第三章 Phantom Pain 六
六
黄金の鷲と巨大な鉄球が、轟音を上げて激突する。拮抗する間もなくヴォルフが力任せにメイスを振ると、鷲が吹っ飛んで壁に衝突した。床に落ちた鷲の全身がひび割れて行き、粉々に砕け散る。金の欠片は見る間に砂と変わり、その場に流れて消えた。
一息吐いたヴォルフの眼前に、「悪魔」の平坦な顔が現れる。いつの間に距離を詰めたのか。異形はそれまでのぎこちない動きからは考えられないような素早さで、拳を振るう。メイスが間に合わずその場に屈み込むと、タロットの白い拳は舞い上がった彼の髪を掠めながら空を切った。
ヴォルフは屈んだそばからメイスを水平に振ったが、山羊の脚で跳躍した「悪魔」には当たらなかった。頭上で拳を握るタロットを見上げ、彼は慌てて立ち上がる。鉄球で受け止めようと柄を横に構えたが、タロットは降下し始めて早々白銀の刃に胴を払われ、横へ飛んだ。
やっぱり逃げる気はないようで、ジゼラは剣を握って「悪魔」を睨み付ける。ヴォルフは彼女を見下ろして複雑な表情を浮かべてから、タロットへ向き直った。
「ジゼラ、やるなら頭を潰して動きを止めろ。あれは人を完全に操る」
弾き飛ばされつつも空中で体勢を整えた「悪魔」を追いながら、ヴォルフはそう言った。ジゼラは怪訝に眉を寄せたがすぐに頷き、彼を追う。
操るというのがどういう事か、ヴォルフは実際よく知らない。全て両親から聞いた限りだが、あれが恐ろしいものである事は分かる。何度か出会して戦ったが、一筋縄では行かないのが常だった。
星形のメイスが重い風切り音を立て、異形に迫る。当たるものと思われたが「悪魔」は大きく身を反らし、鉄球を避けた。ヴォルフは得物の真下に立って手首を回し、慣性に任せて更に一回転させる。だが異形は大きく反り返ったままメイスを蹴って、距離を取る。
後転して着地しようとした「悪魔」の頭部に剣先を向け、ジゼラが突く。異形は一瞥もくれずそれを跳ね除けたが、両刃の剣はある程度離れた途端、下から再度迫る。きんと高い音がして、鋼の刃が石膏の胴を削った。しかし一度弾かれた為に力が足りず、それだけだ。
瞳孔の開ききった異形の目がジゼラを見た瞬間、ヴォルフはその死角から頭部を狙ってメイスを振る。しかし鉄球が当たる寸前、「悪魔」は掌を広げて頭の横へ翳した。硬いものを叩く鈍い音と共に、石膏で作ったような掌とスパイクの並んだ鉄球が激突する。
力は足りていたはずだった。それなのに鉄球は掌に止められ、傷一つ付けてはいない。
魂を食い過ぎたのだ。タロットが人を食うのはただの戯れか本能に過ぎないが、「悪魔」は違う。人の命を食らい、それを自らの力と変える事が出来る。
顔をしかめつつ後方へ退いたヴォルフに、「悪魔」が飛び掛かる。咄嗟に構えたメイスを、勢い付いた拳が殴り付ける。腕に注意を向けていた為に踏ん張る余裕がなく、殴られた衝撃に耐えきれず体ごと後方へ吹き飛ばされた。じんと痺れる腕の痛みを堪える彼の耳に、ジゼラの悲鳴じみた声が微かに聞こえる。
「悪魔」は背中から吹き飛ぶヴォルフへ更に追い縋り、体温のない手でその額を掴む。万力で締め付けられたような痛みと共に、彼の頭蓋に耳鳴りが反響した。首に力を込めて頭を起こそうとするが、さすがに首の筋肉だけでは異形の腕力に敵わない。
部屋の端まで持って行かれたヴォルフの背が、窓を叩き割った。まずいと思った時には遅く、そのまま「悪魔」と共に、庭へ落ちて行く。大した高さではないが、このまま落ちたら頭を叩き付けられるだろう。落下時の浮遊感に、彼は焦った。
一旦メイスを投げ捨て、ヴォルフは「悪魔」の胸を力任せに押し返す。その体が少し離れたところで足を開き、膝で胴を蹴り飛ばした。ようやく体がずれたのを見計らって足を地上へ向け、辛うじて両足で着地しつつ「悪魔」の足を掴み、地面に叩きつける。拍子に石膏の手は離れたものの、こめかみの疼痛と耳鳴りは続いていた。
ジゼラは落ちたヴォルフを慌てて追いかけ、割れた窓から飛び下りた。舞い上がったコートを邪魔そうに叩きつつ降下し、地面に降り立つ。着地時の痺れを堪えて彼に駆け寄り、剣を小脇に抱えてから落ちていたメイスを拾った。「悪魔」が起き上がろうとするのを頭を踏みつけて制し、ヴォルフはジゼラに向かって手を伸ばす。
ヴォルフの手がメイスを握るのとほぼ同時、二人は左右から迫る気配に気付いてその場から飛び退いた。庭に飾られていた彫像がいつの間にか動き出しており、左右から二人へ殴りかかる。それをお互い得物を盾にして止め、それぞれ押し返す。元はただの石である為か、彫像に大した力はない。
「なんだこれは、呪いの像か」
「……なんだそれは」
相変わらず緊張感のない発言に呆れて返しながら、肩に刺さったガラスの破片を抜く。頭に刺さらなくて良かったと、今は思うべきか。
バラ園の中から、次々と白亜の彫像が現れる。こんなに大量の像がどこに置いてあったのかと、ヴォルフは閉口した。群れとなってぎこちない動きで近付いてくる彫像達は、アルカナのようでもある。
ジゼラの剣はあれを壊すのに向かない。石を叩いたら、流石に刃が欠けてしまうだろう。それを分かっているのか動こうとしない彼女を置いて、ヴォルフは彫像の群れに向かって行く。生気のない石膏人形達は、獲物を見つけたアルカナのように一斉にヴォルフへ向かって拳を振り上げる。
しかしヴォルフは避けるでもなく、得物を握った腕を伸ばして大きく振り抜いた。石が砕ける鈍い音と共に、彫像が次々と崩れて行く。鉄球が通りすぎたそばから白い大理石の欠片が飛び散り、ヴォルフの頬を叩いた。薄い傷が幾つもついたが、彼は表情を変えない。
どんなに動こうとも、所詮は石だ。この鉄球の一撃に耐えられる筈もない。周りを囲もうとする像を叩き壊しつつ、ヴォルフは「悪魔」の様子を確認する。
異形は、じっと彼を見詰めていた。そこだけが生身の眼球は微動もしないが、貼り付けたような唇は弧を描いている。表情とも呼べないその変化を見たヴォルフの背に、寒気が走る。
何故だか、まずいような気がした。ここにいてはならないと強く思うのだが、逃げ出す事は彼の虚栄心が許さない。昔なら、無理だと思えば逃げただろう。今は守らなければならない者がいるからか、そういう気にはならない。
「ヴォルフ後ろ!」
ヴォルフが「悪魔」を見て一瞬怯んだ隙に、彫像の拳が背後から迫る。叫ぶジゼラの声に弾かれたように横へ避けてから、左肘を後方へ突き出した。斜め上からの肘鉄が像の胸を直撃し、呆気なく砕く。
駆け寄ってきたジゼラは一旦剣を納め、鞘ごと吊りベルトから抜いた。柄を下にして、鞘を鍔に押し付けるように握り、彫像の頭を叩く。鉄製の鞘は見た目より重量があるようで、端正な男の顔をした頭部を粉々に砕いた。アルカナと同じく、頭部を壊せば動きは止まるようだ。
その間にも、門の方から次々と彫像達が迫ってくる。ジゼラはヴォルフの背後にいた女性像の頭を砕いてから蹴り飛ばし、彼と背中合わせに立った。肩越しに振り返る二人の視線が一瞬絡んだ後、示し合わせたかのように同時に飛び出して行く。
巨大な鉄球が轟音を立て、彫像達を一気に破壊して行く。どれも大理石か石膏製の高価そうな彫刻だが、どうせ元の持ち主は生きてはいまい。何の躊躇いもなく、ヴォルフは太い腕を振る。少し気持ちが良かった。
一方鉄製の鞘にまとめてなぎ払う程の破壊力はなかったが、ジゼラは絶え間なく動く事で力不足を補った。彼女から見れば彫刻達の動きはみな遅く、避けるには造作もない。アルカナより遥かに重量がある分攻撃が当たれば大怪我は免れないだろうが、石の拳はジゼラの髪の一筋さえ捉える事が出来なかった。
蹴りが来れば跳んで避け、そのまま膝蹴りを返す。殴りかかられれば身を翻してかわし、舞い上がる髪とコートの下から剣を振る。舞うような彼女の身のこなしは、全てアルカナを相手にして行く内に覚えたものだ。しかし剣の振り方だけは、実父に教わったものだった。
石像の拳を肩を引いて避け、ジゼラはすれ違いざま、その頭を剣の鞘で殴る。途中他の像の拳に当てて弾き返した為に失速して砕くまでには至らなかったが、すぐさま追撃を加えるとヒビが入った。それを蹴り飛ばした勢いで後方へ跳び、別の像の拳を避ける。
横から蹴り込んできたその足を踏み台にし、今度は上へ跳ぶ。左腕がない代わりに足はよく動くのだ。本人としてはいっそ足で剣を持ちたいところだが、流石にそんな器用な事は出来ない。
彫像達の頭上へ自由落下するに任せながら、ジゼラは右腕を大きく振り上げる。何体かは彼女を見上げて身構えたが、意に介さず石の頭を踏みつけながら剣を打ち下ろした。落下時の加速で増した力に耐えきれず、鞘が当たった石像がまとめて砕ける。
ヴォルフの周りにいた石像達は、既にみな粉々に砕かれていた。彼は「悪魔」を見て動かない事を確認し、ジゼラの下へ向かおうと足を向ける。しかし踏み出したところで、頭痛を覚えて足を止めた。
「……なんだ」
唸るように呟き、ヴォルフは砂時計を持った手で額を押さえる。「悪魔」の手は既に離れているというのに、こめかみが締め付けられるように痛む。そこに浮いた血管が、鼓動に合わせてどくどくと音を立てた。耳に直接鳴り響くようなその音に何故だか不安を煽られ、ヴォルフは大きく顔をしかめる。
頭を割られるような痛みを堪えながら、ヴォルフは砂時計を横目で見た。中にはまだ、黒い砂が僅かに残っている。あの石像達を倒しきったら頃合いだろう。
激痛を払うように頭を振り、ヴォルフはジゼラに駆け寄って、彫像に向かってメイスを勢いよく振った。残っていた像達が全て砕け、その場に崩れ落ちる。
痛みに震える息を吐き、ヴォルフは「悪魔」に向き直る。砂時計は落ちきったというのに、タロットのひび割れた唇は、まだ笑みを浮かべていた。その姿に違和感を覚え、歪な瞼に埋め込まれた目を見た瞬間、ヴォルフは理解する。
完全に操るとは、こういう事だったのだ。
「ジゼラ……逃げろ」
絞り出すように呟いたヴォルフを見上げ、ジゼラは驚いたように目を丸くした。彼女は「悪魔」に気をとられていて気付かなかったのだろう。額に脂汗を滲ませた彼の表情は、見るからに苦しそうなものだった。
痛みのせいかまた別に理由があるのか、目の前が霞む。腕の悪い御者が繰る馬車に乗った時のように揺らぐ視界が、遂には回り出す。船酔いにも似た感覚に胃液がせり上がり、思わず背中を丸めた。
「な……なんだ、どうした?」
答える事も出来ず、ヴォルフは力の抜けた手からメイスを取り落とす。砂時計を持った手を頭に当てると頭痛は和らいだが、それだけだった。
通常タロットは、少しずつ洗脳するような形で人を操る。「女帝」もそうだったが、操ると言うよりは人を変えると言った方が正しいだろう。糧とする邪心を吸い上げ易いように、人心を変えるだけだ。町一つを丸ごと変える事が出来る代わりに、一人一人の行動までは制御出来ない。
だが、「悪魔」は違う。町一つを支配出来ない代わりに、人一人を完全に操る。それこそ、操り人形のように。
「いいから、さっさと行け」
「何故だ、砂はもう全部落ちているぞ」
ヴォルフは力なく首を振り、その場に膝を着いた。ジゼラが慌ててその場に屈み、彼の背に手を添える。不安げに眉尻を下げた彼女を見てヴォルフの唇が動くが、言葉が出て来なかった。
「駄目だ……言えん」
恐らくは、頭を掴まれた時から徐々に侵食されていたのだろう。「悪魔」と口に出す事が、出来る気がしないのだ。口に出そうとしてもその瞬間、言おうとした事が頭の中から抜けている。
「なら私が……」
「これは私にしか使えん。いいから行け、このままではお前を傷付ける」
揺れる視界が、白と黒で塗り潰されて行く。頭の中を掻き回されているかのような激痛に、思考が薄れて行く。
こんな所で終わるのか。抵抗しようにも指一本動かせず、視界は悪くなる一方だ。このままあの「悪魔」に操られれば、身を引き裂かれて魂を食われるだろう。それで終わりだ。逃れる術はないのだろうか。
「ジゼラ……逃げろ」
辛うじてそれだけ呟いたが、ヴォルフにはもう自分の声さえ聞こえていなかった。懸命に名を呼ぶジゼラの声も、耳に入らない。額に当てた左手からも力が抜け、砂時計が地面に落ちる。
もう何も、考えられない。
やがて糸が切れたように、ヴォルフの全身から一瞬力が抜けた。しかしすぐに目を開け、彼の手は取り落としたメイスを握る。
ジゼラは砂時計を拾い、コートのポケットにしまった。ふと顔を上げてヴォルフを見ると、その鋭い双眸は「悪魔」ではなくジゼラを睨んでいる。彼女はその目を見た瞬間反射的に立ち上がり、後ろへ飛び退いた。
睨まれた事は何度もある。けれどあんなに冷たい目で見られた事が、未だかつてあっただろうか。そう考えたところで、ジゼラはあれが見知った人間でない事を理解した。そして緊張した面持ちで、鞘を踏んで剣を抜く。
「……ヴォルフ」
呟いた声は、彼には届かない。ついさっきまで苦しんでいたのが嘘のようにすっくと立ち上がるヴォルフを見て、ジゼラは悲しげに眉根を寄せる。
彼に勝てる訳がないと、ジゼラは分かっている。例えこちらの力量が上であったとしても、きっと勝てない。ジゼラには勝つ気はおろか、彼を傷付ける事さえ出来はしないのだ。勝ったところで、きっと元には戻らない。
なら、どうすればいいのだろうか。
「ヴォルフ、本当に聞こえないのか」
問いかける声は空気に溶けたが、ヴォルフは眉一つ動かさない。ジゼラが悲痛に顔を歪めた瞬間、メイスを振りかざした彼の足が、地を蹴った。
一瞬反応が遅れたジゼラは怯えたように身を竦めたが、メイスの間合いに入ると同時に我に返り、その場から飛び退く。一抱えはある鉄球が振り下ろされ、地面を抉った。これで少しは時間を稼げるかと考えたが、すぐに有り得ないと思い直す。ヴォルフの腕力が常人並でない事は、彼女が一番よく知っている。
案の定、メイスはすぐに振り上げられ、逃げたジゼラに迫る。弾き返すのも無理だろうと判断し、彼女は更に横へ逃げた。
メイスが普段と何ら変わりない速度で横へ振られ、風圧でジゼラの髪を巻き上げる。胸元を通り過ぎた鉄球を見てひやりとし、彼女は追撃が来る前に右側へ逃げた。利き手と逆の方へ行けば、少しは違うかと思ったのだ。
けれどそれが甘い考えであった事に、ジゼラはすぐに気がついた。即座にメイスを左手へ持ち替えたヴォルフは、逃げた彼女を追うように、正面から左手側へ向かって鉄球を振る。
当たると思われたが、ジゼラはすんでの所で跳び、目前まで迫ったメイスを踏みつけた。鉄球についたスパイクがブーツの底に食い込んだが、彼女は構わず跳躍してヴォルフの背後へ飛び込む。下向きに着地しようとするジゼラの目と、それを見上げる冷たい目がかち合った。
一矢でも報いれば、痛みで我に返るだろうかとも思った。けれど彼と目が合うと、どうしても刃を向ける事が出来ない。
剣を持った手を地面に着き、結局足を下ろすついでに両足でヴォルフの背を蹴った。前のめりになった彼の追撃が遅れている隙に立ち上がり、ジゼラはその背に剣先を突きつける。
彼女はいつも、この広い背を見ている。傷んで赤茶けた黒髪が揺れるのを、擦り切れて汚れたコートの裾が靡くのを。この分厚い背中が好きで、肩越しに振り返る時肩の上から覗く、呆れたような目が、好きだった。いとおしいその背に剣を向けている事が、信じられないとも思う。
迷っている場合ではない。迷っても仕方がないし、ジゼラにはどうする事も出来ない。それでも、ヴォルフと離れたくはない。
ジゼラは胸の痛みを堪えて眉をつり上げ、表情を引き締める。もしもこのまま戻らなかったら。そんな事は、考えてはいけない。
「ヴォルフ、私は逃げぬぞ。ずっとあなたに助けられてきたのだ、私だけ逃げる訳にはゆかぬ」
ゆっくりと肩越しに振り向いた彼の目は、今まで見た事もない程冷たかった。
「恋人」を相手にした時のように、また演技であったらいいのに。ジゼラはそう思うが、そうだとしたら彼が砂時計を手放すはずがない。何より、砂時計は既に金色に光っているのだ。相手を欺く必要があるとは考えられなかった。
野生の肉食獣の如く鋭い双眸に睨まれ、ジゼラは一瞬身を硬くする。その隙にヴォルフの右手が伸び、突きつけられた剣身を逆手で掴んだ。ジゼラは驚いて剣を引こうとするが、逆に腕ごと捻り上げられる。
こんな男と、タロットはよく戦えるものだ。客観視してみないと、一番近くにいる人の事は分からないものらしい。
そして今でも、判らないでいる。
「く……っ」
捻り上げられた腕が軋み、指先が震える。剣を手放して逃げようとしたが、それより早くヴォルフの左手がメイスを放し、ジゼラの首を掴んだ。喉が圧迫され、息が詰まる。
見上げたヴォルフの顔は、冷たい無表情を保っていた。このまま縊り殺されたら彼は我に返った時なんと言うだろうと、ジゼラはぼんやりと思う。悲しむだろうか。逃げなかった事を怒るだろうか。どちらでもいい。
本当に好きになったのは、いつだっただろう。この男といれば生活は安泰だろうと、最初は下心でついて行く事を決めた。人がよさそうだったから、好意を示せば無碍には出来ないだろうと、そう思ったのだ。
けれどいつしか、恋心と罪悪感ばかりが募って行った。人に騙され、強請られ、厭われて、ジゼラは生きてきた。人とはなんと醜いものだろうと憂い、最後には利用する事しか考えていなかった。
そんなひどい女でも、彼は救ってくれた。大きな手を差し伸べて、泥濘から掬い上げてくれた。
「……ヴォルフ、今度は嘘ではない」
首を掴む手にじわじわと力がこめられて行くのを感じながら、ジゼラは呟く。喋れなくなる前に、聞こえなくとも言っておきたかった。息が止まる前に、首の骨が折れてしまいそうだ。
気道を圧迫され、徐々に呼吸が苦しくなって行く。殆ど塞がれた喉から無理矢理空気を吸い込み、ジゼラは微かに笑う。あきらめと申し訳なさと、愛しさの混じった、淡い笑顔だった。
「あなたが好きだ」
冷えた目の色は、変わらなかった。元々期待していた訳でもないから、ジゼラは苦しげに呻きつつも右手を差し伸べる。家族を失い、左腕も失った。その後恩人が死んで、残ったのは剣と、この右手だけだった。
ヴォルフの右手が、メイスを掴む。ゆっくりと上げられるそれに構わず、ジゼラは彼の頬を指先で撫でた。
ここで死ぬのなら、それでも構わない。愛しい人の手で殺されるなら、それはそれでジゼラにとっては幸福な死に方だ。でも彼にとっては、どうだろうか。
あなたが我に返った時、どうか苦しまないでくれ。
ほとんど聞き取れないほど掠れた声で、彼女は願う。息は苦しく喉も痛かったが、心は奇妙なまでに落ち着いていた。霞んで行く視界の隅に、迫るメイスが映る。これで終わりかと目を閉じた。
その時。
どこかから、この世のものとは思われぬような悲鳴が聞こえた。驚いて目を開けると同時に、ジゼラの呼吸が楽になる。拍子に勢い良く息を吸い込んで、彼女はむせた。
咳き込みながらよろめくジゼラの肩を、太い腕が支えた。驚いて顔を上げた彼女のその目に、厳つい強面が映る。いつもと何ら変わりない無表情が今は不思議で、ジゼラは大きく瞬きをする。鋭いけれど、冷たい目ではなかった。
「すまん」
呟いたヴォルフを見て、ジゼラは荒い息を吐きながらゆっくりと首を傾げた。その仕草を見て、ヴォルフは微かに笑う。
星が見えた。自分が何をしているかも分からないような闇に呑まれた意識の中に、確かに眩い星が瞬いているのが分かった。それに引っ張り上げられ、彼の意識はこうしてここにある。何も聞こえていなかったが、ジゼラが呼んでくれていたお陰なのだろうと思う。
感謝の一つもすべきだが、今は悠長にしている場合ではない。ヴォルフが目の前に手を出すと、ジゼラは少し考えた後、コートのポケットから砂時計を取り出した。分厚い手袋の上に乗せられたみすぼらしい砂時計は、未だ金色の輝きを放っている。
ヴォルフはその光を見て表情を引き締め、「悪魔」に向き直った。出来の悪い人形のような異形の頭は、大きく陥没している。タールのような体液を垂れ流し、タロットはじっとヴォルフを見つめていた。その足下には、投げたメイスが落ちている。
「『悪魔』よ」
砂時計を持った手を異形に向かって突き出し、ヴォルフは静かに言った。大きく崩れた「悪魔」の顔は、表情を浮かべない。
「逆さの意を示し、捕えた魂を解放しろ」
その悲鳴は地の底から響いてくるような、どんな生き物のそれとも違う気味の悪いものだった。「悪魔」の全身が足から影に呑まれて行き、真っ黒になった瞬間、光の粒となって拡散する。
ヴォルフは砂時計を懐にしまいながら、改めてジゼラを見下ろす。呼吸を整えた彼女は暫く黙り込んで瞬きを繰り返し、やがて嬉しそうに微笑んだ。謝るか礼を言うかしようとしていたヴォルフだったが、その笑顔につられて気の抜けた笑みを浮かべた。