何も気にせんでいい」

 浄化する。その意味は分かるが、何故この老人が知っているのだろうか。そう考えたところで、はっとする。

「お前……まさか」

「そら、来たぞ」

 老人は何故か愉快そうに告げ、その場から数歩ばかり離れた。途端に彼のいた場所、城門から、ぬうと白いものが現れる。

 それは女の頭のようだったが、髪も眉も生えていなかった。更に、その大きさは人間の頭部の比ではない。ヴォルフの頭の天辺から、腰まではあるだろうか。紙のように白くはあるが、肌の質感は人間のそれと酷似している。

 見開かれた目には一筋の光も見出せない黒目しかなく、そこだけ穴が空いたようだった。顔の中央に大きな鼻はあるが、鼻孔が一つしかない。子供なら一呑みに出来そうな口の、その分厚い真っ赤な唇には、細長いものが銜えられていた。徐々に姿を現す内、それが白い蛇の尾である事が分かる。

「運命の輪」の体は、巨大な白蛇そのものだった。アンバランスなほど大きい頭部と比べると細く見えるが、平均的な成人男性の胴と同程度はあるだろうか。ぬめりを帯びたように光る鱗に覆われた体は、大きな円環を形作っている。

 長い体の中程には虫のような半透明の羽が生えていたが、羽ばたくような様子はなかった。あれの腹の中にいるのだとばかり思っていたのに、そのものが出てきたという事は違ったのだろうか。

 彼は暫くタロットを見つめたまま呆然としていたが、その全貌が露わになると、反射的に砂時計をひっくり返した。異形の漆黒の目が瞼に半分隠され、細くなる。しかし変化したのは目だけで、白い顔は少しも表情を浮かべなかった。

 やがて「運命の輪」が、静かに回り始める。複雑な表情を浮かべていたジゼラが剣を抜くと、それに反応したかのように、羽虫のそれのようなタロットの羽が大きく羽ばたいた。薄雲に隠されたかのように灼熱の太陽光が弱まり、ぬるい風が吹く。

 やはりここは現実ではない。いかに人知を超えた存在であろうと、天候を変える事など出来はしないからだ。

 腹の中ではないにしろ、ここは「運命の輪」が作り出した世界なのだろう。あるいはあの老人の言うように、本当に自らの記憶の中なのか。

 背中の留め具を外してメイスを握ると、少し後ろにいたジゼラが横に立った。彼女はいつもこうして、ヴォルフの死角となる左側か背後にいる。有り難くはあるが、彼女の左側の方が危ないのではないだろうかといつも思う。

「運命の輪」が一つ羽ばたく度に、風が強くなって行く。ジゼラの左袖がそれに煽られて、うねりながら彼女の背を叩く。白い髪が舞い、弱くなった太陽光に照らされて輝いた。同じくタロットの半透明の羽も、鋭く光る。

 その様子に違和感を覚え、ヴォルフはジゼラの腕を掴んで後ろへ退けた。同時に、鋭い風切り音が耳元を過ぎる。

「な、なんだ」

 動揺するジゼラに、ヴォルフは答えない。顔の前に翳された彼の拳には、赤子の掌ほどはある半透明の鱗が刺さっていた。彼の全身の所々から血が滲み、服を赤く染めて行く。裂けたコートの袖が、風に吹かれてはためいた。手に刺さったものと同じ鱗に裂かれたのだろう。

 軌道は辛うじて見えたが、避ける余裕はなかった。半透明で見えづらいのもあるし、単純に速すぎる。

「ヴォルフ、血が……」

「私の後ろにいろ」

 左の拳を振って刺さった鱗を落とし、ヴォルフは「運命の輪」に向かって真っ向から駆けて行く。異形の羽が再び光った瞬間メイスを大きく振ると、地面に何枚もの鱗が落ちた。

 原理はよく分からないが、払うタイミングは掴んだ。あの羽が力の媒体となっているのだろう。

 魔力で固められたタロットも、それを使用する為には媒体が必要となる。「女教皇」は杖、「女帝」は王笏。この「運命の輪」は、羽。これを奪えば、攻撃される機会は減るだろう。

 ヴォルフは間合いに入ると同時にメイスを振るが、回転しながら上昇して軌道から逸れた「運命の輪」には当たらなかった。同時に光る羽が視界に入り、即座に得物を方向転換させる。しかし僅かに間に合わず、鋭利な鱗がコートに刺さった。

 一瞬怯んだ隙にタロットの赤い唇が開き、そこに銜えられていた尾が打ち付けられる。ヴォルフは強靭な尾に胸を叩かれて後ろへよろけ、咳き込みつつもメイスを立てて追撃を止めた。硬い鱗と鉄の柄が衝突し、甲高い音が立つ。風に乗って長く響く耳鳴りのような音が消える前に、「運命の輪」がその大きな口を開く。

 唇とは対照的に真っ黒なその口腔には、鮫のように尖った鋭い歯がびっしりと並んでいる。口を開けたと思った次の瞬間には、異形の女のような顔がヴォルフの目前まで迫っていた。勢いよく合わさった牙を避けて後ろへ飛び退くが、「運命の輪」は彼を追って、再び口を開く。

 異形がヴォルフに気をとられているその隙に、ジゼラは建物沿いに大回りして、その後ろ側へ向かう。壁に凭れて戦況を見守っていた老人が、彼女を見て低く唸った。

 ヴォルフは腕を顔の前へ持って行き、尾をはね除けたメイスを盾にして異形を止める。がちんと嫌な音がして、鋭い牙が鉄の柄を噛んだ。タロットはそのまま押そうとするが、ヴォルフも腕に力をこめて押し返す。押し合う両者を横目で見ながら、ジゼラはタロットの後ろへ回り込む。

 掛かり続ける圧力によって痺れる腕から一瞬力を抜いて、ヴォルフは後方へ跳んだ。上から力をかけていた異形は途端に前のめりになり、バランスを崩す。「運命の輪」が傾いたその瞬間、今度はジゼラが跳んだ。

 異形が反応する隙もなかった。白銀の刃が閃き、半透明の羽を切り落とす。羽で飛んでいた訳ではないようで地に落ちる事はなかったが、タロットの目は忌々しげに細められた。同時に、その尾が背後へ向かって振られる。ジゼラは身を屈めて尾を避けたが、異形は尾を振った勢いで急速に方向転換した。

 突然目の前に現れた白い顔に驚いて目を丸くし、ジゼラは飛び退く。大きな口が彼女を追い、更に迫って行く。その間にも尾はヴォルフを叩こうと振られるが、彼はメイスで弾き返す。

 徐々に後退して行くジゼラの背が、城壁についた。逃げ場をなくした彼女は慌てて目の前に剣を構え、「運命の輪」の牙を受け止める。しかしヴォルフが拮抗した異形相手にその力が足りるはずもなく、すぐに頭を振って弾かれた。更に迫る牙を同じようにして止め、ジゼラは顔をしかめる。

 ヴォルフは背中を這い上がる焦燥感を堪えるように、大きく足を踏み出した。瞬間、斜め上から、びっしりと鱗の生えた尾が打ち下ろされる。避ける事も受け止める事も出来ず、再び強かに打たれた彼の胸からは、じわりと血が滲んだ。それでも小さく呻くだけで、ヴォルフは止まらない。

 他人の血だけは、もう見たくない。目の前で両親をみすみす死なせてしまったように、ジゼラを死なせる訳には行かない。

「その娘は、傷つけさせん」

 それは自己満足でしかなかったし、叶う事とは彼自身思っていない。だからこそ自分に言い聞かせるように、自分にしか聞こえない程度の声量で独り言ちる。肉親にも恋人にも何も出来なかった贖罪のつもりで、力の及ぶ範囲だけは自分の手で守り抜くと、そう誓った。例えそれが、自分ともう一人という狭い範囲であっても。

 追撃を跳ね返したヴォルフは、その勢いで振り上げたメイスを「運命の輪」の頭部に打ち下ろした。尾がそれを止めようとしたが間に合わず、つるりとした白い頭に鉄球が激突し、頭頂部が大きく陥没する。不死身のタロットも頭を潰されては堪らず、その場に崩れ落ちた。

 異形の様子を確認する余裕もなく思い出したように痛んだ傷を押さえて、ヴォルフは背中を丸める。ジゼラが慌てた様子で彼に駆け寄り、不安そうに眉尻を下げて顔を覗き込んだ。

 息を詰まらせる痛みを逃がすように深く息を吐き、ヴォルフは顔を上げる。胸に当てた左手を開くと、そこに握られていた砂時計にはまだ黒い砂が残っていた。

 改めて様子を確認すると、異形は振り返るような形で黒い体液に濡れた顔だけをヴォルフに向けていた。目は片方が頭の左半分ごとこそげ落ちているが、右目は暗い深淵で以て彼を見詰めている。赤い唇は、いつの間にかまた尾を銜えていた。

「愚者よ」

 高いような低いような微妙な音程の声が聞こえたが、「運命の輪」の口は動いていなかった。空から、或いは地から響いてくるような声は、耳ではなく頭に直接語りかけてくるかのようだ。

 ヴォルフは答えないまま視線だけを流す。建物に凭れていたはずの老人は、既にそこから消えていた。あれがなんだったのか、何の為にここにいたのか、彼はもう気付いている。

「この先にあるのは、お前の望むものではない」

 ヴォルフの手の中で、砂時計が金色に輝いた。異形は残った右目を大きく見開き、僅かに後退りする。

「『運命の輪』よ」

 何も得られない。そんな事は、誰よりも自分が一番よく分かっている。望むものは得られなくとも、これが付けるべきけじめだ。得る為ではなく断ち切るために、彼は進んでいる。

「正位置へ直り、その意を見よ」

「運命の輪」の断末魔は天地を震わせる程の大音声で、その喧しさに、ヴォルフは思わず目を瞑った。しかし視界が暗転したと思った次の瞬間にはぷっつりと声が聞こえなくなっており、彼は驚いて目を開ける。

 そこは、森の中だった。ここはどこかと考えるより先に、解放されたのだと安堵の息を吐く。恐らくは、現実に戻ったのだろう。

「ヴォルフ、何か落ちている」

 抑揚のない声を聞いてジゼラを見てから、ヴォルフは彼女が指差した先を見る。そこにはいつものように砂金が積もっていたが、その中に白いものが埋もれていた。

 砂時計をしまいながら砂金の山に近付き、ヴォルフはそこに埋もれたものを拾い上げる。黄ばんだそれは、丸められた羊皮紙だった。

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