第三章 Phantom Pain 一
一
ベンチに腰を下ろした女が、ぼんやりと海を眺めている。日の光を反射して煌めく水面にも負けない程、輝く目をした美女だ。
見た目はまだ若いというのに老人のように白い彼女の髪が、潮風に靡いて波打っては背中へ落ちる。同じく背後へたなびく黒いコートの左袖には、中身がなかった。袖を抜いている訳ではない。単純に、左腕がないのだ。
磁器のように白い横顔には、表情というものがなかった。凛と上がった細い眉と艶のある唇にだけは色があったが、他は殆ど無彩色で、無機質にも思える。青みがかった灰色の目には、長い睫毛が揺れる度に淡い影が落ちた。
不意に、彼女の小さな頭に大きな影が重なる。見開き気味の大きな目で影の主を見上げ、ジゼラ・マレスコッティはかすかに笑みを浮かべた。彼がそこにいる事が、嬉しいのだとばかりに。
「船長に了解は取れたか?」
白い為か冷ややかな印象を受ける外見とは対照的に、柔らかな声だった。抑揚に乏しい問い掛けに、ヴォルフ・カーティスは頷いて見せる。
分厚いコートを着込んだ、大柄な男だ。刃物のように鋭い目は濃い灰色で、犬科の獣を思わせる。精悍な顔付きと体格、背中の巨大なメイスも相俟って粗野な印象を受けるが、彼は近年まれに見るお人好しだ。
「女は乗せんと駄々をこねられたが、もぎ取って来たぞ」
「時代錯誤も甚だしいな。差別だ」
不満そうにぼやいて、ジゼラはすっくと立ち上がる。ビスチェの上へせりだした胸の豊かな肉が、拍子に揺れた。
手入れを怠ったが為に傷んで赤茶けた髪を潮風に靡かせ、ヴォルフは彼女に背を向ける。手間を取らされたせいで、もう出航時間が迫っていた。生地の厚いハーフブーツの底が石畳を叩くと、ジゼラは彼に小走りに近寄ってコートの左袖を握る。
右肩の麻袋を担ぎ直し、ヴォルフは小さな客船へと近付く。町が落ち着いたばかりだからか、乗り込む人は少なかった。
「どのぐらいかかるのだ?」
左腕に寄り添ったままヴォルフを見上げ、ジゼラは首を傾げて問い掛ける。彼は正面から視線を外さないまま、タラップに足をかけた。
「一週間前後だろう。よく知らんが」
「嫌だな、その間風呂に入れぬではないか」
「嫌なら置いて行くぞ」
しかしジゼラはしっかりとついてきた。木造の船は古いようで、甲板に足を着くと軋む音を立てる。いささか不安ではあるが、天候さえ良ければ無事に着くだろう。
客室へ向かおうとハッチを下りると、狭い通路に人が屯していた。ヴォルフは多少値は張るものの個室を取ったが、商人らしき彼らは相部屋を取ったのだろう。どのベッドを誰が使うかで揉めていた。
その横を通りすぎようとすると、彼らは横目で不思議そうにジゼラを見ていた。商人というのは頻繁に移動する為か、大抵馴染みの馬車や船がある。この船の長は昔気質のようだから、怪訝に思われても仕方ないだろう。しかし穴が空くほど見つめるのはさすがにやめて欲しかった。
宛がわれた個室の戸を開けて、ヴォルフは嫌な顔をした。小さな船だから贅沢は言えないと分かっているものの、部屋が狭すぎる。ベッドが二段なのが唯一の救いだろうか。
「私は上がいい」
言いながら、ジゼラは部屋に入って荷物をベッドの二段目に乗せた。ヴォルフの意見を聞く気はないようだ。
「狭すぎるな……ぐ」
ぼやきながら入ろうとしたところで、ヴォルフは戸枠に頭をぶつけた。木枠の角に額を擦られ、思わず背中を丸める。ジゼラはそんな彼を見て、赤くなった額に手を伸ばした。
「あなたは他人より遥かに大きい事を自覚した方がいいな。よしよし」
ヴォルフは何も言えなかった。細い指先で頭を撫でてくれるジゼラに恨みがましい視線を向け、屈んだまま部屋へ入る。完全なる八つ当たりだ。
ベッドの二段目には落下防止用の柵がついていたが、一段目にはなかった。ヴォルフは寝相がいいから落ちる心配はないし、恐らくこのベッドは彼には狭い。柵があると寝ている間に壊しそうなので、逆に良かった。
荷物を床に置いてベッドに腰を下ろそうとした矢先、ジゼラに袖を掴まれて中腰の姿勢で止まった。見下ろしてくる彼女の目は、期待に満ちて輝いている。嫌な予感がした。
「よし、甲板に行こう」
的中した。ヴォルフは顔をしかめたが、お構いなしに腕を引っ張られて嫌々立ち上がる。旅行者のような事はしたくなかった。短くない船旅で、他の乗客に舐められるのは御免だ。強面の彼にわざわざ絡んでくるような者もいないだろうし、ジゼラに言っても無駄だろう。
彼女は旅行気分でいるのだろうか。これからどこへ行くか、分かっているのだろうか。ヴォルフも見たわけではないにしろ、海の向こうの島についてあまりいい噂は聞かない。
地の果ての話を聞いてから四ヶ月近くかけてここまで来る間、立ち寄った町では必ず情報屋から目的地の話を聞いてきた。港へ近付くにつれて知らないと言う者もいなくなり、港町ではついに、行かない方がいいとまで言われた。
具体的に何が起きているのか聞けば、曖昧な返答しかなかった。しかし彼らが怯えている事は、その様子から明確に見て取れた。情報を提供することを生業とする情報屋でさえ言いよどんだのだ。その名を口にする事さえも、嫌だとばかりに。
乗客達は知っているのだろうか。知っていて、この船に乗ったのだろうか。
無論、移動しなければ商人たちが暮らして行けなくなる事は分かっている。それでも、あまりにも無謀に思えた。賞金稼ぎでさえ、最初の港町を見て逃げるように大陸へ帰って来るのだと、情報屋から聞いている。
「ヴォルフ、凄いな。動いているぞ」
甲板の柵から身を乗り出し、ジゼラは嬉しそうに言った。考え込んでいたヴォルフはすぐに返答出来ず、彼女を見下ろす。
艶やかな髪と革のコートが潮風に煽られ、はためいていた。冷えた風に中身のない左袖が玩ばれ、蛇のようにうねる。笑みを浮かべた横顔が見知らぬもののように思えて、ヴォルフはそのまま口をつぐんだ。
「大陸と海と、どちらが広いのだろう」
「……海の方が広い」
子供じみた質問に返答してやると、ジゼラはおおと呟いた。目を輝かせる彼女は、寝不足で見る朝焼けのように眩しい。
「そうか、海はすごいな」
それきりジゼラが黙り込んだので、ヴォルフは海へと視線を流した。
故郷から海は見えなかったが、やさしい潮騒を聞くと、何故だか郷愁を呼び起こされる。船底を叩く波が、胸の内に溜まった澱をも流して行ってくれそうな気がした。
宝石のように煌めく水平線の向こうには、何も見えない。空は抜けるように青く、この先に不安な事など何もないかのように錯覚させる。だがそんなはずがない事を、ヴォルフは分かりきっていた。
時折、何もかもがどうでもよくなる事がある。多くのアルカナを倒した後や、少し長く町に滞留した後などに多い。行った事のない静かな土地へ行き、そこで一人全て忘れて過ごしてしまおうかと、そう思う。昔の事など全て忘れて、何事もなかったかのように。今のしがらみなど何も知らなかった頃のように、一人静かに暮らしたいと。
それでもふとそんな事を考えた次の瞬間には、大抵また歩き出している。自分自身がそれを許せない事を、心が理解しているからだ。どうせいつも一人なのだから、今更一人になりたいも何もないだろうと、そう思う。
けれど今日はどうでもよくなるだけで、一人になりたいとは思わなかった。一人になれない事を分かっているから、ではないのだろう。孤独でない事に慣れ、それに安堵しているからだ。
どんなに煩くとも、歩みが遅くなろうとも、きっともう今更ジゼラとは離れられない。本気で置いて行こうとすれば、彼女は追わないだろう。だからもう、そういう気にはならなかった。
「珍しいな、女連れか」
振り返ると、若い男がいた。金髪碧眼で、女好きのしそうな涼やかな容貌の青年だ。妙な柄の入った服を着ているから商人だろうに、それにしては珍しく腰に短剣を提げていた。
「珍しいのか?」
青年商人は振り向いたジゼラを見て、驚いた顔をした。白髪のせいか隻腕が故か、彼女は行く先々で不躾な視線を送られている。お陰でヴォルフは目立たなくなったから、彼としては有り難い。しかしジゼラは気にならないのだろうかと、不思議にも思う。
暫くまじまじと顔を眺めた後、青年は一歩彼女に近付いて、丸くした目を細めた。ジゼラは避けるでもなく、真顔のまま彼を見つめ返す。
「なんかあんたの顔、どっかで見たような……」
「よく言われるのだ。誰だか知らぬが」
嘘だと思ったが、ヴォルフは口を挟まなかった。青年は納得したようにああと呟いて、ヴォルフに向き直る。他人の空似だと思ったのだろう。
「よく船長が乗せてくれたな。頑固だろ、あの人。女は乗せんとか言っちゃってさ」
「無理矢理乗船許可をもらってきてくれたぞ。怖い顔も、たまには役に立つのだ」
「喧しい」
青年はさも楽しそうに、朗らかに笑った。ヴォルフにとっては笑い事ではない。
古来より海の神は嫉妬深い女だとされ、船に女を乗せると沈められてしまうのだと言われている。しかしそれも大昔の俗説で、今は気軽にとは言えないものの、誰もが船旅を楽しむ事が出来る時代だ。今時信じる者はあまりいないが、ここの船長は信心深いのだろう。
「大変だなあ。島には何しに?」
「見ての通りの賞金稼ぎだ。向こうはひどいと聞いたからな」
ジゼラが余計な事を言う前に、ヴォルフが早口に答えた。ふうんと鼻を鳴らし、青年は表情を曇らせる。
「じゃあ、アルカナ退治か? 命知らずだな、あっちは大陸の比じゃないよ。どっかの町には『死神』がいるって言うし」
「死神」がいるとは聞いていなかった。ヴォルフが険しい表情を浮かべると、青年は苦笑いする。笑い事ではないような気がしたが、咎めない。
「なんだ、知らなかったのか……『死神』のいる町は、避けて通った方がいいよ。一目見ればすぐ分かるんだ。町全体が死んでやがるからさ」
「そうしよう」
軽く返したはいいが、町が死んでいるというのがどういう事なのか、ヴォルフには分からなかった。今まで見てきた荒廃した町とは違うのだろうか。
何にせよ「死神」に対抗する術はないから、彼の言う通り避けて通るしかない。思わぬ所で話が聞けた事を、有り難いと思うべきだろう。
普段通りの無表情で青年を見ていたジゼラが、不意に首を傾げた。見開き気味の目が大きく瞬きをする。
「あなたは何故、そんな所へ行くのだ?」
今度は青年が目を丸くした。一目で商人と分かるような格好をしているのだから、そんな問い掛けをされたら驚きもするだろう。ジゼラには一般常識が欠けている。
「仕入れと行商に行くんだよ。知らないのか?」
「知らないとは?」
更に問い返されて、青年は困ったような顔をした。その目がヴォルフを見るが、彼には視線を逸らす事しか出来ない。
商人は皆、特定の範囲内で仕入れと行商をする。大陸を渡り歩いて方々で珍しいものを見つけては他の町で売る、という者もいるが、大抵は山岳部から海沿いを往復しているようだ。彼らは皆、海で仕入れたものを山で売る、といった事を繰り返して、生計を立てている。
またこの青年のように、島と大陸を往復する商人もいる。同じ海沿いでも島と大陸では捕れる魚が違うから、舌の肥えた素封家や貴族相手に商売をするようだ。贔屓の得意先があれば旅費や手間賃も出されるようだから、収入は比較的安定しているものと思われる。
「往復しなきゃ、稼げないんだよ。生きてく為さ」
生きて行く為に、危なくとも行かなければならない。そんな人もいるのだ。
この世を旅するのは、賞金稼ぎばかりではない。危ない土地へも行かなければ、生活が成り立たない人もいる。災厄に見舞われた町を出る事も出来ず、怯えながら暮らす人もある。ヴォルフの両親はそんな人々の為に旅に出て、英雄となった。
世界を救ってやろうとは思っていない。しかし「魔術師」を倒す事が出来れば、結果的にはそうなる。タロットの元となる最初の魔術師の魔力を受け継ぎ、増幅して各地にばら撒いているのが、現在どこかにいるタロットの「魔術師」である為だ。
あれを正位置に戻せば、恐らくタロットの驚異はこの世から失せる。大元の魔術師が死して尚魔力が残っているのは、両親が二枚のカードを倒し損ねたが故だった。ひっそりと生き延びていたタロットのマジシャンは己の創造者である魔術師の死後、それに取って代わって、現在のタロットを作り出した。
現在もカードを媒体して残っているのは、「魔術師」と「死神」、一切姿を見せる事のない「隠者」の三体だけだ。他のタロットは単なる思念体だから同じ種類のものが何体もいるが、カードを媒体とする三種はそれぞれ一体ずつしか存在しない。
「魔術師」はともかく、「死神」と出会っても対抗する術はない。もし万が一見かけても、逃げるしかないだろう。
「……なあ兄さん、あんたどうだい」
唐突に問いかけられ、ヴォルフは目を見張って青年を見下ろした。彼には質問の意味が分からなかったが、ジゼラは僅かに眉をひそめている。
「俺、個室にいるんだ。だから……」
その時どこからかおういと声が聞こえ、青年は弾かれたように顔を上げて振り返った。船内へ続く階段から、初老の男性が顔を出している。彼も商人だろう。
青年は眉間に皺を寄せてヴォルフに向き直ったが、その怪訝な表情を見て肩を落とした。それから軽く手を挙げて、階段へ駆けて行く。
「……あなたの恋人は、女性だったか?」
「は?」
ジゼラは複雑な表情でヴォルフを見上げていた。女でなかったらなんなのだろうと考えたところで、彼はようやく気付く。
あれは、そういう意味だったのだ。
「違う、私にその気はない」
「私に見向きもしないから、薄々そうなのではないかと思っていたが……」
「だから違う」
確かにジゼラは美しいが、自分で言うのはどうかと思う。そもそも見向きもしない理由は別にあるのだ。
「いいのだ、正直に言ってくれ。私は差別しない。だが必ず振り向かせて見せ」
「俺は男に興味はない」
憂えたように視線を落としていたジゼラは、はたと顔を上げた。まじまじとヴォルフを見た後、ゆっくりと頷く。よく分からない反応だった。
そろそろ食堂へ行こうか。考えながら足を動かしたところで、左袖を掴んで引き留められた。目と目が合うと、ジゼラは二度忙しく瞬きをする。
「あなたは、どこから来たのだ?」
「北だ」
短く返すと、ジゼラは不満そうに唇を尖らせた。そういう事を聞いたのではなかったのだろう。
「北へ向かっていたのに、北から来たのか」
「北方から大陸の東側を南下したらタロットが出なくなったんでな。西側から北へ戻っていた」
納得したようにああと呟いて、ジゼラは手を離した。それで納得するのもどうかと思うが、食い下がられても説明が面倒なので、ヴォルフは安堵する。
南方では、タロットはおろかアルカナさえ出てこなかった。「魔術師」の力が及ぶ範囲の外だったのだろう。代わりに、あちらでは未だに各地で紛争が起きていた。何故平和を維持出来ないのかと呆れて、彼は早々に北へ戻ったのだ。
安寧に身を置いてはいられないのが、人というものだ。平和というのは常に一時のものであり、続けばまた誰かが混乱をもたらす。何かを奪うために、何かを主張するために、人々は戦乱に身を投じる。
土地や金、地位や資源。様々なものを奪い合い、人は争いを繰り返す。果てには嫉妬で身勝手な諍いを起こす事もある。己で己を滅ぼす人の為に、どうして世界を救う事が出来るだろう。
世の為になんてきれいごとは、建前だ。両親からは旅に出た理由を人の為だと聞いているが、本当の理由は恐らく違う。きっと今の自分と、同じような。
「お前はどこから来た」
それ以上考えたくなくて、問いかける。ゆっくりと瞬きを繰り返していたジゼラの動きが止まった。これも言いたくないのかと、ヴォルフは些か呆れる。
「あなたに会った町から」
「そういう意味ではない」
顔を伏せて目を逸らしたジゼラに、苛立ちを覚えた。
結局彼女がよく喋るのは、何も聞かれたくないからではないのだろうか。何も知らないままここまで来てしまったが、いい加減話してもいいのではないか。
他人の過去など聞きたくなかった。しかし今は、ジゼラを他人ではないと思っている。何があったか知らないが、何も話さないくせに好きだと口にする彼女の態度が、ヴォルフの癪に障った。
「私は同情を買いたい訳ではないと……」
「同情云々ではない」
驚いたように勢いよく顔を上げたジゼラは、まじまじとヴォルフを見て眉尻を下げた。怒っていると気付いたのだろう。気付いても何も言おうとしない彼女に、ヴォルフはまた苛立つ。
「名前以外何も知らん他人に、誰が惚れると思う」
大きな目が、悲しげに揺れた。
怒るのはお門違いだと、ヴォルフ自身分かっている。だから食い下がりたくなかったし、そう言った。何も話したがらないのが同情を引きたくないからだとか、そんな理由ではない事にも気付いている。
自分自身、どうして苛立つのか分からなかった。だからこそ、これ以上詮索したくない。ジゼラが伸ばした手を避けるようにコートを翻したのに、他に理由はなかった。
「……あ」
弱々しい声に、ヴォルフは振り向けなかった。彼はそのままジゼラを置いて、甲板を離れた。