第一章 Desert Rose 二
二
ヴォルフがやっとの思いで町に着いた頃には、既に夕刻を過ぎていた。ちょうど夕飯時で人影もまばらな通りを眺める余裕もなく、腹を空かせていた彼は取る物も取り敢えず飯屋に駆け込んだ。鬼気迫った形相だったせいか、飯屋の店主に怯えられつつ食事を済ませた後、宿を取って今に至る。
情報屋がいるという酒場は、タバコの煙とアルコールの臭いで満ちていた。カウンター席で一番安い酒を舐めるヴォルフを、店員が怯えたような表情でちらちらと見ている。しかし当人は気にするでもなく、つまみばかりを食べ続けていた。背中のものも自分自身も目立つから、不躾な視線には慣れている。
この席に落ち着いて、小一時間ほど経っただろうか。飯屋で情報屋の人相は聞いてきたが、それらしき人物は未だ現れない。毎日居ると言うからすぐ会えると思っていただけに、いささか気が急いていた。
そうでなくとも、酒場の喧噪の中は落ち着かない。何年も一人きりで旅をしてきたせいもあるし、彼自身が寡黙なせいもあった。人と話すのは嫌いという訳ではないが口下手で、むやみやたらと口を利くのが嫌なのだ。
溶けた氷が、ロックグラスの中で音を立てる。どこか物悲しいその音は店内の喧騒に紛れ、誰にも聞こえなかった。薄まった安いウィスキーは不味くも美味くもないが、それを口に含むヴォルフの表情は険しい。元々こういう顔なのだが、店員は哀れにもそのせいで怯えている。
背後のテーブル席でトランプに興じる人々を横目で眺めながら、ヴォルフは怪訝に思う。タロットがこの世に災いを齎しているのに、何故尚もカード賭博を続けるのかと。
その昔、タロットとはただのカードゲームだった。それが忌むべき災禍の代名詞となったのは、その昔大陸一と謳われていた魔術師が心を蝕まれ、一組のタロットカードに呪いを込めてからの事だ。
元のカードは既に、そのほとんどが失われている。現在はカードが遺した邪悪な思念が今も残る魔力によって実体となり、永遠に消えない二十二の災いとして世に降りかかっている。
それがどういったものであるのか、多くの人は知っていても目にした事はないだろう。けれどヴォルフは、他ならぬ二十二のタロットの内一つを探して旅を続けている。既に死した魔術師と取って代わった、「魔術師」と呼ばれるタロットを。
「兄さん、すげえエモノだな」
唐突に横から声をかけられ、ヴォルフは視線だけをそちらへ向けた。いつの間に隣へ座ったのか、赤ら顔の男がロックグラスを片手にニヤけた笑みを浮かべている。
大柄なヴォルフが背負っていると小さく見えるが、彼の得物は滅多に見られないほど巨大なものだ。長さ自体が十歳前後の子供の背丈ほどはあり、スパイクが放射線状に埋め込まれた鉄球部分も、通常より二回りは大きい。
これは小さいものだとすぐに壊してしまうからと、武器屋に特注して作らせたものだ。鉄製の柄に装飾はないし軽量化もされていない粗野な作りだが、丈夫さは保障されている。重さにも慣れているから、面倒は珍しいものと見て近づいてくる輩だけだ。
「旅の人か? こんな荒れ地に、用事なんてあるのかい」
酒場に一人でいると、時折こうして酔っ払いが話し掛けてくる。嫌な訳ではないが、ヴォルフは生来無口だ。加えて人相も悪いので、相手の機嫌を損ねてしまう事がままある。
返答に困ったのを誤魔化すようにグラスの中身を空にすると、店員が即座に酒を注いだ。
体格も顔付きも厳つい自覚はあった。怯えられてしまうのは仕方ないとしても、頼んでいない酒を出されても困る。余分な金は残していないのだ。
そうでなくても昼間に食べすぎたせいで、必要な金さえ足りないような気がしている。ヴォルフは食べる事に関してだけは計画性がない。
「……当てがないんでな。特に用もない」
悩んだ挙げ句、素っ気なく返す。男は気にするふうもなく愉快そうに笑った。飲みすぎると眠くなるたちのヴォルフは、楽しそうな酔っ払いを少し羨ましく思う。
「こんな大層な棍棒背負って、当てもなく? 物好きだなァ。何のための旅なんだい」
言いながら、男は値踏みするようにヴォルフの得物へ不躾な視線を向けた。
彼のように親しげに話しかけてきて酒を奢った末、金品やこのメイスをかすめ取ろうとする輩も少なくない。金はろくに持っていないし、相棒も特注品ではあるものの頑丈なだけが取り柄の鉄棒に等しく、売ったところで大した金にはならないだろう。
それでも、不快感はあった。時代遅れの安い武器でも、何年も共に旅をしてきた相棒だ。それなりに愛着もある。このメイスだけが、ヴォルフの唯一の連れ合いだ。
返答しようにも言葉が見つからずに黙り込むと、男は鼻白んだ様子で席を立った。申し訳ないと思う反面、安堵する。
当てはなくとも、目的はある。しかしそれを話せば誰でも馬鹿だと笑うだろう。旅の目的は、むやみに話さないようにしている。理解してもらいたいとも思わないし、嘲笑されれば不愉快なだけだ。
血を分けた妹が「魔術師」の下へ売られたのだと言って、誰が信じるだろう。そもそもタロットという怪物自体に対しても、見た事がない人々はお伽話だと笑う。タロットの「死神」が蘇らせた死体は目にするだろうに、その存在自体は信じないのだ。
それでも確実に、被害は各地で出ている。だからタロットを知らないとは即ち、この辺りはまだその脅威に晒されたことがないという事だ。平和と取るべきなのか、危機感がないと言うべきか。
怪異による脅威がなければ、人にとってこの世で一番恐ろしいものは人となる。長い旅の中でヴォルフ自身も人に欺かれたし、誰かの手で傷付く人を見てきた。その度に歯痒くも、虚しくもなる。昼間に見た女も、誰かに傷付けられた人だったのだろう。
誰もが騙し騙され、力尽きたとしても死すら安息とは呼べない。虚しくも苦しい世だ。それでも目を背けずにいられないのは、何故なのだろうか。
「お客様、来ましたよ」
店員の声に、落としていた視線を上げて振り返る。分厚い革のコートを着込んだ男が一人、戸をくぐるのが見えた。飯屋で聞いた通りの、恰幅のいい初老の男性だ。
見る限り穏やかそうな顔立ちだが、ヴォルフはそういう面相の人物をこそ疑う。信用のほどは怪しいところだ。それでも今は、彼しか当てがない。
情報屋の男がカウンターの隅に腰を落ち着けた所を見計らって、ヴォルフはグラスの中身を飲み干す。カウンターに代金を置いて立ち上がり、情報屋に歩み寄った。
店員からボトルを受け取った情報屋は、近付いてくるヴォルフに気付くと怯えたように身を硬くした。怖がられるのは日常茶飯事で彼も慣れてはいるが、逐一身構えられるのも困りものだ。
「お前が情報屋か?」
威圧感を抱かせないよう努めてゆっくり問いかけてみても、情報屋は頷くだけだった。硬い表情を浮かべたままの彼に困り果て、眉間に皺を寄せる。情報屋は更に萎縮して肩をすくめた。
情報屋というのは旅人相手の商売で、力自慢の賞金稼ぎには人相の悪い者も多いはずだ。慣れていて然るべきなのに、どうしてこうまで怯えるのか不思議だった。他と比べても怖いと言うのだろうか。
「な、何の用だい」
「聞きたい事がある」
簡潔に述べるとようやく客と認識したのか、情報屋は肩にこもっていた力を抜いた。しかしその上半身は、未だヴォルフから逃げるように反らされている。
気にしていたら、何も始まらない。それでも少々悲しかった。好きでこの顔と体格になった訳ではないのだ。
「支払いは?」
「まずは、知っているのかどうかだ。『魔術師』の居場所が分かるか」
情報屋は太い眉を寄せ、困ったような顔をした。知らないのかと、ヴォルフは心中落胆する。
どの町の情報屋に聞いても、皆こういう反応しか見せない。それどころか羽振りのいい旅人と見て揉み手しながら話をしていた情報屋でも、持たない情報を求めると一転して不機嫌そうな態度を取る事がある。慎重になるのもやむ無しと言えよう。彼らにも彼らなりのプライドがあるという事なのだろうが、客の立場としては困りものだ。
「タロットを探してるのか。なんでまた」
「詮索はするな。知らないんだな?」
情報屋は益々困ったように眉尻を下げ、低く唸った。そしてヴォルフから視線を逸らし、躊躇いがちに頷く。見た目に違わぬ人物であるようだが、知らないのならこれ以上用はない。
いくつもの町を渡り歩き、何人もの情報屋に居場所を聞いた。けれどいつでも、答えは知らないの一言だけ。意図して隠しているのではないかとさえ思うが、真実知らないのであろう事は彼らの反応から明白に見て取れる。
誰も知らない。本当にいるのかどうかさえ分からない。しかしタロットという存在は確かにこの世にあり、人々に害をなしている。いつ我が身に降りかかるか分からない災いだ。何も知らない人を見る度に、ヴォルフは焦燥感を募らせる。
「おいあんた、一人で旅してるのか」
向けかけた背に、情報屋が慌てて問い掛けた。ヴォルフは彼に向き直るでもなく足を止め、肩越しに振り返る。
「そうだ」
「どっちから来た? 南か?」
何故そんな事を聞くのか、彼には分からなかった。怪訝に眉を寄せつつも頷くと、情報屋は首を横に振る。
「だったらまずい、この町から北はタロットだらけだ。あんたが来た方の比じゃないぞ」
つまり一人で行くなと言いたいのだろう。注意されても同行者はいないし、募る気もなかった。己の力を過信している訳ではないにしろ、ヴォルフに着いて来られるほど腕の立つ人間はそうそういない。
タロットに出会った事は、何度もある。あれは常人には決して対抗出来ず、元がただの死体であるアルカナのように物理的に倒す事は出来ない。実体はあっても、怨念と魔力が固まった思念体でしかない為だ。正に天災と呼ぶべき化け物だが、ヴォルフには彼らに対抗する術がある。
「私には目的がある。行かねばならん」
返答を聞いて、本気だと悟ったのだろう。情報屋はそれ以上は言わなかったが、複雑な表情でヴォルフを見つめていた。
「……ここの北西にある町じゃ、『力』が出たって話だ。こっちに逃げてくる奴も多い」
「ならばそこへ行こう」
事も無げに返すと、情報屋は額に手を当てて嘆かわしげに首を振った。彼はタロットが出た町がどうなるか、知っているのだろう。それでも、ヴォルフは行かなければならない。
「いるんだよ。あんたみたいにちょっと腕に覚えがあるからって、タロット倒そうなんて考えてる奴」
「私は問題ない」
情報屋は益々顔をしかめて、投げやりに頭を振りながらグラスにボトルの中身を注いだ。
「皆そう言うがな。どいつもこいつも、死体になって故郷に帰ってるって話だ。帰る前にアルカナになっちまうが」
タロットを倒そうとする賞金稼ぎは、思いの外少なくないようだ。こうしてお節介な情報屋に注意されるのも初めてではないし、その危険性はよく知っている。
出来る事をするだけだ。出来ない事なら最初から旅などしていないし、ここまで来れなかった。ここへ辿り着くまでに野垂れ死んでいた事だろう。見くびられている事はいささか複雑だが、悪い気はしない。
心配されているのだ。嬉しく思いこそすれ、迷惑な事はない。
「心配はいらん」
久々に、人の温かみに触れたような気がした。ヴォルフは知らず口元を緩め、コートのポケットから無造作に銀貨を取り出す。目の前に差し出されたそれを見て、情報屋は慌てて首を振った。
「いいよ、俺は何もしちゃいないんだ」
「錬金術師がこの町にいるかどうか聞きたい」
ああ、と納得したように呟いて、情報屋は銀貨を受け取る。先代国王の肖像が彫刻されたそれをまじまじと見てから、彼は頷いて懐にしまった。
不可解な道具を独自の技術で作り出しては売る事を生業としている錬金術師達は、概ね店舗を持たずに露店を出している。便利ではあるが高価な品ばかりを取り扱う彼らは、よく物取りに遭う為だ。お陰で旅人達は皆、宿を取るより錬金術師を探す方に骨を折る羽目になる。
「ここの錬金術師は昼過ぎに、北の入り口にある自警団詰所の隣に露店を出す。マッチを買うなら早めに行かないと、すぐに売り切れるぞ」
「分かった。世話になったな」
大きく頷く情報屋に背を向け、ヴォルフは店を出た。
夜の町は静かだったが、所々で犬の鳴き声や酔っ払いの声が聞こえる。対して故郷の夜は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだった。街灯を設置できるほど大きな村でもなく、星のない夜は真の闇に包まれた。それを思うと、この辺りは豊かな方なのだろう。
「あの野郎、また見失った!」
通りがかった路地から怒鳴り声がして、ヴォルフは思わず手前で足を止めた。何かと考えるより先に、再び声が聞こえる。
「もうあんなガキほっとけよ、脅したって稼げやしねえだろどうせ。金なんか持ってねえって」
「そうそう、病気なんじゃねえの。白髪だしさ」
白髪の子供。その言葉に昼間に見た女の姿が脳裏をよぎり、ヴォルフはそっと路地を覗く。
細い路地には、三人の少年がいた。十七八歳だろうか。なりからして柄が悪そうだが、会話の内容も穏やかならぬものだ。
夜の町を歩いていると、時折このような少年達に出会す事がある。彼らは概ね物取りで生計を立てているようだが、中には労働する子供を狙って金品を強請る者もいる。口振りと内容から察するに、彼らは後者だろう。
「そうじゃねぇんだよ、アイツ、女だって話」
その台詞に、確信を抱いた。昼間に見た、あの女の事だ。
「まっさか! 女がアルカナ退治するかよ」
「でも、顔見た事ないだろ? お前らだって」
「教えてやろうか?」
老婆らしきしゃがれた声が、少年の声に被さるように聞こえる。ヴォルフも驚いたが、少年達はそれより遥かに驚いたようだった。慌てて声の主を探して、寸前で隠れたヴォルフの方を向く。
一方ヴォルフは気付いたら横にいた女に驚愕し、声も出せないでいた。暗くてよく見えないが、真っ赤な夜会服を素肌に着たその格好から察するに娼婦だろう。それにしては薹が立ちすぎているような気もするが。
「マリアのババァじゃねえか、何だよ脅かすなよ」
「誰がババァだね、こんなうら若い美女に向かって」
娼婦は少年達にそう返しつつも、ヴォルフに視線だけを遣り、にいと笑った。暗がりで見るその顔が恐ろしく思えて、ヴォルフは後ずさりする。
彼女が何を知っているのか気になりはしたが、気付かれているのに盗み聞きするのは憚られる。何より、彼女が怖かった。マリアと呼ばれた老娼婦が路地に入った所で、ヴォルフは足早にその場を後にした。