第三章 Phantom Pain 九
※虐待描写を含みます。
気分を害される可能性がございますので、苦手な方は読み飛ばしてください。
九
マレスコッティ家は存続の危機に瀕していた。かつては有力な貴族だったにも関わらず、今や見る影もないほど落ちぶれ、没落を待つばかりである。
すべては、タロットに汚染された領地の復興に莫大な費用を費やしたが故だった。その財産はもはや全盛期の十分の一以下に減っている。かつては王立騎士団の一員として天下にその名を轟かせた家長も老い、肩書も飾り物となっていた。
タロットの出現によって領地からは次々と人が出て行き、税収は半分以下に減った。その中から諸々の費用と国に納める税金を捻出したら、残るのは明日の食い扶持にさえ足りない有り様。更に頼みの綱の子供達は、全て女だった。領地からは人が減り、土地は荒廃の一途を辿り、跡継ぎにも恵まれず、もはや打つ手なし。ジゼラが生まれたのは、そんな家だった。
彼女が産まれた頃にはもう、家は悲惨な有様だった。使用人を雇う金もなくなり、少しずつ少しずつ家具を売っては糊口を凌いでいた。それでも家長は貧しい民の為と、税を上げる事を良しとしない。民にとっては、良い領主であっただろう。また妻もそんな夫に意見する事はなかったから、家計は逼迫して行くばかりだった。
だからジゼラは貴族の娘であるというのに贅沢を知らず、ドレスの一着も持っていなかった。三人の姉はみな優しく両親も穏やかだったが、暮らしぶりは一介の農民より質素なものだ。けれどジゼラはそれが当たり前だと思っていたから、不満を覚える事もなく健やかに育った。
貧しい暮らしを強いられてはいたが、幼いジゼラは幸せだった。三人の姉は歳の離れた末の妹を蝶よ花よと慈しみ、母は姉妹に分け隔てなく深い愛情を注いでくれた。町の復興に尽力し続けた父は民に深く愛され、その愛を全て、妻と子供達に向けた。幸せな家庭だったと、ジゼラは胸を張って言える。
彼女は誉れ高い騎士である父を、尊敬していた。一つ上の姉と共に父から剣の稽古を受けていたのには、そんな理由もあったのだろう。頭の出来は良くなかったが、剣の腕はよく褒められたと記憶している。毎日が楽しく、満たされていた。
けれどそんな幸福の裏で、家計は日々逼迫して行く。幼いジゼラは知る由もなかったが、彼女が五つを数えた頃には、家は親戚への借金で首が回らない状態だった。家具が少しずつ減り、屋敷が寂しくなって行くのに、ジゼラは何も感じなかった。それほど幼く、世間知らずな娘だったのだ。
そんな彼女が親戚に目を付けられたのは、十の頃だった。見るものの目を奪うような愛らしい娘に成長していた彼女を、遠縁の男が引き取りたいと申し出たのだ。両親が拒むと今度は借用書をちらつかせ、彼は脅しにかかった。家は逆さに振っても銅貨一枚出てこないような有り様で、両親は泣く泣くジゼラを手放した。
借金の形となる事を余儀なくされ、彼女は幸福から引き離された。代々受け継がれてきた宝剣をお守りに頂き、ジゼラは男の下へ引き取られる事となった。両親を恨んではいなかったし、それならそれで仕方がないと考えてもいた。
だが男の屋敷で彼女を待っていたのは、地獄だった。
男が所有する広大な屋敷には、何十人もの子供がいた。牢獄のような屋敷に詰め込まれるように暮らす子供達は皆痩せっぽちで、一様にまともな服を着ていない。皆何かに怯え、帰宅した男のご機嫌を取るのに必死だった。
ジゼラは屋敷に連れて行かれた日、そんな光景を不思議な気持ちで眺めていたが、やがて気がついた。自分を引き取ったのが、どんな男であるのかに。
少年愛好、嗜虐趣味、人肉嗜食。幼児が主の気紛れでいたぶられるのを見たし、主の前で粗相を働いた少年が焼いたペンチで尻たぶをちぎり取られる様も見た。子供達は、同じ境遇の子らが一人また一人と減って行くのを、明日は我が身と怯えながら見守るしかなかった。
血の臭いを嗅がない日はなかったし、肉の焼ける臭いが漂ってこない日もなかった。誰もが窶れ、子供だというのに人の顔色ばかりを窺う。そんな地獄に救いの手が現れるはずもなく、誰も祈ったりはしない。ただ出来る限り主の機嫌を損ねないように、気を張っているしかなかった。
毎日毎日主の足音に怯え、彼が好んで身に付ける香水の匂いを嗅いだら、すぐさま身を隠す。そんな日々を送る内、ジゼラの嗅覚は異常なほど研ぎ澄まされて行った。反面体は心労と恐怖の為に窶れるばかりで、その内自慢だった髪の色が全て抜けた。
主は老人のように白くなったジゼラの髪を、何故だかよく撫でていた。彼女を膝に乗せ、すてきな色だと褒めながら、何度も何度も撫でた。
彼は、性的不能者であったのだろう。少年を愛でる事はあっても決して少女には手を出さず、怯えて泣くさまを見て喜ぶだけだった。ジゼラの髪をよく愛でたのは、同じ欠陥者であったからだったのかも知れない。
ジゼラを膝に乗せる時、彼はよく、私が好きかいと聞いた。彼女は男が恐ろしくて堪らなかったので、はいと答えるしかなかった。あなたが好きです、と。そうすると彼はジゼラの真っ白な髪を撫で、彼女の為にご馳走を用意してくれた。
幸か不幸か、ジゼラは主のお気に入りとして、身の回りの世話ばかりさせられていた。愛らしい少女だけを集めた世話係達には、不手際さえなければ何事もなかった。
しかし一度粗相をすれば、他の子供と同様にただでは済まない。時には連帯責任として全員が罰を受ける事もあったから、皆助け合って日々暮らしていた。
可愛がられて育ったジゼラは、世話係にされたところでほうきの使い方ひとつ分からなかった。だから他の少女達は皆、熱心に家事を教えてくれた。そうしなければ自分がひどい目に遭うことを、知っていたからだ。
ジゼラは一度、主の服の金ボタンを取ってしまった事がある。元々糸がほつれていただけの事なのだが、虫の居所が悪かったらしい彼は、烈火の如く怒り狂った。
ボタンを摘まんでいた左腕を何度も熱した鉄の火箸で叩かれ、火膨れが出来てもやめてはもらえなかった。真っ赤な火箸が触れる度に皮膚が真っ白に変わり、痩せ細った腕に残っていた僅かな脂肪が燃えて溶け、大きく抉れた。
不思議と、痛みは感じなかった。熱さを通り越して、冷たくさえあった。けれど徐々に焼け爛れて行く腕が怖くて、ジゼラは喉がかれるほど泣き叫び続けた。それでも、主はやめなかった。
水疱と痣と火傷だらけになった腕をしつこく叩き続けた末、主は悲鳴も出なくなったジゼラを見て、笑った。その頃には何も感じなくなっていた事が唯一の救いだろうか。ぼろぼろになった腕は、最後の仕上げだとばかりに、燃え盛る暖炉の中へ突っ込まれた。
自分の腕が焼けるにおいを、不思議な気持ちで嗅いでいた。腕には感覚がなかったが、顔はひどく熱かった。このまま炎に呑まれて死ぬのだと、ぼんやりと思った。死んだら楽になれるだろうか、とも。その時は確かに、あの屋敷にいた全ての子供達にとって、死だけが救いだった。
死んだらきっと、楽になれる。主の笑い声を聞きながら、彼女は意識を失った。
カーティス夫妻とは、魔術師の手によって災厄へと変えられたタロットカードを倒し、世界を救った英雄だった。二人とも錬金術師だったがその中でも特に変わり者で、妻は医学を研究しており、夫は戦士に近かった。
二人が旅に出た理由には諸説あるが、そんな事は人々にとってはどうでも良かったようだ。世界を救ったという、その事実だけが全てだった。
だから夫妻の馴れ初めは誰も知らない。事実がどうであれ二人は十六にして救世の旅に出て、十年以上の月日をかけて見事に魔術師を倒したのだと、錬金術師達の間ではそう語り継がれている。
旅を終えた二人は大陸の外れの小さな村に腰を落ち着け、子供を儲けた。村人達は夫妻を歓迎し、英雄と称えた。二人の息子をヴォルフと名付けたのは、村長だったと言う。
村人に尊敬される両親の背中を物心つく前から見ていたせいか、ヴォルフは英雄というものに憧れていた。いつかは自分も世の為に働き、称えられる存在になるのだと、信じてやまなかった。他人からの尊敬と羨望の念は、返せば嫉妬や恐れとなる事も知らずに。
だから彼は年端も行かない頃から、父に戦い方を教わっていた。狩猟の中で、農耕を手伝う中で、武器の扱い方を学んでいった。そして大きな獲物相手に剣を振るう父を見て、いつかはあんな風になりたいと強く願ったものだ。
強い父と優しい母に囲まれ、幼少期は幸せに満ちていた。彼が七つの時には妹も産まれ、一家は幸福の絶頂にいた。両親が魔術師を説得してから成りを潜めていた災厄が、各地で猛威を振るい始めるまでは。
両親が死んだのは、妹がようやく歩くようになった頃だった。村が倒したはずのタロットに襲われた、すぐ後の事だ。
その日それ以降、人々は急に夫妻に対してよそよそしくなった。日に日に態度が冷たくなるのを不思議な気持ちで見ていたし、村人達がどんな思いで両親を責めたのか、ヴォルフは知らない。けれどその時の光景は、幼い少年の心を砕くに充分だった。
村人達が家に押し入ってきた日、ヴォルフは朝から地下の貯蔵庫にいた。みすぼらしい砂時計をお守りにと渡され、隠れていなさいと、珍しく母からきつく言われた為だ。またタロットが来るのかと怯えた彼は素直にそれに従い、まだ幼児だった妹と共に息をひそめていた。
夕方近くだっただろうか。言い争う声が聞こえた後、いくつもの足音がした。そのうち怒声が罵声に変わり、聞こえたのは何かを叩く音。それは父と狩りに行った時、獲物の肉に鉈を打ち込んだ音とよく似ていた。それが何度も何度も聞こえたものだから、不安になったヴォルフはそっと室内を覗いてしまったのだ。
鉄錆のような臭いのする室内で、父は真っ赤に濡れ、うつ伏せに倒れていた。まだ幼かったヴォルフに、それが血溜まりであるなどとどうして分かっただろう。赤い沼が家の中に突然現れたようにしか思えなかった。その時既に父親の方は事切れていたが、彼にそんな事が判断出来るはずもない。
父の様子を不思議に思いながら移した視線の先では、村人が母の上へ馬乗りになっていた。その表情は見えなかったが、跨がった男がやけに愉しそうに笑っていたのは長じてなお覚えている。
何をしているのかさえ分からなかったが、穏やかならぬ状況である事だけは理解した。咄嗟にやめろと言おうとしたのだが、室内に立ち込める生臭さに吐き気がして、言葉が出てこなかった。ぴくりとも動かぬ父を呼ぶ事さえ、叶わない。
何も言えず、何も出来ないまま、少年は砂時計を握りしめて貯蔵庫へ戻った。両親に何があったか感付いてはいたが、考えたくもなかった。
薄暗くカビ臭い地下室で、妹は毛布にくるまって眠っていた。何も知らずに眠る妹を毛布の上から抱きしめ、彼はただただ、震える事しか出来なかった。
それからどれ位の時間が経ったか、不意に貯蔵庫の扉が開かれた。母か父かと期待して顔を上げた彼に優しく声を掛けてくれたのは、見知らぬ若い女。彼女は昔両親に世話になったのだと言い、ヴォルフが成人するまで、兄妹の後見人になると約束した。
そこで彼はやっと、両親がもうこの世にいない事を理解した。蝋燭の灯りを頼りに貯蔵庫から出てみれば室内にはもう誰もおらず、惨劇の痕跡さえ残されてはいない。何事もなかったかのような静寂だけが、そこに横たわっていた。
それから幼い少年は、女と共に両親を山中に葬った。遺体は見ていない。知らぬ内に両親は棺桶の中に入っていて、見てはいけないと言われたからだ。山に埋めたのも、そうしないといけないからと女に言われたから。頼りは彼女だけだったから墓を作りたいとも言わず、ヴォルフは素直に従った。
兄妹は女に導かれるまま産まれ育った村を出て、山奥の小さな村に越した。不安はあったが、あの恐ろしい場所に戻りたいと思う事は一度もなく、ヴォルフは妹と女と共に静かに暮らしていた。両親を想う事はあったが不思議と寂しく思わなかったのは、妹がいたからに他ならない。後見人の女は変わり者だったが、親を亡くした兄妹の面倒をよく見てくれた。
女は両親の代わりに、様々な事を教えてくれた。生きていく上で最低限必要な知識や、この大陸の歴史。現在猛威を振るっているタロットが何なのかも、両親がタロットを倒す旅をしていた理由も。今は死んだ魔術師との因縁も、彼が何故心を蝕まれたのかも。そして、形見の砂時計の事も。
希望をこめた砂時計。両親はそう言っていたが、女はそれを星の砂時計だと言った。かつて両親が倒した「愚者」と「星」のカードを、中に詰め込んだのだと。
そして彼女は、砂時計の使い方を教えてくれた。ヴォルフは災厄を無力化出来るなら今すぐにと言ったのだが、女は首を横に振るばかりだった。これはお前達兄妹にしか使えないのだと、そう言って。ならばおれが行くと言うと、しまいには怒られた。彼女は旅をするだけの力がまだヴォルフにない事を、分かっていたのだろう。
彼が十五になって仕事を見つけてきた日、女は忽然と消え失せた。帰宅したヴォルフが一人で遊んでいた妹に養母の所在を聞くと、彼女は不思議そうに首を傾げた。今朝まで同じ家で暮らしていた女の事など、忘れてしまったかのように。
ヴォルフが仕事に出ている間、妹は隣家の老夫婦に預けていた。毎日毎日、ふと兄を呼んでは泣くのだと、老夫婦は笑っていた。夫婦には申し訳なかったが、彼はそんな妹が愛しかった。
山村の宿屋で働く内、彼は隣にあった飯屋の娘と恋に落ちた。その頃には彼も立派な青年に成長しており、周囲も祝福してくれた。両親が惨殺されるさまを見てからというもの寡黙だった彼は、恋人にうまくものを伝えられなかったが、彼女はよく理解してくれた。
顔立ちは十人並みだったが、穏やかで信心深い、優しい娘だった。妹も彼女によく懐き、このままこの人と一緒になれたらどんなにいいだろうと、淡い希望を抱いていた。
けれど幸せな日々は、またもや唐突に終わりを告げた。小さな村に、魔術師を名乗る男が訪れた後の事だ。
朝から晩まで宿屋で働いていた彼は、災厄の来訪を知る由もなかった。しかし日に日に村人達の態度がよそよそしくなって行くのには、気がついていた。妹は毎日不安を口にしていたが仕事を休む訳にも行かず、彼は制止を振り切るようにして仕事に出た。
魔術師が訪れてきてから、一週間後の事だ。ヴォルフは全く唐突に宿屋の主人から解雇を言い渡され、腑に落ちないまま家に戻った。掘っ建て小屋のような我が家にいつも待っていた妹はおらず、代わりに恋人がぽつねんと佇んでいた。
帰宅したヴォルフに気付いた恋人は、彼を責めた。全部あなたのせいだったのねと、そう言って責めた。意味が分からず狼狽する彼は、妹はどこに行ったのかと、彼女に問い掛けた。魔術師に売ってしまったと、恋人だった女は事も無げに告げた。彼女の手には、数枚の金貨が握られていた。
ヴォルフはそこでやっと、気付いたのだ。村人達が急によそよそしくなった理由にも、妹が不安がっていた理由にも。そして、自分が今どんな状況にあるのかも。
気付いた時にはもう、恋人はいなかった。人とはそういうものなのだと彼は絶望したが、涙は出なかった。誰かを責めるより、自分が悪いと考える方が楽だった。そうして諦めるより他に、何が出来ただろう。
最後の肉親も恋人も失った彼は、それでも茫然としてはいられなかった。ここにいてはまた責められるだけだ。根拠のない罪を被せられ、なぶり殺しにされた両親のようになるのも嫌だったし、この村にいるのも嫌だった。だから彼は少ない荷物をまとめ、村を出る決意を固めたのだ。
残されたのは、両親の形見がふたつと思い出だけだった。もう誰にも頼らないと、彼は心に決めた。誰とも関わらずにいれば裏切られる事もないと、そう思って。
そして彼は一人、旅に出た。妹を探す為。親の代から続く因縁に、終止符を打つ為に。