第三章 Phantom Pain 八
八
風邪をひいた翌日、ジゼラは嘘のように全快していた。夜中の事をすっかり忘れていたのはヴォルフにとっては有り難い。しかし熱を出す前より遥かに喧しくなっているのは、一体どういった了見なのだろう。昨日ろくに口を利けなかった分を補うかのように、彼女は一人で喋り続けている。
ジゼラが飽きもせず一人で喋っている間に、二人は町に辿り着いていた。大きな町でもなさそうだったが、昼前だというのにやけに人通りが多い。この島にも、まだ活気のある町が存在していたのだ。ヴォルフは内心安堵する。
「夕飯もパンが食べたい。パンはすごいぞ、美味しいし安い」
うるさいのはもう慣れた。ヴォルフが何も言わなくとも、どうせジゼラは一人で勝手に喋っている。そう考えて止める事もしなかったのだが、今日は少々いつもと違っていた。
「ヴォルフ、少しは口を利いてくれ」
その言葉を無視するのも、これで三度目だ。ヴォルフは心の底から置いて行ってやりたかった。
ジゼラもいつもなら喋れとは言わない。ヴォルフが時々相槌を打ってやればそれで満足して、喋り疲れると黙る。決して会話を求めたりはしなかったから、どういった心境の変化だろうと訝しくも思う。
「そんなに黙り込んでいると、上下の唇が貼り付いてしまうぞ。あなたの大好きなミートローフも食べられなくなるぞ」
「貼り付かん」
「いいや貼り付くかも知れぬ。そうしたら二度と喋れなくなるだろう、それは嫌だ。喋ってくれ」
意味が分からなかった。心の底から鬱陶しかったが、町中とはいえこんな所へ置いて行けない。ならどこへ置いて行くのがいいのかと聞かれれば、返答に窮するところだが。
食事と買い出しを終え、情報屋を訪ねようと宿屋へ足を向ける。彼らは情報を取り扱うという職業柄なかなか一所には留まっておらず、町の周囲の同業者と情報交換する為、度々外へ出ている。今日はたまたま他の町の情報屋が来ていると聞いたから、久々に訪ねてみる気になった。
目的地は決まっているとはいえ、聞いておきたい事はある。ランズエンドまではまだ距離があり、この先にまともな町があるのかどうか些か不安だった。こればかりはそこらの衛兵に聞いても分からないだろう。
「情報屋に何を聞くのだ?」
はぐれないようコートの背を掴み、ジゼラはヴォルフの後頭部を見上げる。肩越しに振り返ると、彼女は首を傾げた。
「ランズエンドが実際どうなっているのか、何も分からんだろう」
ああと納得したように呟いて、ジゼラはそれきり黙り込んだ。防寒の為に着込んだ外套を引き寄せてから、彼女は再びヴォルフのコートを掴む。今日は周囲を見回したりせず、じっと彼の背中を見つめていた。
町外れの細い路地にある、寂れた宿屋。そこに情報屋が宿泊していると、飯屋で聞いた。正午の鐘はとうに鳴った後で、まだそこにいるかどうかは怪しいところだ。どちらにせよ宿は取らなければいけないから、無駄足にはならないだろう。
小さな宿屋付近では、旅人達がうろついていた。貧乏な旅人御用達の宿のようで、扉の外まで列が続いている。これでは部屋は空いていないだろう。
「人が多いな」
ぼやくジゼラには答えず、ヴォルフは人と扉の隙間から中を覗く。受付はそのままバーカウンターとなっており、列はそこに向かって続いていた。しかし店主はぼんやりと座っているだけで、客と話している様子もない。
ならば何を待っているのだろう。考えるまでもなく、行列の理由はすぐに分かった。
カウンターには、赤いコートを着た黒髪の人物が座っている。背格好からして女だろうが、タバコを喫む手付きがいやに慣れていた。旅人達は皆、彼女に話し掛けては二言三言会話した後、金を払って出て行く。
並んでいるという事は、いい情報屋なのだろう。確かな情報網を持った者の下には、どこで聞き付けて来るものかよくこうして旅人が列を作っている。
しかし見る限り、それらしくない服装だ。賞金稼ぎでもしていた女なのだろうか。
信用出来そうなのはいいが、この列では何時間かかるか分からない。しかし並ばないでいると何も聞けずに終わりそうで、ヴォルフは悩む。
「なんだ? 入らぬのか?」
後ろからコートを引かれ、ヴォルフはジゼラを振り返る。また少し悩んだ後、結局列の最後尾に着いた。
「情報屋に並んでいるようだ。少し待つぞ」
ジゼラはヴォルフを見上げて列を見た後、不安げに眉尻を下げた。またぞろ腹の心配をしているのだろうと、彼は嫌な顔をする。
「腹は減らぬか? 腹が空きすぎて倒れられたら困る。さすがにあなたを運んではゆけぬぞ」
案の定だった。彼女の言動は理解不能だが、パターンは読みやすい。読みたくもないが。
「そんなにすぐには減らん」
そうは言うものの、自分でも不安だった。流石にいくら腹が減っても倒れたりはしないから、ジゼラの心配は無意味だが。
人の列は思ったより早く捌けて行くが、中には金を払わずに出てくる者もいた。肩を落とした彼らの様子から、情報屋が持たない情報を聞きたかったのだと推測出来る。この辺りではタロットを倒そうとする賞金稼ぎもいるようだから、要件はそれだろう。
いくら著名な情報屋でも、流石にタロットの倒し方を知っているはずもない。あれは倒したと思っても、少し放っておくとすぐに復活してしまうものなのだ。ならば捕らえておこうと頑丈な鉄の鎖で繋いでみても、いつの間にか抜け出している。元々実像はあれど実体はないのだから、当然と言えば当然だ。
「ランズエンドの『魔術師』?」
酒焼けしたハスキーな女の声が、旅人に問い返した。怒ったような声を聞いて、ヴォルフは怪訝に眉をひそめる。
「そんなもん、探すだけ無駄だって言ってるだろ」
「お前だって、昔は探してたんじゃないのか」
「だから言ってる。タロットは倒せないんだ、あの英雄夫妻でもない限りな」
ふんと鼻を鳴らして、情報屋はロックグラスに口を付ける。彼女が中身を飲み干すと、宿屋の店主が億劫そうにボトルを持った手を伸ばす。彼はあくびを噛み殺しながら、女が寄せたグラスに片手で酒を注いだ。主の様子があんまりにも哀れで、ここで宿を取ってやろうとヴォルフは思う。
案の定、彼女は賞金稼ぎだったようだ。それよりも彼女の若さで両親を知っている事に驚く。錬金術師ぐらいしか知らない事だと思っていた分、意外だった。何にせよ、行列に見合った情報網はあるようだ。
列の中にいた旅人達が、幾人かざわめく。タロットを倒しに行こうとする勇敢な賞金稼ぎに対してか、彼の問いに答えなかった情報屋に対してか、それだけでは判断出来ない。
「砂時計なんかでタロットを倒したって、あの夫妻の事か?」
小ばかにしたような賞金稼ぎの声に、ジゼラが目を丸くしてヴォルフを見上げた。そういえば言っていなかったと考えながら、ヴォルフは腰に提げた袋から干し肉を取り出す。
「冗談言うなよ、ありゃお伽噺だろ。いくらタロットカードだからって」
ここでは、それがお伽噺なのか。気のない素振りで塩気の強い干し肉をかじりながら、ヴォルフは考える。
災厄の元凶となった魔術師がここにいたなら、彼らが両親の事を知っている理由も分かる。元々、全てはこの島から始まった事だったのだろう。全てのスタート地点が、ヴォルフにとっての終着点だったのだ。
「あたしも信じちゃいねぇよ。だがね、夫妻の子供が世直ししてるって話だ。てめぇらは余計な事しなくていいってこったね」
情報屋がどけとばかりに手を振ると、賞金稼ぎは渋々その場を離れた。ヴォルフは硬い肉を咀嚼しながら視線を落とす。
ジゼラは何かを訴えかけるように、彼を見上げていた。何を聞きたいのかヴォルフには分かるが、答える気はない。誰にも知られたくないし、教えたくもなかった。
並んでいた人々の内何人かが、列から抜けて行く。聞きたい事が聞けないと判断したのだろう。
「……ヴォルフ」
目の前に並んでいた男が情報屋の前に立つと、ジゼラは小声でヴォルフを呼んだ。見上げてくる整った顔は、いつになく真剣な表情を浮かべている。
この場で、何を話せと言うのだろう。世直しをしているのは自分だとでも言えばいいのだろうか。そんな、子供じみた事。
「黙っていろ」
短く返すと、ジゼラは口をつぐんだ。外套の合わせ目から出した手でヴォルフの袖を掴んだ彼女は、彼が踏み出すと黙って着いて行く。
横向きに座った情報屋の正面に立っても、暫く目が合わなかった。彼女は億劫そうな所作でタバコに火をつけた後、ヴォルフを見上げて驚いたように目を丸くする。彼の巨躯と背負ったメイスを見れば、誰でも驚くだろう。恐がられないだけマシだ。
情報屋の顔は、右半分が前髪で隠れていた。左目は仇っぽい切れ長で鼻筋の通った美人だが、浮かべる表情は粗野なものだ。
「……でかいな。賞金稼ぎか?」
「そのようなものだ。ランズエンドの事を聞きたいのだが」
目を細めた情報屋は、緩く左右に首を振った。ヴォルフから顔を背けてタバコの煙を吐き出し、彼女はカウンターに頬杖をつく。ビスチェから覗く彼女の胸には、古い傷痕があった。
「あんたもかよ。やめとけ、犬死にするだけだ」
「私が無駄死にするかどうかは、お前が決める事ではない」
忌々しげに舌打ちし、情報屋はグラスの中身を煽る。溶けて小さくなった氷がかすかな音を立てた。
「百戦錬磨の戦士だって、敵わねぇのがタロットだ。アルカナとはワケが違う」
「百も承知だ。ランズエンドがどうなっているか、知っているんだな」
殆ど直線に近い眉を歪め、情報屋は苛立たしげにタバコの火を消した。彼女の手元に置かれた陶製の灰皿には、山ほど吸殻が捨てられている。
ジゼラは何を思うのか、無表情のまま情報屋を見つめていた。黙れと言われたから黙っているのか口を利きたくないだけなのかは、ヴォルフにも判断出来ない。しかしその無表情は、何か考えているようにも見えた。
「聞いてどうする?『魔術師』でも倒しに行くのか?」
「答える義理はない。払う金ならある、お前も情報屋なら駄々をこねていないで話せ」
情報屋はきつく歯噛みして、おもむろに前髪をかき上げた。彼女の顔には、額から瞼を通って頬までを縦断する大きな傷痕がある。老人のそれのように萎びた右の瞼には膨らみがないから、眼球はないのだろう。
何にやられたものだろうか。考えながら、ヴォルフは僅かに目を細める。
「こんな風になりたかないだろ。あたしだって、これがなきゃ情報屋なんてやってなかった」
「賞金稼ぎでいたかったのか」
我ながら厳しい声が出たという自覚はあった。ヴォルフの問い掛けに、情報屋は顔をしかめる。
「あたしにだって志ぐらいあった。タロットを倒してやろうって息巻いてたよ、『運命の輪』に負けるまでは!」
最後の方は、ほとんど叫び声だった。かつては勇敢な賞金稼ぎだったのだろう。
ヴォルフも一度、タロットに敗けた事がある。出立からそれまでずっと苦楽を共にしてきた相棒を叩き折られ、立ち上がれないほどにまで打ちのめされた、言葉通りの大敗だった。
負けは死を意味する戦いのはずが今自分が生きている理由は、ヴォルフにも分からない。だが命あっただけマシとは到底思えなかった事だけは、よく覚えている。
自分は死ぬものと思った。けれど怖くはなかった。あれは旅を始めて三年ほど経った頃だったろう。依然として掴めない仇敵の足取りをそれでも追い続ける事に、疲れてきていた。だからもういっそ、死んでもいいと思った。
そして自分が生きている事に気付いた時、失ったものの大きさに気が付いた。あの時折られたのは、父の形見の大剣であったのだ。
それからヴォルフは何本も剣を手にし、戦いの中でそのすべてを折った。だが最初の相棒以上に手に馴染み、この腕力に耐えてくれる剣が見つかろうはずもない。だから彼は、今も背中に負っているメイスを特注せざるを得なかった。
失ったものは二度と戻らない。ヴォルフはそう知っていたから、歩くのをやめなかった。だが彼女は敗北を味わって失った事で、諦めてしまったのだろう。
「よく、生きていたな」
宥めるようにゆっくりと返すと、情報屋は眉根を寄せて複雑な表情を浮かべた。それを誤魔化すように鼻を鳴らし、彼女はまたタバコに火を点ける。
「運命の輪」は、世界を歪めるという。そんなものに出会って、果たして生きて戻れるものなのだろうか。見る限り浅い傷ではないものの、この程度で済んでいるのが不思議だった。
「あたしだけ生き残ったんだよ。仲間がみんな呑まれちまった」
「生き残ったのに、賞金稼ぎは諦めたのか」
ジゼラの声は、他人のものと錯覚するほど冷たかった。大きな目が無感動に情報屋を見下ろす反面、その眉は怒ったようにつり上がっている。
彼女が何に怒っているのかは、ヴォルフにも分かる。能天気な女だが、彼女の中に譲れない何かがあるのには気付いていた。しかし他人に対して冷たい声を掛ける事は今までなかったから、訝しくも思う。
「二つあったものが一つ減ったぐらいで、志とは折れるものなのか?」
「何だってこの小娘……」
情報屋が息巻いて身を乗り出しても、ジゼラは眉ひとつ動かさなかった。不自然なまでの無表情を保つ彼女を見て、ヴォルフは片眉をひそめる。
噛みつくような視線で睨みつけていた情報屋もさすがに妙だと思ったのか、わずかに身を引く。距離が空いたところで、ジゼラは外套を脱いだ。その下から現れた彼女の体を見て、情報屋は目を見張る。コートの左袖に中身がない事は、一目見れば分かるだろう。
「隻眼が何だと言うのだ。タロットを目の当たりにして臆しただけだろう。羨んでいないで、知っている事は教えろ。こちらは時間がないのだ」
情報屋は暫く腰を浮かせた体勢のまま黙り込んでいたが、やがてバースツールに座り直し、溜息を吐いた。眉間に皺を寄せてはいるが、怒ったような色はない。寧ろ、戸惑ってでもいるような表情だった。
一方、ヴォルフもいささか戸惑っていた。ジゼラがここまで言うとは思っていなかったのだ。
二面性があると言うなら、そうなのだろう。どちらかが本当なのではなくどちらも彼女なのだと、ヴォルフはそう考えている。ふとした拍子に豹変するのを見ると、ひやりとする事もあるが。
「……ランズエンドには今、誰もいねぇんだってよ」
火の消えたタバコを灰皿に捨て、情報屋は独り言のような声量で言った。ジゼラは急かしも問い返しもせず、黙って外套を着直す。
「いつから人がいないのかは、あたしも知らねぇ」
「その辺りに町はあるか?」
ついでに聞きたかった事を聞くと、情報屋は頷いた。
「あるよ。かなり近くに、この島の中じゃ王都に次ぐ規模の町があるはずだね。でもランズエンド岬の辺りに近付いてくと、ふっと誰もいなくなるんだそうだ」
話を聞くだにぞっとしない。しかしヴォルフは、その話に違和感を覚える。
「誰もいねぇから誰も見られないはずなのに、『魔術師』がいるって噂だけが広まってんだ。おかしいだろ」
噂だけが、広まっている。奇妙な話だが、それなら信憑性はあるはずだ。
時折、呼ばれているような気がする事がある。砂時計が反応しているのだろうと彼は考えているが、それ以外にも、思い当たる節があった。
憶測の域を出ない。だが今まで見てきたタロット達の行動から考えるに、可能性は高い。「魔術師」がわざわざ妹を拐って行ったのも、同じ理由だとしたら。
考えたくはない。しかしそうだとしたらヴォルフはランズエンドに行くべきではないし、対峙して敗北しようものなら彼一人死ぬだけの問題では済まない。分かってはいるが、ここで諦める気にはならなかった。
それにしても、引っ掛かる。この情報屋が一人だけ生きて帰れた事も不思議だが、それ以上に、彼女の話には違和感があった。ヴォルフは俯いて少し考えた後、視線だけを情報屋に合わせる。
「お前はその話を、誰から聞いた?」
はっと息を呑み、情報屋は目を見張った。聞かれたくない事だった訳ではないだろう。
彼女自身、覚えていないのだ。誰もいない場所の事を知っているはずがない。それに彼女は、気付いただろうか。気付かない方が良かっただろうと、ヴォルフは思う。
彼女が誰から話を聞いたのか。そんな事はどうでもいい。問題は、何故彼女が知っていたのか、だ。ひた隠していたであろう事を聞けた事もそうだし、この情報屋から情報を買おうと思った事も、出来すぎている。
「……無理に聞いて済まなかったな」
考えて分かる事ではない。そう考えながら、ヴォルフはカウンターの上へ金貨を一枚置いた。呆然としていた情報屋はそれを見て慌てて首を振り、再び身を乗り出す。
「いいよ! こんなに……」
「取っておけ。どうせこの人の腹に入るだけの金だ」
情報屋は怪訝に首を捻り、ヴォルフとジゼラを交互に見た。二人とも、彼女の視線には応えない。
ヴォルフがカウンターに背を向けると、ジゼラは彼の袖を握ってそれに倣った。しかし一歩踏み出したところで、ふと立ち止まる。情報屋を振り返った彼女は、相変わらず無表情だった。
「怒ってすまなかった。達者でな」
「あ……ちょっと、待てよ」
ヴォルフが振り返り、ジゼラは首を傾げる。揃って真顔の二人を見て、情報屋は微かに笑った。
「あんたらが『魔術師』倒したら、あたしが広めてやるよ。なあ、名前は?」
憑き物が落ちたかのような、晴れやかな表情だった。その笑顔を見て、彼女は今までどんな風に生きてきたのだろうとヴォルフは思う。
敗北を知ると同時に片目を失い、拗ねて腐って諦めた末に情報屋を始めたのだろうか。自分が失った、タロットを倒そうという志を持った者が羨ましかったから、ランズエンドについての情報を提供しなかったのだろうか。けれど旅人に道を示そうと考えていたのであれば、彼女の志はまだ折れてはいないのだろう。
ジゼラはしばらく無言で情報屋を見つめた後、ヴォルフを見上げる。視線は合ったが、彼は何も言わずに背を向けた。つれない態度の彼には声をかけず、ジゼラは情報屋へ向き直る。素っ気ない態度で、彼の意図を察したのだろう。
「秘密だ」
情報屋は目を丸くしたが、ジゼラは微笑むだけだった。ヴォルフが外へ出ると、彼女は慌ててその背を追いかける。
タロットに対抗しようとする者がいる話は、先々で聞いていた。酒場でそう息巻いている者も見たが、実際戦った者を見たのは彼女が初めてだっただろう。それがなんとも、不思議だった。
露天商が広げた敷物の脇に置かれた荷車を横目で眺めながら、ヴォルフは考える。近くに町があるなら、荷車はまだ必要ないだろう。そのまま通り過ぎてぼんやりと宿を探していると、袖を引かれた。見下ろせば、そこには白い笑顔がある。
曇りも陰りもない、美しい表情だった。薄紅色の唇が緩やかな弧を描き、細められた目が輝いている。何が嬉しいのか、ヴォルフには分からなかった。
「随分怒っていたな」
細めていた目を丸くし、ジゼラは大きく瞬きをする。また誤魔化すかと思われたが、彼女は緩く左右に首を振った。
「昔の自分を見ているようで、嫌だった。彼女に対して怒っていた訳ではない」
昔の、自分。それがどんな風だったのか、ヴォルフが知る由もない。けれど視線を落とした彼女が、痛々しく見えた。
何と返すかと迷っている内に正面から人が走ってくるのが見え、ヴォルフはジゼラを背後へ避けさせた。すれ違った瞬間、甲高い鐘の音が鳴り響く。
警鐘だ。考えるより先に、ヴォルフは早足になる。すれ違う町人達は驚いた様子で口々に何事か言っていたが、逃げる素振りは見せなかった。
逃げても無駄だと分かっているのか慣れているだけなのかは、定かではない。港町の人もそうだったが、それでもこの島は異常だ。
「タロットが出たのか?」
「そうだろうな」
問い掛けるジゼラに短く返しながら、ヴォルフは警鐘が鳴る方へ進んで行く。旅人の多い町とはいえ時刻は夕方、にも関わらず人通りはまばらだ。逃げてくる人が少ないのが不思議な程に。
やがて見えた城壁の前には、賞金稼ぎ達が屯していた。大門の前には甲冑を着た衛兵が三人おり、懸命に叫んでいる。
「屋内に避難して! こら、外に出るな!」
「いいだろ、タロットだってアルカナみたいなもんじゃないか。倒せない事ないだろ」
「バカ言うな、呑まれるぞ!」
衛兵達は口々に叫んでいたが、賞金稼ぎは聞く耳をもたずに無理やり扉を開けてしまう。ヴォルフはあからさまに顔をしかめ、大門へ近付いた。
遠巻きに見守っていた賞金稼ぎが、ヴォルフを見上げて驚いたように身を引いた。空いた道を通り、彼は外へ出て行こうとする男の肩を掴む。振り返って顔を強張らせた男を後ろへ退け、衛兵に視線を遣った。
「施錠しろ」
「は? おい待てよあんた、出て行くなって!」
引き止める声も聞かず、ヴォルフは背中を丸めて出入り用の扉から外へ出た。ジゼラはそれに続き、後ろ手で扉を閉める。扉の向こうから喚く声が聞こえたが、二人は無視した。
街道脇の森を見回しつつ、ヴォルフは懐から砂時計を取り出す。見る限り近くに姿はない。どこに出たと言うのだろう。
「輪だ」
呟いたジゼラは、何故か顔をしかめた。ヴォルフは彼女の視線の先を見て、怪訝に眉をひそめる。
木々の間からは、確かに輪が見えた。輪とは言ってもどことなくいびつで、荷馬車の車輪とは比べ物にならないほど巨大だ。その全身は半透明で、陽炎のようにぼんやりとしか目視出来ない。
これでは、相手がこちらを見ているかどうかも分からない。ヴォルフは困惑しながら近付こうとしたが、メイスに手をかけた所で足を止める。
世界が揺らいだように、目眩がした。更に足を踏み出そうとするが、地面が粘着性を持ったかのようにその場から動く事が出来ない。泥濘に捕らわれたような感覚に驚いて顔を上げた彼の目の前で、半透明の輪が回転していた。
ホイール・オブ・フォーチューン。それがどんなタロットであるのか理解したヴォルフの視界が、徐々に暗くなって行く。疲れきった時とも、眠気に襲われた時とも違う。このまま二度と、日の目を見る事は叶わないような気がした。
それでも目眩を堪えようと頭を振った彼の視界に、ふらつくジゼラの姿が映る。倒れ込んできた彼女の肩を抱き留めた瞬間、ヴォルフの意識は「運命の輪」に呑まれた。




