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第二章 Lovers Port 十

 十


 黒髪の方の頭が不意にヴォルフを見て切れ長の目を細め、微笑んだ。美しい笑顔だったが、相手がタロットだと分かっているからか不気味に思える。

 不用意にメイスを振って男に当たっても困る。このまま仕掛けずに、時間切れを待つか。そう考えたヴォルフの横から、ジゼラが飛び出して行った。突然の事に反応出来ず、ヴォルフは目を丸くする。

「私のヴォルフを誘惑するな」

 ジゼラのものになった覚えはなかった。

 鋼の剣が振り上げられても、「恋人ラヴァーズ」は微動だにしなかった。揃って笑みを浮かべたまま、真っ直ぐにジゼラを見つめている。その反応に怪訝な表情を浮かべはしたが、彼女はそのままタロットの右腕を斬りつける。

 しかし、悲鳴を上げたのは男だった。ジゼラは驚いて一歩下がり、まじまじと「恋人」達を見る。

 確かにタロットを斬ったはずなのだが、出血したのは男の腕だった。ジゼラも違和を感じて加減したのか傷は浅いものの、男の表情が苦痛に歪む。

「な、なんだ?」

「身代わりにされたな。斬るなよ」

 申し訳なさそうに眉尻を下げ、ジゼラは「恋人」と男から離れた。

 女の白い手が、男の腕をいたわるように優しく撫でる。しかし苦痛に顔を歪めた男は、「恋人」の手を厭うように左右へ首を振った。その目にわずかな理性の光が宿り、彼は徐々に涙ぐんでいく。やがて一粒の涙が、青ざめた頬を伝い落ちた。

「痛い、痛いよアンナ、アンナ……」

 いとおしいものを呼ぶような、切ない声だった。二人は同時に目を見開き、顔を見合わせる。

 あれが、アンナの恋人だったのだ。恐らくタロットに攫われ、こうして三ヶ月もの間囚われていたのだろう。元に戻るかどうかは疑問だが、名前を呼んだという事は、まだアンナを忘れてはいないはずだ。

 他の女の名前を呼んだせいか、「恋人」が揃って憎々しげに顔をしかめた。そしてその素足が、地を蹴る。

 振り上げられた右腕を受け止めようと目の前にメイスを翳し、ヴォルフは身構える。好戦的なタロットではなさそうだから、楽に止められるだろうと思ったのだ。しかし白い拳が鉄柄にぶつかった途端、彼は苦い顔をした。

 華奢な女の腕だというのに、鉄の柄から伝わった衝撃は大の男に鈍器で殴られたかのようだった。ひ弱そうに見えても、タロットである事には変わりないのだ。

 腕に力を込めて押し返したヴォルフの苦い表情を見て、金髪の方の頭が嬉しそうな顔をする。

「あれえ、近くで見たらいい男」

「そう?」

 離れた場所へ着地しながら、黒髪の方が片腕に抱いた青年の顔を覗き込んだ。それからヴォルフを見て、首を捻る。

 青年は正気に戻ったのか、目を見開いたまま震えていた。金髪の頭が鼻白んだようにふんと吐き捨て、右肩を竦める。同時に、再び駆け出した。それぞれ意思が別にあるようだが、足の動きは揃っている。

 瞬く間に眼前へ迫った三つの首を避けるように身を反らし、ヴォルフは小さく舌打ちを漏らす。跳ね除けたら男が傷付くだけだと判断し、頭を狙って繰り出された拳を、後ろへ飛び退いて避けた。膝裏目掛けて蹴り上げようとする白い足は、その場で腰を落として太腿で受ける。

 足に鈍い傷みが走ったが、ヴォルフは構わなかった。異形が足を戻した隙に左側へ逃げ、体勢を立て直す。受け止めてばかりいたら、腕がもたなくなりそうだ。

 再び彼に迫った「恋人」の左右の乳房が、バラバラに揺れる。大きさが違うせいか奇妙なその動きに、ヴォルフは一瞬目を奪われる。しなやかな足のその間に視線が行きかけたが、眼前に迫った拳に気付き、慌ててメイスで受け止めた。

 誘惑されかけている。自分で分かっているのに、抗える気がしない。相手がタロットであるとも、分かっているからだ。

 黒髪の顔が、嬉しそうに綻んだ。舌なめずりでもするように、真っ赤な舌が形の良い唇を舐める。

「やっぱりたくましい方が好き」

「同感」

 根を伸ばすかのように男の腰に張り付いていた「恋人」の腕が離れた。青年は震えながら二三歩よろめき、地面に崩れ落ちる。両腕で自分の肩を抱き締める彼から、タロットはもう興味をなくしたようだった。

「恋人」の左手が、ヴォルフに向かって伸びる。彼は眉間に皺を寄せて怪訝にその手を眺めていたが、やがて二つの顔を見て、硬直する。離れて期を窺っていたジゼラの表情が険しくなった。

「そんな物騒なもの捨てて」

「いらっしゃい、愛しい人(スイートパイ)

 その声に弾かれたかのように、ヴォルフの肩が震える。彼の顔は何かを堪えるようにしかめられていたが、その視線は、縫い止められたかのように「恋人」から離れなかった。ジゼラが慌てて駆け寄ろうとするが、足を掴まれて止められる。

 驚いて見下ろした先には、縋るような目をした男がいた。蒼白になった彼の顔を見て、ジゼラは痛ましげに眉根を寄せる。

「そうそう」

「いい子ね」

 ヴォルフの手がメイスを離すと、「恋人」は優しく声を掛けた。慌てて顔を上げ、ジゼラは青ざめる。

「ヴォルフ待て、行くな! そんな全裸女より私の方が美しいに決まっているだろう!」

「恋人」は揃ってジゼラを一睨みしてから、すぐにヴォルフへ向き直って笑みを浮かべる。妖艶なタロットの美貌はジゼラの線対象で無機質なそれとは対極のもので、比較すべくもない。

 ヴォルフの足が、ゆっくりと「恋人」へ向かって行く。その足取りは普段の力強い歩みとは正反対で、何かに引っ張られるが如くだった。糸で引かれる木偶人形のようにおぼつかない彼の歩みに、ジゼラが力なく首を振る。

 覚えた事のない不安が、ジゼラの胸中を揺さぶる。頑なに信じ続けてきたものが壊れて行くような絶望感が、彼女に身動きを取れなくさせた。そうでなくとも、足を掴まれているせいでその場から動けない。怯える青年を振り切って行く程、彼女は非情にはなれなかった。

 ジゼラには、何も出来なかった。元々白い顔から更に血の気が失せ、そこだけは薄紅色をしていたはずの唇までもが、白く変色する。それでも彼女は震える唇を無理矢理開き、大きく息を吸い込んだ。

「そんなに全裸がいいというのか!」

 的外れな叫びだったが、ジゼラは真顔だった。幸か不幸か、青年の体の震えが止まる。

 普段のように言えば、煩いと返してくれるかも知れない。彼女はそう考えていたのだが、当ては見事に外れた。いっそ脱いだら振り返ってくれるだろうかと、ジゼラは見当違いな事を考える。

 ヴォルフは「恋人」の目の前まで近付き、白い腕を背中へ回されるに任せる。ジゼラが顔を近付ければあからさまに嫌な顔をするというのに、そんな素振り一つ見せなかった。感情の一切を失ったかのような無表情を保つ彼を見つめたまま、ジゼラは呆然と立ち竦む。

「何故だヴォルフ……私の事は、好きになってはくれぬのに」

 艶やかに微笑む「恋人」の左手が、分厚いコートを掴む。白い手はそれをするりと肩から脱がせてから、厚い胸を撫で下ろした。右手は彼の腰を抱き寄せ、コートの背を握る。それでも、ヴォルフは動かない。

「ねぇ、呼んで」

 金髪の頭が、上を向いて顔を近付けながら、甘えた声で囁いた。黒髪の頭は、ジゼラを見て愉しそうに笑う。

「……『恋人』よ」

 低い声が呟くと、タロットは揃ってとろけるような笑顔を浮かべた。細く白い指がヴォルフの頬に添えられ、華やかな美貌が唇に近付いて行く。ジゼラは整った顔を大きく歪め、息を呑んだ。

「嫌だ……ヴォルフ」

 とられてしまう。堪えきれずにジゼラが一歩足を踏み出したその時、「恋人」の二対の目が、大きく見開かれた。

 ヴォルフの左手が、近付いてくる顔を止めるように上げられる。タロットの目の前に掲げられたその手の中には、金色に輝く砂時計が収まっていた。狼のように鋭い灰色の目が、異形を睨み付けている。

「正位置へ直り、その意を取り戻せ」

 絹を裂くような悲鳴は二重に聞こえたが、その声は全く同じ音程で森中に響き渡った。ジゼラは影となって行くタロットを呆然と見つめていたが、それが弾けると同時、我に返る。

「……ヴォルフ?」

 降り積もった砂金の上に、幾つもの指輪が落ちた。煌くそれらには細かな文字が彫られており、婚約指輪であろう事が分かる。ジゼラの足下でうずくまった青年が、目を丸くしてそれを見つめていた。

 気の抜けたジゼラの声には応えず、ヴォルフはコートを脱いで内ポケットを探り、小さな袋を取り出す。その中へ砂金と埋もれた指輪を集めて入れてから、彼は呆然としたままの二人へ近付いた。そして青年の肩にコートを掛け、ようやくジゼラを見下ろす。

 彼女があれほど必死になるとは、ヴォルフも思っていなかった。言っている事は普段と大差なかったが、その声は今にも泣き出しそうなものだった。彼女なりに考えているのかも知れないが、いかんせん、発言の内容が見当違いも甚だしい。

「お前は本当に馬鹿だな」

 冷たい声だったが、ジゼラの表情は安堵したように緩んだ。剣を収めた彼女は、嬉しそうに笑みを浮かべてヴォルフの腕を取る。

 二の腕に擦り寄るジゼラから視線を逸らし、ヴォルフは青年を見下ろした。呆気に取られていた彼はそこで我に返り、掛けられたコートの前を掻き合わせる。合わせを掴んだままヴォルフを見上げる彼は、何と言ったらいいのか判じかねているようだった。

「立てるか?」

 ヴォルフが手を差し伸べると、男はゆっくりと掴んだ。どこか硬かったその表情が緩み、強張っていた肩から力が抜ける。助け起こして向き合うと、彼は感極まったように叫んだ。

「っ……す、すいません、ありがとうございます!」

 人の手に触れて、助かったという実感が湧いたのだろう。ヴォルフの手を両手で握りしめ、青年は安堵したように眉尻を下げた。

「自分が自分じゃないみたいで、化け物だって分かってるのに逆らえなくて……本当に、ありがとうございます」

「いい。命があって何よりだ。今見た事は誰にも言うなよ」

 青年は深く腰を折り、ヴォルフの手に額を押し付けた。そしてふと横を見て、ジゼラが開きっぱなしのコートを見つめているのに気付き、慌てて掻き寄せる。視線を逸らした彼に、ジゼラは真顔のまま首を傾げて見せた。

「大変だな、全裸で」

「いや、あの……すいません」

 ジゼラの労いはよく分からなかった。それに謝る青年も青年だと、ヴォルフは呆れる。

 脱力感に襲われつつも周囲を見回すと、日はまだ高いようだった。この格好の青年に昼間の町中を歩かせるのは酷だろうとも思うが、町ではアンナが帰りを待っている。のんきに夜まで待ってはいられない。

「……とにかく戻るぞ。アンナが待っている」

「え、あ、アンナ?」

 青年の問いには、ジゼラが頷いて応えた。彼は二人の顔を交互に見て、何故か肩を落とす。怪訝に思いつつヴォルフが歩き出すと、黙って着いてきた。

 森を抜けた先の港では、人々が狐につままれたような顔をしていた。ベンチにいた恋人達も、顔を見合せて不思議そうに首を捻っている。朝方人だかりが出来ていた場所には、子供が作ったようないびつな花輪が、ぽつんと置かれていた。

「元に戻っても、死人は戻らぬのだな」

 当然の事だ。思っても何も言う気にならなかったのは、ヴォルフ自身哀れに思っていたからだった。

 町の人はもう、正気に戻ったのだろう。若い恋人達がさっそく口喧嘩しているのを見て、ヴォルフはそう思う。タロットによって変えられた人の心は戻っても、彼らが失ったものは戻らない。

 タロットは思念だ。だが、行った事は現実となる。逆に、人々は皆人が変わったようになってしまうが、操られているだけで実際変わっている訳ではない。正気を失っている間にした事も覚えているはずだから、妻殺し、或いは子殺しに走った人々は、今頃苦しんでいるだろう。

 それとも、清々しているだろうか。そうであって欲しくはない。

 大通りを抜けて民家が建ち並ぶ通りへ入ると、朝あれほど煩かったのが嘘のように静まり返っていた。しかし耳を澄ましてみれば、かすかに子供の声が聞こえる。まだ子供はいたのだと、ヴォルフは安堵した。

「は……ハンス!」

 アンナの声だった。悲鳴じみた叫び声を聞いて身を竦めた青年は、何故か怯えたような表情を浮かべている。ジゼラが不思議そうに首を捻った。

 家の前で待っていたのだろう。駆け寄ってきたアンナはハンスの肩を掴んで引き寄せながら見上げ、その顔をまじまじと見て、切なげに眉根を寄せた。しかし青年の表情は、怯えきったままだ。

 袖を引かれる感触に見下ろすと、ジゼラが首を傾げていた。ヴォルフが首を横に振って見せた瞬間、甲高い音が響き渡る。

「どこ行ってたのよ! ハンスのバカ! 心配したじゃない!」

 驚いて見たアンナの手は、一言叫ぶ度に恋人の頬を張っていた。ヴォルフは唖然として何も言えず、その場で立ち尽くす。

「ごめん、ごめんよアンナ」

 ハンスが涙目で謝っても、アンナの追撃は止まない。聞いているだけでも頬が痛くなりそうな音を立て、何度も恋人の横面を張った。哀れな青年の頬は、見る間に真っ赤になって行く。しかしヴォルフもジゼラも、止める気が起きなかった。

「ばかっ! しかもそのコートヴォルフさんのじゃない、着替えるわよ!」

 アンナは問答無用でハンスの手を引き、家の中へ入って行った。連れ戻さない方が良かっただろうかと、ヴォルフは混乱した頭でそう考える。彼はあれでいいのだろうかとも思う。

 暫し呆然としていると、ジゼラが再び袖を引いた。見下ろしてみれば、大きな目は真っ直ぐにヴォルフを見上げている。

「痛いよアンナ、と言っていたな」

「……そういう意味か」

 ああいう形も、あるのだろうか。男女の機微はよく分からない。家の中から時折悲鳴が聞こえてくるが、割って入って止める気も起きなかった。しかしコートを持って行かれてしまったから、待つしかないだろう。気まずかった。

 子供がいなくなった町。それも空白の期間を過ぎたら、また元の町に戻るだろうか。ここも他の町のように、子供の笑い声で溢れる町に戻ってくれるだろうか。

 確認したい気持ちはある。けれど、立ち止まる事は自分自身が許さない。またいつものように道中必要なものを買って、渡航手続きを取ったら、ここを離れるのだ。長年旅してきたこの大陸を、離れる事となる。

 それを少し、寂しいと思う。生まれ育った村を出た時は、なんの感慨も湧かなかったというのに。

「ヴォルフ」

 澄んだ色をした大きな目が、ヴォルフを見つめている。昔から人助けはしてきたが、そこで出会った人々の行く末を見届けたいと思った事は今までなかった。ジゼラが同行するようになってから、彼も少しだけ変わったのだ。

 いいか悪いかは、本人にも分からない。ただ今は、人との潤滑油となってくれるジゼラの存在を有り難くも思う。

「あなたに恋人はいたか?」

 また唐突だ。彼女には聞かれたくない事だったが、ヴォルフは僅かに頷く。

「故郷に残して来た」

「待っているのか?」

「いや……死んだ」

 そう、死んだのだ。死んだという事にしなければ、自分を含めた何もかもを恨んでしまいそうで、怖かった。

 彼女は表情こそ変えないが、ほんの少し眉を曇らせている。ヴォルフは言わなければ良かったと後悔し、視線を逸らす。しかしジゼラは、そんな彼の顔を無遠慮に覗き込んだ。袖を強く引かれ、背中を丸める。

「どんな人だった?」

 真剣な表情だった。ジゼラはいつでも真顔だが、それとは少し違う。

「純朴で、穏やかな女だった。お前と違ってな」

「そうか。つまり私はあなたの好みと合致しているという事だな」

 意味が分からなかった。人の話を聞く聞かない以前に、聞く気が全くないのだ。何の為に質問しているのか理解出来ない。

 ヴォルフは思わず顔をしかめ、身を引こうとする。だが腕をしっかりと掴まれ、背筋を伸ばす事が出来ない。

「……お前の耳はラビオリで出来ているようだな」

 冷たい声だったというのに、ジゼラは嬉しそうにおおと言った。

「そうかも知れぬ。あなたの腹が空いたら、非常食になるぞ」

 言いながら、ジゼラはつま先立ちで顔を近付ける。鼻先が触れる程近付いて、ヴォルフは嫌な顔をした。そんな彼には構わず、ジゼラは顔を横に向ける。

「さあ食え」

「食わん」

 逸らした視線の先に、コートを持って立ち尽くすアンナがいた。今しがた出てきたのだろう彼女は、戸口に立ったまま目を丸くしている。そんな彼女を見て、ヴォルフは逃げ出したい衝動に駆られた。


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